「赤化」という言葉は今ではほとんど死語になってしまったが、共産主義的な思想や機構を広めていくことを意味している。戦後に出版された本やマスコミの解説などで触れられることはほとんどないが、わが国では大正期の終わりから昭和初期にかけて共産主義思想が急速に広まって行った。一般の国民や労働者が赤化しただけでなく、政府中枢や軍部にも赤化が進んでいったのだが、その経緯について何回かに分けて書くこととしたい。
ソ連共産党による世界共産主義化工作
一九一七年にロシア革命が起こり史上初の社会主義政権が誕生した。
その後、ロシア国内では反革命勢力(白軍)との内乱が続いたが、外債を踏み倒された独英仏などは反革命勢力を支援した。そこでソヴィエト政権は、白軍と対抗するため義勇軍を中心とした赤軍を組織し、さらに反革命派を取締まるためにチェカ(非常委員会)を置き、対外的には一九一九年にコミンテルン(第三インターナショナルともいう)を結成して、全世界の左翼勢力をソ連共産党の指導下として、レーニンの「敗戦革命論」の考え方に則り世界の共産主義化をはかろうとした。もしコミンテルンは世界にまたがる組織であり、モスクワにある本部から各国の共産党に秘密指令を飛ばして世界の赤化を計るわけだが、この組織がソヴィエト政権とつながっていたことはいうまでもない。
「敗戦革命論」とは、要するにターゲットとした国の政府や軍などに工作をかけて弱体化させ、戦争に巻き込んでその国を敗戦に導き、その後の混乱に乗じて共産主義革命に導くという革命戦略である。
ちなみに、わが国にコミンテルン日本支部である日本共産党の設立準備会が発足したのが大正十年(1921年)で、日本共産党が結成されたのは大正十一年(1922年)のことである。もちろんコミンテルンから巨額の工作資金が出ていたのだが、ロシア人が日本に入り込んで直接工作活動を行うのは目立ちすぎて警戒されることとなるため、わが国で赤化工作を図るためには日本人か日本人に似た人種を利用するしかなかった。では、わが国における赤化工作は具体的にどのように行われていたのであろうか。当時の新聞を当たってみた。
コミンテルンが支那と日本の共産主義化を重視した経緯

この問題について参考になる記事が、大正十年十月十二日の萬朝報に報じられている。
某々国が不逞鮮人若しくは日本人を使嗾して、日本の赤化を謀りつつあることは、最早一点の疑いを挟むことが出来なくなった。彼等は日本の法の不備なる点につけ込んで頻りに活躍して居るのである。
例えば彼の近藤栄蔵が、如何にして内乱罪を免れたか――彼は過般某労働雑誌に伊井敬と偽名して寄書した事から、目下は牢獄に繋がれてはいるが――記者は当局の諒解を得て茲に、彼の陰謀及び彼が内乱罪を構成しなかった理由を報ずる(近藤栄蔵に関する記事は目下掲載禁止中である)。即ち彼が某国の宣教師に使嗾されて、日本の過激化を計画し、宣伝の方法並に手段を詳細に記した筋書を携えて、上海なる労農政府の宣伝部に立寄ったのは、今春四月初旬であった。此処で彼は運動費数万円を貰って突如、山口県下に姿を現わした。そうして密に同志を募り、将に宣伝に着手せんとする所を五月初旬、官憲に捕えられたのである。彼は当時現金六千円を有し、労農政府との暗号電報の符徴や、其他の秘密書類は悉く彼の衣類の襟等に縫い込んであったという。我官憲は彼を捕えながら、遂に起訴する事が出来なかったのは、彼が暴動を働かなかったからだそうな。即ち刑法第七十七条は『政府を顛覆し、又は邦土を僭窃し、其他朝憲を紊乱することを目的とし云云』とあるだけで、別に暴動を行わなかった彼には当嵌められなかったのだ。
『神戸大学新聞記事文庫』思想問題3-126
当時のわが国には共産主義思想を持つメンバーが少数ではあったが存在していた。当時アメリカに亡命していた片山潜は大正十年にはコミンテルン常任執行委員会幹部となっており、国内外に彼の仲間が何人かいて、近藤栄蔵もその内の一人であった。
しかしながら平和な国で共産主義思想を広めることは容易なことではない。そこでコミンテルンの工作により、わが国に併合された朝鮮半島で朝鮮人による革命運動が仕掛けられ、日本本土でも、以前このブログで書いた通り、朝鮮人によるテロが頻発した。「不逞鮮人」という言葉は今では死語になっているが「朝鮮人テロリスト」という意味で、当時の新聞や書物には何度も用いられた言葉である。
以前このブログで、第一次大戦後の一九一九年にアメリカ人宣教師が朝鮮人に大日本帝国からの独立運動を仕掛けたことを書いたが、その記事から類推すれば、上記の萬朝報の記事における「某々国」はソ連(現ロシア)かアメリカで「某国」はアメリカということになろう。しかしながらその背後関係を調べていけばいずれもコミンテルンと繋がっていたのではないだろうか。コミンテルンによるアメリカの赤化工作はわが国よりも早く開始され、米国共産党が結成されたのは一九一九年のことである。Wikipediaによると党員の大半はアメリカ国籍を持たず、多くが東欧系ユダヤ人であったという。
コミンテルンが人種対立を煽り日米を戦争に導こうとしたのではないか
大正十五年(1926年)四月七日から中外商業日報に四回にわたり連載された「赤化運動の十年」という記事がある。著者の小松緑は明治大正期に外交官としてアメリカ公使館書記官,朝鮮総督府外務部長など勤め、大正五年(1916年)に退官後は著述家として活躍した人物である。

この記事によると、当初コミンテルン(共産党本部)は欧米の赤化工作に着手したが、アメリカ、イギリス、イタリア、ドイツで思うような成果が出ず、方針を転換して支那と日本に重点的に赤化工作を実施することにしたという。記事には次のように記されている。
…共産党本部が、白人諸国における従来の失敗に鑑み更に方向を一転して、先ず有色民族――殊に支那人、日本人の赤化に全力を傾け、その白人に対する共通反感を利用し、一気に圧倒的世界革命を断行しようという新方略である。これは、カラハン氏*がポーランドから極東に転任した時分から決定したものであるが、やがてカラハン氏は露支条約及び日露条約の成功に狂喜し、極東の赤化は一二年を出でざるべしと豪語して、大仕掛けの赤化運動に着手したのである
先月十八日、北京において国民党を首脳とする総工会、学生団等の代表者二千名が大会を開き先ず革命歌を高唱し『帝国主義を撲滅せよ』『段祺瑞を打倒せ』『不平等条約を破棄せよ』『八国格子を駆逐せよ』などと不穏の言辞を弄し国務院の門内に乱入し、終に衛隊と衝突して、死者三十名、傷者八十名を出すという宛然たる革命騒動を演出し、その主謀者たる徐謙、顧孟余、李石曾等が、逮捕を恐れて、露国公使館に遁げ込みしが如き、また永らく共産党の傀儡となって、ロシアから武器、軍資の供給を受けつつありし憑玉祥が近々モスコウに赴き、自ら一職工となりてまでも、ソヴィエット制度を根本的に研究すると公言しているが如き、また近頃広東はおいても純然たるソヴィエット政府を組織せんとする陰謀の起れる際、関係露国人十名並に政府部内及び軍隊中より六十名の連類を逮捕せしが如き、孰れの一を見ても、赤露**の魔手が如何に辛辣に動きつつあるかを立証して余りある。
*カラハン氏:レフ・ミハイロヴィッチ・カラハン。ロシアの革命家 。1923~1926に中国大使を務めた。
**赤露:「共産主義ロシア」の意。
『神戸大学新聞記事文庫』政治25-123
引用部分の冒頭で「先ず有色民族――殊に支那人、日本人の赤化に全力を傾け、その白人に対する共通反感を利用し、一気に圧倒的世界革命を断行しようという新方略」と書かれているのだが、ソ連は全世界の共産主義化を推進するために、白人と有色人種との人種問題を焚きつけて、その対立を煽って世界を戦争に巻き込む戦略を立てていたという点は注目してよいだろう。実際のところわが国は、この記事が掲載された十五年後にアメリカとの戦争に巻き込まれることとなるのである。

アメリカで排日運動が起こったのは日露戦争以降のことだが、特に激化したのは第一次世界大戦以降で、白人対有色人種との対立を煽るポスターが第二次世界大戦の終戦までに多数作られている。上の画像は1920年の上院議員選挙の際に、カリフォルニア州の住民に対して日本人の土地所有を「静かなる侵略」としてストップをかけることを主張して再選を果たしたジェームス・D・フィラン議員が作成したポスターだが、アメリカ人の間で人種問題で反日に誘導する世論工作がこの頃から始まっていたことは知っておいた方が良いと思う。
コミンテルンが支那と日本を離反させようと早くから動いていた
また支那では大正十四年(1925年)五月三十日に、上海の租界(外国人居留地)で起こったデモに対して租界警察が発砲したため、十三人の死者と四十人以上の負傷者が出た暴動事件が起こっている。(「五・三〇事件」)
この事件は、五月十五日に上海にある日系資本の内外綿株式会社の工場で暴動が発生し、工場側当事者が発砲し、共産党員の職工が死亡して十人以上の重軽傷者が出た。その後、各都市でその抗議活動がおこり、五月三十日に上海で数千人規模のゼネストに発展したのだが、同年六月六日の「大阪毎日新聞」に、この五・三〇事件に関する各国の新聞の論調が紹介されている。

いくつかの新聞でソ連(コミンテルン)の関与があったことを報じているのだが、たとえば米国のニューヨーク・イヴニングポスト紙およびニューヨーク・サン紙の社説では次のような内容であったという。
ニューヨーク・イヴニングポスト紙
支那における最近の排外運動の裏面にロシア共産党領袖連が飛躍して来たことは明白で、これを単なる想像と見なすには余りに証跡歴然たるものがある。最近 数ヶ月間にロシア政府の使命をおびた共産党員が多数支那に入り込んでいる…ニューヨーク・サン紙
今回の上海暴動に学生団が第一線に立っているが、これはこの暴動を支那の国民的運動と見せかけんがためにロシア共産党の煽動者がけしかけたものである。
『神戸大学新聞記事文庫』支那の対日罷業1-21
北京には前掲の小松緑の論説で登場したカラハンがロシア大使を務めつつ支那の赤化に取り組んでおり、『満鉄調査資料 第49編』にはロシアの反共産党系の新聞である『ロシア』が、「カラハン氏が今回の排外運動に二百万元の資本を提供せることは明らかで、その財源は税金としての露国の農民より徴収した材木あるいは寺院の財物などである。上海における労農の手先が罷業資金を提供しているという説は、一昨日の会議で学校の学生団が罷工一名に対し五十銭宛を支給せんことを約した事実によって裏書されている。国民党と学生団が巨額の資金を入手したという説も疑う余地なく…」と報じたことを述べている。要するに上海の罷業問題は、カラハンが上海の労働者や学生ににカネをばらまいてストライキをやらせたという可能性が高いのだ。
日本共産党の大検挙
次に、わが国で起きた事件の記事を紹介しよう。

上の画像は昭和三年(1928年)四月十一日付の大阪朝日新聞の記事で、三月十五日に日本共産党の党員が千名以上検挙された事件を報じている。報道が遅れたのは、全国一斉に大検挙が行なわれてすぐに記事掲載が禁じられ、ようやく四月十日に一部解禁となったことが正直に記されている。
では、当時の日本共産党は何をしようとしていたのか。司法当局がこの事件の概要を説明した内容の一部を紹介しよう。
(1)…現在における党員は数百名に達し、関東、関西、九州、北海、信越等に潜居し、進んで青年及び軍隊の赤化に労力しおれり。
(2) 日本共産党は革命的プロレタリヤ等の世界党第三インターナショナル日本支部としてわが帝国を世界革命の渦中に誘致し、金甌無欠の国体を根本的に変革して労農階級の独裁政治を樹立し、その根本方針として力をソウェート・ロシヤの擁護、各植民地の完全なる独立等にいたしつつ共産主義社会の実現を期し、当面の政策としては革命の遂行を期したるものとす。…
『神戸大学新聞記事文庫』思想問題5-30
この程度の内容で「一大陰謀」との見出しをつけたことに尋常でないものを感じるのだが、具体的にどのような計画があったのかはここに記されていないのでわからない。
戦後の歴史叙述では、日本共産党員の幹部が検挙されて以降、共産主義活動はわが国では下火になったように解説されることがほとんどだが、彼等の活動は地下に潜っただけで、コミンテルンによる工作活動はその後も活発に続いていたのである。
日本軍に対する赤化工作が開始された
そして、同じ年の昭和三年(1928年)の七月から九月にかけて、モスクワでコミンテルン第六回大会が開かれ、この会議において「共産主義者はブルジョアの軍隊に反対すべきに非ずして進んで入隊し、之を内部から崩壊せしめることに努力しなければならない。」などと書かれた決議が採択されるのだが、すでにコミンテルンはこの大会の前から、わが国の軍隊に工作をかけることに着手していたことが新聞記事に記されている。

上の画像は同年十月十九日付『国民新聞』の記事だが、
露国の対日赤化宣伝は…最近極東局長メリニコフ氏を極東赤化の根拠地たるハルビン総領事に任命し、…再び巧妙なる方法を以て対日宣伝に著手するに決し、…直接日本軍隊に宣伝を行い以て革命を勃発せしむるの方針を執るに決し、去る七月初旬以来、先ず以て在満日本軍隊に対し前後二回に亘り
(一)善良なる無産者、親愛なる日本軍人同士に檄す
(二)虐げらるる無産者、親愛なる日本軍人同士へ
と題し世界革命労働軍連盟の名を以て軍閥資本閥に反抗して階級闘争を激成し、以て一路革命の勃発に邁進せしめんとする過激なる言辞を連らねた長文の邦語宣伝文を配布し、更に引続き第三、第四の宣伝に著手せんとするの外、一歩を進めて我国内地の軍隊全部に対しても宣伝網を拡張するの計画を定め、本月上旬既に其の宣伝員は我国に潜入したる形跡ありとは屡々(しばしば)其筋に達した確報に依って明らかであり、我国礎(いしずえ)を危くする重大問題として政府当局は極度の警戒を加 えて居る…とある。ソ連は六月にすでに調査員を派遣しており、彼らは日本軍隊をこう評価したという。
「在満日本軍隊に対する宣伝は可能性ありと認める、出張中種々の機会に於て下士階級以下と飲食を共にして談話したる所、彼等の思想も相当進歩し居り、階級論争を理解して居る。然れ共今急激に皇室を云々するが如き或は帝国主義打倒の如き宣伝を行うは尚早である。階級革命、国民自由平等を標榜する宣伝を行う時は確実に効果あるものと認める…」
『神戸大学新聞記事文庫』思想問題5-10
かくして、七月二日に宣伝文書を約三千部用意し、日本語に堪能な中国人を使って、六日、七日の両日に長春、奉天、鉄嶺、安東の日本軍に配布し、七月二十四、二十五日には第二回目の宣伝文書を配布したという。
ソ連による工作活動は多岐にわたり執拗に行われて、その後わが国の政府や軍部にも赤化工作が浸透していったのだが、このようなコミンテルンの動きに触れずにわが国が第二次世界大戦に巻き込まれたことを正しく理解することは不可能ではないかと考えている。
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