光秀が謀反を起こした理由については定説がない
本能寺の変について当時の記録を読むと、真実が相当歪められて後世に伝えられていることが見えてくることを、前回の『歴史ノート』で書いた。歴史教科書などでは、本能寺の変に関しては通説と矛盾する史料が多数残されていることに触れることはなく、例えば『もう一度読む山川日本史』には次のように記されている。
信長は1582(天正10)年に武田氏をほろぼしたあと、さらに中国地方の毛利氏を攻撃するために安土を出発したが、京都の本能寺に宿泊中、家臣の明智光秀に攻められて敗死した(本能寺の変)
『もう一度読む山川日本史』p.142
他の教科書も大同小異なのだが、共通しているのは光秀の単独犯行らしき書き方をしている点と、光秀が謀反を起こした動機については何も書かれていないという点である。動機が明らかにならなければ事件の真実を追究することは不可能なのだが、動機については多数の説が存在し、結局どの説も証拠不十分で定説がないからである。

Wikipediaに、歴史アナリストの後藤敦氏が『別冊歴史読本』で諸説を整理してまとめた表をベースに別資料を追加して整理した表があり、これによると光秀を単独犯あるいは主犯とする説が二十二あり、主犯が別にいるとする説が三十二、その他が五で合計五十九もの説が存在し、諸説の主な内容が紹介されていて、次のように総括されている。
江戸時代から明治・大正を経て昭和40年代ごろまでの「主流中の主流」の考えは、野望説と怨恨説であった。「光秀にも天下を取りたいという野望があった」とする野望説は、謀反や反逆というものは下克上の戦国時代には当たり前の行為であったとするこのころの認識から容易く受け入れられ、古典史料に記述がある信長が光秀に加えた度重なる理不尽な行為こそが原因であったとする怨恨説と共に、史学会でも長らく揺らぐことはなかった。これは講談・軍記物など俗書が広く流布されていたことに加えて、前節著名な逸話で述べたように、二次、三次的な古典史料に対して史料批判が不十分だったことに起因する。
戦後には実証史学に基づく研究が進んだが、…中略…考証的見地からの研究で判明したことは、結局、どの説にも十分な根拠がないということであり、それがどの説も未だに定説に至らない理由となっている。
Wikipedia 本能寺の変 変の要因
この解説によると昭和40年代以前は、明智光秀の野望説あるいは怨恨説が主流で、それらの説は講談・軍記物など俗書に対して史料批判が不十分であったということだが、「俗書」とは具体的にどの書物を指し、どういう経緯で記され、どのような内容が書かれているのであろうか。
長きにわたり怨恨説が信じられてきた事情

「本能寺の変」に関して最も史料的価値が高いと歴史家から評価されているのは『信長公記』で、これは織田信長の家臣である丹羽長秀の祐筆であり後に秀吉に仕えた太田牛一が記録した文書で、信長の幼少期から本能寺の変までの記録が全十六巻にまとめられている。完成されたのは江戸時代の初期と考えられているのだが、本能寺の変は巻十五にあり次のように記されている。
六月朔日、夜に入り、丹波国亀山にて、惟任日向守光秀、逆心を企て、明智左馬助、明智次右衛門、藤田伝五、斎藤内蔵佐、是れ等として、談合を相究め、信長を討ち果たし、天下の主となるべき調儀を究め、亀山より中国へは三草越えを仕り侯ところを、引き返し、東向きに馬の首を並べ、老の山へ上り、山崎より摂津の国の地を出勢すべきの旨、諸卒に申し触れ、談合の者どもに先手を申しつく。
このように、明智光秀が謀反に及んだ動機については「信長を討ち果たし、天下の主となるべき」と簡単に書かれているだけで、強いて分類すれば天下取りの野望説ということになるのだろうか。
この『信長公記』は写本が残っているだけで、人々に広く読まれたものではなかったのだが、刊行されたものでは天正十年(1582)の本能寺の変のわず四ヶ月後に『惟任退治記』( 惟任は光秀のこと)という書物が世に出ている。著者の大村由己は豊臣秀吉の家臣である。
このなかで大村由己は、「惟任公儀を奉じて、二万余騎の人数を揃へ、備中に下らずして、密に謀反をたく企む。併しながら、当座の存念に非ず。年来の逆意、識察する所なり。」と書き、織田信長の最期の言葉として「怨みを以って恩に報ずるのいわれ、ためし(前例)なきに非ず」と語らせるなど、明智光秀の信長に対する長年の怨恨が謀反の原因であることを印象付けようとしていることが明らかだ。 Wikipediaによると、大村由己は豊臣秀吉の偉業をたたえるスポークスマンのような存在で、「天正記」と呼ばれる軍記物のほか、秀吉を主役とする新作能もいくつか書いている。本能寺の変をテーマにした『明智討』は、文禄三年(1594)に大阪城および宮中で秀吉本人の手によって披露されたのだそうだ。

江戸時代に入って、『太閤記』が数点刊行されている。
江戸時代初期に書かれた『川角太閤記』は、秀吉の死後家康に仕え柳川城主となった田中吉政の家臣であった川角三郎右衛門という人物が、当時の武士の証言をもとに書き記した全五巻の書籍だが、事件後四十年以上も経ってから書かれた物語でありかなり事実と異なる部分があるようだ。この本では先ほどの『惟任退治記』が公式化した光秀の信長に対する怨みを裏付けようと、その怨みのもととなる話をいくつか創作し、「怨恨説」をさらに強化したと言われている。
また『甫庵太閤記』という全二十巻の書物が、寛永三年(1626年)から版を重ねている。著者の小瀬甫庵は、豊臣秀次に仕えたのち、秀吉家臣の堀尾吉晴に仕えた人物で、『信長公記』や『惟任退治記』を参考にして著述したといわれ、この本もかなり創作がなされている。光秀が小栗栖の竹藪で土民に刺されて殺された話はこの書物ではじめて書かれたものだそうだ。この本では、光秀の謀反の理由を、安土での家康饗応役を取り上げられて、毛利攻めを命令されたことを恨んだためと書かれているそうだ。

また『絵本太閤記』という書物が、寛政九年(1797年)~享和二年(1802年)まで七編八十四冊が刊行され、人形浄瑠璃にもなって評判を博したと言われている。本書は大阪の戯作者・武内確斎が大阪の挿絵師・岡田玉山と組んで出版した読本で、『川角太閤記』をもとに記述したものである。この本も光秀の謀反の理由は怨恨によるものというストーリーである。
これらの『太閤記』などによって秀吉伝説が作られ、本能寺の変が光秀の怨恨による謀反であるとの説が一般民衆に定着していくことになった。明治以降に書かれた小説の多くが同様に怨恨説を採用しているのは、これらの『太閤記』などを参考にして書かれたからであろう。
よくよく考えればわかることなのだが、秀吉の家臣である大村由己が秀吉の不利になることを封印し、秀吉を礼賛することは当たり前のことなのだ。また秀吉の時代はもちろんのこと、江戸時代についても今よりもはるかに言論統制が厳しかった時代だから、そもそも徳川家康の悪口が書けるはずがなかったのだ。したがって、そのような書物を参考にして歴史小説を書けばどんな作家でも、光秀の謀反は単独実行で謀反を起こした理由は信長に対する怨恨にある、とならざるを得ないのだと思う。
信長は四国の長曾我部氏討伐を命じていた
しかし前回の記事に書いた通り、当時の記録からすれば信長自身が本能寺で家康を討つことを画策していた可能性がかなり高い。そのことを家康も秀吉も事前に知っていたから、二人は勝ち残ることができた。そして、少なくとも家康は、光秀と繋がっていた可能性が高いと前回書いたのだが、そもそも光秀はなぜ信長を討とうと考えたのか。
『信長公記』には信長が光秀を苛めたようなことは一切書かれておらず、むしろ信長は光秀を高く評価し信頼を置いていたのであり、二人の間に相克があったという話は、光秀の怨恨による単独犯行説を書くために後になって創作された可能性が高い。
しかしながら、前回の記事で紹介したルイスフロイスの記録で、安土城で家康を接待する前の打ち合わせで、信長と光秀が「密室」で何かを話し合い、光秀が言葉を返すと信長が怒りを込めて光秀を足蹴にしたという話がどうも引っかかるのである。
明智憲三郎氏は信長が光秀を足蹴にした理由について、家康を畿内におびき寄せて暗殺することを信長から命じたのち、光秀が信長に対して長宗我部征伐を思いとどまるように直訴したが、信長から拒絶されたと推理しておられるのだが、そもそも光秀が信長の長宗我部征伐に反対する理由がどこにあるのだろうか。

信長はそれまでは光秀に対して四国の長宗我部氏の懐柔を命じていた。そのために光秀は重臣である斎藤利三の妹を長宗我部元親に嫁がせて婚姻関係を結び、光秀と長宗我部との関係もきわめて親密な関係になっていたのだが、天正八年(1580年)に入ると織田信長は秀吉と結んだ三好康長との関係を重視し、武力による四国平定に方針を変更したため光秀の面目は丸つぶれとなり、実現に向かっていた光秀と長宗我部との畿内・四国同盟が崩壊する危機に直面していた。
前回の記事で『本城惣右衛門覚書』を引用して、明智軍を本能寺まで先導したのは斎藤利三であったと書かれていることを紹介したが、利三にとっては姻戚関係にある長宗我部氏を征伐することをなんとしてでも阻止したかったことは当然である。
また信長は毛利攻めだけでなく、四国攻めの朱印状をも同時に出していた。織田信長が三男の信孝に与えた天正十年(1582)五月七日の朱印状は、信孝に讃岐(現在の香川県)を、三好康長に阿波(徳島県)を与えるとともに、残りの土佐(高知県)・伊予(愛媛県)は信長が淡路島に到着したときに沙汰すると書かれているという。十
そして、大阪に集結した長宗我部征伐軍の四国渡海は天正十年六月三日、つまり本能寺の変の翌日に予定されていたというのだ。そしてこの計画は本能寺の変により吹き飛んで、長宗我部征討軍は崩壊してしまったのである。
危機一髪、長宗我部氏は滅亡を免れることができ、そしてその三年後の天正十三年(1585年)に元親は四国全土の統一に成功するのである。
長宗我部元親の側近である高島孫右衛門という人物が記した『元親記』には「斎藤内蔵介(斎藤利三)は四国のことを気づかってか、明智謀反の戦いを差し急いだ」と書かれている。光秀の信長に対する謀反の早期実行を迫った人物は斎藤利三だというのだ。前述した通り斎藤利三の妹が長曾我部元親に嫁いでいることから、利三は長曾我部征伐をなんとかして止めさせようとしたと理解できるのだが、利三が信長を討つことを主張したのにはもっと大きな理由があった。明智憲三郎氏の著書にはこう記されている。
光秀が…信長に召し抱えられた後はあれよあれよという間に信長の腹心へと出世していきました。不遇をかこっていた土岐一族にとって、光秀の存在は日増しに大きなものとなり、期待を一身に集めたに違いありません。
美濃在住の土岐一族以上に、光秀のもとに集まった家臣たちこそ最も光秀に期待を寄せていました。それは光秀家臣団特有の事情があったからです。光秀の家臣団は、明智秀満などの一族衆と斎藤利三等の美濃出身の譜代衆が中核となり、光秀が坂本城主となって以降抱えた西近江衆、山城衆、さらに義明追放に伴って組み込まれた旧幕臣衆、丹波領有により配下となった丹波衆などから構成されていました。その求心力となっていたのは、一族衆をはじめとする土岐一族でした。…中略…
その期待に応えて光秀の活躍・出世は目覚ましいものがあり、光秀を中心とした結束をより強いものにして行きました。土岐氏の誇った強い結束力が再現され、光秀の目指す強力な家臣団「土岐桔梗一揆」が作り上げられていったのです。
こうして光秀は土岐氏再興の盟主として自他ともに認める存在となっていきました。
明智憲三郎『本能寺の変四二七年目の真実』プレジデント社 p.76

土岐氏は室町時代には美濃・尾張・伊勢を治めた名門だが、天文二十一年(1552年)に土岐頼芸が斎藤道三により美濃を追われて以降没落していった。明智家の家紋は土岐氏と同じ「桔梗紋」であり、光秀は土岐氏の流れを汲む一族であったのだが、明智憲三郎氏によると、光秀が土岐氏再興をはかることが土岐一族の悲願であったという。
また鎌倉時代に土岐三定が伊予守となって以来土岐氏が伊予守を継承しており、四国は土岐氏にとって特別な場所だった。だから、土岐一族は信長の長宗我部征討の命令には従えなかったということになる。
決定的な裏付け史料があるわけではないのだが、証拠が乏しいのはどの説を取っても同じことだ。限られた史料の中で、もっともこの説が他の史料との矛盾が少なく、真実に近いものではないかと考えている。
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