西欧文明に傾倒した森有禮
森有禮は弘化四年(1847年)に薩摩藩士森喜右衛門の五男として生まれ、元治元年(1864年)より藩の洋学校である開成所に入学して英学講義を受講し、翌年には薩摩藩の第一次英国留学生として五代友厚らとともにイギリスに密航し、ロンドンで学んでいる。その後ロシアやアメリカを訪れて見聞を広め、明治元年六月に帰国後外国官権判事に任じられ、明治三年秋に少弁務使としてアメリカに赴任。明治六年夏に帰国すると、福沢諭吉、西周、中村正直、加藤弘之らとともに明六社を結成し、『明六雑誌』を創刊して民衆の啓蒙活動に取り組んだ。

森有禮は、明六社のメンバーの中でも特に西欧文明に傾倒した人物として知られているが、彼が明治六年に帰国する二ヶ月ほど前に英文で著した『日本の教育(Education in Japan)』に、外国語を日本の国語にせよという趣旨のことを書いている。『森有礼全集 三巻』に、明治六年(1873年)刊行の英文著作の原文が掲載されている。彼の主張の結論部分は同上書のp.266の後半にあり、自分なりに翻訳すると、
…我々の列島の外では決して用いられることのない貧弱な日本語は、いずれ英語の支配に服すべき運命にある。とりわけ、蒸気や電気の力がこの国に拡がりつつある時代にはそうである。知識の追求に余念のない我々知的民族は、西洋の学問、芸術、宗教という貴重な宝庫から主要な真理を獲得しようと努力するにあたって、脆弱で不確実なコミュニケーション手段に頼ることはできない。国家の法律体系を日本語で整備していくことも困難である。あらゆる理由により、日本語は使えないことを示唆している。
『森有礼全集 三巻』宣文堂書店 昭和47年刊 p.266を邦訳
外国語を日本の国語にせよという議論は森が最初に主張したと言われている。森はこの時期に様々な主張をしていたのだが当時の日本人大衆の感覚とは乖離したところが多く、彼がよく寄稿していた『明六雑誌』にひっかけて、彼のことを「明六の幽霊(有礼)」と皮肉られることがあったという。森がその雑誌に数回に分けて寄稿した『妻妾論』の一部を紹介したい。
道の未だ明かならざるや、強は弱を圧し、智は愚を欺き、その甚だしきはこれを以て業とし、これを持って快とし、かつ楽しむ者あるに至る。是れ乃ち蛮族の常にして、殊にその見るに忍びざる者は、夫たる者の其妻を虐待するの状なり。
我邦俗夫婦の交義苟もその間に行はるあるに非ずして、その実その夫たる者は殆ど奴隷もちの主人にて、その妻たる者は恰も売身の奴隷に異ならず、夫の令する所は敢てその理非を問うことを得ず、惟命是れ従うを以て妻の職分とす。故に旦暮奔走従事身心両ながら夫の使役に供し、殆ど生霊なき者の如くす。然るにもし夫の意に充たざるが如き、則ち叱咤殴撃漫罵蹴踏、その所為実に言ふに忍びざる者間多し。女子は素と忍耐を性とするに由り、悖逆(正しい道に背くこと)斯の如きも未だ以て深く怨を懐くに至らず。
大久保利謙 編『森有礼全集 1卷』宣文堂書店 昭和47年刊 p.244
森は『妻妾論』にてわが国の家父長制的家族制度を批判し、西洋のように夫婦は平等であるべきことを説いたのだが、ここで書いているように、明治初期のわが国の一般的な家庭に於いて夫が妻を奴隷のように扱っていたとは考えにくいところである。
森有禮のハイカラ結婚式
森は明治八年(1875年)に、福沢諭吉を証人として広瀬阿常との結婚に際して、婚姻契約書に署名して結婚している。その契約は三条からなり、それぞれが妻、夫であること、破棄しない限り互いに敬い愛すこと、共有物については双方の同意なしに賃借売買しないこと、という程度の内容であるが、これがわが国最初の契約結婚と言われている。

当時の新聞は、二十七歳であった森の結婚式を大きな紙面で報じており、例えば二月七日付の東京日日新聞では次のように記事を締め括っている。
…冷肉並びに菓子果物などを盛んに机上に並べ、各種の西洋酒の口を抜き、立ち食い立ち飲みの大雑踏にて、立錐の地なき程に至る。日本人には少し不承知だろうが、そこには主人が主人なれば御客も御客で、皆西洋開化の御連中ゆえ、大得意で歓を尽されたり。嗚呼盛なり男女同権の論かな、美なり開化の御婚礼かなと、千秋万歳の千箱の玉を奉る代りに、此記事を書いて御披露奉る。
『新聞集成明治編年史 第2巻』p.283~284
このように当時全国で話題になった西洋式の結婚披露宴を挙行した二人であったのだが、その夫婦の良き関係は長くは続かず、明治十九年(1886)に二人は離婚したという。離婚当時の森有禮は第一次伊藤内閣の文部大臣であった。
森有禮暗殺事件

その森文部大臣が、明治二十二年(1889年)二月十一日、大日本帝国憲法発布の式典に参加するために官邸を出た時に、国粋主義者・西野文太郎に短刀で脇腹を刺されて翌日死去する事件が起きている。上の画像は『新聞集成明治編年史. 第七卷』に掲載されている、この事件に関する東京日日新聞の記事である。
この日の新聞には暗殺の動機について報じられていないが、西野は斬奸趣意書を懐に入れていたという。その全文が、昭和八年に出版された坂井邦夫の『明治暗殺史』に出ている。
…文部大臣森有禮之(伊勢神宮)に参詣し、勅禁を犯して靴を脱せず殿に昇り、杖を以て神簾を揚げその中を窺い膜拝せずして出づ。是れその無礼亡状豈に啻に神明を褻涜せしのみならんや。実に又皇室を蔑如せしものと謂つべし。…
坂井邦夫 著『明治暗殺史 : 新聞を中心として』啓松堂 昭和8年刊 p.182
この西野の斬奸趣意書に書かれている内容について、目撃者の確認が取れたとの記事が二月二十四日付の東京日日新聞に出ている。

それによると森文部大臣は明治二十年十二月に三重県知事らとともに伊勢神宮の外宮を訪れ、禰宜より社殿の案内を受けたが、靴を履いたまま前に進んで、皇族以外は入内を禁じられている御門扉の御帳を右手のステッキで持ち上げたという。そのあと内宮も参拝する予定であったが大臣は行かなかったとある。この話を聞いて西野が激怒したという。
上の画像の記事の右の「西野文太郎 今や人気の中心」という見出しの記事が出ているが、暗殺犯に人気が集まったということは、それほど欧化主義者の文部大臣は、大衆から支持されていなかったと理解するしかないだろう。
森暗殺事件についてのエルヴィン・ベルツの感想

森は大衆から嫌われていただけではなく、在日外国人からも良く思われていなかったようである。
この時期にお雇い外国人として招かれ東京帝国大学医科大学の前身である東京医学校で教鞭をとっていたエルヴィン・フォン・ベルツが、明治二十二年二月一六日付の日記の中に森文部大臣の暗殺事件について次のような感想を記している。
森文相は、一年前、伊勢の大神宮に参拝した時、クツのまま最も神聖な場所にはいろうとして、しかも、そこにかかっていたみすを、皇族でなければ揚げることが許されないにもかかわらず、ステッキ(!)で持ち上げたという理由で、暗殺されたのであった。もし森が真実そういう行為に出たのであれば――それは彼のやりそうなことだが――文相たるものが、国民の宗教的感情をかくも傷つけるという非常な無分別さを、少なくとも表明したことになる。他方、神道が犯人西野のような狂信者を生んだ事実に、だれもが驚いている。
岩波文庫『ベルツの日記(上)』p.136-137
このようにベルツは、森文部大臣の行為を批判しているのだが、ベルツは来日してまだ日も浅い明治九年(1876年)十月二十五日の日記に、わが国の欧化主義者たちが盲目的に西洋文化を導入していたことに批判的な文章を残している。
…ヨーロッパ文化のあらゆる成果をそのままこの国へ持って来て植えつけるのではなく、まず日本文化の所産に属するすべての貴重なものを検討し、これを、あまりにも早急に変化した現在と将来の要求に、ことさらゆっくりと、しかも慎重に適応させることが必要です。
ところが――なんと不思議な事には――現代の日本人たちはそれを恥じてさえいます。『いや、何もかもすっかり野蛮なものでした[言葉そのまま!]』とわたしに厳命したものがあるかと思うと、またあるものは、わたしが日本の歴史について質問したとき、きっぱりと『われわれには歴史はありません、われわれの歴史は今からやっと始まるのです』と断言しました。なかには、そんな質問に戸惑いの苦笑を浮かべていましたが、わたしが本心から興味を持っていることに気がついて、ようやく態度を改めるものもありました。
こんな現象はもちろん今日では、昨日の事がらいっさいに対する最も急激な反動からくるのであることはわかりますが、しかし、日々の交際でひどく人の気持ちを不快にする現象です。それに、その国土の人たちが固有の文化をかように軽視すれば、かえって外人のあいだで信望を博することにもなりません。これら新日本のひとびとにとっては常に、自己の古い文化の真に合理的なものよりも、どんなに不合理でも新しい制度をほめてもらう方が、はるかに大きい関心事なのです。
同上書 p.47-48
いつの時代もどこの国でも、極端な考え方で政策が推進されていくと、その反動も大きくなりがちである。明治時代の文明開化期は近代化が進んだ半面で伝統的社会秩序を動揺させて社会不安をもたらし、各地で士族の反乱が起き農民一揆が頻発した。明治二十年代に国粋主義が広がったのは、極端な欧化主義の反動であったと言われているのだが、欧化主義の行き過ぎについては、欧化主義者の森有礼を暗殺した西野文太郎が日本庶民から英雄視されていたことや、当時日本にいた外国人のベルツが問題視していたことから、その異常さを理解すべきである。
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