戦前戦中は支那の実態が詳しく報道されていた
前回に引き続き須藤理助の『満蒙は併合せよ : 附・南支問題の真相』の一部を紹介させていただく。
念のために書いておくが、当時の支那には多くの日本人が居住していて、大手新聞各社も特派員を派遣しており、支那で何か大きな出来事があれば内地の新聞に結構詳しく報道されていた。雑誌や本にも数多く記録が残されており、戦前戦中には大半の日本人が支那の実情を知っていたに違いないのだ。
ところが、戦後に入ってGHQが支那や満州に関する真実について詳述された書物を焚書処分し、マスコミや新聞では中国について都合の悪いことが書けないようにした。そのために戦後の大半の日本人にとっては、支那で起こった真実の歴史をほとんど知る機会がなく、マスコミや教科書で解説された内容を鵜呑みするしかない状態がかなり長い間続いたのである。
このブログで何度も書いているように、戦後の歴史叙述のなかで中国に関する部分の多くはこの国が当時世界に発したプロパガンダがそのまま使われており、真実が捻じ曲げられたまま修正されることもなく放置されている状態にある。戦後の通説と矛盾する情報は、戦前・戦中の新聞や書籍を調べれば誰でもいくらでも容易に発見することが出来る。
第一次南京事件は1927年(昭和二年)3月に、蒋介石の国民革命軍(南軍)が北伐の途上で南京を占領した際に一部の兵士が暴徒化し、日本・アメリカ・イギリスの領事官や外国系企業・大学や居留民を襲撃し暴行・掠奪を行い多くの死傷者が出た事件である。また革命軍はその際に南京在留の米英人を多数捕らえており、両国がその引き渡しを要求したが拒否されたことから、南京停泊中の米英艦は暴徒鎮圧のために艦砲射撃を開始し居留民の保護を行って、暴動を沈静化させている。
この第一次南京事件は教科書に載せるべき大事件だと思うのだが、教科書に載せられている「南京事件」については十年後の1937年に日本軍が多数の中国人を殺傷したなどと書かれているだけで、第一次南京事件については無かったような扱いになっているのはおかしなことだ。この事件はわが国の新聞に詳しく報じられており、写真や体験者の証言が多数残されているのだ。いずれこのブログで書く予定だが、1937年の「南京大虐殺」というのも支那のプロパガンダであり事実ではない。戦後の日本人には、「自虐史観」に矛盾する史実を学校が教えないだけでなく、マスコミが解説することも皆無と言って良い。
第一次南京事件で須藤も支那兵に襲われた
須藤理助はこの第一次南京事件が起こった日に、日本領事館の中にいて南軍の支那兵に襲われている。日本領事は北軍の敗残兵が暴虐を働くことを警戒していたのが、南軍が南京に入城して日本領事はこれで危機が去ったと判断してしまった。ところが、その油断がとんでもない結果をもたらしたのである。須藤はこの事件について以下のように記している。
昭和二年三月二十四日、夜も明け離れたばかりの朝まだき、千余名の南軍の歩兵は潮の如く押し寄せて帝国領事館を襲い、正門より乱入して一斉射撃を浴びせかけた。その直前まで領事館門の門前には二門の機関銃を据え付けて土嚢を築いて荒木大尉の率いる十一名の陸戦隊が守備していたのであるが、南軍入城の報伝わるや森岡領事は荒木大尉に要求して急遽、せっかくの防備を撤廃し、厳重に閉鎖されていた正門を開かせ日章旗を掲揚させたのであった。領事は南軍が入城したから安心だと思ったのである。
ところがとんでもないことである。一大事変は突発したのである。
折柄唯一の安全地帯と信じて避難していた百三十余名の居留民は安全地帯どころの沙汰ではない。所有の物は一品も残さず掠奪され、果ては着ている着物まで剝ぎ取られて丸裸にされ、殴打、侮辱等あらゆる暴虐を加えられ、その翌日僅かに身を以て軍艦に遁れ辛うじて生命を全うしたのである。
森岡領事は幾たびか射撃されたのであるが幸いに命中せず、身体に別条はなかったが、根本少佐及び木村領事館警察署長は重傷を被ったのである。
私は何を措いても御真影を護らねばならぬと思い二階を下りて御真影の蔵されてある金庫室に入った。射撃されたがあたらなかった。武器はない。空拳である。しかし、身に寸鉄を帯びずとも御真影は飽くまでも守らねばならぬと必死の覚悟を決めていると、暴兵のために銃の台尻で殴られ、着衣を剥ぎ取られて裸体にされた。彼らはハンマーを揮って金庫の半ばを破った。側面に穴があいて砂が出た。無知なる支那兵は砂が出ては駄目だと言って立ち去ったので御真影は幸いにして無事なるを得た。その翌日駆逐艦の艦長室に移して奉安したのであった。
須藤理助『満蒙は併合せよ : 附・南支問題の真相』忠誠堂 昭和7年刊 p.37~38
北軍の敗残兵による掠奪暴行が予想されたので三月二十二日に南京城内の婦女子を日本領事館に避難させていたのだが、南軍の支那兵に襲撃されてとんでもない事態となり、須藤自身も殴られ着衣を奪われてしまっている。
このような記録は多くの人が書いており、詳しい記録を知りたい方には、被害者の実話が纏められた『南京漢口事件真相 : 揚子江流域邦人遭難実記』(昭和二年刊)が、「国立国会図書館デジタルコレクション」でネット公開されているので南京の部分だけでも読むことをお勧めしたい。
なぜ荒木大尉は自殺したのか
ところが日本海軍は、日本領事館警備のために陸戦隊員を派遣を決定しており、自動車で南京城に入る時に北軍により小銃が全部没収されてしまったという。そのために、領事館を衛るための武器は、先発の自動車で運んだ機関銃一門と無線電信機ぐらいであったことが、先ほど紹介させていただいた『南京漢口事件真相 : 揚子江流域邦人遭難実記』のp.7に書かれている。しかも唯一の武器である機関銃を、南軍が南京に入城したという情報を聞いて安心した森岡領事が撤回してしまったために、悲劇が起きてしまった。続けて須藤は以下のように書いている。
領事館内は掠奪し尽くされて一物をも止めずただ残れるものはがらんとした建物と散乱したる紙屑のみ。日章旗は無残にも破り捨てられ、その代わりに青天白日旗が堂々と掲揚されたのであった。
この日領事館守備の任務に就いている荒木大尉の率いる水兵は、例の無抵抗主義を遵奉したのか、或いは衆寡敵せざるためであったか、この騒動を傍観して何らの手段をも取らなかったのである。避難民松崎菊江夫人が暴兵のため一室に引き行かるる際「今こうして連れて行かれます。どうぞ助けてください」と声を限りに裂帛の叫びを揚げたのであるが、水兵は自分等は無抵抗主義であるから仕方がないとの意味を答えて傍観していたとのことである。
荒木大尉は事件直後、日本海軍の威信と名誉を傷つけたることを恥じる胸の遺書をしたためて自殺したのであった。畏くも陛下の使臣の駐在せる治外法権の官衛、御真影を奉安せる帝国領事館をかくまでに蹂躙されたことは未曽有のことである。
かかる重大なる国辱を受けながら支那兵に一弾をも報いることが出来ず、しかもその善後処置に就いては、傷つけられたる国家の威信と名誉とを回復すべく当局は何ら積極的な手段を講じることを為さず、いたずらに曠日弥久、事件はうやむやの裡に葬り去られ、爾来数年、因果は廻る小車のやはり当時の当局によって本年五月、南京事件の賠償金は十ヶ月の月賦で支払いを受けることに決まったそうであるが、かような事件の賠償金を月賦などという馬鹿げたことがあるだろうか。かくして国辱南京事件の跡始末は煙のように消え失せたのである。受けたる国辱は雪がれたか、傷つけられた帝国の名誉は果たして回復されたか。
もしこの南京事件をその直後において適当に解決し、そうして帝国の威信を示しておいたならば恐らく今回の満州事変も起こらず、また未曽有の難局に立つこともなかったろうと思うのである。
同上書 p.39~41
確かに暴虐の限りを尽くした南軍兵に対して日本海軍の武器も兵数も乏し過ぎたのはそのとおりなのだが、須藤は海軍兵が戦うこともせずに日本居留民が掠奪され乱暴されるのを傍観したことを問題にしている。須藤は「例の無抵抗主義」という言葉を用いているが、当時のわが政府の外務大臣は幣原喜重郎で、政府は支那に対しては融和を唱えていた。この第一次南京事件の時に英米は蒋介石に対して最後通牒を突き止めることを決めて日本にも同調を求めたのだが、幣原は逆に英米大使を説得し断念させているのだ。海軍兵が動かなかったのも荒木大尉の自殺も、わが国の外交方針と無関係とは思えない。
支那を増長させた無抵抗主義
須藤は政府の弱腰の対支外交姿勢こそが、支那を増長させ、さらに事態を悪化させて支那各地で不祥事件が多発するようになり、ついには満州事変が起きたと書いている。
南京事件は排日思想、侮日思想の現われであること勿論であるが、政府の無抵抗主義が禍いして機宜の処置を誤り、未曽有の国辱を受けたるのみならず、善後処置を有耶無耶裡に葬り、国家の体面を蹂躙されたるまま放任した結果、支那をしていやが上にも増長せしめ軽日、侮日の使嗾は支那全土に漲り、済南事件をはじめ条約無視・暴動等々幾多の不祥事件が続発して大小三百二十余件に及んでいる。殆んど支那の為すがままに任せておいたと言っても可なりである。
日清戦争は三十年の昔である。支那を以て日清役当時の支那だと思ってはならぬ。乞食の子でも三年経てば三つになる。いくら支那でも三十年前の支那ではない。彼らの対日観も変化した。日本人は支那人をチャンコロと呼んでいるが、支那では日本人をチャンコロと呼んで軽蔑する。丸でアベコベだ。前述べた通り日本人は支那に対する知識が極めて貧弱である。政府当局ですら誤解している点が頗る多いのであって、これがために対策に違算を生ずるのである。官民ともにも少し支那を研究するの必要あることを痛感する。
何はともあれ、支那をして日本与しやすしと思わしめ、極度に侮日思想を増長せしめたのは対支外交の重大なる失敗である。
問題はとうとう来たるべきところに到着した。そうして満州事変となって現れた。国際連盟は持ち出された。馬占山軍との衝突となった。天津事件も起こった。彼らは満蒙の天地から日本の勢力を駆逐せんと企てたのである。否々支那全土から日本の全勢力を掃討せんとしているのである。
同上書 p41~42
支那を相手にこんな甘い対応をとれば、舐められて当然であろう。南京のあと漢口でも支那人に日本商店や在留日本人が襲われる事件(漢口事件)が起きている。その後も国民革命軍による北伐が継続しており、わが国は日本の権益と居留民の保護のため山東省に軍を派遣(第二次山東出兵)したのだが、翌昭和三年(1928年)五月に済南で南軍の支那兵と日本軍とが衝突し双方に多数の死傷者が出た(済南事件)。
この済南事件においても支那は、日本軍が大量の民間人を殺害したと世界に宣伝したのだが、欧米の新聞の大半が日本の出兵を正当防衛であると伝えたことを知るべきである。一部の記事を紹介させていただく。
「デイリー・テレグラフ」(五月五日)
日本は英国と同様干渉を避けんとしたるもその忍耐に限度あり、遂に今回の衝突となれり。日本軍の駐屯なかりせば日本人は一掃せられ、其山東における経済的地位は破滅に近づきたるなるべく、日本の行動は正当なりと言うべし…以下略「デイリー・ニュース」(十日)
日本の増兵は居留民保護に外ならざれば何人も之を非難し得ざるべく、其の領土的野心に至りては最近に於ける日本の対支行動の実際と経済上の理由に依る国民の平和的傾向とに照し信じ得ざる処なり。…以下略京津「タイムス」(十七日)
支那軍隊の不規律と国民政府の外人保護に関する声明の頼み難きは世界周知の事実なるを以て事件発生の責任が支那側にあるは明かなり。従て日本軍司令官の要求を大体に於て過当ならずと認むるものなり…以下略「セントラル・チャイナ・ポスト」(十五日)
支那側は政府に非ざる諸団体学生等が対日抗議の宣伝を繰返し居るが、斯の如きは国民政府の中央統一力を欠くる例証なり。名義丈にても政府なるものを有する限り国家の抗議を取扱うものは其の政府たらざるべからず…以下略
『神戸大学新聞記事文庫』外交92-52
この国は自分から悪事を仕掛けても、そのことを認めずに逆にお前が犯人だと世界に言いふらすようなことを平気でやる国だ。にもかかわらず、「支那を刺激するな」と国民に忍耐を求め続けた当時の外交姿勢は、今のわが国の政府とよく似ている。当時の新聞記事を調べると、政府の外交姿勢を批判する声が相当大きかったことがわかる。
須藤の指摘している通り、当初から英米のように毅然と対処していれば日支の問題がこんなにこじれることはなかったと思うのだが、その後も相変わらずわが政府における軟弱な対支外交姿勢は続いた。そして、とうとう満州事変が起きている。その点については次回に書くことと致したい。
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