前回の「GHQ焚書」で、武士道に関するGHQ焚書を紹介させていただいたが、剣道や柔道などの武道に関する研究書や解説書、指導書などもGHQによって焚書処分されている。処分された理由は武道の技術的な面というよりも、おそらくはその精神的な面ではないかと思われる。
『国民武道講話』

最初に紹介させていたただくのは、武田寅男 著『国民武道講話』。読み始めると、GHQが焚書処分した理由が何となく見えて来る。
いま我々が日常口にしている「武道」のようなものは、世界のどこの国にもない。武術に類したものは、ヨーロッパにも、支那にも、国々によって、各種のものがあると思うが、日本の武術のように精妙な発達を遂げているものは、他に一つもない。それは、日本の武が、単に殺傷攻防のための形而下の技術として発達したのでなく、極めて高度な精神内容を本体として、所謂技心一体の体系を具え、その本質が、日本民族に特有の大和魂に発して、連綿二千六百年の発展を遂げて来たものだからである。
日本の武は、武道において、全き形態を見ることが出来る。それは日本民族各個の武の修行道であるとともに、日本武の生ける伝統である。この伝統によって、我々は、日本の武の生きて在る姿を知ることが出来、これを学ぶことによって、我々の血に流れているところの武を養うことが出来るのである。
故に、日本の武道は、ただ日本民族によってのみ伝統とすることの出来るもので、その形は、あるいは他の民族も学ぶことが出来るであろうが、その精神を受け、伝えることは困難だと思う。世界のどこにも、日本の武道に似たような体系をすら見出すことが出来ない事実が、これを証明するのである。日本の武道は、有史以前の日本民族の血が生み、建国以来の国風がこれを育てて来た、最も特色のある民族の伝統である。日本人を真に理解するには、日本の武道に触れずに、それを果たすことは出来ない。同時に、真の日本人を作り上げようとするには、武道を経過せずに、これを求めることは出来ないのである。
日本の武道の特色として、第一に挙げられるものは、我を捨てて敵を倒すということであろう。
柳生流の教えに「皮を切らせて肉を切れ、肉を切らせて骨を切れ」と言う言葉は、誰でも知っている言葉であるが、皮と肉、肉と骨の交換を志すのが、日本武道の真精神なのではない。この言葉は、剣術技量の差が、そのように現れるという結果を訓したもので、皮を切らせて肉を切るという巧みなことが、誰にでも出来るものではない。こちらも切られる、然し向こうは必ず切る、彼我ともに刺しちがえて死ぬという精神。所謂相討ちの勝、わが身の生死の如きは問題ではない、ただ目指す敵を討ちさえすればよい。これが日本武道の真精神である。この精神によって突進すれば、後は彼我鍛錬の技量の差が、事を決するのだ。…中略…日本の武術は、自己を安全にして、敵を倒すということは不可能であると喝破している。もし安全を期したければ、戦わなければいい。戦いに臨んで、自分だけが助かろうとは考えられない。何故ならば、敵もまた同じ境地にあるからだ。戦いにおいて、絶対の安全はありえない。ただ安全を願わぬことによって、死中に活を得る道があるばかりだ。――日本の武人は、戦場死闘の体験によって、こう考えている。
武田寅男 著『国民武道講話』国防武道協会 昭和17年刊 p.6~9
西洋にもフェンシングと称する剣術が存在するが、日本の剣道とは全く異なる。武田は、「フェンシングという名称自体が、Fence ―― 垣、防御の意味に他ならぬ。まず自己を安全にしておいて、それで敵を倒そうというのが、最も巧みに考えられた西洋武術の根本精神であると言ってよい」と書いているがその通りだと思う。
日本の武術の究極は、真っ先に我を棄てて敵を伐てというのである。武道の奥義は、どんな武道のどんな流儀でも、自分を護って伐てとは教えない。一見これくらい非論理的な戦術はないのである。
「我が死んで、どうして敵が伐てるか。よしんば伐てたにせよ、我が死んでしまっては何にもならぬではないか」
おそらく、西洋の戦術家はそういうだろう。彼等にとっては、生命への執着から離れることは、容易なことではない。大死一番という心境を悟ることは難しい。死中に活を得るのだと説明しても、死中に万一の活を求めるのは投機である、生中に万全の活を確保するのでなければ、戦術ではないというに違いない。
一見非論理極まるこの逆理の上に、活殺の機微を知る直観こそは、我々日本人が、二千六百年の歴史の中に鍛え得た性能であって、そのよってくる発展の過程が、即ち日本武道の発展過程であると言ってもよいのである。しかし、現在の武道の悉くが、かかる特質を立派に具えているかと言えば、残念ながら、そうは言えない点もある。
徳川三百年の泰平期をくぐって、立身栄達に馴れ、明治大正期の功利的個人主義に浸って来た思潮は、伝統深き日本武道の世界にも、多くの影響を及ぼしている。自我功利、自己保身の観念がそれだ。身を殺して仁をなすと言った大きな勇猛心は乏しくなり、ひたすら自分一身の完成とか、繁栄とかいうことに心を奪われていた。…中略……自我功利の武道は、日本の武道ではない。武道の性格は、常に死んでかかるという精神にある。これを国民武道建設の根本精神としたい。
同上書 p.11~12
戦う相手にとって「常に死んでかかるという精神」で戦う相手ほど嫌なものはないだろう。このような精神教育や武道教育をGHQが嫌ったことは間違いないだろう。
『小学校に於ける剣道指導の実際』

では実際にわが国では学校でどのような武道教育をしていたのであろうか。
小学校教員向けの剣道指導書である 馬場豊二 著『小学校に於ける剣道指導の実際』がGHQによって焚書処分されている。いったいこの本に何が書かれているのか。同書の第一章には次のように記されている。
一、剣道の起源
剣道は剣を手にし戦闘する技術を錬磨せん為に起これるものなり。二、剣道元来の目的
技術を巧妙にし、心身を鍛錬し、敵と闘いて必ず勝利を得んことを期するにあり。三、剣道は武士的人格修養の道なり
武士的人格とは、必ずしも戦闘に従事すべき戦士たる人格をいうにあらずして、尚武の気象に富めるわが国民が、古来伝承せる大和魂、すなわち武士道の精神を体し、忠君愛国の至誠に富み、よく剛健快活にして諸種の活動に堪えるべき日本帝国の国民たるに適する人格をいうなり。四、要は心身鍛錬が剣道の目的なり
文部省剣柔道指導要目に
「剣道及び柔道はその主眼とする所心身の鍛錬に在りと雖も、特に精神的訓練に重きを置くべし。技術の末に奔り、勝敗を争うを目的とするが如き弊を避けるを要す。」
とあるが如く、よく剣道修養の目的を言い表わせるなり。
馬場豊二 著『小学校に於ける剣道指導の実際』明治図書 昭和11年刊 p.1~3
このように、剣道の指導を通じて武士的人格修養を目指すことが明記されている。つづいて著者は、剣道指導の目標について次のように論じている。
…剣道は日本的であるがゆえに尊いと言ったが、それは長い歴史と伝統とを保持して国民性に緊密に結合しているからである。歴史と伝統とは論理を超越して偉大なる力を、わが国民の上に及ぼすものであって、日本国民としての団結は主としてこの伝統と歴史に対する憧れにある。
また剣道は天地の大道を求める態度とも見ることが出来る。剣を用いる形式によって純真なる精神を外に表現し、それを表現したるところを持って内に膽を練り魂を鍛えて、宇宙の大真理に参して人格の完成ということを期する。但しこの人格も単なる人格だけでは無意味である。日本国民としての人格の創造並びに進展である。何となれば我々の社会生活の最高理想の単位は国家生活であると信ずるがゆえにである。概念の上に於いては抽象的に単なる人間、あるいは世界人ということも考えられるけれども、事実に於いて、果たして何れかの国家に従属せざる単なる人間があり得るであろうか。剣道の持つ歴史と伝統とは国民意識を喚起する。国民意識の旺盛なるものは必ず国家に忠実なる士、愛国の士である。
剣道は道であるという以上、単なる力に止まるべきにあらず、単なる術に終わるべきでもない。遂に道に到達すべきである。
剣道は過去に於いて武士道と結び、武士道を伴わざる剣道は剣道ということは出来なかった。それほど剣道と武士道とは緊密なる結合を遂げて一つのものの裏表といった感があった。ゆえに剣道の修業は同時に武士道の修養であった。武士道の根幹をなすものは道義の生活である。従って剣道は道義の発揚ということに重大なる意義を持つ。この道義を個人より国家にまで拡大し、世界にまでおよぼさなければならぬと思う。我々は剣道により国民意識を喚起するとともに、この愛すべき日本国家を道徳的国家にまで高めること、これこそ剣道の大使命ではあるまいか。ゆえに剣道の目標はと言えば、道義的国家の建設即ち之であると確信する。
同上書 p.7~10
剣道も柔道も武道に分類されるのだが、当時の柔道の指導書には「武士的人格修養」についてはあまり述べられておらず、剣道にはその点が重視されているようである。武器を持つことが許された者は、その武器を社会の平和の為、安定の為に活用することは日本人にとっては当然のことなのだが、多くの国で武器を用いた犯罪が少なくないのは、初等教育で人格修養にあまり力を入れていなかったことがあるのだろう。
武道(剣道・柔道等)に関するGHQ焚書リスト
GHQ焚書リストかの中から、本のタイトルから判断して武道(剣道、柔道など)に関係のありそうな本を抽出して、タイトルの五十音順に並べてみた。
分類欄で「〇」と表示されている書籍は、誰でもネットで読むことが可能。「△」と表示されている書籍は、「国立国会図書館デジタルコレクション」の送信サービス(無料)を申し込むことにより、ネットで読むことが可能となる。
タイトル | 著者・編者 | 出版社 | 分類 | 国立国会図書館デジタルコレクションURL 〇:ネット公開 △:送信サービス手続き要 ×:国立国会図書館限定公開 |
出版年 | 備考 |
刀及剣道と日本魂 | 亘理章三郎 | 講談社 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1125975 | 昭和18 | |
剣道教育の実践 : 大和魂発現への小学校 |
吉岡治一 | 文泉堂書房 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1279315 | 昭和9 | |
国民学校 剣道教授の研究 | 馬場豊二 | 明治図書 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1460895 | 昭和18 | |
国民学校体錬科体操武道教育 | 中尾 勇 | 晃文社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1119298 | 昭和15 | 国民学校教育体系 第9 |
国民学校体錬科武道の精神と実際 | 仲瀬敏久 村上貞次 | 清水書房 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1140589 | 昭和18 | |
国民戦技武道読本 | 旺文社 編 | 旺文社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1035661 | 昭和20 | |
国民武道講話 | 武田寅男 | 国防武道協会 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1125972 | 昭和17 | 新武道叢書 |
銃剣術 | 江口卯吉 | 国防武道協会 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1460347 | 昭和17 | 新武道叢書 |
柔道教本 | 木村三郎 | 香蘭社出版部 | 国立国会図書館に蔵書なし あるいはデジタル化未済 |
昭和17 | ||
小学校に於ける剣道指導の実際 | 馬場豊二 | 明治図書 | 〇 | https://dl.ndl.go.jp/pid/1453152 | 昭和11 | |
体練科武道 剣道篇 | 三橋秀三 | 目黒書店 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1141135 | 昭和16 | |
日本柔道魂 前田光世の世界制覇 | 薄田斬雲 | 鶴書房 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1125973 | 昭和18 | |
武道極意 | 鈴木礼太郎 | 平凡社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1236786 | 昭和9 | 武道全集. 第1巻 |
武道宝鑒 | 野間清治 編 | 大日本雄弁会講談社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/3430338 | 昭和9 |
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