桂離宮の参観手続き
4月に修学院離宮を参観してきたが、5月の連休明けに桂離宮も予約していた。
予約の方法は、修学院離宮と同様に宮内庁のホームページからネットで簡単に申し込むことが出来る。
次のページから「桂離宮」を選択し、次のページで参観希望月をクリックすると、どの日のどの時間帯が空いているかがわかるので、都合の良い日時を選択して、参観希望の代表者の名前や住所、メールアドレス、年齢、性別、参観者数、同行者情報などの入力を完了すると、問題がなければ1~3日程度で参観許可通知がメールで届くのでそれを印刷して当日に持参すればよい。印刷できない場合は、受付の際、係員に許可番号を伝えれば何とかなるはずである。
もちろん郵送による申し込みも可能で、参観希望日を第三希望まで書くことができるのだが、申し込み可能な日を予めネットで確認して選んだとしても、郵送日数の間に希望の時間帯がネットで埋まってしまうこともあるので、ネットで申込を済ませておく方が賢明である。
桂離宮の場合は1時間毎に60名の案内があり、20名程度のグループにわかれて説明を受ける。また1日5回の外国人専用の参観枠があり、英語で解説されるという。
当日申込も各時間帯で20名の枠があるのだが、私が訪れた日は、午前10時半の段階ですべての時間帯で当日枠が空いていたのは1コマだけであった。当日の枠を確保するためには、かなり早く申し込む必要がありそうだ。
桂離宮の参観は昨年の10月までは無料だったのだが、今は有料(一人千円:ただし中学生・高校生は無料)となっていることに注意が必要である。
また、修学院離宮には駐車場がないのだが、桂離宮には北側に広い無料駐車場があるので、車での観光には問題がない。公共交通機関で行く場合は、阪急桂駅から約1kmで、徒歩で20分、タクシーで5分程度見ておけばよい。
予定時間の20分前頃に案内があるので入口で参観許可通知を呈示して中に入り、参拝者休所で人数分の入場券を購入し、申込代表者の本人確認資料(免許証や健康保険証など)の呈示と同行者の名前のチェックがなされる。チェックが終わると、案内が終わるまで、離宮の案内ビデオを視聴しながら待つことになる。
桂離宮の歴史
桂離宮は、第百七代後陽成天皇(在位1586~1611年)の実弟である八条宮初代智仁(としひと)親王(1579~1629年)が17世紀初頭にこの地を得られてのち、八条宮家の別荘として造営を始められ、親王が30歳代後半から40歳代前半の時に古書院が建てられたと考えられている。
八条宮家は、江戸時代は伏見宮、有栖川宮、閑院宮とならぶ四親王家の一つで、智仁親王は一時、実子に恵まれない豊臣秀吉の猶子に迎えられたのだが、秀吉に実子・鶴松が誕生したことによって、親王が十二歳の時に養子縁組が解消となる。それにともなって、若き智仁親王のために八条宮家が創立され、縁あってこの地に山荘を建てられたというのである。
智仁親王が薨去された後十年余のあいだ山荘は荒廃したが、八条宮二代智忠(としただ)親王は、山荘の復興と増築に積極的に取り組まれ、寛文二年(1662年)の頃までには、中書院、新御殿、月破楼、松琴亭などを新増築され、池や庭園にも手を加えられて、ほぼ今日に見るような山荘の姿が整えられたという。
その後、八条宮家は常磐井宮(ときわいのみや)、京極宮(きょうごくのみや)、桂宮(かつらのみや)と名前を変えたのち明治十四年(1881年)に断絶となり、その二年後に桂離宮は宮内省の管轄となった。そして第二次世界大戦後は宮内庁の管理となり、昭和五十一年(1976年)以降昭和の大修理が行われたそうだ。
桂離宮は一度も火災に遭ったことがなく、創建当時の姿を今日に伝えている。総面積は付属地を含めて69千㎡余りあるという。
桂離宮の庭園参観
桂離宮の参観コースが宮内庁のホームページに公開されている。
最初に御幸門を通って表門を遠くから案内していただいた。表門は桂離宮の正門であるのだが、特別の場合以外は開けられることがないのだという。
再び御幸門を通って御幸道を進む。
少し進んで左折すると外腰掛(そとこしかけ)に辿り着く。この建物は茶室松琴亭(しょうきんてい)の待合所に用いられてきたもので、対面には薩摩島津家から献上された蘇鉄が植えられている。
さらに進むと、黒い石が敷き詰められた州浜(すはま)があり、その先端に灯篭が据えられている。岬の灯台に見立てていているという。
上の茅葺入母屋造りの建物が松琴亭で、桂離宮の中で最も格の高い茶室である。屋根の妻に「松琴」と書かれた扁額があるが、これは後陽成天皇の宸筆だという。
松琴亭の室内には暖を取るための石炉があり、その上に天袋が設けられその小襖には狩野探幽の筆と伝わる墨絵が描かれている。床の間の壁と襖に描かれた、鮮やかな青と白の市松模様は智忠親王の創意と伝わっているが、ひときわ目を引く大胆なものであり、とても三百五十年以上昔のデザインとは思えない。
上の画像は松琴亭から賞花亭(しょうかてい)に向かう途中の景色だが、静かな池の水面が鏡のように庭園の樹々を写している。桂離宮の秋も見てみたいものである。
中島の小高い丘を緩やかに上ると賞花亭がある。この建物が桂離宮内で一番高い位置に建てられているという。
正面からは眼下に書院群があり遠くには愛宕山が霞んで見えている。この飛び石を一つずつ踏んで丘を降りながら次の目的地である園林堂(おんりんどう)に向かう。
園林堂は、桂離宮で唯一の瓦屋根の建物で、扁額は後水尾上皇の宸筆だという。
この建物は智忠親王の代に持仏堂として建てられ、かつては智仁親王の御尊影とその師・細川幽斎の尊像などが納められていたそうだが、明治時代に桂宮が断絶し、桂離宮が宮内省の管轄となった際に桂宮家の霊殿がある相国寺塔頭・慈照院に遷されたそうだ。
上の画像は笑意軒(しょういけん)で、船着き場のある茶室である。
扁額は曼殊院良恕法親王(まんしゅいんりょうじょほっしんのう)の筆によるものだという。南面の腰壁のデザインもまた斬新なものである。
桂離宮の中枢をなす書院群は右から古書院、中書院、楽器の間、新御殿と雁行形に連なって建っている。最初に古書院が建てられ、次いで中書院が増築され、そして最後に新御殿が増築されたのだそうだ。
それぞれの書院の屋根の高さや床の高さが微妙に異なるのが、全体としてバランスの取れた美しい建物である。書院群の内部については、昔は見学できたそうだが、今は残念ながら文化財保護の為に公開されていない。
古書院の近くの池辺に月波楼(げっぱろう)がある。観月のための茶亭として建てられたもので、「月波楼」の名のとおり、池に映る月を楽しむためのものである。「歌月」と書かれた扁額は霊元天皇の宸筆と伝えられている。このあたりは紅葉も美しく、秋の風情が楽しめるように工夫がされている。
月波楼を過ぎると書院の玄関である御輿寄(おこしよせ)がある。
これで元の場所に戻るのだが、最後に衝立松(ついたてまつ)の説明がある。この松は池の眺めをさえぎる衝立の役割を果たしているというのだが、これから庭を楽しもうとする客人に、庭のすべてを見通せる場所をわざわざ隠していることに感心してしまった。
以上で約一時間の参観が終了するのだが、門の外に出ると川に青鷺がいたので思わずシャッターを押してしまった。京都市内でも桂離宮周辺はまだまだ自然が残されていることが嬉しい。
昼食後は桂離宮の近くの観光地を巡って来たのだが、その点については次回の記事で案内させていただくことにしたい。
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