支那の排日を仕掛けたのは英米である
前回まで山中峯太郎の『日本を予言す』(GHQ焚書)のなかで、わが国が支那や英米やソ連の宣伝戦、思想戦に振り回されていたことが書かれている部分を紹介させていただいた。今のわが国の新聞とは違い、当時の新聞には各国からわが国に宣伝戦、思想戦が仕掛けられていたことについて数多く報じられているので、戦前の日本人の多くがその点についてある程度理解していたものと考えられる。最初に紹介したいのは第一次世界大戦以降本格化していった支那の排日だが、以前にもこのブログで紹介させていただいたように、当初は英米が仕掛けたものである。
第一次世界大戦中の一九一七年にロシアで革命が起こり、一九一八年三月にソ連新政府はドイツと単独講和を行い戦線を離脱。五月にはアメリカが参戦することでドイツの敗北は決定的となり、十一月に休戦協定が結ばれて、第一次大戦は終戦した。
四年以上続いた大戦で、欧州の列強は多くのインフラや工場設備が破壊されていたために、経済復興までに時日を要することは明らかであった。一方わが国やアメリカは大戦ではほとんどダメージを受けておらず、両国にとっては対支貿易拡大の絶好のチャンスが訪れたのだが、そこで、日本が大幅にシェアを伸ばすことは何としても避けたかった国が動き出す。
一九一九年(大正八年)一月十八日からパリで第一次世界大戦の講和条件などの討議が開始され(パリ講和会議)、講和条約が締結されたのは六月二八日のことなのだが、上の画像はパリ講和会議開催中の四月二五日付けの大阪朝日新聞の記事で、英米人が揚子江流域の重要都市で排日活動を煽動していることを報じている。
巴里(パリ)に於て講和会議の開かれてより以来、支那の対日感情悪化はますます熾烈なるが如し。
大正八年四月二十五日 大阪朝日新聞 「神戸大学新聞記事文庫」外交23-14
最近にては、支那商業の中央大動脈とも称すべき揚子江一帯の重要都市に於いて日本商品に対する非買同盟さえ企図さると伝う。
而して其の裏面の黒幕には英米人あり、殊に米国の宣教師が種々なる慈恵事業を起すと同時に、排日熱の鼓吹に努め、排日貨をさえ煽動しつつありとは沙汰の限りなり。
宗教的宣伝のため慈恵事業を起し教育事業に従事する吾人の敬服する所たりしも、昨今伝えらるる所を真なりとすれば、宗教的の善美なる目的のためにあらずして、自国の商権拡張の為に宗教を悪用し慈恵事業を利用して他国の商品を排斥せんが為の手段に供しつつありというは言語道断の宣伝と謂わざるべからず。
英米人とは書いているが、熱心に動いたのはアメリカのようである。このような記事は、大阪朝日新聞だけが報じているのではない。「神戸大学新聞記事文庫」の「詳細検索」機能を用いて、翻刻文に「排日」と「宣教師」の双方を含む記事を探すと二〇五件もの記事がヒットする。
この検索でリストアップされた記事を出版年順にタイトルを読み進むと、アメリカが宣教師を利用して何をやっていたかが見えてくる。日韓併合後に朝鮮半島の独立運動をしかけたのもアメリカの宣教師であったのだが、このようなことは教科書や通史をいくら読んでも知ることは不可能だ。
では、「排日」運動で具体的に何がなされたのであろうか。単なるデモなどではなかったのだが、同年六月五日付の国民新聞に支那から帰朝した人物の目撃談が報じられている。曰く、
…殊に邦人商店の受くる打撃は最も甚だしく各商店は何れも営業停止の状態に在り。邦人商店にて傭用せる支那人店員等に対しては、仇敵日本人に使用せられ居るは売国的行為なれば三日以内に解雇されて日本商店を出づるよう脅迫し、又排日貨の手段としてはこに止らず支那人の日貨販売者に対して甚だしき圧迫危害を加えつつあり。
大正八年六月五日 国民新聞 「神戸大学新聞記事文庫」外交23-98
例えば、学生等隊を組て店内に入り陳列せる商品中日本貨物あれば直に取下ろさしめ今後日本商品を取引すれば売国的行為と認め如何なる手段を以て報ずるやも知れずと脅迫して日貨の取引を禁じ、更に甚しきに至りては支那人にして日本製帽子洋傘を使用する者あれば之を奪いて破棄する等の乱暴を行い、或は日本製物品に排日的文字及日本を侮辱せる漫画を描き人目多き場所に掲げ、又は日本製品を路上に堆積して焼棄する等狂態を演じつつあり。
而して南京商務総会は爾今日貨の輸入と現在の日本貨物を上海及各地仕入先へ返還するの決議を為したれば日本貨物を取引しつつある商店は之が実行を余儀なくせられ居れり。而も此の状態は決して一時的現象と認め難く、其背後には英米宣教師の活躍大いに力めつつあるを以て、此の情況の今後何日に至りて終熄すべきや殆んど計り知られず。
邦人商店主は生命財産に対して不安の念を覚えたに違いないのだが、この記事にも「英米宣教師」が登場していることに注目していただきたい。
排日運動を仕掛けて各国の対支貿易額はどう動いたか
下の画像は、支那でアメリカが排日運動を煽動した結果、支那の貿易が如何に変化したかを伝えている大正八年(1919年)八月十二日の読売新聞の記事である。
砲声劔光の戦い終り、より深刻に国々を脅威する平和の戦いが始った。列国の経済戦がそれである。
昨今旋風の如く巻き起った同盟罷工もその一例である。青島に於ける米国人が自国商品の販路を拡張せんが為め排日運動を煽動し、活動写真利用で自国商品の広告を行るのも、米誌が日露役当時の偽写真を白々しく掲載し排日の宣伝に悪用したのも、何れも人を誣いて自らの勢力を張らんとする憎むべきではあるが一つの術策に外ならぬ。右に就き最近支那より帰朝せる某実業家は語る『戦前ドイツが青島を根拠地として山東、河南、直隷、江蘇の各省より遠く北京南支那方面に亘って経済的大活動を試みんと北京総務商会に巨額の運動費を投じて排日運動を煽動したが、今は新なる大成金国が太平洋上万里の波濤を踏破して東洋の大市場を席捲せんと企てて居る。而して此の平和のドイツたらんとするものは米国であって其の経済的活動の悽じい一面、現代支那に於ける唯一無二の人気役者である。
即ち従来支那市場に見る商品は日本四割、欧米四割、支那品二割であったが、英独仏の疲弊に依って欧米品の四割は全く米国商品に変って居る。而も日貨排斥に依って受けた我商品の打撃は絶大なものであるが、此上排日運動が持続し将来各国の国力恢復する事となれば他国貨物の輸入増加に反して我が商品の販路が如何に狭少されるか蓋し想半ばに過ぐるであろう。就中過去米国の支那に於ける勢力に至っては事古く長江流域に百六十六箇所の会堂と、一千有余の牧師を以て名を救済に藉り淮河の汎濫に由因する支那人の饑饉を救い、未然の壮挙たる導淮工事を計画し、有利なる石油坑を一手に掌握する一方主要各都市は勿論人口四五十万位の箇所には幾多の小学校を始め中学、女学校、大学すら建設し、支那貨物の海外輸出を斡旋する等切りと恩を售り、事ある毎に米支間の親睦を計り恰も米人は支那の守護神たる迄に喰い込み其上に自国商品の輸出である。支那人と雖も亦歓迎せざるを得ぬではないか。此の如く米国が漸進的に且つ根深い活動をして居るのに我が商人は単に鼻先慾な自国商品の輸出に腐心し支那物産たる棉花、鉄、石炭其他の雑穀を他国に輸出し支那を助ける事等は一向お構いなく、特にその勢力は上海、天津、漢江辺の大市場にのみ集注して有望なる地方商業を閑却する有様にある。
大正八年八月十二日 読売新聞 「神戸大学新聞記事文庫」アジア諸国2-18
このようにしてアメリカは、支那に排日運動を煽動することで日本商品の販売シェアの拡大に歯止めをかけ、さらに第一次大戦で経済が疲弊していた英独仏のシェアを奪い取ったというわけである。その後排日運動はさらに厳しさを増し、わが国の対支輸出額は大正八年(1919年)をピークに減少し続ける一方で、米英独仏の数字が伸びていく。アメリカの対支輸出額が日本を追い抜くのは下の画像の記事にあるように昭和六年(1931年)のことであった。昭和六年というと満州事変が勃発した年なのだが、この年に英米がどう動いたかについては次回以降に詳しく書くこととしたい。
「排日」をしかけられた我が国の反応について
では、排日を仕掛けられたわが国は、当初どのように反応したのだろうか。第一次大戦終戦後の我が国の反応を見てみよう。
上の画像は第一次大戦後のパリ講和会議開催中である大正八年(1919年)六月五日の読売新聞の記事だが、法学博士寺尾亨氏のコメントとして「今日支那各地方に行われて居る排日や排日貨の動運は別段に心配する程でなく、やがては支那人の了解する時があろうと思う」などと書かれているが、政府の外交姿勢もこのような姿勢に近かったと思われる。新聞の中には政府の外交姿勢を厳しく批判しているものもある。
上の画像は、同年六月二十二日付の京都日出新聞の記事だが、これを読めば当時の原敬内閣が、どのような姿勢で支那の排日問題に臨んだかが見えてくる。
秘密外交と官僚万能主義とを排し民本主義を基礎とせる国民的外交に依るにあらざれば、到底世界列強の間に伍して国威を発揚する能わざる事は、巴里(パリ)会議に於ける我国委員失敗の跡に徴するも明かなり。而も我国今日の為政者のなす処を見るに依然として秘密外交を事とし、猶動(やや)もすれば、官僚万能主義を以て政治の本能と心得居る者少からざるが如きは、吾人の解する能わざる処なり。…
現に此程の朝鮮騒擾事件*に際しても、米国の宣教師其他彼等騒擾者の黒幕たり。煽動者たる一派の徒は、有らゆる手段に依りて、盛んに言論を利用し、米国や仏国の新聞紙に迄、有る事無き事、総て日本に不利益なる事は写真迄添附して一々報道し、之が為め日本が欧米各国人に誤解せられし処の不利益は頗る大なる者ありしに拘わらず、我政府当局者は之に対して、何等弁解の手段を講ぜざるのみならず、騒擾の顛末は成る可く吾々国民に迄秘密にし、全国各地の新聞紙に対しても、事毎に記事差止の命令を発し来るより、一般国民は今以て其真相を知る能わず、却て海外よりの電報若くは其他の通信に依りて其一斑を窺知し得るが如き有様なり。…
*朝鮮騒擾事件:1919年3月1日に日本統治時代の朝鮮で発生した独立運動。三・一運動ともいう。吾人が特に痛切に感ずるは、支那に対する我宣伝機関の欠如せる事是れなり。元来支那国民は何事にても直に附和雷同して直に悲歌慷慨し易く、而して元来支那は文字の国、言論の国なれば之を善用するにも之を悪用するにも、文字言論の力を以てすれば最も効果多きは、少しく支那の国民性を解する者の解する処にして、在支英米人の如き夙(つと)に茲に着眼し或は宣教師を利用し、或は幾多の機関新聞を設置し、若しくは支那の新聞記者を利用して、自己の利益を擁護し、到る処其根柢頗(すこぶ)る鞏固なる者多く、現に今回の排日、排日貨騒ぎにても、彼れ等は巧みに之を利用して其主旨を宣伝し居れるに係わらず、肝腎の我国にては、殆んど之と云う宣伝機関を有せず、よし又之を利用すれば利用し得可き機関や機会があっても、我政府当局者は決して之を利用せざるのみならず、今回の事柄に就ても、朝鮮騒擾事件の当時と均しく成る可く之を秘密にし、成る可く事を荒ら立てず、自然に沈静するを俟つの外なしとし。努めて消極的の態度を取り、積極的に我国の真意の存する処を彼等支那国民若しくは第三者の前に宣伝し、彼等の誤解を解くなど云う事は毫も考慮せざる者の如く、之が為め支那各地に在る我同胞の被る処の損失は決して少からず、何れも皆我政府の態度に慊焉たる者あり。
大正八年六月二十二日 京都日出新聞 「神戸大学新聞記事文庫」政治14-54
このように当時の原内閣は、今のわが国の内閣と同様に、やるべき交渉をせず、何が起こっているかを国民に十分に伝えることもせず、米国に迎合するばかりであったようだ。ただ当時のわが国の報道機関は、現在とは異なり、政府に対して言うべきことを言う新聞が少なからず存在していたことは羨ましい限りである。
大国から何を言われても、何を仕掛けられても言うべきことを主張せず、ただ尻尾を振るだけの内閣が続いた結果、様々な宣伝戦や思想戦、経済戦などが仕掛けられてわが国が分断され、弱体化され、世界から孤立化されて第二次世界大戦に巻き込まれていったわが国の過去の歴史を、今こそ学ぶべきではないだろうか。
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コメント
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