日露戦争の頃のロシアのユダヤ人
前回の記事でユダヤ人のジェイコブ・シフが日露戦争後もロシア帝政を破壊しようとする勢力を支援したのは、ロシア帝国がユダヤ人を迫害したことに起因することを書いた。
前回の記事では安江仙弘の著作を参考にしたが、ロシア帝国で内務次官などを歴任したクルロフが書いた『帝政ロシア没落の真因』*という文章を紹介したい。彼は、1905年にミンスク県**知事に任命されて赴任したのだが、その県ではユダヤ人の定住を許されてはいたものの彼らは何度も転居を強いられ、しかも子供は首府に住むことが許されなかった。反政府勢力の活動が特に激しい地域であったことから、クルロフ自身も命を狙われたことがあったという。彼はユダヤ人が反政府政党を支持した背景についてこう記している。
* この文章の日付はすべてロシア暦で記録されている。
** ミンスク県:ソ連崩壊時に独立し現在はベラルーシ共和国(首都ミンスク)。
県下ではユダヤ人の住む特殊の地域が出来、そういう場所はかなりの多数にのぼっていた。ユダヤ人は農を業とすることが許されなかったので、彼らは商業と職人を業とし、それを一手に収めていた。こういう状態は、自分の才能をもって経済的にユダヤ人と競争しえない非ユダヤ人住民の不満と反感を呼び起こしたのである。
その結果またユダヤ人の反政府気分が激発されたのは当然である。更にその上に他の幾多の差別待遇――ユダヤ人の子弟がひとり大学のみならず中学へ入ることさえ困難であった事情を加えるならば、ユダヤ人が進んで反政府政党に味方したのは自然のことである。1905年の革命運動や、一般にロシア革命において絶大な役割を演じたユダヤ人革命党の『ブンド』派が特にこれらの地方で発展したのはそのためである。ユダヤ人中の悧巧でまた裕福な者はこの運動に参加はしなかったが、ユダヤ青年をこの運動から引き離すことは出来なかった。また自分の幼い愛児が母の懐に抱かれている時分から、政府が彼らに対して採った差別待遇の冷酷さに彼らが憤慨する情を押さえることも出来なかった。
(『ロシア革命の裏面史譚選輯. 第1輯 帝政ロシア没落の真因』p.47-48)
クルロフはユダヤ人を差別するのではなく、平等の権利を与えるべきであると建議したのだが、ロシア政府は逆に彼らを厳格に取り締まり、反政府活動が強まれば強まるほど弾圧を強めていった。その結果、多くのユダヤ人青年が革命運動に身を投じることになったのである。
日露戦争が終結し、1906年にロシア政府はストルイピンが首相に就任した頃はロシア各地でテロ事件が起き、政治家や官僚・官憲らが暗殺される危機的な状況にあったという。翌年の選挙では左派政党が躍進し、国会は革命派色が濃厚となったのだが、ストルイピンは左派の国会議員を逮捕して国会を解散に追い込むと、戒厳令を出して革命運動を弾圧する一方、農業改革や、言論・出版・集会の自由を拡大し、都市労働者の生活改善、ユダヤ人の権利拡大などの改革に取り組んだことから革命運動は停滞し、革命家は西ヨーロッパへ逃れていった。
第一次大戦以降のロシアのユダヤ人
そして、1914年に第一次世界大戦が勃発し、ロシアはドイツ軍と戦っている。この時にもユダヤ人はひどい扱いを受けている。
クルロフは、リガ*の総督として赴任していたが、当時この地域の住民の多くはバルト・ドイツ人で、市民の会話がドイツ語、すなわち敵国の言葉であったという。ロシア政府はリガの住民の一部がドイツのスパイと繋がっていることを恐れたという。
*リガ:第一次大戦後ドイツに割譲されたのち独立。第二次大戦後ソ連に占領されるも1991年に独立。リガはラトビア共和国の首都でバルト三国最大の都市。「バルト海の真珠」と讃えられて、旧市街は世界遺産に登録されている。
前掲書でクルロフはこう書いている。文中のバルチック地方とは、バルト海沿岸地方と理解して良い。
ドイツ軍が次第にバルチック地方へ迫ってくるとともにいろいろ不愉快な事件が起こった。工場や銀行の撤退準備がはじまった。物資が敵軍の手に帰するのを防ぐため後方へ輸送し得ざるものは全部焼き棄てることになった。それは軍隊の所有品以外にも及ぼされた。またユダヤ人を県内から全部追放せよという命令がでた。総軍司令官から婦人子供の別なく一切のユダヤ人を県内から追放せよという命令を受けた。しかしこの地方に定住するユダヤ人の数は非常に多数にのぼるのである。病院と商業はほとんどユダヤ人の一手に帰していた。軍需品の多くも彼等から購入されていた。全部のユダヤ人を追放するとしたら、一切の生活が停止してしまう状態にあった。公共団体もユダヤ人追放には一致して反対した。私はこの旨を大本営へ報告し、もしユダヤ人を追放するとしても一時にせず、他の者をしてこれに代らしめる余裕を残して漸次的に行う必要あることを付け加えた。その回答としてさらに繰り返し無条件即時追放を命じて来た。
(同上書 p.195-196)
クルロフは何度も食い下がったが、結局ユダヤ人は全部追放されることになったという。彼の言うには、ユダヤ人がドイツの密偵であるという説には何の根拠もなかったという。
その後も愚かなロシア政府の命令が続くのだが、それがどのような混乱を招いたか。クルロフはこう記している。
ドイツ軍がバルチック沿岸地方を占領した際に、ロシアがこの地方の全住民に撤退を命じた結果、ひとり撤退を命ぜられた住民ばかりでなく、彼等避難民が流れ込んだ全ロシアの各地方に非常に困難な情勢をもたらした。その移住地方は物価騰貴と失業者の群れになやまされることとなった。この事実は、革命直前のあのおそろしい経済的破壊の原因となったのである。
この住民大移動はいかなる光景をもたらしたか? リガからロシアの内地へむかう街道筋は家族や財物を負うてすすむ避難民で一杯になった。途中の休養地点では非常な支出と困難とを感じた。この避難民の大軍はまた軍事輸送の邪魔になった。
バルチック地方民族のロシア政府にたいする反感は次第に強くなって、これを抑えるに非常な努力を要するに至った。ラトヴィア語やエストニア語の宣伝文書が無数にバラまかれ始めた。」
(同上書 p.197)
ロシア政府は工場の機械を別の安全な場所に移して、移転先で生産を続ける事を考えていたのだが、工場設備や原材料等を 短期間で わずかな人数で運搬することは事実上不可能であった。
あらゆる力を尽くしたにかかわらず撤退は惨憺たる不秩序のもとに行われた。最後の撤退命令が来た時にはすでにドイツ軍は数日中にリガに侵入するという情勢が目前にせまっていた。各工場の機械は工場内の一隅につみ重ねられたまま棄てていくより他はなかった。…かくてロシアで第三の大工場地リガの市中は宛然廃墟と化してしまった。ベリャエフ将軍の確信に反して工場はロシアのいかなる地方でも復旧されることなく、機械は遺棄されてしまった。
リガの破壊につれて地方長官たる私は非常な難問題の前に立たされた。撤退した工場に働いていた労働者の大軍をいかにすべきかである。
(同上書 p.201)
多くの工場の稼働が止まり、また多くの県で農産物の県外移出が禁じられていたことなどから、避難民が集中した地域を中心にロシア各地で生活必需品や食糧が大幅に不足し、そのために価格が高騰したことは当然のことである。大量の住民を着の身着のままで避難させておきながら、避難した人々には十分な収入を得る機会が与えられず、生活物資の配給にも問題があった。無策なロシア政府に対する怒りから、再び革命運動が盛り上がっていくことになる。
ロシア革命
1917年の2月になってペトログラード(現サンクトペテルプルク)で市民の怒りが爆発する。
ワシリエフの言葉によると、2月20日以来、市内の各所に「パンを与えよ」と叫ぶ群衆が現れはじめた。
憤激せる群衆は次第に街頭で騒擾をおこしはじめた。そのため衛戍司令官ハバロフ将軍は各官庁の屋上に機関銃を配備し、市中に戒厳令を布くにいたった。しかし、それと同時に軍隊内の空気も次第に反政府に傾いていった。ウイボルグ区では群衆と警官の間に衝突がおこったが、そこにいた小部隊の兵卒は群衆にたいし何ら積極的行動をとらなかった。カザック兵は群衆をネヴァ河の対岸から橋を越えて市の中心に入れないように命令を受けていたが、彼らはもはや命令を履行しなかった。
(同上書 p.222)
デモやストは全市に広がりニコライ2世は軍に鎮圧を命じていたのだが、鎮圧に向かった兵士も次々に反乱を起こして労働者側についたという。
労働者や兵士のソヴィエト(評議会)が作られて軍隊にも命令を出すようになり、政府が事態をおさめることが出来ないことは明らかであった。ニコライ2世は弟のミハイル大公に皇位を譲ろうとしたが、大公はこれを拒否したため、帝位につくものが誰もいなくなったロマノフ朝は崩壊し、リヴォフを首相とする臨時政府が設立されたのである。(三月革命、ロシア暦二月革命)
以降、臨時政府とソヴィエトが国家権力を分かち合う状況(「二重権力」)が生じ、臨時政府は同盟国に対し戦争の継続を表明している。
4月になるとボリシェヴィキ(多数派、のちに共産党と改称)の指導者であるレーニンが亡命地のスイスから帰国し、臨時政府を支持しないこと、全権力のソヴィエトへの移行などを訴える「四月テーゼ」を発表すると、ソヴィエト内でボリシェヴィキの力が急速に伸びていくこととなる。
一方、臨時政府はボルシェヴィキを弾圧しようとし、7月にはレーニンは再び亡命を余儀なくされている。その後社会革命党のケレンスキーが臨時政府の首相に就任したが、ケレンスキー首相の下で最高司令官であったコルニーロフが臨時政府打倒のクーデターを起こし、こののちボルシェヴィキへの支持が急速に高まっていった。ペトログラードとモスクワのソヴィエトでボルシェヴィキが多数派を占めるようになって、帰国したレーニンが武装蜂起による権力奪取を主張し、ペトログラードに軍事革命委員会を設置している。
臨時政府がボルシェヴィキの新聞の印刷所を襲撃し占拠すると、軍事革命委員会はそれを口実に武力行動を開始し、ペトログラードの要所を制圧して臨時政府を打倒し、同委員会が権力を掌握したことを宣言した。(11月革命、ロシア暦10月革命)
この様な革命を成就するためには莫大な資金が必要であるはずなのだが、ロシア革命の舞台に現れた革命家は、どうやって活動資金を手にしたのであろうか。
レーニンは15歳の時に父を失い、大学卒業後は1年半ほど弁護士事務所に働いていただけだ。その後マルクス主義運動家として活動を始め、逮捕され3年ほどシベリアに流刑された経験もあるのだが、誰かが彼を経済的に支えていなければ、このような活動をすることは到底不可能なのである。
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