本能寺の変の前に宣教師たちを激怒させた信長の行為
前回の記事で、イエズス会の宣教師たちが信長を利用して寺社破壊を推進したことを書いた。信長は、布教を許したもののキリスト教に対する信仰はなく、後にはイエズス会にとって厄介な存在になっていったのである。ルイス・フロイスは信長について次のように評している。
彼(信長)にはかつて当王国を支配した者にはほとんど見られなかった特別な一事があった。それは日本の偶像である神と仏に対する祭式と信心をいっさい無視したことである。かくてデウス(神)は、それらの寺院と偶像を破壊するために、彼を仏僧たちに対する鞭として用い給うた。彼には、天下の著名な礼拝所である壮大な寺院、大学、邸を破壊し蹂躙し、仏僧と戦い、彼らを殺戮し、破滅せしめる風格、ないし影響力が備わっていたものと思われる。偶像の祭司たちの収入ははなはだ多かったが、彼はそれを兵士と貴人たちに分け与えた。
彼は日本の諸国王、ならびに諸侯、諸将らすべての人を軽蔑したが、我らに対しては情愛を示した。また異国人であるため、我らを憐れむべき人であるかのように取り扱い、そして我々に向かって語って言った。「時に御身らに対する反対者の陰謀が大きく、予の許で頻繁に偽証する者があるが、予は伴天連たちの行状を承知しており、その教えが善良で真実であることをわきまえているので、予が生存中は何びとの嫌がらせも妨害も御身らは受けはしないであろうし、自領内でデウスの教えを説き、教会を建築することを保証する」と。
彼は時に説教を聴くこともあり、その内容は彼の心に迫るものがあって、内心、その真実性を疑わなかったが、彼を支配していた傲慢さと尊大さは非常なもので、そのため、この不幸にして哀れな人物は、途方もない狂気と盲目に陥り、自らに優る宇宙の主なる造物主は存在しないと述べ、彼の家臣らが明言していたように、彼自身が地上で礼拝されることを望み、彼、すなわち信長以外に礼拝に価する者は誰もいないと言うに至った。というのは、彼には超人的な何ものかがあり、また人々はそのように喧伝し、彼がその業においてますます繁栄して行くのを見ていたからである。
(中公文庫『完訳フロイス日本史 3』p.132~134)
この記録は本能寺の変の起きた天正十年(1582年)の記録であるが、以前の信長はキリスト教に対し寛容な政策を続ける一方、寺社や仏像などを破壊して宣教師を喜ばせてきた。しかしながら、安土城の完成した後に城の近くに摠見寺(そうけんじ)を建立させると、諸国の人々の信仰を集めている仏像をその寺に集めることを命じるなど、宣教師たちからすれば許容しがたい行動を取るようになったのである。
上の画像は国の重要文化財に指定されている摠見寺の三重塔だが、この塔は以前このブログでも書いたように滋賀県湖南市にある長寿寺の境内にあったものを信長が移築させたものだ。
フロイスはさらにこう記している。
さらに彼は領内の諸国に触れを出し、それら諸国のすべての町村、集落のあらゆる身分の男女、貴人、武士、庶民、賎民が、その年の第五月の彼が生まれた日に、同寺とそこに安置されている神体を礼拝しに来るように命じた。諸国、遠方から同所に集合した人々は甚大で、とうてい信じられぬばかりであった。
しかるに信長は、創造主にして世の贖い主であられるデウスにのみ捧げられるべき祭祀と礼拝を横領するほどの途方もなく狂気じみた言行と暴挙に及んだので、我らの主なるデウスは、彼があの群衆と衆人の参拝を見て味わっていた歓喜が十九日以上継続することを許し給うことがなかった。
(同上書 p.136~137)
フロイスが「暴挙」などと書いているのは、キリスト教の教義ではタブーとされている「偶像崇拝」を命じ、しかも信長自身が信仰の対象になったことを指している。宣教師たちにとってはこの信長の行為は神を冒涜するものであり、絶対に許すことのできないものであった。
信長の神体を祀る法要が行われたのが信長の誕生日とあるので五月十二日ということになるのだが、信長が本能寺の変で倒れたのはその法要から十九日が経過した六月二日であり、フロイスは信長が殺された理由について、彼がキリスト教のタブーを破ったことでデウスの怒りを招いたと書いているようなものだ。
この記述などを根拠に、信長暗殺の黒幕がイエズス会にあるのではないかという説があるのだが、イエズス会にとって信長は天罰が下るべき過ちを犯したとの認識があったことは確実なのである。本能寺の変の原因については諸説があり、どの説が正しいかを断定することは難しいが、イエズス会が主犯ではないにせよ、宣教師らが信長に敵意を持つ武将と謀れば、裏で協力させるようなキリシタンの兵士は、 敵味方関係なく多くの武将の配下に少なからず存在していたのである。
ポルトガル・スペインの動きとそのアジア戦略
ここで、ポルトガルとスペインの動きに目を転じよう。
1494年にローマ教皇アレクサンデル六世の承認によるトリデシリャス条約によりスペインとポルトガルがこれから侵略する領土の分割方式が取り決められ、さらに1529年のサラゴサ条約でアジアにおける権益の境界線(デマルカシオン)が定められている。この条約によるとスペインとポルトガルの権益の境界線は、日本列島を真っ二つに分断していた。
これらの条約に基づき、スペインは西回りで侵略を進め、1521年にアステカ文明のメキシコを征服し、1533年にインカ文明のペルーを征服した。一方ポルトガルは東回りで侵略を進め、1510年にインドのゴアを征服し、1511年にはマラッカ(マレーシア)、ジャワ(インドネシア)を征服した。両国ともキリスト教の神父が侵略の先兵となっているのは同じである。
そして1549年にはイエズス会のフランシスコ・ザビエルがわが国の鹿児島に上陸し、キリスト教の布教が開始され、まもなくポルトガルとの交易が開始されている。
貿易に関わる利益については圧倒的に東回りのポルトガルの方が大きく、スペインは早くからその利権を狙っており1571年には両国の境界線の取り決めを無視してフィリピンを征服した。その後1580年1月にポルトガル国王ドン・エンリーケが死去すると、スペイン国王フェリペ二世は三万の軍勢を率いてポルトガルの首府リスボンに入り、他の王位継承候補者を押しのけて1581年4月にポルトガル国王を兼務している。
スペインは、それまでポルトガルが獲得した利権については干渉しない旨を約束していたので、アジア地域で貿易のメリットのある国を新たに植民地化することを考えており、当時フィリピンの総督であったゴンサロ・ロンキリョ・デ・ペニャロサは、シナを征服することを強く主張していたという。
信長とも親交のあったイエズス会の東インド巡察師*ヴァリニャーノの1582年12月14日付のフィリッピン総督あての書簡を紹介しよう。この書簡の主題は、スペイン・ポルトガル連合が次にどの国を攻略し植民地とすべきかという点にある。
*巡察師:イエズス会の東アジアの布教統括者
これら東洋における征服事業により、現在いろいろな地域において、陛下に対し、多くのそして多き門戸が開かれており、主への奉仕及び多数の人々の改宗に役立つところである。…それらの征服事業の内最大のものの一つは、閣下のすぐ近くのこのシナを征服することである。…
私は3年近く日本に滞在して、…霊魂の改宗に関しては、日本の布教は、神の教会の中で最も重要な事業の一つである旨、断言することが出来る。何故なら、国民は非常に高貴且有能にして、理性によく従うからである。尤も、日本は何らかの征服事業を企てる対象としては不向きである。何故なら、日本は、私がこれまで見てきた中で、最も国土が不毛且つ貧しい故に、求めるべきものは何もなく、また国民は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練を積んでいるので、征服が可能な国土ではないからである。
(高瀬弘一郎『キリシタン時代の研究』岩波書店p.81-83)
このようにヴァリニャーノは、日本を武力制服することは困難であり、シナから征服すべきであることを本能寺の変の後に書いていることは注目してよい。
しかし、シナを攻略するためには本国から大量の兵士と武器を移動させることには限界がある。当時の宣教師の記録には日本のキリシタン大名や兵士の協力が得られることを想定していた記録が少なからず存在するのである。
信長が抱いていた宣教師に対する警戒心
信長は、イエズス会の宣教師たちが何故に遠方から海を渡って日本にやって来たことに関し、警戒心を持たなかったわけではなかった。
天正八年(1580)に信長は安土城で、献上された地球儀を前にして宣教師オルガンティノとロレンソに、ヨーロッパから日本に至る道程を示すように問い、宣教師の説明を聞いた後に笑いながら信長はこう語ったという。
「汝らがこのごとく多数の危険と海洋を超えるは、或いは盗賊にして何か得んと欲するか、或いは説こうとする所重要なるによるか。」
その信長の問いに対して、ロレンソは「我等は実に盗賊にして日本人の魂と心を悪魔の手より奪いて、それを創造主の手に渡さんがために来た」と答えたという。
この記録は、豊後の宣教師メシヤがイエズス会の総長に宛てた書翰に出ている。
この記録から信長は、宣教師が進めようとするキリスト教の布教が何を目指しているかについて、少なからず懐疑心を抱いていたことは確かであろう。
では、その点についてわが国の記録ではどのようなものが残されているのだろうか。
『切支丹宗門来朝実記』という書物が、徳富蘇峰の『近世日本国民史』に引用されているので紹介したい。この書物は著者も成立時期も不詳で、残されているのは江戸時代中期の写本なのだが、信長は後にキリスト教を庇護したことを後悔したことが記されている。
今年は日本人何千人勧め、今年は何万人勧め入ると大帳に記して、南蛮に渡す。弓矢を用いずして、日本を随(したが)えんとの謀事(はかりごと)なり。しかるに、信長南蛮寺の取沙汰、あやしき宗門の様子聞き及び、心のうちに後悔しけり。…前田徳善院申しけるは、南蛮寺の事、只今御潰しなさるべくとは、手遅れにて御座候。もはや都(みやこ)は申すに及ばず、近国までもひろがり、ことに公家武家御旗本の大小名、ならびに此の座にある御家人のうちにも、此の宗を尊(とうと)み、デウスの門徒に入り候人多し。もし今破滅の儀、仰せいだされ候わば忽(たちま)ち一揆起こり、御大事に及び候わん。しばらく時節を見合わせあそばされしかるべくとぞ申されければ、信長うちうなづき、我一生の不覚なり。この上はよろしく思案もあれば、遠慮なく申すべしと、おのおの退出いたしけれ。(『切支丹宗門来朝実記』)
『近世日本国民史. 第2 織田氏時代 中篇』p.304~305
この文章に出てくる「前田徳善院」とは、豊臣政権の時に五奉行の一人となった前田玄以のことで、以前は僧侶であったが信長に招聘されて臣下に加わったとされる。
徳富蘇峰は、この記述は天正六年(1578年)の頃として書かれているが、この頃の信長は宣教師と親密であった時期であり、信長がキリスト教の布教許可したことを後悔すべき理由は乏しいと述べている。
しかしながら、信長は彼なりに宣教師を利用して情報を収集し、天下統一のためにキリシタン武将や兵士を利用しながら、宣教師に対する警戒を怠ってはいなかったとも考えられる。安土城の建設のあと摠見寺を建立し、いよいよイエズス会と敵対するようになるのだが、信長がそのような姿勢を露わにしたのは、天下統一が目前に迫っていたからではなかったか。
冒頭に紹介した天正十年(1582年)のフロイスの記録を読み進むと、次のような記述がある。
信長は、…都に赴くことを決め、同所から堺に前進し、毛利を平定し、日本六十六ヵ国の絶対君主となった暁には、一大艦隊を編成してシナを武力で征服し、諸国を自らの子息たちに与える考えであった。
(同上書 p.140)
天正十年といえば、巡察使ヴァリニャーノが九州のキリシタン大名を取り込むために、ローマ教皇とスペイン・ポルトガル連合国国王に拝謁する四人の少年使節に同行して、インドに向かう途中でシナのマカオに滞在していた年である。先ほど紹介したヴァリニャーノの書翰は、使節が滞在していたマカオで記されたものだが、ヴァリニャーノが日本を武力制服することは困難だと記したのは、以前の信長のような強力なキリスト教の庇護者が日本に居なくなったことが念頭にあるのだろう。
信長はスペイン・ポルトガルがシナを狙っていたことはわかっていたと思われる。そうでなければ、宣教師に対して天下統一のあとでシナを征伐することを宣言することはないだろう。たとえ信長により天下統一が成就しても、シナがスペイン・ポルトガルにより植民地化されてしまえば朝鮮半島が征服されることは時間の問題となり、そうなればスペイン・ポルトガルは朝鮮半島から最短距離でわが国を攻めることが可能となる。信長がシナを攻めると発言したのは、自国の防衛のために先手を打つ必要があると考えたからではなかったか。
信長は不運にも本能寺の変で非業の死を遂げたが、彼の遺志はのちに豊臣秀吉や徳川家康・秀忠・家光に受け継がれて、わが国は西洋列強諸国の侵略から守られたのである。
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ブログ活動10年目の節目に当たり、前ブログ(『しばやんの日々』)で書き溜めてきたテーマをもとに、昨年(2019年)の4月に初めての著書である『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を出版しています。
通説ではほとんど無視されていますが、キリスト教伝来以降ポルトガルやスペインがわが国を植民地にする意志を持っていたことは当時の記録を読めば明らかです。キリスト教が広められるとともに多くの寺や神社が破壊され、多くの日本人が海外に奴隷に売られ、長崎などの日本の領土がイエズス会などに奪われていったのですが、当時の為政者たちはいかにして西洋の侵略からわが国を守ろうとしたのかという視点で、鉄砲伝来から鎖国に至るまでの約100年の歴史をまとめた内容になっています。
読んで頂ければ通説が何を隠そうとしているのかがお分かりになると思います。興味のある方は是非ご一読ください。
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