オランダが侵略する以前の台湾の記録
台湾に関する古い記録を探していると、柴田賢一 著『日本民族海外発展史』の記述が目に止まった。日本人たちは戦国時代から、台湾に勢力を伸ばしていたのである。
支那人はこれを領土と称してはいたが、その実支那の政令は一として行われず、かえって日本人の勢力範囲であった。明の嘉靖四十二年(1563年)、明の海賊林道乾が支那沿岸から逐われて台湾に赴いたとき、台湾にはすでに日本人が勢力を張っていたので、占城(チャンパ:現ベトナムの中部沿海地方)の方へ逃れたとある。この時代、台湾は大宛と呼ばれていたが、日本人は「タカサゴ」と言った。安平港の風景が少しばかり播磨の高砂に似ているところから、この名が自然に生まれたのである。福建海防志には「鶏籠山島の野夷は之を東蕃という。萬暦四十四年(1616年)倭其他を脅取す」とある。このように台湾と日本との関係は密接であり、居住する者も多かった。
柴田賢一 著『日本民族海外発展史』p.56~57(昭和16年刊)
このようにかなり古くから日本人が台湾に勢力を張っていたのは、商人たちがこの地を貿易上の拠点としていたことによるのだが、メンバーの中には中国人商人もいたという。彼らは明国が「倭寇」と呼んでいた勢力の一つであったと考えられる。
海禁政策を採っていた明国からすれば、彼らは非合法である密貿易に従事していたのであり好ましからざる存在であったのだが、彼らは生活必需品を交易することで東南アジアの各地に根付いていたのである。
台湾については、徳川家康が支那貿易の中継地点を得ようとして、慶長十四年(1609年)に九州の有馬晴信に命じて探検させているのだが、徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第13 家康時代 下巻』に紹介されているイエズス会の年報によると、彼らは現地人から敵視されたために全く交渉にならなかったことが記されている。
彼の地の人は野蛮人にて、外人を敵視…せるが故に、渡航の日本人は虐待を受けた。ここに於いて隊中の殺戮さられたる者を遺棄し、蛮人数名を捕虜とし、その頃その地にありたる支那船数隻を奪い、甚だ悪しき報告をもたらして、日本に還った。
(『近世日本国民史. 第13 家康時代 下巻』p.378-379)
また、GHQ焚書とされた竹内尉 著『海とその先駆者』によると、家康は元和元年(1615年)と翌年に、長崎外町の代官村山東菴(むらやまとうあん)に命じて台湾征伐を図ろうとしたが、二度目の航海では琉球沖で暴風に襲われてしまい一隻だけが台湾に到達したという。しかしこの船も「土民のために襲われ乗組員は自殺した」と書かれている。
にもかかわらず、民間レベルではかなり以前から日本と台湾との間に頻繁な取引が行われていて、商業根拠地に居住して現地の人々と共存していたことはもっと注目してよいと思う。
オランダの台湾侵略と増税に抵抗した日本商人
オランダは慶長十四年に長崎の平戸に商館を設けたのち、東洋貿易に積極的に乗り出し、台湾を手中に収めようとした。寛永元年(1624年)にゼーランジャ城とウトレヒトの二城砦を安平(アンピン:現台南市安平区)に築いて台湾島を占領し、台南の安平(アンピン)をタイオワンと呼び始め、さらにタイオワンに帰港する外国船にいきなり10%の関税をかけ出したのである。日本商人たちは新参者であるオランダが理不尽な税を課しはじめたことに強く抵抗したのである。
菊池寛が少年少女向けに著した『海外に雄飛した人々』の解説が分かりやすい。
ゼーランヂャ(安平)には…多数の支那商船がやってきて、日本の商船と貿易を行なっていました。オランダ人がこの地を占領した目的は、日本との貿易を盛んにやるために、支那の貨物を安い値段で買い取ることにあったのです。それで、日本人と支那人とが直接に取引をすることを喜ばなかったので、彼らは貿易の全権を握ろうとして、輸出品・輸入品に1割の税金をかけました。
支那人…は、大砲の威力を恐れてやむなくこの無法な課税を忍びましたが、しかし、日本人だけは、その命令を聴き入れませんでした。日本人はいわば古参者なのです。新参者のオランダ人から納税の命令を受けるわけがないといって、強硬に反対したのであります。そこでオランダ人も譲歩して、初めのうちは日本人だけには、この税金を許したのでした。しかし間もなくオランダ人は、日本人の勢力が強くなるのをおそれ、日本人を台湾から追い出す一つの手段として、強硬に税金を取り立てようとしました。だが、日本人は頑として無法な税金を払おうとしませんでしたので、ここに、台湾において、日本人とオランダ人との衝突が起こりました。
寛永二年(1625)には、オランダの初代台湾総督ソンクが、関税を納めない代わりとして、千五百斤*の生糸を日本人から没収したという事件がありました。
その翌年、末次平蔵は三十万デュカート、すなわち二百万マルクの資本を以て船を台湾及び南支那に向けて出し、二万斤の生糸と鹿皮その他を仕入れました。
浜田弥兵衛(はまだ やひょうえ)は、この時の船長であります。
ところが、その頃、南支那海を横行していた鄭芝龍を頭とする支那の海賊に睨まれ、とても危険で、どうしても出帆できませんでした。それで船長の弥兵衛は、オランダの第二代台湾総督デ・ウイットに保護方を頼みましたところ、それを拒絶されたばかりではなく、日本の船はたとえ一艘でも支那へ行くことはならぬ、と厳重に言い渡されましたので、浜田弥兵衛をはじめ、そのほかの日本人たちは、台湾でその冬を空しく過ごさなければなりませんでした。
*1斤:約600g
(『海外に雄飛した人々』p.128~130昭和十六年刊)
オランダ人のやり方に激怒し台湾総督の謁見を拒否した江戸幕府
このような事情からオランダ人に対する日本商人の苦情が高まり、江戸幕府にもその情報が伝えられたという。朱印状を携えた貿易に悪影響が及んでは不味いとの判断から、オランダは台湾を占領した事情を徳川幕府に説明し、幕府から日本商船の台湾渡航を一時禁止してもらおうと考え、寛永四年(1627年)六月に第三代台湾総督のペーテル・ノイツを特使として江戸に向かわせることとした。
それを知った浜田弥兵衛は、貨物をそのままで台湾人を引き連れて長崎に帰り、船主の末次平蔵と相談して、ノイツの江戸行きの使命を二人でなんとかして阻害しようと考えた。
弥兵衛の報告を聞いた末次平蔵はオランダ人のひどいやり方に激怒し、長崎奉行との協議の上、平蔵らは台湾人を引き連れて江戸に向かって、台湾人と共に将軍に謁見することになったのである。台湾人を連れて行ったのは、彼らに、オランダ人に対する不平を将軍に訴えさせるためであり、その戦略は見事に成功した。
幕府は、わが国では自由な貿易が許されていながら台湾ではオランダが日本商船の貿易を妨げていることに激怒し、ノイツらをオランダ国が正式に派遣した使節とは認めず、彼らを将軍にも謁見させず、彼らからの献上物も受け付けず、日本から立ち去ることを命じている。
ノイツ等は、弥兵衛らに阻害されて日本渡航の目的を果たせないまま、10月26日に空しく台湾に帰っている。
浜田弥兵衛と台湾総督ノイツとの戦い
このような経緯から、オランダ人の弥兵衛に対する怒りは相当なものであったという。
一方、寛永五年(1628)に浜田弥兵衛を船長する船ともう1隻の船が台湾に向けて出帆し、四月二十四日に台湾のゼーランジャ(安平)港に到着している。この船にはオランダからの報復を予想し、完全武装した乗組員と大砲まで用意されていたという。
予想通りノイツは弥兵衛らを拘束しただけでなく、乗っていた台湾人を謀反者として牢獄に投じ、徳川将軍から台湾人に下賜された土産物を取り上げてオランダ人に分配し、船に載せられていた武器を没収した上、弥兵衛らが支那に行くことも帰国することも許さなかった。そうして1ヶ月が過ぎて弥兵衛らは、もう一度交渉してもダメであるならば、命がけでノイツと戦うことを決意したのである
六月二十九日に弥兵衛は部下十五人ほどを連れてノイツの部屋を訪ね、帰朝についての許可とあわせて所持していた資金の返還を懇請したのだが、ノイツは承諾しない。そのタイミングで弥兵衛らは一斉にノイツに飛びかかり、弥兵衛はすばやく剣を抜いてノイツの胸の上にかざし、見る間にノイツと通訳のカロンを縄で縛り付けたのである。
急報に駆け付けたオランダの兵士たちが、屋外から銃を構えた場面から、GHQ焚書指定された『海の二千六百年史』の記述を紹介しよう。
弥兵衛はオランダ兵を睨めまわし、「もし一個の弾丸が俺らに命中しても、汝らの長官を刺し殺してしまうぞ。どうだ。それでよければ、俺らを撃て!」と怒鳴り、ノイツの首のあたりに剣を擬した。
この声を聴いて、ノイツは真っ蒼になり、兵士に「撃つな、撃ってはいけない」と命令した。…
それから、ノイツは、縛られたまま一夜を明かした。翌日、城中に開かれた委員会に向かって彼は一書をよせ、今回、自分が日本人の帰航を拒んだため、この騒ぎが起こった。日本人の怒りは頂点に達し、自分を殺して自刃しようとしている。だから、この上はすぐ日本人を帰航させるよりほかに策がない。自分の生命を救うため、この点、考えてもらいたい」と言った。
(高須芳次郎 著『海の二千六百年史』p.195~196昭和15年刊)
その後、弥兵衛とノイツとの交渉は六日間にわたり続けられ、日蘭両国がそれぞれ五人の人質を出し、両国の船が相手の人質を乗せてともに日本に向かい、日本到着後に人質を釈放すること、前回の公開で没収した商品を返す事、台湾人を牢屋から出す事などで和解が成立し、ノイツはようやく縄を解かれたのである。
オランダのやり方に激怒した江戸幕府
両国の船がそれぞれ長崎に無事に到着したのだが、台湾人を牢屋に入れ将軍が与えた土産を取り上げたことなどのオランダ人の所業について弥兵衛から説明を受けた江戸幕府が憤り、長崎奉行に命じてオランダ船の人質を監禁し大砲などの武器を取り上げたばかりではなく、平戸にあったオランダ商館の帳場を閉じ、オランダ人の商売を禁じた上、その後入港してきたオランダ船まで取り押さえてしまったという。
驚いたオランダは、平戸の商館長やバタビア総督の施設などを派遣して人質解放や取引再開を懇請してきたが、江戸幕府はなかなかオランダを許さなかった。寛永九年(1632年)になってオランダは、問題を起こしたノイツを日本に寄こしてきたので、この男を牢屋に入れることで、幕府はそれまで監禁していたオランダ人を解放することとなり、取り押さえていた船の出港を許し、平戸のオランダ商館の貿易禁止も解かれたのである。
では、ノイツが解放されたのはいつのことなのか。
菊池寛の前掲書にはこう解説されている。
それから四年の歳月が流れ、寛永十三年(1636年)に、日光の東照宮の社殿が落成して盛んな祭典が行われるときにあたり、オランダのバタビア総督から日光廟に青銅製の大燭台やそのほかの珍しい唐物を献上したのを機会に、ノイツを牢から放してやり、この事件はようやく解決しました。
おもえば、その頃のオランダと言えば、世界の大国であったのですが、それを相手にして、日本がこれだけ強く出ることが出来、万丈の気を吐いたのは、実に浜田弥兵衛が事に臨んで沈着、かつ豪胆で、よく敵を制したのによるものであります。
(『海外に雄飛した人々』p.141)
日光東照宮には、鐘楼側に蓮燈、鼓楼側に廻燈籠と吊燈籠の3つのオランダ灯篭があり、いずれも国の重要文化財に指定されている。オランダはこの灯篭などを献上することによって、ようやく江戸幕府の許しを得て、ノイツを救い出すことができたのである。
強国のオランダをコントロール下に置いていた江戸幕府
オランダがノイツを救った翌年に島原の乱が起っている。島原の乱については別のブログや拙著にまとめているので繰り返さないが、この時にオランダは、江戸幕府からの要請に応じて、「一揆勢」が籠城している原城に向かって艦砲射撃を行なっている。
その後幕府は、西洋諸国の中でオランダにだけわが国との貿易を許したのだが、その後もオランダに対しては随分強気の交渉をしている。
貿易の窓口が一本化されることで貿易量が拡大することを見込んだオランダは、平戸にある倉庫を大幅に増築したのだが、その建物の前面に西暦年を刻んだことを理由に幕府は倉庫の破壊を命じ、オランダはそれに従っている。そればかりではない。その後、オランダ商館員以外のオランダ人はことごとくジャワに放逐され、寛永十八年(1641年)には、全員平戸を引揚げさせて、狭い出島に閉じ込められたのである。
17世紀初頭以来オランダは東インドを侵略してポルトガルから香料貿易を奪い、黄金時代を迎えていたのだが、当時の江戸幕府はこの強国をコントロール下に置いていたことはもっと広く知られて良いと思うのだが、なぜ江戸幕府がオランダに対して強い交渉が出来たのかについては、浜田弥兵衛の事件を知らなければ理解することが難しい。
戦後の歴史叙述において浜田弥兵衛の事績などが封印されたのはなぜか
国立国会図書館で「浜田弥兵衛」検索すると、書名あるいは章立てでこの名前が出てくる書籍が76冊ヒットし、以前は教科書(『初等科国語. 第3』)にも掲載されていたことが分かる。
書名や章立てに名前がなくとも、この時代の歴史叙述において「浜田弥兵衛」の名は、多くの書物で確認できる。
今のわが国で浜田弥兵衛の事績を知る日本人はあまりいないと思うのだが、寛永期の人物でありながら大正4年(1915年)には従五位に叙せられており、教科書にも載せられていたので、戦前・戦中の日本人なら、ほとんどの人がこの人物のことを知っていたはずなのである。ではなぜ、浜田弥兵衛の話が戦後の歴史叙述から消されてしまったのであろうか 。
消されたのは弥兵衛の話だけではないのだが、どういう考え方に基づいてどのような史実が消されたのかは、江藤淳がアメリカ国立公文書館分室で見つけた資料があり、『閉ざされた言語空間』(p.237~241)に紹介されている。
この30項目にわたる禁止対象の内容はWikipediaにも引用されているが、この様な考え方が今も自主規制という形で残されていて、マスコミや教育界を支配していると言っても過言ではない。
例えば2番目の禁止項目は「東京裁判の批判」であり、5番目は「アメリカへの批判」、6番目は「ロシア(ソ連)への批判」、7番目は「英国への批判」、10番目には「その他の連合国への批判」、11番目は「連合国一般への批判」となっている。要するに戦後は戦勝国に対する批判的な言論は封じられていたのである。だから、西洋諸国が世界を占領したという明白なる史実が、戦後の日本人にはほとんど伝えられなくなってしまい、 日本人に与えられている歴史叙述は「いつの時代も日本だけが悪者で、他の国は全て良い国である」とする内容になってしまったのである。
しかしながらGHQによる占領は昭和27年(1952年)に終了した。にもかかわらずわが国では、この30の禁止対象項目がマスコミや教科書などで今もタブーとされているのだが、それはなぜなのかと誰でも思うところである。
その理由は、禁止対象項目のなかに戦勝国でもない国への批判が含まれている点にあると考えている。禁止項目の8番目は「朝鮮人への批判」、9番目は「中国への批判」となっているのだが、GHQはこの二つの国が日本に対して圧力をかけ続ける役割を与えることによって、GHQの占領終了後も、これらの禁止項目すべてを末永く日本に順守させるように仕組んだのではないだろうか。
中韓が反日を国是としてわが国を叩けば、わが国の政治界や官僚、マスコミ、教育界・芸能界などに潜らせている反日勢力がそれに呼応して批判が増幅される。そうすることで わが国民の大半が「 わが国だけが悪かった」とする「自虐史観」に染まり続けることとなり、その状態が続く限り、いずれの戦勝国も第二次大戦の戦争責任を問われることはありえないのである。
しかしながら、近年になってようやくメディアの偏向や事実の捏造に、多くの国民が気付きだしたことには希望が持てる。メディアが垂れ流す情報の多くがあれだけ偏向しているのだから、彼らや、反日勢力が声高に主張する歴史叙述が信用に値するものであるかについても、疑問を持つようにしていただきたいものである。
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ブログ活動10年目の節目に当たり、前ブログ(『しばやんの日々』)で書き溜めてきたテーマをもとに、今年の4月に初めての著書である『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を出版しています。
通説ではほとんど無視されていますが、キリスト教伝来以降ポルトガルやスペインがわが国を植民地にする意志を持っていたことは当時の記録を読めば明らかです。キリスト教が広められるとともに多くの寺や神社が破壊され、多くの日本人が海外に奴隷に売られ、長崎などの日本の領土がイエズス会などに奪われていったのですが、当時の為政者たちはいかにして西洋の侵略からわが国を守ろうとしたのかという視点で、鉄砲伝来から鎖国に至るまでの約100年の歴史をまとめた内容になっています。
読んで頂ければ通説が何を隠そうとしているのかがお分かりになると思います。興味のある方は是非ご一読ください。
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内容の詳細や書評などは次の記事をご参照ください。
コメント
浜田弥兵衛の墓・石碑があるのが東京都杉並区「浜田山」近くの「理性寺」、青空文庫で読める書籍の文章にも出ていますね。
情報ありがとうございます。
青空文庫の片山廣子「浜田山の話」では、「浜田弥兵衛がその宝暦五年に三十九で死んだ」と書かれています。しかし宝暦五年は西暦1755年で、タイオワン事件が起きたのが1627年で随分時代が異なります。
理性寺の墓は、残念ながらタイオワン事件で活躍した人物とは違うということになります。