ハリスが下田に来航後、なかなか通商条約談判を行うことが出来なかった経緯

開国前後

当初ハリスが下田に領事として駐在することを認められなかったのはなぜか

 わが国はアメリカ、イギリス、ロシア、オランダの四カ国と相次いで和親条約を締結したが、安政三年七月二十一日(1856/08/21)には、アメリカからタウンゼント・ハリスが米艦サン・ゼシント号に乗って下田に来航している。

タウンゼント・ハリス

 ハリスは、前年にフランクリン・ピアース大統領から初代駐日領事に任命され、さらに日本との通商条約締結のための全権委任を与えられて、ヨーロッパからインド、香港を経由して日本にやって来たのである。彼と共に来着したのはオランダ生まれで米国に帰化した通訳官ヒュースケンだけだったという。

 ペリーの二度目の来航時に『日米和親条約』を締結したのは嘉永七年三月三日(1854/3/31)なのだが、そのわずか二年五か月後に、なぜハリスが通商条約交渉の任務を帯びて来日することになったのか。アメリカ側の事情について清沢洌 著『日本外交史. 上巻』にはこう記されている。

 ペリーが日本との条約を締結したことが伝えられると、米国の起業家たちは通商のために来航することが二、三にして止まらなかったが、いずれも通商も居住も拒絶された。この結果、米国に於いては、ペリーの日米条約の不備を嗤(わら)う者や、ペリーが虚勢を張ったことを非難する者も出て来た。そこで米国政府は、ペリー条約が単にいわゆる修交の条約で、通商に関する規定を欠いているいることに想い及んで、至急にこれを改定する必要を感じ、ハリスを派遣するに及んだのだ。

(清沢洌 著『日本外交史. 上巻』東洋経済新報社 昭和17年刊)
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 ハリスが下田奉行に提出した書状には、彼が駐日領事の任命を受けて下田に派遣されたことが明記されていた。ところが、下田奉行は『日米和親条約』を理由に領事が下田に駐在することを認めなかったのである。

 その理由は、このブログで何度か書いたが、本条約の第十一条において和文と英文で領事を置くことのできる条件が異なっていたのである。

 わかりやすく言うと、和文では、条約調印後十八ヵ月後に、両国政府が必要と認めた場合は、米国政府は下田に領事を置くことが出来るとあるのだが、英文では、両国政府のいずれかが必要とみなす場合に領事を置くことが出来ると書かれていた

 徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第35 公武合体篇』に、最初に下田奉行所の役人と会見した日のことがハリスの日記の一節が引用されているので紹介したい。ちなみに当時の下田は、1854年の安政東海地震の津波被害で荒廃していた時期であった。

 予の会見は、長くかつ好結果ではなかった。彼らは領事館の渡来を期待していなかった。領事館は或る難題が発生したる場合に派遣せらるべきもの。而して今やさる難題は一もない。下田は貧弱の地。しかも地震の禍を被りている。領事館の居住すべき家はない。さればひとまず帰国し、一年後にも再渡したらば居住すべき家もできるであろう。かつ条約面によれば、もし双方の国民がこれを欲求すれば、領事館を渡来せしむべしとありて、合衆国政府単独の意思に一任したるものではない

(徳富蘇峰『近世日本国民史. 第35 公武合体篇』昭和十年刊 p.129)
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 ハリスは、八月三日(1856/9/1)に下田奉行の井上清直、岡田忠養と談判しているが、奉行の言うには、アメリカに領事の駐在を認めてしまえばロシアやオランダにも認めなければならなくなるので迷惑だとした上で、ハリスがアメリカ本国と連絡を取り交渉する間は、玉泉寺に滞在することについてはなんとか認められている。

 そして八月六日(1856/9/4)に玉泉寺に星条旗が掲げられたのだが、身の回りのことの面倒を見てくれる使用人を求めて来たので、幕府は十七日に二人の女中を勧めている。そのうちの一人が、後にハリスの妾として有名になったお吉である。

オランダ商館長クルティウスの忠告

 しかしながら、当時のわが国には他の方面から外交の危機が迫っていたのである。

 徳富蘇峰の同上書に安政三年七月十日付の長崎奉行川村修就(ながたか)の勘定奉行ら宛の書状が引用されており、そこにはオランダ商館長のクルティウスから入手した情報が記されている。それによると、イギリスではホウリングという人物が日本との通商条約交渉に向かう準備中で、もし日本が通商条約締結を拒否すればオランダが妨害したと受け取られることとなり、その場合はオランダにとっても日本にとっても拙いことになる。オランダとしては、日本が諸外国との交易を開始することが望ましく、自国が諸国に日本を紹介する役割を演じたいとの内容であった。

オランダ商館長 クルティウス

 では、わが国がイギリスの交易要請をもし断った場合はどうなると考えていたのだろうか。クルティウスが七月二十三日付で長崎奉行に宛てた書簡には、日本が戦争に巻き込まれる可能性を示唆している。

 …外国より緩優交易につき、この後さても拒嫌あらば、幸福の日本国、究めて航海する世界数か所の強国、しかも強国一同と開戦に及ぶべきは、オランダ政府しかと見極む

(同上書 p.144)
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 クルティウスは、ヨーロッパ諸国には日本を開国させようとの覚悟があり、日本は世界の情勢を理解して国を開き、オランダ以外の国々とも交易の窓口を広げるべきであることを力説している。また、近々イギリスの使節が条約交渉で長崎に渡来することは確実であり、交渉に当たってのポイントなどを懇切丁寧にアドバイスしているのであるが、その後世界の情勢が大きく動き、江戸幕府はオランダの忠告に耳を傾けるようになっていくのである。

ハリスの考えた戦略

 一方ハリスは、下田にいても埒が明かず、何としてでも江戸の最高当局者を相手にしなければならないと考えたのだが、何度江戸行きを希望しても下田奉行は動こうとはしなかった。そこで、ハリスが考えた戦略は以下のようなものであった。

 かれは目的を二つに分けて、米国政府の期待する広範なる日米通商問題はこれを江戸で交渉し、下田においてはペリー条約が有する欠陥を是正しようとした。かれは日蘭条約の草案を見ていたから、最恵国約款によって、日本がこれに与えた特権に均霑せしめることに着目した

(『日本外交史. 上巻』p.72)
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 『日米和親条約』には最恵国約款があり、わが国が第三国と結んだ条約が有利な場合は、アメリカにもその適用を認めることになっていた。ハリスは下田奉行と五か月に及ぶ談判の末、安政四年五月二十六日(1857/6/17)に条約港に長崎を加え、治外法権を認める条項を加えさせるなど九か条の日米追加条約(下田協約)を締結している。

 ハリスが来日してすでに10か月も経過していたのだが、ハリスにはなんとしてでも江戸に行って、将軍に国書を奉呈し、日米通使用条約の交渉を始める任務があった。前掲書で清沢洌氏は、ハリスが江戸入りを許された背景についてこう述べておられる。

 第一は言うまでもなくハリスの執拗なる努力だ。かれはしばしば威嚇すらした。もし要求が容れられなければ国旗を捲いて帰国する。その結果は、米国は、その全権委員を侮辱したる故を以て、兵力を以て日本の罪を問うに至るであろうとも言った。…第二は当時、シナに起こったアロー号事件であった。これは安政三年八月(1856/9)に清国が南京条約に反して、外人を卑しみ広東城内に入らしめず、その上にアロー号にて乱暴をしたというので、英国艦隊は広東市内を砲撃しこれを焼尽したという事件だ。この報が日本に齎らされたので、長崎のオランダ理事官に真偽を聴くと、それが事実であること。貴国に於いても些細なことから兵端を開かぬようにとの注意があったのである。

 第三にハリスの江戸入りが許されたのは、何よりも幕府の政策が既に通商開始に傾いていたことだ。閣老阿部伊勢守は少壮の政治家として、開国の已むを得ざることを覚っていた外に、なお安政三年十月(1856/9)には堀田備中守正睦は外国事務取扱を命ぜられ、海防月番の専任となった。堀田は当時蘭癖と称せられたほどの人物で、徳川斉昭の如きはもとよりその政策に不満であった。阿部が安政四年六月十七日(18578/6)に歿するや、幕府と斉昭との連絡が絶え将来の風雲が予想されはしたが、同時に幕府の通商開始への進展は必然であった。しかし世界の大勢は幕府をして当然赴くべき所へ赴かしめたのである。

( 同上書 p.74~75)
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アロー号事件:大沽砲台へ攻撃したイギリス軍の67歩兵隊 (Wikipediaより)

 以前このブログでアロー号事件の事を書いたが、この事件についての詳細を長崎奉行に伝えたのもオランダ商館長のクルティウスで、この時に彼が幕府に提出した忠告書はかなり効果があったようである。安政四年二月二十四日(1857/3/19)付の堀田正睦の幕僚への覚書には、今までのやり方は通用しないことは明かであり、変革が必要であると記されている。(『近世日本国民史. 第35 公武合体篇』p.306~308)

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幕府を動かしたハリスの演説

 安政四年五月より老中・阿部正弘が病に臥し、実権は老中首座・堀田正睦に移っていった。そして堀田は、ハリスの出府にずっと反対していた徳川斉昭を七月に罷免している。

堀田正睦(Wikipediaより)

 下田に来航してから一年三ヶ月以上経過して、ようやくハリスにも江戸に向かうチャンスが訪れた。安政四年十月七日(1857/11/23)に彼は星条旗を先頭に立てて陸路下田を出発し、そして十月二十一日(12/7)には江戸城に登城して将軍に謁見し、大統領の親書を捧呈した。その儀式のあと、ハリスは堀田正睦邸にて二時間に及ぶ演説を行っている。

 徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第36 朝幕背離緒篇』(p.404~410)に、ハリスの手記の全文が紹介されているが、『日本外交史. 上巻』にその内容が要約されている。

 かれは蒸気の採用によって世界の情勢が一変したことを語り、日本がその鎖国政策を放棄せねばならぬことを語った。かれはアメリカ政府がアジアにおいて領土的野心なき事を説明し、その例として台湾及びサンドウィッチ島を合併することを拒絶したことを挙げた。合衆国はただ領土的野心なきのみならず、東洋に野心を要する西欧諸国と同盟を結ぶことに反対する。かつ英国は台湾を、仏国は朝鮮を獲得せんとする野心あるを述べ、支那の分割をこの二国は意図していることを語った。こう世界の情勢を語って来て、かれの望むところが、①通商の自由と②その国の代表者の駐在と③開港場の増加にあることと述べ、更に通商に穏当の税を課すれば、多額の収入を得て海軍を支援するに足るとも言った。かれはまたアヘンの害を説き、これをシナに強いた英国は、日本にも同じ底意あることを警告した。彼は言った。予はただ一人である。「一人と条約締結なされ候は、品川沖へ五十艘の軍艦を引き連れ参り候ものと条約なされ候とは格別の相違に御座候。今般大統領より私差し越し候は懇切の意より起こり候儀にて、隔意これ有りての事にはこれなく、外国より使節差し越し候とはわけ違い申し候。右等の儀、得と御推考下さるべく候。」とも言った。

(『日本外交史. 上巻』p.76)
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 ハリスの言葉には誇張も多かったのだが、この演説はかなり効果があった。これにより幕府は意を決し、下田奉行井上清直、目付岩瀬忠震を全権委任に任じて通商条約の審議が開始されることになるのである。



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 ブログ活動10年目の節目に当たり、前ブログ(『しばやんの日々』)で書き溜めてきたテーマをもとに、2019年4月に初めての著書である『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を出版しています。
 通説ではほとんど無視されていますが、キリスト教伝来以降ポルトガルやスペインがわが国を植民地にする意志を持っていたことは当時の記録を読めば明らかです。キリスト教が広められるとともに多くの寺や神社が破壊され、多くの日本人が海外に奴隷に売られ、長崎などの日本の領土がイエズス会などに奪われていったのですが、当時の為政者たちはいかにして西洋の侵略からわが国を守ろうとしたのかという視点で、鉄砲伝来から鎖国に至るまでの約100年の歴史をまとめた内容になっています。
 読んで頂ければ通説が何を隠そうとしているのかがお分かりになると思います。興味のある方は是非ご一読ください。

無名の著者ゆえ一般の書店で店頭にはあまり置かれていませんが、お取り寄せは全国どこの書店でも可能です。もちろんネットでも購入ができます。
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