幕府が条約港を神奈川から横浜に変更した経緯
安政五年(1858年)に江戸幕府がアメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスと相次いで結んだ安政の五カ国条約によって、まず神奈川、長崎、箱館の三港が安政六年(1859年)六月から貿易港として開かれることとなった。アメリカ、イギリス、フランスの三国は各々その外交官を任命して江戸に派遣し、オランダは長崎、ロシアは箱館に本拠を置いた。
しかし江戸幕府は、条約で取り決めた神奈川ではなく、なぜか横浜を開港しようとしたのだが、その経緯について清沢洌 著『日本外交史. 上巻』にはこう解説されている。
江戸に外国人が来ることが攘夷熱を煽らずにおかないであろうことを幕府は無論知っていた。だからこそ外国使臣の江戸駐剳(ちゅうさつ:駐在)を数ヶ年延期せしめんとしたのである。そのことが不可能であると知った幕府が、次に決めたことは神奈川に代わって横浜を開港することであった。神奈川は東海道の要路で、ここに外人が居るとなると衝突紛争の起こるのは必至だ。そこで本道を横に避けた横浜村に波止場、運上所(税関)、店舗、奉行所を築造した。外国使臣から観ると、これは長崎の出島と同じような外人離隔主義である。ハリスとオールコック(イギリス)はこれに対して特に強く抗議したが、幕府は横浜も神奈川の一部であるとて譲らない。この交渉は長い間結んで解けなかったが、横浜が自然の良港であったので、外国使臣の干渉にもかかわらず、外商が横浜に移住して、問題は事実によって解決してしまった。ただ米国のハリスが最後まで頑張って、帰国まで神奈川本覚寺を領事館として撤しなかったのは、米国の伝統たる条約尊重説がこの時既に現れているのを観るべきだ。
こうした幕府の努力も滔々として襲来して来た攘夷熱を阻止することは出来なかった。五カ国条約の調印から引き続いての執行過程は、必然に攘夷混乱時代を誘致した。幕末史はここに開国から混乱へと突入するのである。
(清沢洌 著『日本外交史. 上巻』昭和17年刊 東洋経済新報社p.89~90)
日本を開国し外国人の居住が始まったことに対する国内の反発は、幕府が想定した以上に拡大していったのだが、その震源地はどこにあったのだろうか。
徳川斉昭ら蟄居・謹慎処分後の水戸藩の動き
前回の歴史ノートの記事で、将軍継嗣問題で徳川慶福を推す南紀派と一橋慶喜を推す一橋派が対立していて、南紀派の井伊大老は安政五年六月二十五日(1858/8/4)に徳川慶福を次期将軍と決定したのち、七月一日(8/9)に一橋派の徳川斉昭(前水戸藩主)に蟄居、松平慶永(越前藩主)・徳川慶恕(尾張藩主)に隠居謹慎、徳川慶篤(水戸藩主)、一橋慶喜(徳川斉昭の七男)にに登城禁止の処罰を行ったことを書いた。
その後一橋派はこの局面を打開するために、条約違勅問題で朝廷を巻き込みながら井伊大老に圧力をかけて大老の辞任に追い込むか、一橋派の処分を撤回させようと動いたのである。
徳川斉昭は謹慎中の身でありながら、秘かに京都と文書を往復させていたため、幕府は水戸藩の動きを非常に警戒し、斉昭の謹慎を取り締まるために水戸藩駒込邸の巡視を強化するとともに水戸藩士の行動をも取締らせている。
幕府と水戸藩との間には次第に不穏な空気が流れるようになり、井伊大老は南紀派の彦根藩邸や高松藩邸の守衛の人数を増員し、一方水戸藩の駒込邸は、水戸藩士たちが決死の覚悟で防備に就き、徳川斉昭らを護っていた。
戊午の密勅
また孝明天皇は、幕府が勅許を得ずに条約締結を断行したことに強い不快感を抱き、御三家の誰かを上京し報告させる旨命じていたのだが、幕府からようやく答申があり、九月に老中の間部詮勝(まなべ あきかつ)を上京させるとの返事があった。
その間に一橋派で攘夷派の梅田雲浜、梁川星巌、西郷隆盛らは公卿に働きかけ、安政五年八月八日(1858/9/14)に一連の幕府の政策について天皇が不満である旨の勅諚(「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」)を水戸藩に下させることに成功したのである。「密勅」と呼ぶのは、朝廷の最高責任者で幕府との協調路線を推進してきた関白・九条尚忠を経ずに下賜されたことによる。
密勅の原文はWikipediaに出ているが、内容を要約すると
・無勅許で安政五カ国条約を締結したことの説明の要求。
・御三家及び諸藩は幕府に協力して公武合体の実を成し、幕政を改革して外国から侮りを受けないようにせよ。
というものだが、最大の問題は将軍の臣下である水戸藩へ朝廷から直接勅書が渡され、水戸藩から諸藩へ密勅の写しを回送する指示が出されている点にある。
この密勅は幕府にも届いたのだが、幕府ではなく水戸藩あてに密勅が出されたことの幕府の衝撃は大きかった。
井伊大老による情報収集と「安政の大獄」のはじまり
一方京都では、幕府寄りの関白・九条尚忠を排斥する動きが出てきたのだが、井伊大老は老中・間部詮勝が条約締結の経緯を朝廷に説明し条約の勅許を願いに行く予定があり、それまでに、なんとしてでも関白の辞職を阻止するよう努めさせた。しかしながら関白・九条尚忠は九月三日(10/9)に辞職させられてしまったのである。
水戸藩への密勅の降下と、九条関白の辞職は、幕府にとって由々しき事態であったことは言うまでもない。井伊大老は幕府権力の回復を目指すために京都所司代に小浜藩主の酒井忠義を送り込み、さらに老中・間部詮勝の上京を急がせ、詮勝は九月三日(10/9)に江戸を出発した。
井伊直弼は京都の動きの原因についてどのような分析をしていたのであろうか。『概観維新史』にはこう記されている。
かくて京都の形勢が頓に(とにに:急に)幕府に不利となったのを見て直弼はすこぶる斉昭を疑い、この禍源は水戸藩に在りとの念を抱くに至った。
初め井伊大老の京都に対する政策は、志士の運動を拘束して、強硬な朝臣の羽翼を殺(そ)ぎ、以て水戸の陰謀を挫こうとしたのであって、必ずしも累を朝臣に及ぼすことを欲しなかったことは文献にも見えているところである。しかるに九条家家士島田左近と、直弼の腹心長野主膳とが通謀して、一橋派に傾いた宮・堂上の動静、諸士・浪士などの行動を偵察し、これを誇張潤色した報道と、紀州候の附家水野忠央・徒頭薬師寺元真など南紀派の放った密偵の探索書とが、ことごとく大老の耳目に入り、大老は遂にこれを確信するに至った。
ついで鵜飼吉左エ門の密書が幕府の手に入るに及んで、大老は水戸・薩州・福井等諸藩の志士の中には、大老暗殺・挙兵などの計画あるを知った。
(『概観維新史』維新史料編纂事務局 昭和15年刊 p.269~270)
井伊直弼の命により京都工作のために派遣されていた長野主膳は、戊午の密勅を察知することには失敗したが、それ以降「悪逆の徒」の根絶をはかろうと情報を集めていた。京都における志士の逮捕は長野の献策に基づき行われ、多くの志士達やその支援者が処分されている。世にいう「安政の大獄」である。
酒井忠義が京都に着いたのは九月三日(10/9)で、長野主膳の策を入れて、五日(10/11)にまず近藤茂左衛門を捕らえ、七日(10/13)には儒学者の梅田雲浜を捕らえている。
老中間部詮勝は九月十七日(10/23)に京都に入っているが、勤皇派弾圧の密命を帯びていた間部は京都に派遣されていた長野主膳からの献策を受け入れ、翌日に水戸藩士の鵜飼吉左エ門を捕縛している。この人物から送られた二通の密書が押収されたのだが、この密書の内容と主膳の行動が『維新史 第二巻』に出ている。
密書の内容は、勅諚降下の事情と切迫せる京情とを報じたもので、特に西郷吉兵衛(のちの西郷隆盛)の談話として、薩・長・土三藩は多数の兵を待機させているから、万一詮勝にして武力を以て朝廷に迫るが如き不逞を敢えてなすにおいては、三藩の兵力を以てこれを粉砕すべしとて「カンボウ(間部詮勝)位者一時打払、直チニ澤山城(佐和山城)ヘ押懸ケ、一戦ニ踏潰可申」と記している。
これを入手せる幕吏側の驚愕と周章とは甚だしかった。
主膳は直ちに薩・長・土三藩の蔵屋敷に秘かに与力・同心を派して偵察せしめ、また西郷筋へも隠密を潜入せしめて調査せしめたが、結局その事実なきことが判明して安堵し、鵜飼父子逮捕のことを深く喜んで…国許家老に報じている。
(『維新史. 第2巻』維新史料編纂事務局 p.565~566)
主膳はさらに公家諸大夫中の最有力人物である小林民部権大輔を捕縛したほか数名の公家を相次いで捕縛した。そのため強硬派公家の意気は消沈し、九条関白を復職せしめ、さらに将軍宣下も奏請した。
京都に集まっていた攘夷派の志士たちは、幕府による弾圧がはじまったのち次々に京都を脱出していったという。清水寺成就院の住職である月照は、西郷隆盛、有村俊斎とともに、下関の豪商で勤王派のスポンサーであった白石正一郎宅に身を隠したが、その後十一月十五日の夜に西郷とともに薩摩湾に身を投じ月照は死んだが、西郷は運よく蘇生した。
橋本左内と吉田松陰の処刑
「安政の大獄」で捕縛されたのは京都だけではなく江戸でも激しく行われ、江戸の事情を京都の志士に通報していた者が捕まると、多数の関係書類が押収されてその結果一味の行動も暴露され、捕縛される者はさらに拡大していった。
弾圧されたのは攘夷派ばかりではなく、開国派で有名な越前福井藩士の橋本左内も、二十五歳という若さで処刑されている。
彼は十五歳の時に『啓発録』を著し、翌年には緒方洪庵の門に入り、二十三歳の時に藩校の明道館の蘭学掛となり、主君の松平春嶽に抜擢されて藩政改革にも携わっていた。
彼は幕藩体制を超えた統一国家の構想をもち、殖産興業を踏まえた積極的な開国貿易論を提唱していたが、将軍継嗣問題で一橋派であった主君の松平春嶽が隠居謹慎を命じられると、左内も謹慎を命じられている。そして取調べの際に「私心でやったのではなく藩主の命令である」と主張したことが井伊の癪に障ったらしく、安政六年十月七日(1859/11/1)に伝馬町牢屋敷で斬首されてしまった。
吉田松陰については以前このブログで、嘉永七年にペリーが日米和親条約締結のために再航した際、小舟で旗艦ポーハタン号に漕ぎ寄せたが渡航が拒否され、下田奉行所に自首した話を書いた。
その後松陰は、伝馬町牢屋敷に投獄されたのち国許蟄居となり、長州へ檻送されたあとに野山獄に幽囚されたが、安政二年(1855年)に出獄を許されて杉家に幽閉の処分となっている。
安政四年(1857年)に杉家の敷地に松下村塾を開塾することを許され、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋らの弟子を指導した。
そして安政五年(1858年)、松陰は幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことに激怒し、老中間部詮勝が孝明天皇に条約勅許を得るために上京する機会をとらえて条約破棄と攘夷の実行を迫り、それが受け入れられなければ間部を討ち取ることを企て、そのための大砲などの武器弾薬の借用を藩に願い出たりしたことから長州藩から危険視され、再度野山獄に幽囚されている。
ところが松陰は、幽囚の身でありながら、長州藩主・毛利敬親が参勤交代で伏見を通過する際に、藩主を説得して孝明天皇に幕府の失政を追及してもらうよう嘆願させようとした。
安政六年(1859年)に梅田雲浜が幕府に捕縛されると、雲浜との交友関係から吉田松陰が捕縛され、松陰は評定所で老中暗殺計画を告白したため斬首が宣告され、安政六年十月二十七日(1859/11/21) 伝馬町牢屋敷にて、享年三十歳の若さで没している。
安政の大獄で弾圧された多くは尊攘派や一橋派の大名・公卿・志士らで、連座したものは百人以上にもなるという。幕閣にも処分が及んでおり、安政の五カ国条約の交渉で活躍した川路聖謨や岩瀬忠震ら開明派の優秀な幕臣が謹慎などの処分を受けている。
尊攘派、一橋派だけでなく幕府の貴重な人材をも失い、諸藩の幕府への信頼を大きく低下させ、尊皇攘夷活動はむしろ激化してしまった。この弾圧は万延元年三月三日(1860/3/24)に井伊大老が桜田門外で暗殺されてようやく終息したのだが、この弾圧で井伊直弼は、自らの寿命だけでなく幕府の寿命をも縮めることになってしまったのではないだろうか。
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ブログ活動10年目の節目に当たり、前ブログ(『しばやんの日々』)で書き溜めてきたテーマをもとに、2019年4月に初めての著書である『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を出版しています。
通説ではほとんど無視されていますが、キリスト教伝来以降ポルトガルやスペインがわが国を植民地にする意志を持っていたことは当時の記録を読めば明らかです。キリスト教が広められるとともに多くの寺や神社が破壊され、多くの日本人が海外に奴隷に売られ、長崎などの日本の領土がイエズス会などに奪われていったのですが、当時の為政者たちはいかにして西洋の侵略からわが国を守ろうとしたのかという視点で、鉄砲伝来から鎖国に至るまでの約100年の歴史をまとめた内容になっています。
読んで頂ければ通説が何を隠そうとしているのかがお分かりになると思います。興味のある方は是非ご一読ください。
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