前回の歴史ノートで、日露戦争で黄色人種の日本人が白人のロシアに勝利したことがアメリカの黒人たちを目覚めさせ、白人が有色人種を支配する世界を日本人が崩していくことを期待するようになったが、アメリカは「黄禍論」を広めて、排日運動を全米に拡大させたことを書いた。
一九〇八年に日米紳士協約により、日本はごく少数を除き米国への移民を禁止し、アメリカ側は排日法案を造らないことを約束して排日運動はしばらく鎮静化したのだが、その後一九一四年七月に第一次世界大戦が勃発し、わが国はイギリスの要請により参戦することとなり、アメリカも一九一七年四月に参戦している。
パリ講和会議における日本の人種差別撤廃提案
第一次世界大戦には世界の約五十ヶ国が巻き込まれ、一九一八年十一月にドイツが連合国に降伏してようやく終結したのだが、戦争が長引いたことでドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国、ロシア帝国の四つの帝国が崩壊した。
翌年一月から開かれたパリ講和会議において世界の主要国の首脳が集まり、戦後処理および国際連盟を含め新たな国際体制構築について話し合われている。そしてわが国は、二月十三日の国際連盟委員会において、国際連盟規約第二十一条の宗教の自由についての規定のあとに、次のような条文を追加することを提案している。
「各国均等の主義は国際連盟の基本的綱領なるに依り締約国は成るべく速(すみやか)に連盟員たる国家に於る一切の外国人に対し、均等公正の待遇を与え、人種或いは国籍如何に依り法律上或いは事実上何等差別を設けざることを約す」
この提案を行った背景には、アメリカやカナダなどで日系移民が排斥されている問題があり、今後国際連盟で主導権を取るであろう英米などアングロ・サクソン人種の国が、人種的偏見でわが国の発展を阻害する動きを抑えたいとの考えがあったという。
わが国の提案は会議で紛糾し、結局、連盟規約第二十一条自体が削除されることとなって、全権の牧野伸顕は人種差別撤廃提案自体は後日の会議で提案すると述べて次の機会を待つこととなったのだが、わが国のこの提案は海外でも報道され様々な反響を呼んだ。
アメリカのウィルソン大統領は一時帰国して米議会に諮るも、この提案は内政干渉にあたるとの強い批判に直面し、上院ではこの提案が採択された際にはアメリカは国際連盟に参加しないとの決議がなされたという。
そして四月十一日に国際連盟委員会の最終会議が開かれ、牧野伸顕は連盟規約前文に「国家平等の原則と国民の公正な処遇を約す」との文言を盛り込むという修正案を提出している。
議長であったウィルソン米大統領は、提案そのものを取り下げるようわが国に勧告したが、牧野は採決を要求した。
議長を除く十六名が投票を行い、フランス、イタリア、中国など計十一名が賛成し、イギリス・アメリカ・ポーランド・ブラジル・ルーマニアの計五名の委員が反対した。
過半数の賛同を得たものの、議長のウィルソンは「全会一致でないため提案は不成立である」と宣言し、牧野は多数決で決すべきではないかと詰め寄ったのだが、ウィルソンは「このような重大な議題については、全会一致で決すべきである。」と答えて譲らなかったという。
牧野は最後に「日本はその主張の正常なるを信ずるが故に、機会あるが毎に本問題を提議せざるを得ない。今晩の自分の陳述および賛否の数は議事録に記載してもらいたい」と述べて、ウィルソンもそれを了解したという流れだ。
米国で黒人暴動が多発した
我が国が人種差別撤廃の提案をしたことは、これまで欧米植民地体制の下で呻吟してきたアジア・アフリカの人々やアメリカの黒人に大きな希望を与え、彼らは会議の行方を見守っていた。
前回の記事でレジナルド・カーニー氏の『20世紀の日本人 アメリカ黒人の日本観1900-1945』という本を紹介したが、この本にはこう書かれている。
どのような不都合が生じたとしても、人種平等を訴え続けることは、必ずアメリカ黒人の利益につながると、ジェイムズ・ウェルドン・ジョンソンは考えた。「おそらく世界で最も有望な、有色人種の期待の星」、それが日本であるという確信。日本はすべての有色人種に利益をもたらすという確信があったのだ。それは、たとえひとつでも、有色人種の国家が世界の列強の仲間入りをすれば、あらゆる有色人種の扱いが根本的に変わるだろうという、彼の強い信念によるものだった。・・・中略・・・
日本が人種問題を国際会議の卓上にのせたことで、黒人のあいだには、おのずと日本への興味が高まっていった。全米黒人新聞協会(NAAPA)は、次のようなコメントを発表した。「われわれ黒人は講和会議の席上で『人種問題』について激しい議論を戦わせている日本に、最大の敬意を払うものである。」「全米千二百万人の黒人が息をのんで、成り行きを見守っている。」
『20世紀の日本人 アメリカ黒人の日本観1900-1945』p.74~76
黒人のなかには、この会議が日本を仲立ちとして、黒人の本当の苦しみを世界に伝えるいい機会だと考えるものもいた。そして、これを機に、黒人と日本人が人種差別撤廃にむけて手を取り合うべきだ、と。」
米国黒人がこれほどまでに期待していたパリ講和会議におけるわが国の「人種差別撤廃提案」が、賛成多数であったにもかかわらず、議長裁定により法案が成立しなかったことに失望して全米各地で紛争が起こったことがポール・ゴードン・ローレンの『国家と人種偏見』という本に書かれている。
アメリカでも暴力的な反応があった。人種平等や民族自決の原則を講和会議が支持しなかったことにいらだち、あからさまに不法で差別的な政策を前にして自国の政府が意図的に無作為であったことに怒って、アメリカの多数の黒人が完全な市民権を要求することを決意した。この決意は特に黒人帰還兵の間で強かった。彼らの民主主義十字軍としての戦争参加は、祖国でももう少し民主主義を、という当然の夢をふくらませた。・・・中略・・・
その一方で、復活したクー・クラックス・クラン*の会員のような反対派の連中は、平等の要求などは絶対に許さないと決意しており、「生まれながらの白人キリスト教徒はアメリカ国家と白人の優位を維持するために団結して統一行動をとる」という計画を公然と発表した。この相容れない態度が一九一九年の暑い長い夏に、剝きだしの暴動となって爆発した。六月から十月まで、アメリカの多くの都市のなかでも、シカゴ、ノックスヴィル、オマハ、それに首都ワシントンで大規模な人種暴動が発生した。リンチ・放火・鞭打ち、身の毛のよだつテロ行為、それから「人種戦争」と呼ぶのにふさわしい破壊。当局は秩序回復のために、警察、陸軍部隊、州兵を動員した。暴動が終わってみると、百人以上が死亡、数万人が負傷、数千ドルに及ぶ被害があった。
ポール・ゴードン・ローレン『国家と人種偏見』TBSブリタニカ p.151~152)
ジョン・ホープ・フランクリンは次のように書いた。パリ講和会議の差別の政治と外交に続いたこの「赤い夏」は「全土をかってない人種闘争という大変な時代に追い込んだ。」彼が目撃した暴力は国内の一部の地区にとどまらず、北部・南部・東部・西部――「白人と黒人が一緒に生活を営んでいるところならばどこでも発生した」
*クー・クラックス・クラン:アメリカの秘密結社、白人至上主義団体。略称KKK。
この様なアメリカ黒人の暴動は報道機関によって全世界に配信され、一部の記事を神戸大学図書館デジタルアーカイブの新聞記事文庫で読むことが出来る。
例えば、大正八年(1919年)八月二十六日~二十七日付の神戸新聞はワシントンの黒人暴動を特集記事で伝えている。ワシントンの黒人暴動は白人が黒人にリンチを仕掛けたことから始まっていることがわかる。
時は本年(1919)七月二十日夜ワシントン市の中央に於て米国水兵、水夫、陸軍々人及び其他の市民は連合して黒人を襲撃した。其数数百より数千に達した。彼等は電車や自動車中に居る黒人を引ずり下した。しかしてこれらの黒人を死刑に処せんとしたのである 。
何故に彼等はかく野蛮なる行動に出でたかというに、これは南部米国に於てしばしば行われるいわゆるリンチ(私刑)を行わんとしたのである。先月より黒人にして白人婦女子を強姦する者がしばしばであった、警察は敏活に活動して数名を捕えた、しかしながらなお多くの捕われざる者がいると一般に思われていた。かくして白人等は警察の手をまだるしとなし、黒人といえば手当たり次第に捕えたのである 。
これは南部に於てはむしろ当然としてしばしば行わるるところであるが、首府の中央にかかる事件の発生したことは米国としても珍らしい事件である。しかもそれより四日を経過せし今日は、更に黒人側も連合してこれに当り一種の内乱の有様を呈している。黒人は手に手に武器を有して決死の勢いを以て白人に対し双方に死傷者を出し遂に政府は軍隊を出して鎮静に努めたが今尚夜毎に争闘が行われている。新聞の報ずるところによれば、こは黒人間にある秘密結社の者が此運動に加わっているのであるという 。
二十二日夜も十時頃より黒人の暴動は益々猛烈となった、数多の騎兵、歩兵、水兵はハーン大将指揮の下に鎮静に努めているがなお止まない。これはいう迄もなく黒人の非道徳的行為に原因しているのではあるが、しかしながら根本を正せば白人の黒人に対する軽蔑の念、これに対する黒人の不平が有力なる原因たること勿論である。何となれば白人にして黒人婦人を強姦若くはその他の非行を行うも社会は一般にこれを責めない、黒人がすればこれを責めるというのは、黒人自身多年の歴史より自己を白人より下位に見ると白人が又自己を黒人より上位と見るに原因する 。
その証拠には日常の社会的習慣を見れば明らかである、黒白人の区別最も甚しい米国南部では通路さえ区別されている。電車の中でも黒人がもし白人の傍へ坐すれば無礼だとせられる。汽車や電車も区別せられることがある。もし電車内で白人婦人が黒人の側に掛けてる場合、白人の男が其女と席を代えても敢て黒人に対し失礼とも思わない。こういうようなことは沢山ある黒人がかかる待遇に対し不平を懐くのは勿論である。だから今度のワシントン市の暴動も日頃の不平の勃発と見るべきである。
神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 社会事情(2-103)
下の画像は大正8年(1919)9月15日付けの大阪朝日新聞の記事で、ボストンでの黒人暴動を伝えている。
「ボストンの暴動以来十二日朝まで軍隊に打たれ死亡せし者七人に達せり。軍隊の警備あるに拘らず掠奪は到る処に行われ無政府状態は依然たり。・・・中略・・・
新聞の論調はワシントン、シカゴに於ける黒人暴動の時と同様無見識にて、さきにシアトルに発生してウィンベッグに移り、リヴァーノールに飛火し更にボストンに後戻りせる暴動は、次には何処に伝染すべきか憂慮に堪えずと論じ居れるのみ。 」
神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 労働問題(5-157)
と書かれているが、このような黒人暴動が全米に次々に飛び火していったのだ。
世界で起きた人種暴動
パリ講和会議の後で暴動が起きたのはアメリカだけではなかった。ポール・ゴードン・ローレンの『国家と人種偏見』には、パリ講和会議でわが国が人種差別撤廃を提案した以降に、世界各地で暴動などが起こったことが書かれている。
三月にエジプトで暴動が起こり、四月に起こったインドのパンジャブ地方で反乱では、イギリスの将軍が非武装のインド人群衆に発砲して死者四百人、負傷者千人が出たという。同じ月にパレスティナでも流血の惨事があり五月にはイギリスはアフガニスタンで戦争に突入し、トルコとは一触即発の状態となったという。
英米をはじめとする白人の帝国主義勢力は、それまで植民地で原住民を搾取してきた。
第一次大戦後に開かれたパリ講和会議でわが国が提起した人種差別撤廃案にどう対応するかに世界の注目が集まったのだが、期待を裏切られた有色人種たちが各地で起ちあがったのである。
白人たちが最も怖れたのは、日本が有色人種のリーダーとなって、世界の植民地で原住民たちが白人に立ち向かうことではなかったか。そうさせないためにアメリカは『黄禍論』を焚き付けて、まず日本人と黒人との連携を断ち全米を反日に誘導し、中国・韓国には排日思想を植え付けて黄色人種同士を反目させる分断工作により、白人優勢の世界を固守しようとしたのではなかったのか。
「人種戦争」という視点は戦前・戦中の書物や新聞記事の論説からは容易に見出すことができるのだが、戦後GHQがそのような視点で記述された書物を徹底的に焚書処分にし、戦勝国批判につながる史実はタブー扱いにされてしまった。しかしながら、このような史実を知らずして、第一次大戦後にアメリカや中国で「排日運動」が拡がっていったことを理解することは困難だ。
「人種戦争」の視点から二十世紀の歴史を見直していくと、太平洋戦争の原因の全てがわが国にあるとする「戦勝国にとって都合の良い歴史」が、いかに浅薄で偏頗なものであることに誰でも気が付くことであろう。日本人が「自虐史観」の洗脳を解く鍵が、このあたりにあるのではないだろうか。
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