オランダは、 江戸時代初期から幕末に至るまで、西洋諸国では唯一わが国が外交貿易関係を維持し続けた国だが、第二次大戦では オランダ領東インド政庁が独断で宣戦布告し、わが国と戦った国でもある。
戦前は現在のインドネシアやボルネオ、西ニューギニアがオランダの植民地であり、当時は「蘭印」と称していたのだが、このオランダの植民地統治方法は他国から注目されていた。簡単に、オランダがこの地を植民地とした歴史を振り返っておこう。GHQ焚書の『蘭印現状読本』に分かりやすくその歴史が記されている。原文は旧字旧かなで国名も漢字だが、新字新かな、カタカナの国名で読み替えて引用する。
オランダ人の蘭印進出はまずジャワより始まっている。四隻の小帆船を仕立て、オランダ本国から喜望峰を経てはるばるインド洋を越え、嵐を潜り、大波を乗り切って苦心惨憺の末、コルネリス・ハウトマンの一行が、ジャワ島の西端バンタムに入港したのは、西暦1596年6月23日のことであった。それから、ハウトマンはバンタムを拠点としてその付近を探検した。青々と繁れる熱帯の草木、悠然たる土人の平和な生活、いたるところに満ち溢れている豊富な天然資源、彼はこの地こそオランダ民族の発展すべき土地なりと考えたのである。果せるかな、彼の本国への報告は、オランダ人のジャワに対する関心を呼び起こし、爾来、オランダ人のジャワに渡航する者は次第に繁くなった。彼らは想像よりも凌ぎよいジャワの気候を知り、豊饒なる天然資源と、土人貿易の有望なることを見抜いた。そしていずれも本国に帰っては蘭印への発展を説きまわった。
1602年3月30日、これらの声に動かされて、遂にオランダ東インド会社が設立せられた。この会社は普通の会社と異なり、オランダ政府から46ヶ条の特許を受けたのである。そしてオランダと蘭印との貿易の独占はもとより、喜望峰とマゼラン海峡にまたがるインド洋貿易の独占や、将来会社が占領する土地の統治権までも許された。オランダ人のジャワ進出はこの国策会社によって、その第一歩を踏み出したわけである。
一方当時のジャワははたして如何なる状態にあったか。ジャワの東部ではマタラムという王国が覇を唱え、西部ジャワではバンタムという王国が君臨していた。東インド会社は、まずバンタム王国の西北海岸バンタム市内に一つの商館を設立することに成功した。現在のバタビヤから自動車で2時間ばかりは知れば、今日でもこのバンタム市に達することができ、オランダ人の蘭印進出の遺跡を目のあたり眺めることができる。しかし、この時すでにバタビア市にはイギリス人の勢力が著しかった。即ち、イギリス人は土候アラマン・マンガラとの協力によって、オランダ人に圧迫を加え、その活躍を許さなかった。東インド会社はしばらくこの圧迫に抵抗を試みたが、遂にその不利を覚り、巧みに摩擦を避けながら地方進出を企画し、1610年バタビアに隣接するジャガトラに新しく商館を設立した。そして間もなく他の各地にも商館を新設して、次第に発展の巨歩を踏み出した。
バタビヤのイギリス人はオランダ人の発展を見て、自らもジャガトラに進出してオランダ人を圧迫しつつ、この地に砲塁までみ築こうとした。オランダ人は遂に意を決し、突如としてジャガトラのイギリス人居留地を襲撃したが、しかしイギリス艦隊が急を聞いて来航するに及び、形勢は逆転し、オランダ人は屡々(しばしば)窮地に陥った。が善く戦い、半年にわたる奮戦の結果、遂にジャガトラ市を焼き払った。そしてその近くに新興都市バタビアを建設したのは1619年5月のことであった。…
かくして、バタビアに小区域ながらオランダ領が確立した。しかしながら、それは当時ジャワ制覇をしていたマタラム国王アグンに危惧の念を抱かしめることとなった。アグンは遂に1628年8月、海陸両面よりバタビアを攻撃したが、オランダ人はよく奮戦し、4か月にわたる激戦の後アグンの軍隊を撃退した。その後、東インド会社のジャワ計略は指導者宜しきを得、加えるにオランダ人全体の旺盛なる精神に恵まれてグングンと伸びていった。しかしオランダ人が蘭印に今日の地歩を築くに至るまでには、多数土候との間に複雑な葛藤と、血の戦いを重ねなければならなかった。
(石沢豊 著 『蘭印現状読本』新潮社 昭和16年刊 p.4~8)
オランダは土候との信頼関係を構築するために努力をしながら植民地を拡大していくのだが、その点についてはこの本の続きを読んで頂きたい。
オランダの植民地統治の方法は、イギリス等他国の手法とは随分異なっていて、他国からは少数のオランダ人が、このような手法で三百年ものあいだ蘭印を統治していることを称賛していたようだ。オランダの植民地経営とはどのようなものであったのか。
GHQ焚書の『蘭印の設営』という本に、その点についての解説がある。
わずか3万平方㌔のオランダが、その63倍の190万平方㌔の面積を有する蘭印を、3百年余の長きにわたって、またわずか5万人、混血人を入れても20万人くらいのオランダ人で以て7千万の住民を治めていたという事実は全く世界の不可思議と言っても過言ではない。不屈の精力と強靭な意思の偉大な世界的模範であるとさえ称揚されていたのである。しからば何が3百年の統治をオランダに許したか、その原因としては次の諸点が挙げられている。
(遠藤正 著『蘭印の設営』湯川弘文社 昭和17 p.6~7)
(1)ジャワ人が「地球上最も温和な人民」であったこと
(2)当初においてオランダ人が専ら商人として住民に信用を礎き得たこと
(3)キリスト教を強要しなかったこと
(4)植民政策の緩急宜しきを得たこと
(5)農業政策に熱心であったこと
(6)教育、文化政策の巧妙(無関心)
(7)華僑の巧みな利用法
(8)民族主義の伝播が比較的遅れたこととその分裂、不一致、等々
蘭印では生産力は向上したが住民たちは相変わらず貧乏であった。また蘭印は年々多額の出超国で、大部分はオランダ本国に送られるかオランダ人の懐に入っていたのだが、そのような統治を長く続けられた手法について詳説されている文章の一部を紹介しよう。
普通ならば占領地にはまず第一に征服者の言葉を普及せしめて征服者の文化を扶植するのであるが、オランダ人はこれをやっていない。即ち1930年の調べでは千人のインドネシア人中オランダ語を解するものはわずかに3人という割合であった。かくの如く言語の城壁を圍らしてオランダ人と住民との間には距離があるということを日々示し、また外界との接触を断とうとしてきたし、また現在もそうなのである。オランダ人は自分たちの会話を召使どもに理解されることを好まなかったとも言いうるのである。
これに関し、次のようなことが言われている。即ち「この状態のままでオランダ人が自己の領土を失うならば、あるいはまた住民に自治を許すならば、十五年も経ずして、過去3世紀余にわたる蘭領におけるオランダ語は何らの社会的役割を果たすこともできなくなる。そしてオランダ語はマレー語と英語との間に挟まれて押しつぶされてしまうであろう」と。
要するに住民を満腹した牛に仕立てて――事実は決して満腹していなかったが――これから牛乳を搾り取っていたのである。次にオランダ人の華僑に対する対策についてみれば、実に巧妙に利用している。即ちオランダ人は住民に対すると同様に、昔も今もいわゆる同化政策というものを決して採らず、あくまで放任的態度を維持した。
(同上書 p.10~11)
少数なオランダ人が厖大なインドネシア大衆を搾取するには華僑はまことに恰好な助手であった。しかしてオランダ人は華僑に対し特殊な利益を与えると共に華僑を蘭人より一段下、住民よりは一段上の特殊な身分、即ち中間搾取者としてこれを待遇した。
かくしてオランダ人よりは早くから東インドに在住していた支那人の買辦的天性を巧みに利用し、現在では二十万余のオランダ人と七千万のインドネシア人との間に百五十万の華僑を介在せしめて二重搾取の形態を形成せしめたのである。
しかも近来は住民の反オランダ人憤怒の対象を他にそらす効果を狙い「華僑の中間搾取を排除し、以て住民の生活向上に資する」と称し、住民共同組合の成立奨励、金融機関の女性設立、暴利取締等を行っていたのである。
オランダも植民地を搾取していたことは同じだが、住民の不満が直接オランダ人に向くことが無いように華僑を利用したとは初めて知った。
西尾幹二氏が動画で『蘭印現状読本』を解説しておられるので、視聴していただければありがたい。
以下のリストはGHQ焚書のなかから、本のタイトルに「オランダ」「蘭」を含むものを抽出してみたのだが、全部で34冊あり、すべてオランダの植民地に関する本ばかりであった。うち9冊が「国立国会図書館デジタルコレクション」でネット公開されている。復刊されている書籍はない。
タイトル | 著者・編者 | 出版社 | 国立国会図書館デジタルコレクションURL | 出版年 |
旧蘭領ボルネオ | 木村義吉 | 朝日新聞社 | ||
刻下の南太平洋
: 日蘭会商の 経過と其経済的再吟味 | 辻森民三 | 開南同盟本部 | https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1276397 | 昭和10 |
最近私の見て来た蘭印 | 吉屋信子 | 主婦の友社 | ||
世界地理政治大系4 蘭領印度 | 別枝篤彦 | 白揚社 | ||
南方の将来性 台湾と蘭印を語る | 大阪毎日新聞社編 | 大阪毎日新聞社 | ||
南洋地理大系5 東印度1、旧蘭印 | 飯本信之 佐藤弘 編 | ダイヤモンド社 | ||
日蘭会商を中心として観たる 日蘭印貿易の現状 | 寺尾 進 | 南方経済調査会 | ||
マレー蘭印紀行 | 金子光晴 | 山雅房 | ||
蘭印、英印、仏印 | 井出諦一郎 | 三省堂 | ||
蘭印事情 | 小笠原長丕 | 羽田書店 | https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1278740 | 昭和15 |
蘭印侵略史 | デ・クラーク | 報知新聞 南方調査会 | ||
蘭印生活二十年 | 和田民治 | 講談社 | https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1267140 | 昭和16 |
蘭印探訪記 | 大毎、東日映画部 | 東亞書房 | ||
蘭印統計書. 1940年版 | 蘭印経済部 中央統計局 | 国際日本協会 | https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1903571 | 昭和17 |
蘭印読本 | 斎藤武治 編 | 誠美書閣 | ||
蘭印と日本 | 松本忠雄 | ダイヤモンド社 | ||
蘭印の資本と民族経済 | 浜田恒一 | ダイヤモンド社 | https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1276280 | 昭和16 |
蘭印の重要性とは | 佐藤 茂 | 森山東栄堂 | ||
蘭印の石油資源 | 神原 泰 | 朝日新聞社 | ||
蘭印の設営 | 遠藤正 | 湯川弘文社 | https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1044164 | 昭和17 |
蘭印の知識 | 朝倉純孝 | 松山房 | ||
蘭印の土地制度 | 我妻 栄 | 東亞研究所 | ||
蘭印は動く | 加藤鐐五郎 | 新愛知新聞社 | ||
蘭印風物詩 | 小津さちを 小津幸雄 | 刀江書院 | ||
蘭印・仏印史 | 大江満雄 | 鶴書房 | ||
蘭印、仏印の近状 前編 | 神戸市 産業研究所編 | 神戸市 産業研究所 | ||
蘭印を解剖する | 石田重忠 | 学芸社 | ||
蘭領印度事情 | 博文館編輯局 編 | 博文館 | ||
蘭領印度叢書. 上巻 | 蘭印事情講習会 編 | 愛国新聞社 | https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1160110 | 昭和15 |
蘭領印度石油事情について | 山田不二 | 山田不二 | ||
蘭領印度農業政策史 | 関 嘉彦 | 中央公論社 | ||
蘭印現状読本 | 石沢豊 | 新潮社 | https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1044168 | 昭和16 |
蘭領ニューギニア買収案 | 松江春次 | 松江春次 | https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1711880 | 昭和9 |
蘭領東印度 | I.レーベル | 岡倉書房 |
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ブログ活動10年目の節目に当たり、前ブログ(『しばやんの日々』)で書き溜めてきたテーマをもとに、2019年の4月に初めての著書である『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を出版しています。
読んで頂ければ通説が何を隠そうとしているのかがお分かりになると思います。興味のある方は是非ご一読ください。
無名の著者ゆえ一般の書店で店頭にはあまり置かれていませんが、お取り寄せは全国どこの店舗でも可能です。もちろんネットでも購入ができます。
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