「国立国会図書館デジタルコレクション」で「個人向けデジタル化資料送信サービス」の手続きをすることで、大半のGHQ焚書が読めるようになる。今回は昭和十六年に刊行された桑原三郎 著『アジア侵掠秘史』という本を紹介したい。この本は、過去五百年近くアジアは欧米列強によって侵略され、悲惨な植民地とされてきた歴史が克明に綴られているのだが、戦後このような内容の本が当時の史料とともに詳しく記された本が出版されることはなかったと断言できる。第一章の一部を紹介したい。
欧米列強によるアジア侵略
欧米列強の壟断になる欺瞞の近代世界史は、ここに白日の下に暴露されるときが訪れたのである。なかんずくその中核をなすところの、欧米列強のアジア侵略史をわれらアジア人の手に持つ明鏡——中正なる史実——によって、ついに最後の審判を下すべき光代を迎えたのだ。
顧みれば近代の世界史は概ね欧米の世界史にほかならなかった。滔々たる世界の欧米化、——武力・政治・思想・経済・教育・科学の非欧米地域へのはてしなき進展——近代世界史は正しくその構成の基礎をここにおいていたのである。しかしながら、それはあくまでも「近代世界史」にとどまるべきであって、決して「今日の世界史」ではあり得ないのである。
「欧米的な世界史以外に世界なし」という観念は、その否応の論をまたずして、現に音をたてて崩壊しつつあるではないか。正しき世界史、少なくとも今日以後の光輝燦たる世界史は、世界人口の大部分を占める非欧米人に、正しき理解を持たないかぎり、そしてこれを中心とする編集方針をとらないかぎり、永久に完成せられないだろう。まさに欧米的世界史は転覆しようとしている。アジア史の過去に、巧みに隠蔽せられた惨虐な欧米諸国の罪業、美化されたそのアジア分割の謀略、アジア人をさげすんで来た行為、こうしたあやまれるもろもろのものは、かくてここに十把一束にして白日の下に、完膚なきまでに暴露さるべき時が到来したのである。さはあれ、この歪曲された世界史をそのまま鵜呑みにして、われらアジア人自身すら、アジアの最西部にあるトルコ・イラン・イラク地方を「近東」と呼び、わが日本を「極東の帝国」と自称して、さらに何等の不思議も感じないで来たのである。今こそ、これらのことどもは、太き朱線をもって抹消せられなければならない。
蓋し、数百年前までの世界諸文化の光源は、おおむね東洋に発した。その光芒は東から西へとむかって放たれ続けたのである。永遠にわたる人類の心の糧、宗教について見ても、世にいう世界三大宗教——仏教・回教・キリスト教——はいずれもアジアの地に発祥したのである。さらに眼を転ずれば、古くはペルシャのギリシャ遠征、中世に於けるサラセンのヨーロッパ進出、イギリス本土の民心までも震駭せしめた蒙古の大進軍などがある。否、われらはさらに一千年前の往古に想いをいたそう。当時のアジアに於いては、すでに日本に優雅の花さく平安朝文化があり、唐も絢爛の制度文物を誇示し、サラセン帝国の文化と剣の力は優にヨーロッパ人を畏怖せしめるに十分なるものがあった。
しかるに僅々五百年前にいたって、運命は主客の地位を一朝にして転倒させてしまった。世界はにわかに逆転し出したのだ。爾来、ヨーロッパ人の進展はあたかも広野に放たれた却火のごとく、アジアをはじめとする非ヨーロッパ地域の全土へと、猛威を逞しうした。世界文明の源流を誇る支那もインドも、朔北の寒風以外に憂きことを知らなかったシベリアも、椰子の木陰に安住の生活を送迎していたオセアニアも、南洋の島々も、所詮はこの却火の外にたつことは出来なかった。昼なお暗き密林に包まれたアフリカも、黒人の楽土であったアフリカも、いずれも同じ運命の友とならざるを得なかった。そしてこれによって蒙ったアジア人の運命の悲惨さは、実に有史以来空前の虐しさであった、といい得よう。
桑原三郎 著『アジア侵掠秘史』清水書房 昭和16年刊 p.3~5
世界の三大宗教だけでなく、世界の四大文明もいずれもアジアの有色人種によって開かれ、かってはアジアの方がヨーロッパより豊かであった。しかしながら五百年ほど前にヨーロッパ人がアジアを侵略し、アジア人は悲惨な運命を辿ることとなる。
第二次世界大戦勃発時の世界の状況
この本が記された昭和十六年の頃、世界には七十を超える国が存在していたのだが、それらの国々のほとんどが欧米の植民地であったのだ。著者は当時の状況を図とともに次のようにまとめている。
図のごとく、驚くべき偏断なる分け方が行われている。すなわち、何とそれは、イギリス・フランス・ソヴィエト連邦、アメリカ合衆国の四国によって、五十八%が支配され、オランダ・スペイン・ポルトガル・イタリー・ドイツ・ベルギー・デンマーク・ブラジルの八ヶ国によって十六%が占められているのだ。だから、他の日本・満州・支那・エジプト。コロンビア以下、〇.一七哩(マイル)しかもたないヴァチカン市国に至る六十余国は、わずかに地球面の四分の一たらずのところを分けあっているにすぎないのである。就中(なかんずく)、日本のごときは世界人口の約十分の一という厖大な人口を有しながら、その面積たるや、その残された四分の一足らずの面積のうちわずか一%をもっているにすぎない。
正しく、アジアの大部分は、現在われらアジア人の手にあるのではなく、欧米列強のふところにあるのだ。…中略…
欧米列強のアジア分割に於いて、最も多くの獲物を得たのはソヴィエト連邦であって、実にそのヨーロッパロシアの約十倍に当たる。次位のイギリスも本国の約百倍の土地を奪い、フランスも本国の一倍半、オランダも本国の役六十倍の豊土をとり、なおまた、ありあまるほどの土地の領主たるアメリカ合衆国すら、約三百萬方哩の土地を割きとっている。そして、わが日本をはじめとするアジア独立諸国の手によって辛うじて保持されているのは、故地アジアの総面積の三〇%にしかすぎない。しかもこれら独立国の大部分は、本論に於いて詳観するように、すでに、欧米列強の圧力に耐えかねて、事実上の保護領となり果てるか、さもなくば、植民地への転落のほとりをさまようの余儀なきにある。
イギリスのレオナルド・ウルフも、このアジアの実情を指摘して、
「アジアに於いては、ヨーロッパ人の支配から完全に独立していると言い得るものは、日本人なる唯一の国民があるのみ。しかしてその他の厖大なる面積は、ヨーロッパ諸国家間に分割されるか、もしくは征服されている。太平洋の諸島も、すべてヨーロッパ諸国の領土であるか、さもなくばそれらの植民地である。」
と述べている。事実、満州事変以前に於けるアジア全土の九十九%は、ヨーロッパ列強の専断するところであり、ただわずかに、これらヨーロッパから襲い来る暴風と怒涛の中に毅然とたち、アジア復興の暁鐘をつよくそして絶え間なくうちならしていたものは日本のみであった。しかして、この興亜の鐘の音に耳をかたむけて蹶起した最初の国にわが盟邦満州国があり、ついで支那事変の劈頭に於いて敢然と独立の旗をひるがえしたものに蒙古連合自治政府があり、二年前にたちあがったものに中華民国の新中央政府がある。だが、これら日・満・蒙・支の諸国の全面積を合計しても、アジアの全土の四分の一にしかすぎないのである。欧米列強の世界壟断、アジア分割の現段階は実にかくのごとくであった。
当時の地球人口は二十一億三千九百万とされ、その半分以上はアジア人であった。しかしながら、アジア人の本来の領土のほとんどが欧米列強に支配されていたのである。戦前にわが国が大東亜共栄圏の設定を叫び、世界の再分割を要請した理由はこの点にあった。このような要請をしたわが国は「侵略国」と呼ぶべき国であったのか。
アジアの奴隷船
この本では欧米列強がいかにしてアジアを侵略して来たかについて、二十章に分けて解説されているのだが、戦後の日本人に封印されてきた史実がどの章にも満載の本である。上の画像は第五章までの目次だが、その中から第三章「アジアの奴隷船」の一部を紹介させていただく。
拙著『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』に、多くの日本人が奴隷として海外に売られていったことを書いたので日本人に関する記述は省略するが、日本では秀吉の禁令が出されたことにより改善に向かったものの、他のアジア人奴隷はひどい扱いを受けていた。
日本を除くアジアの全沿岸地方には、そののちに於いても、人間盗掠の奴隷船の去来が、日月を追っていよいよ繁くなって行った。この諸因としては、最も巨利を搏する商品としての価値、ヨーロッパにおける機械文明の発達によってもたらされた帆船から蒸気船への進歩、これに伴う船舶の増大などがかぞえられるが、さらにつき進んでその根因をもとめれば、かれらが獲得しゆく尨大な植民地の開拓に苦役せしめた奴隷の需要性の増大を指摘しなければならない。例えば、オランダ東インド会社の第二代の総督ヤン・ピエターソン・コエンが、一六二三年にその後任カーペンチーア総督に贈った書翰の中には、左のごとき一節がある。
「バタビア・モルッカ・アンボイナ・バンダには人と金がいるが、…支那との貿易には修交関係が結ばれていないので、平和的手段をもってそれを得ることが出来ない。そこで、季節の良好な時、軍艦を支那の海岸へ派遣し、ありったけの男女幼童の支那人を捕らえて帰るのが適策である。またもし支那と戦端を開いた場合は、特に支那人を多数捕らえることに心がけ、その際婦女幼童をも獲得することが出来たならさらに好都合である。これをバタビヤ・アンボイナ・バンタムなどに移住させ、一人あたりの贖金を八〇リアルとし、また婦女子も絶対に帰国もしくは会社の支配下以外の地に行かしめず、上述の地に永住せしめるを可とする。」
かかる人間盗掠なる悪行が次第に増大しつつある状勢は、ジャヴァ島バンジュワンギの住民が、一七五〇年に八万余をかぞえたのに、その六十年後にはその十分の一の八千人しか残っていなかったという事実、あるいは一八六四年に澳門(マカオ)から出帆した「浮かべる地獄」に積み込まれた支那人が、キューバ行き四千四百七十九人、ペルー行き六千二百四十三人という多くの数字を示し、さらにその翌年に於いては、キューバ行き五千二百七人、ペルー行き八千四百十七人という激増ぶりを呈した事情によっても明らかにうかがわれる。
さらに、アジアの奴隷は、アフリカ・アメリカのそれよりも悲惨なものであった。というのは、さすがの欧米人の間にも、多年にわたる無残な奴隷の酷使が問題としてとりあげられ、やがてそれはアメリカ合衆国の奴隷禁止にまで進展し、次いで各国もこれにならうことによって、世界の奴隷のすべてが、解放せられるかのごとく見えた。だがしかし、その奴隷禁止の恩恵にあづかったものは、アメリカインディアン・ネグロ・アフリカ土人などにすぎなかった。そしてアジアの奴隷は依然として、この解放圏から遠くとり残されていたのである。すなわち、アメリカ・アフリカの非ヨーロッパ人が人間として取扱われる時節が到来してからも、アジア人は動物同様の待遇を受けなければならなかった。…中略…
換言すれば、ヨーロッパの産業革命に基因して急速に発達し来れる資本主義経済は、その資源を獲得すべき植民地の強行的開発を必要とし、それには、どうしても、労銀の低廉なる奴隷を使役するのが最も割の合う方法であった。かくてこそ、アフリカ・アメリカの黒人奴隷の解放を見たのちも、これに代わるべき酷使の動物として、アジア人が求められねばならなかったのである。
同上書 p.30~32
同上書によると一八四五年から三十年間で、香港・マカオ・アモイから、キューバ・ペルー・チリ・ハワイに向かって送られた支那人奴隷は四、五十万人に及ぶという。
この本が出版された昭和十六年には、わが国は支那事変を戦っていたのだが、著者の桑原は支那を敵視するわけではなく、大量の支那の国民が奴隷として売り捌かれていった史実を淡々と述べているだけだ。時間に余裕のある人には、ぜひ覗いていただきたい一冊である。
「侵略」「侵掠」を本のタイトルに含むGHQ焚書
全GHQ焚書のうち、本のタイトルに「侵略」「侵掠」を含む書籍をリストアップすると以下のとおりである。
「〇△」欄の「〇」は、「国立国会図書館デジタルコレクション」でネット公開されている本で、「△」は「個人向けデジタル化資料送信サービス」の手続きをすることによって、ネットで読める本である。
これまではほとんどネット公開されていなかったが、「個人向けデジタル化資料送信サービス」の手続きをすることで、大半の本が読めるようになっている。
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