GHQ焚書リストの中で支那大陸に住んで長い間活動をしていた人物の著作を探していたら、たまたま須藤理助の著書『満蒙は併合せよ: 附・南支問題の真相』という本が見つかった。
須藤理助は日露戦争の時に陸軍軍医中尉として支那に渡り、終戦後も何度も支那に渡って士官学校の教官役となったり、軍の参謀長として作戦行動を補佐したり軍医中将の待遇で支那から招かれたこともあり、晩年には南京の日本人居留民のまとめ役など異色な経歴の持ち主である。通算三十年以上支那で生活し、この本の大部分は支那及び支那人の分析なのだが、この本がなかなか面白いので一部を紹介させていただくこととしたい。
群雄割拠の支那
須藤理助は支那は統一国家ではなかったことを明快に述べている。松岡洋右の国連演説に於いても同様の主張がなされていたが、戦前の日本人は多くの知識人が語っていた支那の実態を、戦後の日本人のほとんどが知らされておらず、わが国が支那を侵略したかのように解説されることが大半だ。
支那以て秩序あり、統制ある一共和国と見るはとてつもない間違いである。なるほど蒋介石を首席とする南京政府は列国の承認を得ているには相違ない。しかしながらその号令の徹底する所は、わずかに揚子江の流域、江蘇、浙江、安徽、湖南、湖北、江西、河南の数省に過ぎない。廣東には汪兆銘あり、雲南、四川には呉佩孚あり、今は影が薄くなったがかの張学良は東四省に蟠踞してひとしく青天白日旗を掲揚しているが、内実は別である。要するに支那四百余州は全く群雄割拠の状態で、軍閥の私闘に寧日なき有様である。
而して彼ら軍閥は四億の蒼生の為に戦うのでもなく東洋平和の為に戦うのでもない。皆彼らの私腹を肥やさんがためである。故に支那には国軍と認むべき軍隊はない。ことごとく各軍閥の私兵である。
土匪、馬賊は隊伍を組み武器を携えて随所に出没して良民を虐殺したり、掠奪したり、傍若無人に横行しているのであるが、警察力微弱にして取締り行き届かず、絶対に治安が維持されていない。国民政府を相手として条約を締結しても支那全部と条約したことにはならない。おまけに支那の政治家は伝統的に狡獪不信であって、条約を無視することなどは普通のことと考え、国際正義の何物たるかを解しないのであるから、まるで破戸漢を相手とするようなものである。
須藤理助『満蒙は併合せよ : 附・南支問題の真相』忠誠堂 昭和7年刊 p.6~7
今のマスコミは中国にとって都合の悪い話は一切報じなくなっているが、須藤の支那観は今日にもある程度通用するのではないか。この国とどんな条約を結んでも、この国が条約内容を無視することは日常茶飯事である。
Wikipediaには1925年における主要な軍閥の勢力圏地図が紹介されているが、このようなバラバラの状態で各地で内戦が続いていた支那に国際連盟への参加資格が認められていたことに違和感を覚えるのは私ばかりではないだろう。
軍閥の正体
では支那の軍閥の正体はいかなるものであったのか。
支那には国軍と認むべき軍隊はない。皆軍閥の私兵である。従って国家的観念などは薬にもしたくも無いのである。ただ良民の膏血を絞ることを事としている泥棒の集団である。
然らばその軍閥なるものの正体は如何。曰く土匪の大なるものに外ならぬ。支那では出世の近道は泥棒になることだと考えられている。その実例を申し上げるならば、古くは清朝の祖先愛親覚羅氏も緑林の出身だと伝えられ、近くは張作霖、馬占山の如き、紛れない馬賊の出身である。
支那には国家的戦争がない。皆軍閥間の私闘である。
上海を経て揚子江を上る物資の関税は莫大なものであるが、大抵は軍閥の収入となるのである。その主なるものは阿片であるがそのコミッションだけでも数千万円に上るのである。由来阿片の輸入は国禁であって、医薬用として公然許されている数量はわずかに五千ポンドなるも、官憲が余得と称して収入していることは公然の秘密である。蒋介石はここ四ヶ年ばかりの間に約一億円の金を蓄え、全部欧米の大銀行へ預け入れて一朝亡命の際の用意をしているとのことである。
同上書 p.8~9
この当時の支那では一代知事級の大官を勤めれば三代遊んで食って行かれたそうだが、今の中国もよく似たもので、国家や地方政府収入のかなりの部分が各地の共産党幹部の個人の懐に入っているという話がネットなどで数多く紹介されている。
軍閥は自己の身辺には親族か同郷人のほか、他人を近づけない。殊に経理官などは自分の血族でなければ用いない。もし誰でも経理官にしたら金庫の金は何時の間にか空に帰する恐れがあるからである。
そうして多数の親族や同郷人を顧問という名称の下に自分の身辺に近づけて置くのであるが、これ等の顧問は何も仕事をしないのである。師団長は月給は少額でも実収は五千円くらいあるのである。その五千円何処から出るかと言えば、軍用の消耗品を押収するのである。兵隊の被服費も横領する。馬糧も横領する。砲車油も横領する。そうして私腹を肥やすのである。日本人なら途方もないと思うは勿論だが、支那では当りまえだと思惟されているのである。
支那には恩給年金の制度も遺族扶助料の制度もないのであるから、一朝罷免されたら翌日から乞食にならねばならぬ。それゆえ横領も収賄も普通のこととされている。
同上書 p.10~11
幹部が私腹を肥やすことばかり考えていた軍隊で、兵士が命がけで戦うとは思えない。実際に、いくら人数が多くても、逃げようとする兵士が多かった。
支那兵のレベル
支那の軍隊はことごとく軍閥の私兵であり、日本軍の軍隊とは全く異なっているという。ではどのような点が異なっているのか。
わが国の軍隊は皆忠君愛国の義務兵であるが、支那の兵隊は給金目当ての傭兵である。ルンペンが鉄砲を担いでいるのだと思えば間違いはない。
支那には徴兵は行われない。今からちょうど十九年前、徴兵令を施行したことがあるが実行不可能で、再び元の傭兵制度に逆戻りしたのである。支那では善良なる人は兵隊にならない。「良い鉄は釘に作らない。良い人は兵隊にならない」と言っている。日本では兵隊になることは名誉であるが支那では兵隊になったら仕舞いで世間の信用を失ってしまうのである。さて何故に支那では徴兵が行われないか――それには種々の原因があるがその主なる原因は戸籍のないことである。偉い国もあったもので事実戸籍がないのであるから適齢になってもそれを証明する帳簿がない。第一回の時、二十歳になった男子は徴兵に取るから適当に執行せよと各県知事に向かって命令を発したが肝腎の戸籍がないので県知事も始末に困り、善い加減なものを集めたので十五ぐらいの少年もあれば五十以上の老齢者もあるというような有様で結局失敗に終わったのである。
同上書 p.12~13
国軍が存在しないのであれば、強制的に兵士を集めることは不可能であり、お金で兵士を集めるしかないことは言うまでもないが、いったい支那ではどのような方法での傭兵制度はいかなるものであったのか。
私が支那の師団長当時の募兵の実情はこうである。まず募兵係り――多くは中隊長が――ルンペン街か貧民部落、さては疲弊した農村へ出張して募兵の旗をたてるのである。そうして集まって来たところの志願者を検査するのであるが、その検査なるものが頗る振るっている。検査場には予め五十斤か百斤位の石を数個置いてそれを扛げるだけの力量のあるものは早速合格である。元来検査官が医者ではないのであるから健康診断などは出来るわけがない。体重にも構わない、身長にも構わない、年齢の制限もない。私は医師であるからかくして募集した兵員一万ら対して厳格なる検査を行い、その統計表を作って陸軍の医務局に出しておいたが、それによると視力極めて微弱なもの、手の指が四本しかないもの、甚だしきは白内障や聾もあった。それが立派に合格しているのだから驚かざるを得ない。然しそれのみではない。年齢の制限がないから十五ぐらいの少年もあれば五十ぐらいの親爺もあり、親子で応募したものもるという有様で、一見噴き出したくなるほどの珍風景である。
さてかくして引っ張って来た新兵に各個教練を教え実弾射撃が出来るようになれば、もう一人前の兵隊さんなのである。
同上書 p.13~14
こんな集め方をして、レベルの高い兵隊が集まるはずがなく、ほとんどが無学で文字を読むる者はほとんどいなかったという。また給金が安く、食費を差し引かれるのでわずかしか残らず、食事もお粗末なものであったそうだ。支那兵に悪事はつきもので、物を買っても代金は支払わず、戦争に際して民家に押し入り掠奪するものはいくらでもいたというのだが、では彼らはいざ戦争となった場合はどんな有様であったのか。
出動となれば師団長に向かって出発手当を要求する。そこで出発手当なるものを出す。それでもなお出発しない。それで金が足りないといって出発手当の増金を要求する。また増金を出す。それでもまた動かない。弾丸を要求する。そこで弾丸を与える。やっと出動するというような調子であるから電光石火の行動などは思いも寄らないことである。
何のために戦うのであるかを知らないような低級な兵隊であるから、彼らが主として考えるのは危うきに臨んで逃げることである。こんな兵隊を戦線に立たせるのであるから、監視隊と称する日本人の頭ではちょっと想像しかねるような部隊があって戦況を監視し、機関銃を味方の方へ向けておいて、逃げるものは殺すぞと威嚇する。この監視隊は二個中隊くらいで二万余の軍隊を監視するのである。今回の事変で馬占山軍が味方を五百名も殺したと伝えられているが、これは監視隊のやった仕事であることは言うまでもない。
支那の軍隊は中央を突破されるとひとたまりもなく総崩れとなって潰乱する。これは支那軍の最大弱点である。
同上書 p.18~19
ここでは「監視隊」という言葉が用いられているが、「督戦隊」という言葉のほうが良く用いられていたと思われる。第一線で戦っている兵士たちの後ろで、鉄砲を構えた督戦隊が控えていて、もし第一線の兵士が退却したりすると督戦隊がどんどん鉄砲を撃って兵士たちを戦線へ追い返していたのである。もし逃げようとすれば督戦隊に殺されることを覚悟しなければならなかった。
支那の軍隊の事情に精通すれば、大軍と戦う際には先に督戦隊を片付けてから中央突破を図れば、第一線の兵隊は戦わして逃亡し、少数の兵で支那兵の大軍を撃破したという。
一九三七年(昭和12年)十二月十二日の南京戦では中国国民政府軍の潰走兵と督戦隊との銃撃戦となり大量の中国軍兵士の死体が残されていたのだが、わが国の教科書などでは日本軍が支那の一般大衆を殺傷して国際的非難を受けたと記されていることが多いが、当時の記録や写真を見れば、そのような史実はなかったことは誰でもわかる。この点についてはこれまでこのブログで書いたことがあるが、南京戦についてはいずれこのブログで時系列にまとめることと致したい。
このブログで何度も書いてきた通り、中国が世界に発信した内容の多くは嘘であり、この国が声高に主張する歴史叙述を鵜呑みにすることは危険である。マスコミの解説やテレビに出てくるようなコメンテーターが中国に都合の悪いことを一切言わないことは、今では多くの読者が気が付いていると思うのだが、過去の歴史についても同様で、中国にとって都合の良い歴史が解説されるだけで、その内容の多くは真実ではないことを知るべきである。今はネットで当時の記録などに容易にアクセス出来るので、納得できない話は国立国会図書館デジタルコレクションや神戸大学新聞記事文庫などで調べてみることをお薦めしたい。
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