前回の「歴史ノート」で、一九三一年のアメリカの対支輸出額が、それまで首位であった我が国を抜いて一位になったことを書いた。このことは支那で行われた日貨排斥運動がなければなし得なかったのだが、その運動に裏で英米が関与していた可能性がかなり高いことは、当時多くの新聞や書籍が指摘しているので、その内のいくつかを確認していただければ理解していただけると思う。
在支の日本企業が受けた排日貨による影響
このような排日貨運動により、在支の日本企業が甚大な影響を受けたことは言うまでもない。
昭和七年四月三十日から連載された中外商業新報の記事に、排日貨の影響について詳しく解説されている。
最近でこそやや緩和された地方もあるが、長期間にわたるこの運動の影響は甚大なるものであった。各地とも経済原則を無視し、かつ組織的に行われるため各方面の受けた直接間接の影響はけだし量り知れぬものがあろう。揚子江方面支那中部の対支貿易のごときに至っては、昨年十二月の輸出が大蔵省の統計によれば百七十二万二千円、本年一月が百二十四万三千円で、前年同期の、それぞれ千三百三十九万二千円および九百七十九万二千円であったのに比較して、其減少率がともに八十七パーセントに上っている。それが二月になると三十五万九千円と下って昨年二月の八百二十万四千円に比して九十五パーセントの減退率となっているのである。九割五分の減退、それは実に全滅に瀕した状況を物語るものである。…中略…
わけても支那各地に散在して活躍している邦人の商工業者の苦難は蓋し並大抵のものではあるまいと推察されるのである。揚子江流域に於ては、事変の中心地となった上海を第一として、少し上流の漢口、南の方で広東、香港、福州また北の方で天津など、在留邦人の多いところは、それぞれに排日貨の打撃も、これを手ひどく受けているのである。何しろ昨年の満洲事変勃発前からのことであってかれこれ一年に近くなろうとするのであって、その間多少の消長はあったにしても、ほとんど営業停止に等しい状態をつづけて来たのであるから、その受難の程度もおよそ想像はつこうというものである
「神戸大学新聞記事文庫」外交109-34
仕入れた商品が販売できなければ資金繰りが次第に厳しくなり、排日貨運動が長期になればなるほど仕入れ代金や経費の支払いが困難となっていく。また物資の輸送に当たる船舶の仕事が激減し、大幅な赤字とならざるを得ない。
当時上海には在留邦人が二万五千人、漢口に二千人いたというが、特に上海では排日暴動による死傷者が出たのち一月二十八日に第一次上海事変が起こり、その後約一ヶ月にわたり戦闘が続いた。在留邦人の苦労は甚大であったのだが、彼らはいくら危険であろうとも一旦わが国に引き揚げてしまっては、支那で何年もかけて苦労して築き上げてきた商圏を失ってしまうことになることを怖れた。そこで彼らの多くは、わが国の外交努力などにより事態が改善するまでなんとか我慢して踏みとどまろうとしたのである。
第一次上海事変停戦後の支那の抗日
前々回の歴史ノートで第一次上海事変のことを書いたが、この事変は三月二十四日から英国の仲介にて和平交渉が行われて、五月五日に停戦協定が成立した。その後日本軍が上海を撤収したのだが、六月二十三日の大阪毎日新聞は、上海は第一次上海事変前の状態に戻ったことを伝えている。
最近北京路方面には激烈な文句をつらねた排日ポスターが貼られているほか、公安局および工部局の支那巡捕が一度ならず侮日的態度に出で邦人はいたく激昂している。
一方支那一般商人間では「暴力をもちいない限り日本は武力をもって支那を叩くことはない。日本の武力は恐ろしいが、これに対抗するには経済上の排日よりほかにない」との観念が植えつけられ、今や徹底的排日貨の手段に出ようとする模様が看取される。支那当局者のむしろ恐怖に近い憂慮にもかかわらず、各所に排日大会が催されんとして頻々官憲に解散されるほか、侮日行為が続出している有様である。
この現状が今後も持続さるれば、遠からずして再び皇軍の出動を必要とする事態を生ずるに至り、ひいてはさきの出兵当初の目的が全く水泡に帰し、幾多将士の血と肉が江南の泥土に朽果てるのみではないかと憂慮されている。陸戦隊では二十日各路連合会に対し邦人に危害がおよべば即刻有効適切な手段をとると言明し、一般邦人に軽挙のなからんことを希望しているが、陸戦隊警備区域たる虹口方面以外はなお日本人の独り歩きは危険とされている有様で、日本人が全上海の隅々まで何の危険をも感ぜず活動し得るのはいつのことか全くその見透しすらつきかねる現状である。
「神戸大学新聞記事文庫」外交114-156
このように上海の排日状況は第一次上海事変以前の状態に戻ってしまったのだが、同日付の大阪朝日新聞は、張学良らを中心とする中央政府の北平会議で支那の抗日策が全面的に転向することが決定したことを報じている。
同会議において決定した対日方針は
一、東北自衛軍(救国義勇軍)を積極的に援助し軍費、兵器、弾薬の補給を十分ならしめもって戦闘持続を策し、日本軍をして奔命に疲れしむること
二、挙国一致排日、排貨を断行し日本の商工業経済に大々的創痍を与うることすなわち従来の方針たる以夷制夷の策に加うるに顧維鈞の主張たる『自力救国運動』を採用したものであって、国際連盟やロシヤ、アメリカのみに頼ったばかりでは到底駄目だから武力、経済力、外交の全面的抗日運動に転向せるもので、遼西の反満擾乱乃至支那公使蒋作賓の渡日などすでにこれに由来するもので、今後の日支抗争はいよいよ激化するものと見られている。
「神戸大学新聞記事文庫」116-157
以夷制夷というの は、外国を利用して他の国を抑え、自国は戦わずに利益を収め、安全を図るという支那の伝統的な外交戦術であるが、満州事変後支那は直ちに国際連盟に訴え、さらに英米露に工作をかけてわが国を追いつめようとしたのだ。支那はリットン調査団にも接近し、調査団が満州滞在中に満州国の治安を悪化させて支那に有利な報告書を書かせようと動いたのだが、国際連盟や他国に頼るだけではなく、抗日運動を特定の地域だけでなく全支那レベルで推進していく方針を決めたという。
内乱で支部五列状態の支那
とはいえ当時の支那は内戦状態が続いており、中央政府が統治出来ている地域はごく一部に過ぎず、国はバラバラの状況にあり国家の体を為していなかった。
四川省では劉湘と劉文輝が衝突を始めたが、さらに二十軍長楊森までがこれに巻き込まれ、武力解決を旗印に部下の主力を動員して武勝(定遠)を占領し劉湘軍の攻撃を開始したので戦乱は遂に全省に及んだ。また山東省には韓、劉の戦争が依然熄ます馮玉祥の西北入り、閻錫山引退説など軍政界巨頭連の策動と共に伝統を誇る東北軍閥も漸く崩壊の色が濃厚となった。さらに河南の蒋介石の直系軍が突如山東省境に侵入し、劉珍年を援けて韓復渠を討伐する模様だが、かくなれば北支の戦雲は一時に爆発し、排日問題どころの騒ぎでなく、お膝元が滅茶苦茶だ。
貴州省でも毛光翔と王家烈が相争い、毛派は西北、王派は東南に拠って触らば斬らんの身構えだ。西康方面では西蔵軍が劉文輝軍撤退の隙に乗じて大軍を率いて進出中で続々各地を占領しつつある。また福建省では広東派の息がかかっている十九路軍に属する陳国輝軍の武装解除から紛糾を生じ、林森国民政府主席が調停に乗出したが、十九路軍側勝ちを制して総指揮蒋光鼎を福建省首席に任命して一先ず解決するかも知れぬ。
右のほか広東省の独立、共産党の討伐難、財政難に中央政府内部各派の政権争いなどその命令何ら威力と拘束力なく、中央の威信は失墜するばかりで、混乱は愈々その極に達し、その国家としての組織民族としての価値殆どなく、絶望の深淵へ—の一途を辿るものと見られる。
「神戸大学新聞記事文庫」政治42-150
国際連盟規約の第一条には「加盟国たらんとする国家、領土、または植民地は、完全なる自治国たるを要す」と規定しているのだが、当時の支那は内乱で四分五裂の状態で、南京政府は支那十五省のうちの四省程度の省の政務を統括しているに過ぎなかった。そもそも国際連盟の加盟資格のない国が国際連盟に加盟していることを最大限に利用して、満州における日本の影響力を殺ごうと工作していたのだが、わが国が国際連盟を脱退した経緯について、戦後の歴史家やマスコミはこのような史実を未だに隠蔽したままである。
満州問題に関する国際連盟理事会が開催された後、支那が米露に接近した理由
リットン調査団の報告書が十月一日に国際連盟理事会に提出され翌日に世界に公開されたのだが、その内容は予想された通り、歴史上漢人が支配したことがない満州を支那の一部とするなど、極めて支那に有利な内容で書かれていた。十一月二十一日から国際連盟の理事会で満州問題が討議されることが決まると、わが国は松岡洋右を全権とする代表団を国際連盟本部のあるジュネーブに派遣することを決定している。松岡の最初の演説とその後の支那の動きなどについては以前このブログで三回に分けて書いたのだが、興味のある方は次の記事を参考にしていただきたい。
十一月二十一日には松岡のほかに支那代表の顧維鈞も演説を行い、二十三日には松岡が支那の演説の反論を行っているが、その後の顧維鈞は根拠のないプロパガンダ的な言辞を繰り返すだけで、連盟の議場の空気は明らかに日本に有利な方向に向かっていたのである。
議論では松岡に勝てないと悟った支那はその後様々な手を打っている。当時排日運動はいったん沈静化していたのだが、南京政府は再び排日運動を活発化させるべく全国に向けて排日密令を発し、その後公然と日貨排斥、排日運動が横行するようになったことを十二月四日の大阪毎日新聞が伝えている。
ジュネーヴにおける支那側の形勢不利に伴うて、一時終息していた支那各地の排日運動がまた再燃し来り全国に波及の気配にある。確聞するに南京中央党部から全国党部に排日密令が発せられ、やっと曙光を見出したわが対支貿易の前途に大暗影が投ぜられつつある。国民政府の膝元である南京にあっては、例の中央国際無電台は日本人の排日貨放送を中止したが、依然支那人により日、英、露、支の各国語の排日デマを全国に飛ばし人心をあおっている。南京市党部は急進排日派で占められ公然日貨没収、血魂除奸団が横行しはじめた。
今回の排日は従来と非常に性質を異にする。すなわち排日運動は国際連盟で顧維鈞代表から日本の侵略行為に基因する必然的反動行為と言明されており、またさきに行政院長代理宋子文が在京中の各国公使と会見の際、これまた日貨排斥は国民の愛国運動で政府はこれを取締ることは出来ぬ、決して排日行為にあらずと暴言的声明をした。これらの事実は排日運動の背後に国民政府があることを公然如実に示したと同時に支那側にとって「排日行為は自衛手段にほかならぬ」と今後排日運動に対する国民政府の態度を内外に発表したもので、排日を是認し全国民に排日の油を注いでいる。
「神戸大学新聞記事文庫」外交121-162
「日貨排斥は国民の愛国運動」であるとして取り締まることをせず、「排日行為は日本の侵略に対する自衛手段」などと国内外に発表しただけではない。国際連盟がだめなら別の方法で日本に圧力をかけようと動き出したのだが、こういう場合支那は往々にして外国の力を利用しようとする。
十二月七日付の大阪毎日新聞は次のように報じている。
駐米支那公使館から国民政府外交部に達した密電によると、目下ワシントンにあって米国当局者間において極秘裏に行われつつある米国の露国承認に関する交渉は着々進捗中と伝えられ、米国の露国承認の確証を得た国民政府は露国との国交回復を一転機として、従来終始一貫して来た国際連盟至上主義から急旋回して米露両国に対し急激なる接近策を講ずるに至った。即ち有利なる利権を提供し日本および英仏を牽制することに十四日の外交委員会で決定。…中略…
米国とは最近各種の借款続々成立しつつあるが、殊に重視すべきは目下行政院長代理宋子文と米国間に行われている武器供給借款に関する秘密交渉で、現在着々進行中といわれる。その内容は米国から飛行機五百台を購入ししかもその担保として支那は東海岸一帯を米国海軍根拠地に提供することを条件にしている。これによって見れば米支両国の目的が那辺にあるか頗る明白である。表面対日不干渉を表示した米国がかかる暗中行動をとることはその伝統的な東洋政策の本体を暴露したもので日本にとっては一大警鐘であろう。
要するに国民政府の米露接近策、国際連盟をはなれたことは旧来の夷をもって夷を制する旧套を脱せぬが、露国との復興と今後支那の共産運動の浸潤、米支の経済的提携と相まって米露支三国の外交関係進展如何は、英仏諸国殊に日本に大影響をおよぼしその前途誠に憂慮すべきものがある。
「神戸大学新聞記事文庫」120-194
国際連盟では英仏は日本を支持する側に廻っており、それを不満とする支那が米露に接近して日英仏を牽制することを決定したのだが、ちなみに、アメリカは国際連盟の参加国ではなく、ソ連もこの時点では参加国ではなかったことに注意が必要である(ソ連の国際連盟参加は一九三四年九月)。この記事によると、支那はアメリカと締結した武器供給借款に基づきアメリカから飛行機五百機を購入し、担保として支那の東海岸一帯を米国海軍根拠地に提供することを条件としたという。アメリカとの密約は他にもあったと思われるのだが、年が明けてアメリカが国際連盟に介入したことにより議場の雰囲気が一変してしまうのである。その点については次回に書くことに致したい。
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