周囲が出馬を迫る中、慶喜はどうやって大坂城を脱出したか
前回の「歴史ノート」で、鳥羽伏見の戦いに旧幕府軍が敗れたのち、慶応四年一月六日の夜に徳川慶喜は老中板倉勝静、老中酒井忠惇、会津藩主松平容保・桑名藩主松平定敬らと大坂城を離れ、軍艦開陽丸で江戸に密かに退却したことを書いたが、その時点ではまだ鳥羽伏見の戦いは続いていた。
慶喜は会津藩の神保修理から「事ここに至りては、もはやせんかたなし。速やかに御東帰ありて、おもむろに善後の計をめぐらざるべし」との進言を受けていた。もともとの慶喜の考えは、江戸に戻って堅固に恭順謹慎することであったのだが、周囲の者は血気盛んなものばかりで「少しも早くご出馬されるべし」というばかりであったという。
そんな状況下でどうやって大坂城を脱出できたのかと誰でも思うのだが、慶喜自身の回顧談である『昔夢会筆記』にはこう記されている。
板倉・永井を別室に招きて、恭順の真意は漏らさず、ただ東帰の事のみを告げたるに、両人は「ともかくも一旦御東帰の方然るべからん」といえるにより、いよいよそれと決心し、ふたたび大広間に出でて形勢を観るに、依然として予が出馬を迫ることしきりなりしかば、予は「さらばこれより打ち立つべし、皆々その用意すべし」と命じたるに、一同踊躍(ようやく)して持場持場に退きたり。予はその隙に伊賀、肥後、越中(松平定敬)等わずかに四、五人を随えて、潜かに大坂城の後門より抜け出たり。城門にては衛兵の咎むることもやと、いたく気遣いたれど、御小姓なりと詐(いつわ)りたるに欺かれて、別にあやしみもせざりしは誠に僥倖なりき。
(『昔夢会筆記』東洋文庫 p.273)
このように慶喜は、出馬を要請する将士たちを欺いて大坂城を脱出したのである。
総大将が逃亡したことにより旧幕府軍は継戦意欲を失い、大坂を放棄して各自江戸や自領へ帰還した。そして翌七日には朝廷において慶喜追討令が出され、旧幕府は朝敵とされてしまった。そして十日には、慶喜、松平容保(会津藩主)、松平定敬(桑名藩主)をはじめ幕閣など二十七名の官職が剥奪され、その京都藩邸が没収され、十一日には諸藩に対し兵を上京させるよう命じて「朝敵」の討伐に取りかかろうと動いている。
旧幕府軍が勝利できる作戦を提案した小栗忠順
軍艦開陽丸に乗船して大阪を脱出した慶喜らは十一日に品川に到着し、翌十二日に江戸城に入っている。鳥羽伏見の戦いに続いて江戸に近々徳川征伐軍が襲来することは確実な状況になっていたのだが、江戸城においても大坂城と同様に、家臣の大半が主戦論を主張した。江戸には征伐軍と戦える充分な戦力が残されていたのである。
渋沢栄一の『徳川慶喜公伝 巻4』にはこう解説されている。
陸海軍人殊に海軍副総裁榎本和泉守(武揚)、陸軍奉行並小栗上野介(忠順)、歩兵奉行大鳥圭介(純彰)及新選組の人々などは概ね戦を主とし(戊辰日記、彰義隊戦史)、兵を箱根、笛吹に出して、官軍を待たんというものあれば、軍艦を以て直に大阪を衝かんというものもあり(海舟日記)、又関八州占拠の策を献じ、軍隊の新組織法を建白し(七年史所載陸軍調役並伴門五郎・同本多敏三郎等嫌疑)、或は輪王寺宮(公現親王、後に北白川宮能久親王)を奉じて、兵を挙げんというものもあり(彰義隊戦史)、或は君上単騎にてご上洛あらば、士気奮いて、軍機忽ちに熟せんと激語する者もあり(海舟日記)。老中等も是等の説にや同じけん。…
(渋沢栄一『徳川慶喜公伝. 巻4』竜門社 大正七年刊 p.304~305)
主戦派の人々は激論に激論を重ねて、いつ果つべしとも見えず。有司はこもごも公に謁して其説を進め、論談往々暁に達し、諸士相互の議論に至りては鶏声を聞かざれば已まず(海舟日記)。
大坂城では将士たちは徹底抗戦を主張しただけであったが、江戸城にはどうすれば徳川軍が勝利できるか、その作戦を慶喜に具体的に提案した人物がいる。勘定奉行の小栗忠順(おぐり ただまさ)である。
小栗の義理の甥に当る蜷川新(にながわ あらた)の著書『維新前後の政争と小栗上野の死』にその提案の詳細が記されているが、簡単に要約すると。
(1)新鋭の軍艦開陽(三千トン、砲二十六門)を駿河湾に向かわせ、海岸を進軍してくる討徳川軍の密集隊を砲撃せしめ完全にその退路を遮断する。そうすれば、前後の連絡が絶え、弾薬・食糧を絶つことができる。
(2)フランス軍事顧問団の訓練を受けた伝習隊の精鋭数千人に充分な武器を与え、箱根を通過して東に向かう敵軍を江戸近辺で袋の鼠として全滅させる。(前後の連絡断たれて、補給なし)
(3)さらに一部の海軍をして神戸兵庫方面を砲撃し、薩長軍その他の退路を断ち、連絡を途絶させる。
(4)熊本などの九州の不平分子は起って薩軍の虚を突くであろう。全国の大小名は形勢を観察して、正当防衛に出た徳川方につく。
(5)軍用金については、小栗が責任をもって調達する
当時徳川征伐軍には、土佐藩、佐賀藩、薩摩藩に貧弱なる海軍があるだけで、海軍に関しては榎本武揚率いる徳川の海軍が圧倒的に優勢であった。小栗の提案は、海軍を用いて敵の連絡網と補給を絶ち、孤立化させた敵の陸軍を伝習隊の精鋭部隊で挟撃する作戦だが、後にこの作戦を聞いた大村益次郎が「その策が実行されていたら今頃我々の首はなかったであろう」として恐れたという逸話があるという。もし慶喜が小栗の案を採用していたら、徳川方が勝利する可能性はかなり高かったのである。
しかしながら慶喜はすでに恭順の意思を固めていたため、この提案を受け入れなかったばかりではなく、十五日には小栗を罷免してしまっている。
フランス公使からの武力支援の申し出を断った慶喜とその後
このブログで、フランスが徳川幕府を支援してきたことを何度か書いたが、公使のロッシュにとっては旧幕府軍が鳥羽伏見の戦いで敗北したことは、これまで彼が推進してきた対日政策が破綻したことを意味しており、彼は諸外国の公使の中で孤立感を強めていた。
江戸に戻ったロッシュは一月十九日(1868/2/12)以降三度にわたり慶喜に謁見している。この時の会話内容の一部が前出の『昔夢会筆記』に出ている。
仏国公使ロッシュ登城し、…予に見(まみ)えて「このまま拱手して敵の制裁を受け給わんこと、如何にも残念なり。かつは御祖先に対しても、御申しわけあるまじ。我が仏国は奮って一臂の力を貸しまいらすべければ、是非に恢復を図らせらるべし」と、いとも熱心に勧告したり。予は「好意は謝するに余りあれども、日本の国体は他国に異なり、たといいかなる事情ありとも、天子に向かいて弓ひくことあるべからず。祖先に対して申し訳なきに似たれども、予は死すとも天子には反抗せず」と断言せしに、ロッシュ大に感服したるさまにて、また言うところなかりき。
(『昔夢会筆記』東洋文庫 p.29)
ロッシュは慶喜に、フランスが支援するので再挙を図ってはどうかと申し出たのだが、慶喜はそれを断ったのである。
ロッシュは日本の政変について本国に報告せねばならず、その内容次第では公使としての責任が問われることになる。ロッシュの1868年2月24日付(慶応四年二月二日)外相宛報告の翻訳が『遠い崖 6』に出ている。
この「隠居」という地位は、近代日本の歴史に数多くの洗礼があるように、その人物から価値と権威を奪い去るもので決してない。ときにこの地位は、その人物の行動をいっそう容易にし、他社の名義を借りて、その人物がいっそう自由に影響力を行使するための手段である。一橋(慶喜)は将軍職を辞任することによって、内戦の口実を取り除いた。…つまり、かれは、依然として日本における強力な実力者である。
(萩原延寿『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄 6』朝日文庫 p.279~280)
このようにロッシュは慶喜が退隠したのは戦略的なものであり、いずれ新しい政治体制の中で重要な人物になると考えたかったのだろうが、その後実際に慶喜の取った行動は、主戦派の幹部を罷免し、徹底して恭順の意思を示すことであった。
慶喜は一月十九日に在江戸諸藩主を恭順の意を伝えて協力を要請し、二十日には静寛院宮(和宮親子内親王)にも同様の要請を行い、二十三日には、徳川家人事を大幅に変更し、庶政を取り仕切る会計総裁に恭順派の大久保一翁と、軍事を司る陸軍総裁に同じく恭順派の勝海舟を抜擢している。
そして二十七日には、慶喜は紀州藩主の徳川茂承らに、朝廷に隠居。恭順を奏上することを告げ、二月九日には鳥羽伏見の戦いの責任者を一斉に処分し、翌日には松平容保・松平定敬・板倉勝静らの江戸城登城を禁じ、そして十二日には江戸城を徳川慶頼(田安徳川家当主、元将軍後見職)・松平斉民(前津山藩主)に委任して退出し、上野寛永寺に移って、その後謹慎生活を送っている。
その後ロッシュはまもなく公使を罷免され、五月四日(6/23)に日本を離れることとなるが、帰国後は外交官を辞し引退したと伝えられている。
江戸城総攻撃に進む東征軍
一方、薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通は慶喜がひたすら恭順の意を示していたことをどう評価していたのであろうか。
西郷が大久保宛に書いた二月二日付の書状を見ると、「…慶喜退隠の歎願、甚もって不届千万。是非切腹迄には、参らず申し候ては相済まず」とあり、西郷は慶喜を生かしておくつもりはなかったようである。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139500/93
また、有栖川宮熾仁親王を大総督宮とした東征軍は、東海道軍・東山道軍・北陸道軍の三軍に別れ江戸へ向けて進軍し、駿府で行われた三月六日の軍議で江戸城総攻撃を三月十五日と決定している。
陸軍総裁の勝海舟は、差し迫る東征軍との江戸における内戦を避けようと、西郷との交渉を考えていた。勝は、西郷が徳川家の歎願を受けいれなかった場合や、屈辱的な条件を要求してきた場合には、敵の攻撃を受ける前に、江戸城および江戸の町に放火して敵の進軍を防ぎ、焦土とする作戦であったようだ。
三月十日付の『海舟日記』にはこう記されている。
もし今我が歎願するところを聞かず、猶その先策を挙て進まんとせば、城地灰燼、無辜死数百万、終にその遁れしむるを知らず。彼暴挙を以て我に対せんには、我もまた彼が進むに先んじ、市街を焼きてその進軍を妨げ、一戦焦土を期せずんばあるべからず。
(『海舟全集. 第9巻』改造社 昭和三年刊 p.130)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1177471/75
勝は江戸湾にあらかじめ船を用意して、火災が起こった際に避難民を救出する計画まで立てていたようだが、ここまで覚悟して西郷との交渉に臨もうとしていたのである。
イギリス公使パークスの怒り
イギリス公使パークスは三月八日に横浜に戻ったが、徳川征伐の東征軍は江戸に向かっていた。翌日の三月九日は、旧幕府が約束した江戸の開市と新潟の開港日に当たっていたのだが、このような情勢では、その延期はやむを得なかった。
パークスなど諸外国の代表にとっての緊急課題は、幕府の瓦解によってすすむ無政府状態のなかで、横浜の治安をいかにして確保するかであった。新しい政権が代表して治安の維持にあたるまでは、横浜を自衛するしなければならないのだ。諸外国の代表は対応策を協議し、各国が軍隊を出動させて横浜の要衝を占拠し、旧幕府の役人や警吏と協力しつつ、東征軍兵士の横浜立ち入りを阻止することを決め、あわせて新政権に対し、その代表の横浜派遣を要請することが決議されている。
条約を締結した相手方である将軍はすでに日本の主権者ではない。政権が変わったにもかかわらず、新政府からは何の連絡も届いていなかったのである。
三月十二日に木梨精一郎が、西郷隆盛の命を受けてパークス公使を訪ねている。西郷にとっては、永年付き合いのある英国公使館を東征軍が黙って通るわけにはいかないので部下を差し向けたのだが、このとき木梨が発した言葉に対するパークスの怒りは江戸城総攻撃の既定方針を変更させるほどの強いインパクトがあったのだが、その点については次回の「歴史ノート」に記すこととしたい。
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コメント
歴史は面白いです。
勉強になりました。
読んで頂いたうえに、嬉しいコメントまでいただきありがとうございます。とても励みになります。
しばやんさん、こんにちは。いつも楽しくブログを拝見しております。
丁度『維新前後の政争と小栗上野の死』を読み始めたところだったので、びっくりしました。
実は小栗が、帰農願が許可されて移り住んだ領地の権田村(現高崎市倉淵)の東善寺は、自宅から車で40分程度の所です。ネットを調べていくと、そこの村上泰賢住職が様々な情報を発信しています。
http://www5.wind.ne.jp/cgv/taiken.htm
http://tozenzi.cside.com/tusimajiken.html
そこには、ロシア軍艦対馬占領事件について次のことが書かれています。
>老中安藤信正は、英公使オールコックのイギリス軍艦を派遣する申し出に乗って、露艦の退去を図ろうとした。小栗忠順はそのやり方は「前門の虎を追い出して、後門に狼を招くようなもの」と反対し、外国奉行を辞任した。箱館奉行村垣淡路守範正も英艦の派遣を聞いて「前門の虎を追い出して、後門に狼を招くようなもの」と反対した。元遣米使節二人の見解は一致していた。
また、勘定奉行だった小栗が横須賀製鉄所の建設で、フランスの技術援助を受けた理由として
>当時、アメリカは南北戦争のためる援助を期待できず、ロシアは恫喝外交で嫌われ、イギリスはアヘン戦争以来侵略と日本の未熟さに付け込んで暴利をむさぼるやり口を警戒され、結局翔鶴丸のこともあってフランスにいくぶんの誠意が見られることから、技術援助を乞う国として公使ロッシュに相談がかけられた。
上記の本では、逆に小栗が英国軍艦の派遣を要請した旨が書かれており、1895年の『大隈伯昔日譚』も同様です。以前のブログ『江戸幕末期にロシアに占領されかけた対馬は如何にして守られたのか』にも同じ趣旨で書かれていたと思います。小栗が英国に対して警戒感を持っていたことと矛盾するので、少々困惑しています。https://shibayan1954.blog.fc2.com/blog-entry-632.html
山城屋和助事件や官有物払い下げ事件など、またこの住職のブロブにある生々しい悪逆非道ぶりを見ると、薩長中心の明治新政府が日本人でなく、背後にある英国の勢力によって動かされていたことは想像に難くありません。昭和4年に、上野介の遺徳をしのび村民は、顕彰慰霊碑に『偉人小栗上野介 罪なくして此処に斬らる』と刻もうとしました。しかし、天皇様の軍隊が罪のない者を斬る筈がないと高崎署署長から村長に圧力がかかりました。これに対して村長から知らせを受けた蜷川新は、田中義一元首相に伝え、圧力がかかったのか無事に建立になりました。今日まで倉淵の東善寺では、小栗上野介の慰霊祭が毎年開かれているということです。そしてこの田中義一が、長州出身であることを考えると歴史を一面的にとらえてはいけないと痛感します。
シドニー学院さん、コメントありがとうございます。
何が原因か分かりませんが、送っていただいたコメントがスパムとして分類されているのに気が付きました。
この判定はAkismetというプラグインによるもので、ネットでいろんな人の書き込みを読んでいると、外部リンクが原因でスパム判定されることがあると書かれていました。とすると紹介いただいた東善寺の記事か私のブログ記事しかありえませんが、ある勢力にとって都合の悪い記事は、広く読まれないように何らかの工作がなされているのかもしれませんね。
今回の件で、明らかに善良なコメントも、プラグインで勝手に排除される可能性があることを初めて知りました。今までの設定だと15日間でスパム判定されたコメントが自動消去されていたことになります。もしかすると、今まで頂いた多くのコメントが自動的に消去されていたかもいれません。貴兄のご指摘で、自動消去されない設定に変更させていただきました。ご指摘に感謝します。
東善寺住職のブログは読みごたえがありそうですね。情報ありがとうございます。自分の頭で考えて研究して書いておられる方の文章は必ず読ませていただきます。サラリーマン学者の論文より、読む価値があるでしょう。
山城屋和助事件や官有物払い下げ事件などはいずれブログでも書きたいテーマなので、いずれ参考にさせていただきます。
小栗上野介の最後のことはあまり知らなかったのですが、ひどい殺され方ですね。いつになるかは分かりませんが、顕彰慰霊碑に合掌しに行きたいです。
こんにちは。とても面白いです。
私は、元寇の後の幕府による対馬復興計画に興味が有ります。どうやったら調べられるでしょうか? また、しばやんさんがブログで取り上げて下されば、なお、嬉しいです。
小栗ぶんごのかみさん、読んで頂きありがとうございます。
どういうわけか、折角頂いたコメントがスパムに判定されていて、気が付くのが遅れてしまいました。返事が遅くなり申し訳ないです。
対馬に関する研究書を『国立国会図書館デジタルコレクション』で探してみましたが、元寇の事は書かれていてもそれ以降の事はほとんど書かれていません。
一冊だけ『対馬小史』という本を見つけましたが、天皇の代毎に何があったかが書かれています。元寇があったのは90代亀山天皇の治政なので、それ以降の記録を読んで探せば、ヒントになることが書かれているかもしれません。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/961040/26
探し方ですが、『国立国会図書館デジタルコレクション』のメインページの検索欄に、例えば、『対馬 史』などとキーワードを入れて、検索ボタンを押せば、一覧が出てきますので、その中から元寇後の事を書かれている本を探せば、運が良ければ見つかります。
https://dl.ndl.go.jp/