米軍に入隊した日系兵がナチスの強制収容所の解放に貢献した

米国排日(第一次大戦以降)

米軍入隊を志願した日系アメリカ人

 前回の記事で、日米開戦後に日系アメリカ人は強制収容所に送られたことや、The Atlantic誌の「第二次世界大戦:日系アメリカ人の強制収容」という記事に、日系人の強制収容に関する写真が沢山掲載されていることなどを紹介させていただいた。この記事の三十一枚目の写真には若い男性が列を作って並んでいるところが撮られているのだが、日系人たちは何のために並んでいるのだろうか。

徴兵を希望し身体検査のために並ぶ日系人

 写真の解説を読むと、この写真は一九四四年二月二十二日に撮影されたもので、コロラド州ラマー近郊のグラナダ強制収容所(通称:アマチ強制収容所)に収容されていた日系アメリカ人のうち、徴兵を希望する若い男性がデンバー徴兵所で身体検査を受けるために並んでいるところだという。

 強制収容所に隔離されていた日系人の多くが入隊を志願し、彼らが米軍の中でも特筆すべき活躍をしたのだが、日米の関係史を考える上で日系人部隊が果たした役割は大きいと思うので、今回は日系人部隊のことを書くことにしたい。

日系人部隊が誕生した経緯

 実は収容所に送られたのはほとんどがアメリカ本土在住の日系人で、ハワイの日系人が収容所に送られたということは少なかったのだそうだ。その理由は、ハワイの日系人がハワイ人口の約半分にもなっており、日本人を隔離してしまっては社会混乱が避けられず、かつ膨大な経費と土地が必要になるためだったと考えられている。

 しかし、太平洋戦争の緒戦は日本軍の快進撃が続き、アメリカ政府ならびに軍は、日本軍のハワイ進攻が近いうちに行われることを予想し、その対策を進めることとなった。

 現実問題として、もし日本兵が米軍の軍服を着て紛れ込んだりすると見分けることは極めて困難である。そこで米軍が出した対策が、ハワイの日系兵士を集めてアメリカ本土へ送ることだった。

 こうしてハワイの日系兵からなる「第一〇〇歩兵大隊」が生まれ、極秘裏にミシシッピ州の訓練場に送られた。そこで日系兵は抜群の成績を挙げたという。彼らは、真珠湾攻撃を目の当たりにしたからこそ、訓練で良い成績を残し、一刻も早く前線に出てアメリカに対して忠誠心を示すことこそが、ハワイで日系人が生き残る唯一の道だと考えていたのだった。

 しかしこの時点では日系兵が戦場に送られる可能性は殆んどなかった。というのは、米軍は開戦後日系人の志願を禁止していたし、また軍部では「日系人の忠誠は信用できないため、前線に出すべきではない」という意見が大勢を占めていたのだそうだ。

 ロサンゼルスにある日系メディアの『ライトハウス』日本語版の記事「日本人部隊「四四二連隊」の活躍」には次のように書かれている。

 この不信感を覆したのが、…(第一〇〇歩兵大隊の)優秀な訓練成績であり、ハワイ大学の学生たちが結成したトリプルV(Varsity Victory Volunteers:学生必勝義勇隊)の活動だった。…彼らは嘆願書を出して部隊の編成を求め、忠誠を示すべくトリプルVを名乗って道路工事などの肉体労働に精を出していた。本土でも二世から成るJACL(Japanese American Citizens League:日系市民協会)が、日系部隊編成に向けてロビー活動を行った。

彼らの必死の行動が、陸軍トップであるマーシャル参謀長の心を動かし、日系人の志願を可能にした。一九四三年二月、ルーズベルト大統領は、日系志願兵からなる第四四二連隊の編成を発表した(日系兵の徴兵開始は一九四四年一月)。こうして彼らは、晴れて『アメリカのために死ねる権利』を得た。ただし将校は白人であることが条件だった

 そこで日系人志願兵募集が始まる。ハワイでは募集人員の十倍にあたる若者が殺到したが、アメリカ本土では兵役年齢にある二世男子の五パーセントが志願した程度に過ぎなかったという。記事の冒頭で紹介した写真が、その志願者の列なのだ。

日系アメリカ人の生き筋

 「日系」という理由で敵性外国人と見做され、特に米国本土ではそのために生活基盤が壊され、財産が没収され、強制収容所にまで送り込んだアメリカという国家に忠誠を誓い、自らの命を捧げられるかと随分悩んだことだと思う。しかし、国家に反抗したところでいいことは何もない。収容所にいる家族を一日も早く解放させ、将来にわたって日系人がアメリカで生きていくためには、結局のところ、この機会に国家に忠誠を尽くして、日系人に対する偏見を除去する以外にないと彼らは考えたようなのだ

 『ライトハウス』のこの記事には、アメリカ本土から四四二連隊に入隊したケン・アクネ氏が入隊時に友人とこのような議論したことが記されている。

 志願したと伝えると、『お前はオレたちよりも偉いわけじゃない。現にこうして収容されているじゃないか。そんなことをすれば、日本の家族はどう感じるんだ』と非難されました。でも私は言ったんです。『今ここ(収容所)にいるのは、これまで何もしてこなかったからだ。今がチャンスなんだ。ここで志願して自分たちを証明しないと日系人の将来はないし、それは僕たちのせいになる。生きて帰って来れないかもしれないが、それでも価値があるんだ』と

日系人兵士の活躍

 かくして、日系人で編成された第一〇〇歩兵大隊と及び四四二連隊はヨーロッパ戦線で決死の覚悟で戦うこととなる。Wikipediaで四四二連隊の戦歴が書かれているが、延べ一万人が従軍し、死者六百五十人、負傷者三千五百人を出し、そしてアメリカ史上最も多くの勲章を受けた部隊がこの四四二部隊なのだという。

行進する第442連隊戦闘団の兵士(1944年、フランス)Wikipediaより

 例えば一九四四年十月二四日に連合軍の第三十四師団一四一連隊第一大隊(通称:テキサス大隊)がドイツ軍に包囲されてしまった。翌日ルーズベルト大統領自身の救出命令により、四四二連隊がドイツ軍と激しい戦闘を繰り広げることになる。
 そして日系兵の四四二連隊は、救出困難とされていたテキサス大隊の救出に成功しているのだ。

 十月三十日、ついにテキサス大隊を救出することに成功した。しかし、テキサス大隊の二百十一名を救出するために、第四四二連隊戦闘団の五十六名が戦死し、八百人以上が負傷したこの戦闘は、後にアメリカ陸軍の十大戦闘に数えられるようになった

 その後四四二連隊はユダヤ人の救出に向かっている。

 ドイツ国内へ侵攻し、ドイツ軍との戦闘のすえにミュンヘン近郊のダッハウの強制収容所の解放を行った。しかし日系人部隊が強制収容所を解放した事実は一九九二年まで公にされることはなかった

 このダッハウの強制収容所にいたユダヤ人たちを解放したことは、ユダヤ人側の記録が残されている。
 ユダヤ人のソリー・ガノール氏が日系人部隊によって救出された体験を書いた『日本人に救われたユダヤ人の手記』(講談社)書籍の一部が、『ヘブライの館2』のサイトの「ダッハウ収容所を解放したアメリカの日系人部隊」という記事に引用されている。

「日系二世兵士はクラレンス・松村という名前であった。アメリカ軍の第五二二野戦砲兵大隊に属していた。大隊から小隊まで日系二世だけで編成した連隊規模の第一〇〇・第四四二統合戦闘団の一大隊である。彼らはイタリア、フランス、そしてドイツと、凄惨な戦場を転戦した。この戦闘団は、その従軍期間から計算すると、大戦中のどのアメリカ軍部隊よりも多くの死傷者を出し、より多くの戦功賞を得ていた。」

「私の身のうえを思うと、いまひとつ見落としにできない運命の皮肉がある。松村ほかの日系人たちが、アメリカのために戦い、生命を落としつつあるというのに、祖国アメリカでは彼らの家族の多くが抑留所に押し込められていたことである。住居や事業から切り離され、人里離れた土地に作られ、タール紙を張りめぐらせたバラックでの生活に追いやられていた。アメリカ政府は『再配置収容所』と呼んだが、『強制収容所』の別名にすぎなかった。

 ドイツでは多くのユダヤ人がナチスによって強制収容所に入れられたのだが、アメリカでは日系人がユダヤ人と同様に強制収容所に入れられていて、有色人種に対する偏見や差別意識の為に苦しんでいた。そんな日系人たちがアメリカに対する忠誠心を示すために進んで米軍に入隊し、米軍のどの連隊よりも勇敢に戦ったことにより、ダッハウの強制収容所に隔離されていた多くのユダヤ人が助けられたのだが、ソリー・ガノール氏はこのことを「運命の皮肉」と表現している。要は、アメリカが日系人に対してやったことは、ナチスがユダヤ人に対してやったことと変わらないことを婉曲的に述べているのだ。

 ダッハウ強制収容所にはユダヤ人や政治犯などが二十万人も送り込まれ、ここで多くのユダヤ人が虐殺され、チフスなどの伝染病などで病死していたと言われている。日系人部隊の活躍により解放されたユダヤ人は三万二千人いたとされるが、日系兵がナチスの強制収容所にいたユダヤ人解放に関与したという史実は一九九二年まで公表されなかったという。この理由はどこにあったのか。

 渡辺正清氏が著した『ゴー・フォー・ブローク 日系二世兵士たちの戦場』(光人社NF文庫)にはこう書かれている。

 米軍事史の研究家エリック・ソウル氏によると、日系二世兵は米陸軍によってダッハウ解放をけっして口外してはならないと命令されていたその理由として、米政府は日系兵の栄誉が認められることを好まなかったからではないかと推察し
『もし日系兵が口外すれば軍法会議にかけると脅したため、彼らは口をつぐんでいた』述べている
(『ゴー・フォー・ブローク』(光文社NF文庫) p.240)

 エリック・ソウル氏の推察は表面的なレベルにとどまっている。ではなぜ、米政府は日系兵の栄誉を認めたくなかったのだろうか

 もしこの史実が美談として世界に広まれば、ナチスがユダヤ人を強制収容所に送り込んだのと同様に、アメリカが日系人を強制収容所に送り込んでいたことが明らかになる。そのうえ、国家に対する忠誠心を試す目的で日系人の志願兵を募集し、激戦のヨーロッパ戦線の最前線に送り込んだアメリカが非難されることにつながることを怖れたということではなかったか。日系兵士は、家族と日系人の未来のために決死の覚悟で戦場に赴いたが、アメリカはただその勇敢さを、白人兵の犠牲を少なくするために利用したのである。この史実が拡がれば、アメリカはナチスドイツを批難できないではないか。

第442連隊戦闘団を閲兵するトルーマン大統領(1946年7月15日)Wikipediaより

 ヨーロッパ戦線でアメリカ陸軍部隊として最高の殊勲を上げたことに対して、一九四六年七月にトルーマン大統領が四四二連隊を閲兵し、「諸君は敵だけではなく、偏見とも戦い、そして勝ったのだ。(You fought not only the enemy, you fought prejudice-and you won.)」と讃えたという。

 日系人兵士がヨーロッパ戦線で大活躍し、この様な大統領の言葉があっただけでなく一九四八年には四四二連隊の元上等兵二名がアーリントン国立墓地に埋葬されており、日系人の名誉が回復されていかなければ筋が通らないと思うのだが、戦後もアメリカ白人による日系人差別は変わらず、その後もアメリカの国民ではあってもアメリカの市民権は剥奪されたままだったのである。

 偏見や差別の中で、仕事や家を失いその他の財産のほとんどを放棄させられて長年に渡って強制収容された日系人が、戦後のアメリカで社会復帰することは容易ではなかったようなのだ。

 事実、終戦後のアメリカでは、戦前からの排日の風潮は少しも衰えていなかった。本土に帰った二世が、両親のいる収容所に向かうとき、駅で、食堂で、散髪屋で、
『ジャップ』
は追い出された。かれらが、米陸軍の制服を着ていてもである

 ダニエル・イノウエ中尉がハワイに帰るとき、サンフランシスコで散髪屋の主人に、
『ジャップの髪は刈らない、出ていけ』
と言われた実話は、あまりにも有名である。
 このとき、イノウエ中尉の制服には、右腕を失った代償としての勲章がひかっていた。

 トルーマン大統領の言葉とは裏腹に、米軍の制服を着た日系人を見る眼は、一般のアメリカ人にかぎらず、米陸軍省においてさえ偏見と差別にあふれていたのである。
(『ゴー・フォー・ブローク』 p.249)

陸軍中尉時代のイノウエ

 ここに出てくるダニエル・イノウエ中尉は二〇一二年に亡くなられたが、一九六三年に米国上院議に選出され、上院の最古参議員となり上院仮議長にまで登りつめた人物である。戦時中は四四二連隊に所属し、ヨーロッパ戦線で右腕を失い、米国陸軍では「英雄」と讃えられたというのだが、戦場から帰国した彼らが見たアメリカは、相変わらず日系人・日本人が差別される社会であった

 そこで日系人の新しい戦いがはじまった。新しい敵は日本人の土地所有を禁止している「排日土地法」と、日本からの労働移民を禁止している「排日移民法」である
 日系人たちはヨーロッパ戦線での犠牲と武功を武器にして、アメリカ議会と法廷と世論を相手に戦った

ダニエル・イノウエ(2008年)

 そして七年の歳月をかけて、一九五二年に「排日土地法」「排日移民法」を葬り去ることに成功し、その後もダニエル・イノウエを始めとする日系アメリカ人議員や日系アメリカ人団体の地道な活動により、一九七六年にはフォード大統領から、日系人を強制収容したことは「間違い」であり「決して繰り返してはいけない」という公式発言を引き出している

 続いて一九七八年には日系アメリカ人市民同盟は謝罪と賠償を求める運動を立ち上げ、1988年にはレーガン大統領が「市民の自由法」(日系アメリカ人補償法)に署名し、「日系アメリカ人の市民としての基本的自由と憲法で保障された権利を侵害したことに対して、連邦議会は国を代表して謝罪する」 と述べて強制収容された日系アメリカ人に公式に謝罪し、現存者に限って一人当たり二万ドルの損害賠償を行ったという流れだ。

 日系人が、終戦後にこれだけ苦労して「排日土地法」「排日移民法」を葬り去り、アメリカ政府から正式な謝罪と賠償を勝ち取った歴史を知ると、プロパガンダで意図的に広められた人種的偏見を除去することは容易でなかったことが誰でも分かる。

 ところで、もし日系人が兵役を志願しなかったり、兵役を志願してもヨーロッパ戦線でほとんど活躍しなかったとしたら、戦後の日系人や移民した日本人の扱いはどうなっていたであろうか。思うに、今もアメリカで日系人・日本人が人種的に差別される状態が続いていても決して不思議なことではないし、我々もは今も『ジャップ』と呼ばれていてもおかしくないのではなかろうか。
 戦後になって日米関係を改善させたのは、戦後のわが国政府の外交努力よりも、アメリカで人種差別と闘い続けて勝利した日系人の努力の方が貢献度が高かったのではないかと思うのだが、皆さんはどう考えられますか。

スポンサーリンク

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
   ↓ ↓

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

【ブログ内検索】
大手の検索サイトでは、このブログの記事の多くは検索順位が上がらないようにされているようです。過去記事を探す場合は、この検索ボックスにキーワードを入れて検索ください。

 前ブログ(『しばやんの日々』)で書き溜めてきたテーマをもとに、2019年の4月に初めての著書である『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を出版しました。

Amazon.co.jp: 大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか : しばやん: 本
Amazon.co.jp: 大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか : しばやん: 本

全国どこの書店でもお取り寄せが可能ですし、ネットでも購入ができます(\1,650)。
電子書籍はKindle、楽天Koboより購入が可能です(\1,155)。
またKindle Unlimited会員の方は、読み放題(無料)で読むことができます。

内容の詳細や書評などは次の記事をご参照ください。

コメント