世界革命を目指したレーニン
現在の日本共産党を見て過激なイメージを持つ日本人は少ないと思うのだが、戦前の新聞記事を読むと「共産主義」の過激さに驚くことになると思う。
一九一九年三月にロシア共産党(ボリシェヴィキ)主導で設立されたコミンテルン(共産主義インターナショナル/第三インターナショナル)は、世界各国のプロレタリア革命を指導する司令塔として設立され、主要国にその支部として共産党を置いている。その後、コミンテルンが各国の共産党とともに革命の為なら手段を択ばない極めて過激な動きをしたことについては、戦後になって通史の中で解説されることは皆無に近いのだが、コミンテルンが第二次世界大戦に至る世界の動きにどのように関わったかを知ることは極めて重要であると考えている。
『神戸大学新聞記事文庫』で、キーワードを「コミンテルン」、「赤化(せっか:思想が共産主義に染まる事)」、「共産」、「過激」、「レーニン」などのキーワードで検索すると、戦後はほとんど知られていない内容の新聞記事が多数ヒットするので、今回は大正時代の気になった記事をいくつか紹介させていただくこととしたい。最初はコミンテルンが設立される一年前、大正七年(1918年)三月十二日の大阪毎日新聞の記事である。

レーニン一派の過激派社会党は今や其抱負を拡大し世界に向って社会的革命を遂行せんことを期しつつあるものの如く「吾人は世界的社会革命の大火事を起すべく放火せり。世界各国の労農階級は吾人の例に倣い、吾人と力を戮せて各自其国の支配階級に反抗せよ」とは過激派が昨今到る所に於て絶叫しつつある新標語なり。但し社会革命なるものは一国だけの成功のみにては到底長持は出来ず、やがて有資階級の支配下にある他の列強のために抑圧さるべく唯各国同時に此の革命を行う時に於て始めて其完全なる成功を期し得べしとは社会主義の先覚者の教うる所。レーニン一派が眼の廻る程の大車輪を以て其未だ露国内に於ける地盤の固まらざるに逸早くも世界に向って之れが伸張を急ぎつつあるもの亦自ら「乗るか反るか」という際どき境にある自家の立場を自覚し居るに因るべし。
思うに三年有半に亘れる大戦争は欧洲各国の民衆をして過度の疲労困憊に陥らしめたると同時に過激社会主義の為めに其勢力の伸張上最も屈竟の好時機を与えたるは事実にして最近半年間に於ける同主義の伝染力は実に驚くべく恐るべきものあり。
(『神戸大学新聞記事文庫』政治11-10)
当時共産国はソ連一国だけであり、レーニンは自国の共産主義体制を安定させるためには資本主義の各国で共産主義革命を起こすことが必要であり、そのために全世界の労働階級に共産主義思想を拡げようとした。その上で他国に工作員を送り込み、非合法的あるいは過激な手法でその政治経済体制を転覆させようとするわけであるから、相手国からすれば迷惑極まりない国である。
大正八年(1919年)五月二十九日の新愛知にはレーニンがソ連の各地に過激派専門学校を建設することを計画しており、すでにウラジオストクでは四十名の日本在留民が指導を受けていたことが記されている。

二十三日朝敦浦(とんぽ:福井県敦賀とウラジオオストクを結ぶ航路)定期船鳳山丸で敦賀に入港した一般客は語る「露国過激派首領レーニンは今回部下のアルセフスキーを代理官として其監督の下に露国内の都市約二十ヶ所に過激派専門の学校を建設せんと目下計画中である。同校生徒は約二千名を収容し得る程度のもので生徒には過激派特有の社会主義学を教授し、其卒業生は露国内は素より世界各地に派遣し、全世界の所有人類に広く過激派主義を伝播せようとするもので、目下露都及莫斯科(モスクワ)の各新聞社は頻りに同校設置費の募集に助力しつつあるが寄附者が頗る多い。
又浦塩(ウラジオストク)の日露協会では昨冬スイフンスカヤ街の女学校楼上を借受け夜学会を開き、日本在留民の子弟約四十名教授をして居るが、更に之を拡張して露国人をも入学せしめ日本語の教授を為す事となり…
(『神戸大学新聞記事文庫』思想問題1-53)
このようにレーニンは、世界各国で共産主義革命を起こすための工作員教育を開始しており、教育を終えたメンバーは世界各地に派遣されて工作活動を開始していたのである。
世界に対する赤化工作
次に紹介させていただくのは、大正八年六月十四日の大阪毎日新聞の記事だが、彼らは支那の上海に目を付けていたことが記されている。当時の上海は人口百万人の約半分が無産者で、景気が低迷して市中に大量の浮浪者がうろつき飢餓に瀕していた危険な状態であった。

元来上海は新開地で百万の市民中五十万以上は無資産階級で而も性質の悪いので名高く、今日では全然商工業は停止し全く暗黒状態となり、市内各商店も亦続々雇員を解雇しつつあるため浮浪者は市中に満ち飢餓に瀕しているから実に危険至極である。戒厳令は布かれ護軍使の有する約一箇旅団は市中を警備し共同租界及び仏租界は巡警に護られて居るが、数日前日本料亭三芳館の一婦人は自館の門前で暴漢に捕われ目隠しされて某所に運ばれ多数の暴漢のため惨虐的行為に遭い殆ど瀕死の体にて帰された。こんな有様だから戒厳令の効果も信じ難く兵士中に暴漢の一味なしとも保し難い。
一面露都の過激派本部を中心に秘密出版は猛烈に行われ恐るべき煽動を為しつつありと推すべき理由がある、無資産の五十万人中其一割でも之に化したら由々しい大事だ。殊に支那の商工業停止のため附近の都市は商業上の連絡を絶たれ物資不足のため漸次不穏の色彩が濃厚に傾ききあるから恐ろしい云々(東京電話)
(『神戸大学新聞記事文庫』中国7-55)
上海の無産者がどの程度コミンテルン側の手駒となったかは不明だが、支那の赤化工作や軍民分断工作は順調に進んだらしく、大正九年十二月十九日の国民新聞には次のように報じられている。

吾人の特に注意を惹かんとするは、湖南、湖北を中心とする軍民険悪の形勢是れ也。即ち楚人(そじん:湖南・湖北の人々)の大に動揺しつつある事也。
蓋し右二省の巡閲使、湖北督軍王占元は、目下支那に於いて最も困難の地位に立つ者と謂う可し。即ち民衆は急激に自覚して官僚を逐わんとする勢いを呈し、軍隊は給養不充分なる為皆反抗を示し且各地に解散軍隊流賊となりて掠奪をなし、而して万事の根本たる財政は窮乏其の極に達せり。既に宜昌駐屯の軍隊は掠奪を敢てして外交問題を起し、次で長沙にては造幣廠の襲わるるあり、其他沙市、太治等所在の軍隊皆乱を思いつつありとの事なり。…中略…而して此の両省民が遂に此の如き思想を抱くに至りしに就ては、大に同情の点なき能わず。即ち両省は終始南北の戦場となり、勝ちしも敗けしも掠奪し、通過軍隊は御用金を命じ、殊に湖南の如きは「膏血共に尽く」の状態にて、人民は絶望の極に達せし也。
彼等が露国過激派と握手せるは全く事実なり。是れ寧ろ彼等より進んで之を求めしものの如く長沙に露国研究会を組織し、湖南出身の在上海全国工人同盟会首領陳家●は、之が為め特に労農政府代表者と会見して意思を疏通せり露人の喜びや知るべし。即ち過激主義を宣伝すると同時に、有為の青年の露国遊学を勧め、旅費三百元を工面し、外蒙経由イルクツク迄到らば、労農政府は之を莫斯科(モスクワ)迄迎うべく、支那の赤化するに必要なる教育を授くべしと提議し、着々実行しつつあるが如し。即ち楚人は既に激化しつつあり、従って此思想が軍隊に侵入しつつあるは疑う可らず。目下此地方にては既に報道されし以外に幾多の小兵変あるは事実にして、軍隊は遠慮もなく富家を掠奪しつつあり。宜昌、長沙の騒動の如き彼等に好目標を与うるもの也。何となれば暴行者は処罰せられずして却て懐柔的に金品を与えられたれば也。今後之に傚う者続出するは推察に難からず。…中略…
云わば支那赤化の危険漸く迫りしものにして、其中心は両湖を中心とせる長江一帯なり。第一次革命も武漢を起点とせり。今回の社会革命も此地方に烽火を挙ぐるの虞十分に存せり。而して最も注意すべきは旧年末にして、若し支那政府が夫れ迄に十分の資金を獲て軍隊其他に給養するを得ば、大に危険を緩くするを得べし。
暴動は過激的性質を帯ぶ。故に見境なく居留外人にも肉迫す。而して目下列強商民は勿論、支那富豪等の密集し居るは各地の租界也。列国政府は速に租界の防衛に関し手段を講ぜざるべからず。而して更に支那の此事態に関し、考量する所なかるべからず。
(『神戸大学新聞記事文庫』政治18-83)
赤化工作は支那だけでなく欧米でも行われており、主要国で暴動が起きたり政界が赤化していたことが各紙で報じられていた。しかしながら、西欧における赤化工作はあまりうまくいかなかったようである。しかしながらアジアではうまくいったようである。

わが国に対する赤化工作
もちろんわが国も狙われていた。文中に登場する近藤栄蔵は、大正九年(1920年)に山川均・堺利彦らとともにコミンテルン日本支部準備会を結成し、大正十一年(1922年)に日本共産党が設立された際には中央委員に選ばれた人物だが、活動資金はコミンテルンから出ていたようである。

某々国が不逞鮮人若しくは日本人を使嗾して、日本の赤化を謀りつつあることは、最早一点の疑いを挟むことが出来なくなった。彼等は日本の法の不備なる点につけ込んで頻りに活躍して居るのである。
例えば彼の近藤栄蔵が、如何にして内乱罪を免れたか—彼は過般某労働雑誌に伊井敬と偽名して寄書した事から、目下は牢獄に繋がれてはいるが、—記者は当局の諒解を得て茲に、彼の陰謀及び彼が内乱罪を構成しなかった理由を報ずる(近藤栄蔵に関する記事は目下掲載禁止中である)。
即ち彼が某国の宣教師に使嗾されて、日本の過激化を計画し、宣伝の方法並に手段を詳細に記した筋書を携えて、上海なる労農政府の宣伝部に立寄ったのは、今春四月初旬であった。此処で彼は運動費数万円を貰って突如、山口県下に姿を現わした。そうして密に同志を募り、将に宣伝に着手せんとする所を五月初旬、官憲に捕えられたのである。彼は当時現金六千円を有し、労農政府との暗号電報の符徴や、其他の秘密書類は悉く彼の衣類の襟等に縫い込んであったという。我官憲は彼を捕えながら、遂に起訴する事が出来なかったのは、彼が暴動を働かなかったからだそうな。即ち刑法第七十七条は『政府を顛覆し、又は邦土を僭窃し、其他朝憲を紊乱することを目的とし云云』とあるだけで、別に暴動を行わなかった彼には当嵌められなかったのだ。若し彼を起訴するならば、治警に依らねばならなかったけれど、それも証拠不充分だったとある。某某国は此点を覗(うかが)って巧に、過激思想を宣伝しつつあると聞いた。
(『神戸大学新聞記事文庫』思想問題3-126)
いくら過激な思想の持主であったにせよ、暴動でも起こさないかぎり逮捕されても、罪を問れることがなかった。警察は思想犯に対しては積極的指導取締りをする権威がない。思想に対しては思想で対抗するしかないのだが、思想を教える教育機関までもが赤化が進行し、遂にわが国でも日本共産党の設立に向けて動き出した。

文部省も学校も思想侵略に対する対策を取らなかったために、わが国の赤化は大学や高校などでどんどん進行していった。大正十二年五月十七日の時事新報によると、早稲田大学の一部の学生や起ちあがったことが報じられている。

『学校当局や文部省が黙っているのは怪しからぬ』
確証が挙っていると称して縦横倶楽部会員、佐々城貢君の発表した処に依ると「現在早大内に蟠まる思想団体は建設者同盟と暁民会、これに文化同盟であるが名は学術研究の目的であるが、実際は裏面に暁民会の高津正道一派が糸を牽いて赤化運動の中心を為して居り、これに猪股佐野両教授が陰に陽に助けている。
帝大には在学生を以て組織している新人会と卒業生中新人会と分裂した社会思想社、明大の七日会、一高の社会制度研究会□他各学校にこれら団体があるが、これら団体は労農、露国ソビエット制度を模倣して各団体から一名宛の代表委員を選み、学生連合会の名で最高幹部の委員会を組織して学術研究よりも寧ろ実際赤化運動を協議している。此事実に対し学校当局は勿論文部省が黙過していることが怪しからん。我々は一々その内情を知って居るので最早や黙止すべき時ではない」と軍事研究団遂に解散す。
早大軍事研究団は端なくも多数学生の反対を招き学校内に流血の惨事を見たが、十五日午後四時青柳団長は正式に学生監の許まで軍事研究団の解散を届け出た。
(『神戸大学新聞記事文庫』教育39-49)
学生が起ちあがるような事件があってまだ日も浅いうちに、ようやく政府、警察が動く大事件があった。この事件は「第一次共産党事件」とのちに呼ばれる事件で、日本共産党に対する最初の一斉取り締まりである。
大正十二年六月六日の大阪朝日新聞は、「大臣暗殺と軍隊学生の赤化を企てた極東共産党の大検挙: 早大教授、慶大講師方も家宅捜索」といった随分衝撃的な見出しで報じている。

今回の活動を見るに至ったのは堺利彦、近藤栄蔵の諸氏を始め社会主義者中の中心人物数十名が数日前神田区内の某旅館で会合の上、極東共産党なる秘密結社を組織し其の綱要とする軍隊と学生の赤化運動に努むると同時に現内閣の各大臣並に政府要路の大官を暗殺する事を申合わせて散会した旨、端なくも警視庁が探知するところとなり容易ならぬ大問題として各方面に向って内偵を進めていたところ、意外にも学生赤化運動に関しては別項早稲田大学、慶応大学の教授諸氏と連絡ある事実を発見するに至り茲に今日の大検挙となり各方面に家宅捜査を行う事となったのであると伝えられて居るが、曩に軍事研究団体対文化同盟の紛擾突発以来警視庁は鈴木検事総長と打合せ憲兵司令部とも連絡を取って鋭意事件の調査に努めた結果、同大学教授中社会主義者に策応している事実を発見し着々操作を進めていたのである…
(『神戸大学新聞記事文庫』社会問題3-18)
当時は思想を取り締まる「治安維持法」がなく、既存の法律である「治安警察法」の「主務大臣の許可を受けずに秘密の結社を組織することの禁止」に抵触したと判断し中心メンバーには禁固八~十ヶ月の有罪判決が下されたが、このような短期間の禁錮では今後共産主義の拡大を止められないことが明らかであった。
また同年の十二月二十七日には無政府主義者の難波大助による皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の暗殺未遂事件(虎の門事件)が起きている。この事件で第二次山本権兵衛内閣は総辞職し、警視総監や警務部長らが更迭・処分され、当時の政界や警察組織に大きな衝撃を与え、過激思想が拡散していくことをこれ以上放置できなくなって来た。
大正十四年(1925年)一月に加藤高明内閣のもとで「日ソ基本条約」が締結され、社会主義国家であるソビエト連邦との国交が樹立されたのだが、今後ソ連から赤化思想が大量に流入してくることが懸念されるため、同年四月に治安維持法が公布され翌月施行されている。制定当初の最高刑は「懲役または禁錮十年」であったのだが、三年後に最高刑を死刑に変えられている。昭和期以降の新聞記事は次回以降に紹介させていただく。
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