弘安の役で元軍を襲った台風の後も続いた死闘とその後の元の日本侵攻計画~~元寇5

元寇

東路軍・江南軍の台風被害

 私が学生時代に学んだ日本史では、文永の役も弘安の役も「神風」が吹いて、日本軍はあまり戦うことなく勝利したようなニュアンスで学んだ記憶があるのだが、この時代の記録を確認すると、どちらの戦いも、国難に当たり武士たちが奮戦したことが見えてくる。

 二度目の元寇である弘安の役では、北九州が台風に襲われて東路軍や江南軍に大きな被害が出たことは間違いないのだが、決して全滅したわけではなく、実際はその後も日本軍との戦いが続き、東路軍の総司令官の忻都(ヒンドゥ)、元帥の洪茶丘、金方慶、江南軍元帥の范文虎らはそれぞれ帰国を果たしていることはあまり知られていない。

 『高麗史日本伝』の閏八月の記録では「官軍の返らざる者、無慮十万有幾」とあるが、この数字は東路軍、江南軍合わせて十四万人のうち十万人以上が帰ってこなかったということであろう。帰還できた者は全体の三割に満たない水準ということになる。

 しかしながら同上書の十一月の記録では高麗が派遣したメンバーについては「東征軍九千九百六十名、梢工・水手一万七千二十九名、その生還者は一万九千三百九十七名」とかなり具体的な数字が書かれている。単純に計算すると合計26,989名のうち帰還できなかった者が7,592名(28%)となり、7割以上のメンバーが帰還したことことになるのだが、この数字は日本人の常識とされて来た元寇の知識からは違和感を覚えるほどの大きな数字である。

 この数字から東路軍に関しては損害はそれほど大きくなかったことがわかるのだが、江南軍については荒れた波で軍船同士が衝突して多くの船が破壊されて沈み、多数の溺死者が出たことが、『元史』などに記録されている。『癸辛雑識』という書物には、約4,000隻の軍船のうち残存艦船は200隻であったと記されているそうだが、江南軍の都元帥・張禧や嚢加歹(ナンギャダイ)が率いる船団も台風の被害を受けなかったとの記録もあるので、実際はもっと多くの船が残っていた可能性が高い。

 船の繫留されていた場所によって明暗が分かれたとか、江南で製造された船は高麗の船よりも脆弱であったとか、江南軍の台風被害が過大に記されているとか様々な説があるのだが、いずれにせよ元軍には戦いを継続できるだけの兵力は、依然残されていたようなのである。

台風後の元軍の軍議と部下を見捨てた司令官たち

 『元史』張禧列伝によると、7月5日に江南軍総司令官の范文虎と都元帥・張禧ら諸将との間で、戦闘を続行するか帰還するかの軍議が開かれたという。張禧と范文虎との議論の内容が、Wikipediaに翻訳されている。

張禧「士卒の溺死する者は半ばに及んでいます。死を免れた者は、皆壮士ばかりです。もはや、士卒たちは帰還できるという心境にはないでしょう。それに乗じて、食糧は敵から奪いながら、もって進んで戦いましょう

范文虎「帰朝した際に罪に問われた時は、私がこれに当たる。公(張禧)は私と共に罪に問われることはあるまい」

このような議論の末、結局は范文虎の主張が通り、元軍は撤退することになったという。張禧は軍船を失っていた范文虎に頑丈な船を与えて撤退させることにした。その他の諸将も頑丈な船から兵卒を無理矢理降ろして乗りこむと、鷹島の西の浦より兵卒10余万を見捨てて逃亡した。平戸島に在陣する張禧は軍船から軍馬70頭を降ろして、これを平戸島に棄てるとその軍勢4,000人を軍船に収容して帰還した

元寇 - Wikipedia

 多くの船を失ってしまっては、全員帰ることは到底不可能だ。張禧は戦いを続けることを主張したが、江南軍司令官・范文虎の主張が通って、司令官や元帥たちは堅牢な船に乗り換えて、部下を見捨てて逃げ帰ったのである。その司令官らの行動が、のちに日本から脱出して帰国した一兵卒于閶(うしょう)によって暴露されることとなる。于閶の証言は『元史』によると以下のようなものであった。

 八月一日*、暴風が起って舟をこわした。五日、范文虎らの諸将軍は、それぞれ勝手に頑丈な船を選んでそれに乗り、十万余の部下を山のふもとに棄てて逃げた。そこで残された者はみなで相談し、張百戸(ちょうひゃっこ)なる者を推して指揮官とし、張総管と呼んでその命令に従うこととなった。われわれは木を伐り倒し、それで舟をこしらえて帰ろうとしたところが、七日、日本軍がやってきて戦闘した結果、我が軍は全滅した。生き残った二、三万の兵は日本の捕虜となって連れていかれた。

*八月一日:元暦の八月一日は和暦の閏七月一日

(講談社学術文庫『倭国伝』p.334)

 多くの船が台風で破壊されたあと、司令官たちは僅かに残された堅牢な船に乗り込んで、部下を見捨てて帰国したことがこの証言で明らかとなり、范文虎は妻の賈氏と側室の陳氏をはじめ家族とともに斬首に処されている。ただし、張禧は部下の将兵を見捨てなかったことから罰せられることはなかったという。

博多湾海戦

 閏七月三日に元軍の諸将軍クラスが逃げ出す動きがあったことは日本の武士たちも気付き、『蒙古襲来絵詞』によると、竹崎季長は肥前の御家人より「鷹島の西ノ浦より破(わ)れ残り候船に、賊徒あまた、こみ乗り候を、払いのけて、しかるべき物どもと覚え候を乗せて、はや逃げ帰り候」との報告を五日に受けている。季長は敵軍の大将格を一人でも多く討ち取るために追撃の軍勢を出そうと考え、同日に総攻撃が開始されている。

 五日の戦いが何処で行われたかについては、伊万里湾海上にある鷹島近辺と解釈するのが通説のようだが、九州大学名誉教授の服部英雄氏は鷹島に向かう前に博多湾での戦いがあったという説を唱えておられて、おそらくこの説の方が正しいものと思われる。

 その理由は、当時竹崎季長や菊池武房らも博多湾の生の松原に布陣していたことや、関東使が来て生の松原で軍議が行われたことは、博多湾にまだ敵船が集結していたと理解すべきであること。また博多湾から鷹島は70km以上離れており五日の夕刻に間に合う距離ではないことや、閏七月七日の鷹島の戦いが陸戦であった記録が残っていることなどもその理由である。

 閏七月五日の博多湾海戦が『蒙古襲来絵詞』後巻に描かれている。上の画像は鎮西の御家人の船が敵船に向かう場面を描いたものである。『蒙古襲来絵詞』は九州大学のコレクションで、同大学の付属図書館のサイトで、主要な画像と解説を読むことが出来る。

Cute.Guides: 日本古典籍 所蔵資料解説: 蒙古襲来絵詞
附属図書館研究開発室等の事業において電子化された日本古典籍を中心とする資料とその解説をまとめたものです。また、活字本の対応ページから検索できる資料もあります。

 上の画像で敵船に乗り込んで敵兵の首を取ろうとしているのが竹崎季長であるが、左側の船には季長は弓で狙う数名の射手が描かれている。この戦いで季長は敵の矢が右腕に突き刺さり、次に記す鷹島の戦いには参加していない。

激しかった鷹島掃討戦

 博多湾の敵の軍船をほぼ殲滅した後、日本軍は鷹島に向かった。台風の後、鷹島近辺には元軍の多数の兵士が籠っていたが、先に述べたように台風で多くの船が破壊され、堅牢な船は司令官や元帥らが乗って逃げていった。残された彼らが全員帰国するためには、壊れた船を修理するか、船を造るか、日本の船を奪うことが必要である。彼らは張百戸という人物を指揮官とし、木を伐って船を建造することを考えていたという。

 一方日本軍は、関東使の指令により唐津、呼子、名護屋、仮屋湾など肥前各地に配置されていた諸軍を集結させ、閏七月七日に鷹島に残っている敵兵を掃討する戦いを開始させている。『八幡愚童訓』によると少弐景資を大将軍として数百艘の船が鷹島に押し寄せたという。元軍の兵士たち数千人は、逃げることも出来ないので必死になって戦ったという。

 豊後の御家人・都甲惟親(とごう これちか)・都甲惟遠父子らの手勢は鷹島の東浜から上陸し、東浜で元軍と奮戦した記録が残されている。『都甲文書』と呼ばれる文書の訳文が、服部英雄氏の『蒙古襲来と神風』に出ているので引用させていただく。

 去る弘安四年、後[=閏]七月七日の肥前国鷹島、蒙古合戦事について言上します。蒙古凶徒が、肥前国鷹島に着岸したので、当国[肥前]星鹿(ほしか)に馳せつけ、巳時に寂妙[惟親]が鷹島に渡り、東浜にて合戦の忠を致し、寂妙子息惟遠(これとお)が[敵の首の]分取をしました。さらに郎従[家来の]重遠は疵を被り、旗差下人一人、末守(すえもり)も疵を被った。これ等の次第は肥前の二名の御家人が確認してくれている。早く注進してください。

弘安九年三月 日           沙弥寂妙[都甲惟親] (花押)

(『蒙古襲来と神風』p.101)
Bitly

 一方、海上でも元軍の軍船と日本軍との戦闘があり、肥前の御家人・福田兼重らが元軍の軍船を焼き払った記録が残されているという。

 そもそもこの戦いはどの程度の規模のものであったのだろうか。先ほど紹介した『元史』に記録されている于閶(うしょう)の証言では「范文虎らの諸将軍は、それぞれ勝手に頑丈な船を選んでそれに乗り、十万余の部下を山のふもとに棄てて逃げた」「七日、日本軍がやってきて戦闘した結果、我が軍は全滅した。生き残った二、三万の兵は日本の捕虜となって連れていかれた」とあるのだが、『八幡愚童訓』では鷹島に残っていた敵兵は「数千人」と書いている。数字が違いすぎるのである。

 このシリーズの4回目の記事で、元の東征軍は東路軍42千人、江南軍100千人と書いた。また今回の記事で江南軍が多くの船を台風で失ったことを書いた。沈没した船に乗っていた兵士たちの数万人は溺れ死んだ可能性が高く、台風の前と後の日本軍との戦いで戦死した兵士や疫病に罹って死んだ兵士も相当数いたはずなので、『元史』の言うような「十万余」という人数は考えにくい。万単位で残っていたことはありうることだとは思うが、『八幡愚童訓』の記録は武士の活躍を過少に記している傾向があり、そのまま鵜呑みにすることは危険である。

 鷹島の掃討戦が激しかったことは、鷹島に残された地名で想像するしかないのかもしれない。「鷹島史跡めぐり」のサイトを見ると、首除(くびのき)、遠矢の原(はる)、供養の元、血浦、首崎、胴代、地獄谷、前生死岩、後生死岩、血崎、刀の元、死浦、伊野利(祈り)の浜などの地名が代々伝わっており、鷹島掃蕩戦の激しかったことを物語っている。

弘安の役の後もフビライは日本侵攻を諦めなかった

 教科書などでは文永の役と弘安の役で元寇が終わったかのように書かれているのだが、元のフビライはその後も日本侵攻を諦めず、何度も日本に使者を送り従属を迫る国書を届けている。

 このシリーズで北条時宗に関する書籍でGHQで焚書処分にされたものが5冊あることを書いたが、そのうち「国立国会図書館デジタルコレクション」で公開されている3冊に関していうと、フビライがその後も日本征服を計画していたことをしっかり書いている。たとえば、関靖 著『国難と北条時宗』ではこう解説されている。

 世祖フビライは日本征伐の失敗から、一時日本征伐の役所を廃止したが、どうしてもこれを思いとどまることが出来なかったと見えて、至元二十年(弘安六年:1283年)に、再び日本征伐の役所を置いて、その長官としてこれに阿塔海と高麗国王忠烈王を充てて、元の国内および高麗で盛んに戦艦その他の準備を進めて、八月を期して再び日本征伐を実行しようとしたらしい。しかしその時の日本征伐のことは、江南地方の攪乱のために、一時中止することとなった。

 しかしこれはほんの一時的の中止であって、またまた東征の準備を始めた。同時に至元二十年から二十一年(弘安七年)にかけて、或は王君治と如智を、或は王積翁と如智とを日本に派遣して外交戦をも行ったが、いずれも前回通り、その目的を果たすことは出来なかった。

 ところがまたまた南方諸州に反乱が起こったりしたので、折角復興させた日本征伐の役所も、至元二十一年(弘安七年)五月に至って再び中止せねばならぬことになった。

 しかしフビライは翌二十二年(弘安八年)十月十五日にまたまた日本征伐の役所を立てて、明年二十三年(弘安九年)三月に蒙漢軍及び高麗軍を順次合浦に集合させて、再び日本に向かって出発させることにした

 ところがいざという時になってから、またまた急に日本征伐の軍の出発を中止することになった。これは重臣劉宣の剴切な諫めを納れた結果であると言われている。一度日本征伐中止の報が伝わると江浙の軍民は歓声雷の如くであったというから、フビライの日本征伐の企ては、どれほど上下の人々を苦しめたかが想像できる。

(関靖 著『国難と北条時宗』 p.139-140)
国立国会図書館デジタルコレクション

 しかしながら、フビライはその後も日本征伐を諦めきれず、三度にわたり使節を日本に派遣し、高麗に戦艦の造船を命じたが、その頃高麗では木材がほとんど尽きていたため、造船ができるような状況ではなかったことが、『高麗史』巻三十一忠烈王二十一年に記録されている。そして永仁二年(1294年)1月にフビライが没し、ようなく高麗での造船は停止し、日本侵攻計画はようやく中止となったのである。

 弘安の役以降の元の日本征伐計画についてはWikipediaに非常に詳しく出ているが、一方わが国は元側の造船を担った江南地方に間者を送り込んで情報収集に務めていたという。江南地方で日本側の間者が捕らえられたことが『元史』において確認できるのだそうだ。

元寇 - Wikipedia

テムルの瑠求侵攻と正安の蒙古襲来

 Wikipediaに出ているが、フビライの外征計画は日本の近くの島にも及んでいた。

 1291年に元は瑠求(りゅうきゅう)に侵攻する計画を立て、翌年の1292年3月に瑠求に武力侵攻したことが『元史』に記されているという。

 フビライの後を継いだテムルは1297年に再度瑠求を侵攻し、島民130人を拉致したとの記録があるが、瑠求とは今の琉球か台湾かについてはわかっていないようだ。

元寇 - Wikipedia

 また、正安三年(1301年)にはわが国にも船団が現れたのだが、このことは先程紹介したGHQ焚書にしっかり記されている。

 元は大徳三年わが正安元年に、またまた征東中書省を建てて、日本征伐を計画したらしい。現に正安三年の記録によると、十一月二十一日に元船一艘が薩摩の甑島に来り、尚二百艘ばかりが海上に浮かんでいたということであるから、またも日本征伐を企てたものであろうが、今度も風波のために、盡く逐電してしまったということである

こんな事情から、我が国でも益々海防の必要を感じて、正安元年正月には鎮西評定衆を置き、同四月にはその下に鎮西引付衆を設け、箱崎津には番役を置いた。そして翌二年七月には九州探題の北条實政に命じて、一層海防の備えを厳重にすることを申し渡した

(『国難と北条時宗』p.144-145)

GHQ焚書と最近の教科書などを読み比べることの重要性

 このシリーズでいろいろ書いてきた元寇の真実は、戦前の本にはしっかりと書かれていたことは理解していただいたと思うのだが、今では一般教養書やマスコミなどでこのような史実が解説されることはほとんどないと言って良い。

 世界のほとんどの国では、自国の領土を外国からの侵略から守ることに尽力してきた先人たちのことをきちんと伝える歴史教育があたりまえなのだが、戦後のわが国ではそのような史実の多くは国民に伝えられていないのが現状である。

 戦後になって封印されている史実は他にも数多く存在するのだが、どのようなものが隠されているかを知ることは、今ではそれほど難しいことではなくなっている。

 最近になって「国立国会図書館デジタルコレクション」に収められている書籍のデジタル化が進められ、著作権の切れた「GHQ焚書」の一部がネットで読めるようになっている。特定のテーマで「GHQ焚書」と最近の教科書や一般教養書を探して読み比べれば、戦後の歴史叙述で何が隠されているかを比較的容易に確かめることができる

 「ネットで読めるGHQ焚書」のリストはこのブログの「デジタル図書館」メニューからアクセスできるので興味のある方は活用願いたい。

GHQ焚書
戦後GHQがわが国で流通していた7769タイトルの書籍等を廃棄して、日本人に読ませないようにしました。 しかし、国立国会図書館が所蔵していた書籍には手を付けなかったので、今では一部の書籍が無料で読めるようになっています。そのURLリストを制作しています。

 「GHQ焚書」のリストにない書籍でも、戦前の著作には通説が今まで封印してきたような貴重な史実の詳細が記されているものが少なくない。そのような史実がSNSなどで広く知られるようになれば、今の通説の多くは史実と整合性が取れないことが誰の目にも明らかとなり、説得力を急速に失っていくことになるのではないだろうか。



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 ブログ活動10年目の節目に当たり、前ブログ(『しばやんの日々』)で書き溜めてきたテーマをもとに、今年の4月に初めての著書である『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を出版しています。
 通説ではほとんど無視されていますが、キリスト教伝来以降ポルトガルやスペインがわが国を植民地にする意志を持っていたことは当時の記録を読めば明らかです。キリスト教が広められるとともに多くの寺や神社が破壊され、多くの日本人が海外に奴隷に売られ、長崎などの日本の領土がイエズス会などに奪われていったのですが、当時の為政者たちはいかにして西洋の侵略からわが国を守ろうとしたのかという視点で、鉄砲伝来から鎖国に至るまでの約100年の歴史をまとめた内容になっています。
 読んで頂ければ通説が何を隠そうとしているのかがお分かりになると思います。興味のある方は是非ご一読ください。

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