外交官として最初の勤務地でロシア革命に接した芦田均の記録
前回の記事で、ロシアの人口ピラミッドを観察すると、ロシア革命以前に生まれた男性が女性よりも異常に少なく、革命後の内戦や処刑によって15百万人を上回る男性が犠牲になったことが読みとれることを書いた。
ロシアは第一次世界大戦で170万人の死者が出たとされるのだが、その8倍以上の犠牲者がロシア革命が起きた1917年以降に発生しているのなら、もっと具体的な記録が残されているのではないかとネットで探してみた。
外交官として1914年から1918年までサンクトペテルブルクに駐在していた芦田均(第47代総理大臣)が、白雲楼学人というペンネームで大正13年(1924年)に著した『怪傑レーニン』という本が『国立国会図書館デジタルコレクション』に公開されている。その一節を紹介したい。
…ロシアの革命は歴史あって以来最も深刻な広汎な革命であっただけに、その恐怖主義の犠牲も莫大な数に上った。現代の人心は欧州戦争の凄惨な歴史に慣れてロシア革命の流血を過少に見積もる傾向があるけれども、後世の史家は必ずこれに公平な裁断を下すであろう。
(中略)
ボリシェビキ*のテロリズムは1917年11月に無産者の執権が始まると同時に開始せられた。当初その手段は何等の組織なき方法に依ったものであったが、ほどなく「チエカー**」と称する特別の機関を設けて革命擁護のために殺戮を開始した。このチエカーは1917年10月ケレンスキーの末期に創設せられたもので『反革命者及び投機者殲滅のためにする全ロ特別委員会』なる名称をもっている。ボリシェビキはこの機関を継承して、専ら恐怖主義の実行機関とした。
1917年11月以降レーニン政府は中央政府及び地方に於て無数の命令を発し、その違反者に厳重なる処罰を加える旨を交付した。チエカーの活動はそれ以来の事である。テロリズムの初期に犠牲になったのは将校及び士官生徒ならびに有識階級の人々であった。その後犠牲者の種類は次第に変化して、農民、雇用人労働者等の中で共産政府の施政に不満な者がチエカーの迫害を受けるようになった。僧侶の多数が投獄せられ又は死刑に処せられたのは今尚耳に新しい事実である。この時代に入っては老幼男女の区別なく恐怖主義の犠牲になった。その中にはソヴィエトの禁制を犯して物品の売買を行った程度の犯人をも含んでいる。
革命以来、内乱による殺傷の数を別として果たして幾何の人間がテロリズムの犠牲に倒れたであろうか。その正確な数字は固より知ることが困難であるが、大体の標準としてロシア赤十字社の役員ロヂヂエンスキーの見積もりを引用する。その言によれば1922年まで5ヵ年間にテロリズムの犠牲となって死んだものは約百万人であるという。
(『怪傑レーニン』p.88-90)
*ボリシェビキ:暴力革命を主張し、ロシア革命後少数ながら要職を握った。のちのソ連共産党。
**チエカー: レーニンによって設立された秘密警察組織の通称で「チェーカー」と表記されることが多い。1922年にGPU(ゲーペーウー=国家政治保安部)と改名し、スターリンの死後はKGBとして存続した。
チェーカーに怖ろしい権限が与えられた経緯
1917年の10月革命以降、官僚によるゼネラル・ストライキが拡大し、そのストライキの拡大を抑えるためにチェーカーが設立され、裁判所の決定無しに即座に容疑者を逮捕、投獄、処刑を行う権限が与えられたというのだが、この組織がロシア人の大量虐殺に大きく関与することとなったのである。
メンバーの判断で逮捕から処刑ができる怖ろしい権限をチェーカーに与えることになった背景について、1997年にフランスで出版された『共産主義国書《ソ連篇》』にはこう記されている。
ボリシェヴィキの指導者の一人であるグリゴーリー・ジノヴィエフは、1918年9月にこう断言している。「我々の敵を滅ぼすには、我々は自身の社会主義的テロルを持たなければならない。我々はソビエト・ロシアの一億の住民中、そう、九千万を我々の側に引き込まなければならない。その他の者については、何も言うことはない。彼らはすべて殲滅されるべきである。」
9月5日、ソビエトは有名な「赤色テロルについて」という政令によってテロルを合法化した。「現在の状況からしてチェーカーを強化し、階級の敵を強制収容所に隔離することでソビエト共和国を守り、自衛軍や陰謀や蜂起や暴動と関係のあるすべての個人を即座に銃殺し、彼らが銃殺された理由を添えて処刑された者の氏名を公表することが絶対に必要である(『イズヴェスチア* 1918.9.10』)」
(ステファヌ・クルトワ、ニコラ・ヴェルト著、外川継男訳『共産主義国書《ソ連篇》』恵雅堂出版p.84-85)*ちくま学芸文庫版あり
*イズヴェスチア:1917年3月にペトログラード労働者の新聞として創刊され、同年10月には労兵ソビエト中央執行委員会の機関誌となり、のちにソ連政府の公式の新聞となった。
このような考え方に立って、多くの国民が強制収容所に送致されたり処刑されるなどしたのだが、捕まえた人間をどう扱うかを決めるのはそれぞれのチェーカーの判断に委ねられていたのだからたまらない。
財産のすべてが狙われたブルジョワジー
チェーカーの中心勢力はボリシェヴィキであり共産主義者である。彼らは階級としてのブルジョアジーを絶滅させることを是とし、積極的に富裕な人々の財産を狙いにかかったのである。
同上書に1919年5月13日付の新聞『イズヴェスチア』*の記事が出ている。
労働者ソビエトの決議にしたがって、本5月13日をブルジョアジーの財産接収の日と公布する。有産階級は食品、履物、衣服、宝石、自転車、毛布、敷布、銀製食器、食器、その他勤労人民に不可欠な品を、一覧表に詳細に書き込まなければならない。…各自はこの重要な仕事において、接収委員会を補佐しなければならない。…接収委員会の命令に従わないも者は、ただちに逮捕されよう。抵抗する者は、即時射殺されよう。
(同上書 p.113-114)
彼らが接収した財産は、富裕な人々の自宅も対象にされたのだが、かれらが接収した物品はどのように扱われたかが興味深い。
ウクライナのチェーカーの長官ラツィスが、地方チェーカーへの回状の中で認めているように、これらの「接収物」はすべてチェーカー隊員や、この様な場合に無数に増える赤衛軍の徴発隊や接収隊の多くの分遣隊の下級隊長の懐に納まったのであった。
(同上書p.114)
富裕な人々はブルジョワジー階級という理由ですべての財産が奪われて捕らえられ、その上チェーカーの部隊や赤衛軍の兵舎や便所の掃除にこき使われ、女性は強姦されたとの証言が数多く残されているようだが、そこまでされた上に最後には多くが処刑されたというからひどい話である。
1920年11月にはブルジョアジー虐殺が最高潮に達し、11月半ばから12月末までの数週間におよそ5万人が銃殺されたという。当然のことながら富裕者たちは安全な場所に避難しようとした。すると当局は、彼らが避難して潜んでいると考えてクリミア (クリム半島) の主要都市の人口調査を始めたという。
12月6日、レーニンはモスクワで責任者を前にして、クリミアには30万のブルジョアが集結していると言明した。彼はこれら「いつでも資本主義の手助けをしようと構えているスパイ」の「輩」は、近い将来「処罰」されるだろうと断言した。
(同上書p.115)
その結果、多くの「ブルジョアジー」が処刑されたことはいうまでもない。
1921年に亡命者の新聞に載った数少ない生存者は、最も厳しい弾圧を受けたセヴァストーポリは「首吊りの町」のようだったと証言している。「ナヒーモフスキ街は見渡すかぎり士官、兵士、それに町で逮捕された者の死体でいっぱいだった…町は死んでいた。住民は地下の穴倉や屋根裏部屋に隠れていた。すべての塀、家の壁、電柱、店のウインドーには『裏切者は殺せ!』と書いた紙がはられてあった…見せしめのために街頭で絞殺刑が行われた」
(同上書p.116)
大飢饉が教会財産を奪うチャンスであると考えたレーニン
たまたま1920年の穀物生産は不作な上に多くの食糧が徴発され、翌年の種籾までもが押収され、1921年1月以降農民は食べるものがなくなり死亡率が上昇した。各地で一揆や反乱が起き、1921年は日照りも少なかったことから大凶作となった。食糧が大幅に不足し、各地が飢饉に見舞われることになるのである。
アメリカや赤十字などの国際的救援も受けたのだが、29百万人が飢餓に瀕し、1921~1922年に約5百万人が餓死したという。
レーニンはこの機会をどう捉えたかがわかる文章が同上書に引用されている。この文章はロシア現代史文書保存研究センターに残されているものである。
…飢えた人々が人肉を食らい、道に何十、何百という死体が転がっている今こそ、この瞬間だけが、容赦ない力で教会財産を没収することが出来る(したがって没収すべき)チャンスなのだ。…かくて我々は何億金ルーブルもの宝を手に入れることが出来るのだ(あのいくつかの修道院の豊かさを想像したまえ!)この宝なしに、我々の国家活動全般も、とりわけ経済建設も、我々の立場の防御も考えられない。…わたしは断固結論する。黒百人組の聖職者どもを容赦なく、徹底的に、今後何十年間も思い出すほどのきびしさをもって粉砕するのはいまなのだ。
(同上書p.134-135)
教会財産の没収は1922年3~5月に最高潮に達し、教会側の資料では2691人の司祭、1962人の修道僧、3447人の修道女が殺害されたという。
Wikipediaにも解説がでているが、世界遺産となっているソロヴェツキー諸島の修道院群は強制収容所に転用されたのである。
ここまでレーニン時代における虐殺や文化破壊の事例をいくつか紹介させていただいたが、スターリンの時代も同様であった。この点については別の機会に書くことにしたい。
共産主義国の犯罪に一切触れないわが国の教科書
ソ連に限らず共産主義国家は、どこの国においても革命後の内戦で多くの自国民を殺害し、文化を破壊したのだが、教科書などの歴史叙述やマスコミの解説ではそのような共産主義国家の負の側面について、戦後のわが国では全く触れられることがない。
たとえば手元にある標準的な世界史の教科書には、レーニンの時代をこう記している。
干渉戦争と内戦のあいだ、ソヴィエト政府は危機をのりこえるため戦時共産主義を実施した。工場では中小企業まで国有化され、商業も停止、穀物は農民から強制徴発して都市に供給された。しかし農民がこれに反発し、経済状態が極めて悪くなったので、1921年レーニンは新経済政策(ネップ)を採用し、中小企業や国内商業に資本主義の復活を許し、穀物徴発をやめて農民に現物税導入後、農産物の自由売買を認めた。こうして経済は安定にむかい、27年に生産はほぼ戦前の水準にもどった。
(『もういちど読む 山川世界史』p.234)
「戦時共産主義を実施した」という文章を読んで、大量の国民が虐殺されたり処刑されたりしたと理解することは到底不可能である。冒頭に記したように、第一次世界大戦における死者の8倍以上の人々がロシア革命後に命を奪われたという史実について一言も書かれていない教科書が、今も用いられていることに違和感を覚えるのは私ばかりではないだろう。日本史の教科書におかしな記述が多いことは別のブログなどに書いてきたが、世界史の教科書においても同様なのである。
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ブログ活動10年目の節目に当たり、前ブログ(『しばやんの日々』)で書き溜めてきたテーマをもとに、今年の4月に初めての著書である『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を出版しています。通説ではほとんど無視されていますが、キリスト教伝来以降ポルトガルやスペインがわが国を植民地にする意志を持っていたことは当時の記録を読めば明らかです。キリスト教が広められるとともに多くの寺や神社が破壊され、多くの日本人が海外に奴隷に売られ、長崎などの日本の領土がイエズス会などに奪われていったのですが、当時の為政者たちはいかにして西洋の侵略からわが国を守ろうとしたのかという視点で、鉄砲伝来から鎖国に至るまでの約100年の歴史をまとめた内容になっています。読んで頂ければ通説が何を隠そうとしているのかがお分かりになると思います。興味のある方は是非ご一読ください。
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