前回記事で、小学校から大学まで多くの赤化教員が潜り込んで生徒に左翼思想が拡げられたことなどを書いた。
では、コミンテルンが日本共産党に指令した赤化工作が、実際のところ当時の生徒たちにどの程度の影響を与えたのであろうか。当時の新聞を調べると、かなり大きな影響を与えていたことがわかる。
当時の学生たちの左傾化状況

上の画像は昭和五年七月十二日の国民新聞だが、政治学者の五来欣造が書いた「学生の左傾思想に就て」という連載記事の第一回目で、当時の思想界はマルクス主義一色のような状況であったことを述べている。
最近官公私立の諸学校に、同盟休校其の他の動乱相継いで起り、文部当局は素より、社会一般の民心に少なからざる危懼の念を抱かせて居る。それは左傾思想がその根底をなして居るからである。聴く所に依れば、共産派の幹部は、東京を四つの学生区に分ち、早稲田の如きは其の一区をなして居ると云う事である。ひとたび幹部が指令を発するや、各区の団長は必ず其の区に於て争議を起すべき義務を有し、其の手段としては学生の雄弁部、新聞学会、其の他の諸学会に細胞を配置する事である。
斯くの如き共産党からの、積極的策動以外に、近来日本の思想界が、非常なる変調を呈し、マルクス主義でなければ夜も日も明けぬと云う有様で、都下の有数なる雑誌は此の風潮に余儀なくされて、心ならずも危険思想を伝播しつつある有様である。
『神戸大学新聞記事文庫』思想問題5-87
このように、当時の全国各地で学校の左傾化が問題にされていたほどだから、多くの学校でマルクス主義思想に共鳴していた学生が少なからずいたことは確実である。そのことは当時において大量の共産主義関連本が出版されたことで見当がつく。
日本初の『マルクス・エンゲルス全集』全二十七巻が改造社から刊行されたのは昭和三年から五年。二十四巻の『レーニン叢書』が白揚社から刊行されたのは昭和二年から三年。十五巻の『スターリン・ブハーリン著作集』が同じく白揚社から刊行されたのは昭和三年から昭和五年。マルクス・エンゲルスの『資本論』はこの時期に矢継ぎ早に六社(大正八年:緑葉社、経済社出版部、大正九~十三年:大鐙閣、大正十四~十五年:新潮社、昭和二~五年:岩波書店、昭和二~三年:改造社)が出版しているなど、この時期は共産主義に関する書籍がバカ売れしていたのである。 治安維持法が施行されたのは大正十四年で「国体変革」を目的とする結社を組織し指導することが重罰化されたのは昭和三年だが、一方で共産主義思想書については盛んに出版されていたことを知るべきである。
そして学校を卒業して就職した後に、同年次の男性の一割から二割程度が軍隊に入隊したのだから、その中に左翼思想を持つメンバーが相当数潜り込んでいても決しておかしなことではない。
軍隊の赤化工作
当時の新聞を調べると、コミンテルンは教育機関だけでなく、軍隊の赤化工作にかなり力を入れていた。

たとえば、昭和三年(1928)四月十四日の神戸又新日報の記事には、次のように記されている。
重要な某連隊に本年入隊した現役兵二名が今回の共産党事件に関係して居り、党員と気脈を通じて軍隊中の細胞組織を行わんとひそかに画策していたことが判明したので当局では大狼狽して直ちに、陸軍方面の関係者は種々協議中…
ちなみに「今回の共産党事件」というのは「三・一五事件」のことで、この日に約千六百人の共産主義者が全国で検挙されたのだが、この中に四月に入隊したばかりの現役兵がその中にいたということである。

また同じ年の九月二十五日の中外商業新報に、元外交官の小松緑が書いた連載記事『赤化運動の経緯』の二回目に、ソ連の五月二十四日付の『プラウダ』紙上で第三インターナショナル(コミンテルン)がわが国の軍人に対して、「陸海軍人諸君よ、諸君は陸海軍両方面より、先ず反動勢力を打破し、而して支那を革命助成する為め、その内乱戦を国際戦に転換せしむるよう不断の努力を怠る勿れ」と檄文を飛ばしたことが記されている。当時の日本陸海軍によほど共産主義者がいなければ、こんな記事がソ連政府の半官報である『プラウダ』紙上に出るはずがないだろう

上の画像は前々回にも紹介させていただいたが、昭和三年ごろからは軍部の赤化工作が更に強化されていった。

また昭和七年(1932)二月十一日の東京朝日新聞では、陸軍幹部養成の総本山である陸軍士官学校で赤化運動が起こり、連日所持品検査がなされて四名が放校処分された記事が出ている
その後「神戸大学新聞記事文庫」では軍部の赤化工作にかかわる記事が見当たらないようになるのだが、軍隊に左翼分子がほとんどいなくなったのではなく、軍部が公表しなくなっただけのことだと考えている。その後軍部には共産主義思想を抱いたメンバーが年々増加していったのだが、その点については次回以降に書く予定である。
若者を共産主義思想に共感させた当時の政治および社会の状況
コミンテルンの指示によりわが国の教育機関や軍隊などに赤化工作が進んでいったのだが、このような思想に興味をもつ青少年がごく少数であったならば、共産主義思想が拡がって行くことはなかったと考えにくい。しかしながら、実際には多くの青年男女が共産主義思想に染まっていったのであるが、それはなぜなのか。その点については、当時のわが国の政治状況、経済や社会の状況を知る必要がある。

昭和七年に刊行された富山直孝著『孤立日本の危機』(GHQ焚書)という本がある。著者については表紙に陸軍少将と書かれていること以外はわからない。この本には、当時の政治が非常に腐敗していて、わが国の経済や社会に多くの問題を生じていたことが分かりやすく書かれているので一部を紹介させていただく。
彼ら(政治家たち)は党利党略の上に立って世論を起こそうとする。それは世論を聞くことよりも、世論を起こすことに努力する。即ち手形をどしどし乱発して自党に民意を迎えるのである。地方は地方で、鉄道、山林、治水、港湾改良などいうことを問題にして地方民を喜ばせる。…中略…
かくて代議士にも当選する。自党が優勢になる。従って政権にもありつける。しかるに代議士に当選し、政権にありつくと、橋一つだってただでは架けさせぬ。そこには何物かの提供が必要である。…中略…いずれの国に於いても同じであるが、資本主義国に於いては政治家と資本家との結託は最も弊害のあるものである。…中略…
大資本家が海外に投資するにも後ろ立ては国家である。時には国家の軍隊さえも動かす。軍部に於いてこのたびの満州事変に於いて資本家の横暴を許さずと息巻いているのは、漸く帝国軍人にもそのからくりが判明したからのことである。これも当然のことで、軍人と言えば多くは無産者の子弟だ。それが弾丸雨飛の中をくぐって戦い、ようやっと帝国の権益を得る。
然るに、そのあとに投資して旨い汁を吸うのは皆資本家である。実際に戦った無産者はただ指をくわえて見ているだけである。これでは軍部が怒り出すのも無理はない。政治家の本体は結局金融資本家のかいらいであり、かつ利欲のかたまりということになる。然し、これも結局はまた金がいるからである。一陣笠になるにも容易ならぬ金がいる。まして一大政党を支えていくには莫大な金がいる。解散にでもなれば、一人でも多く党員を獲得せんがためにはこれに対する運動費を必要とする。また陣笠の買収費を必要とする。
そこで彼らは常に政治をよそにして利権あさりをすると共に、常に他党との泥仕合をやっている。国民にもよく思われたい。資本家にも見離されまい。とするところには当然他党との泥仕合が必要となる。これも頭数政治の今日では致し方がないというのだ。…中略…以上の如き点より今や全くわが国の議会政治は国民の信用を失墜するに至った。しかも金さえあれば議員になれ、かつ、目的を忘れた代議士にても、その頭数さえ多ければ天下の政治を握ることが出来るという弊害が暴露されるに至ったのである。即ち、結局政治は金である。泥仕合である。なんでもかんでもよい、頭数さえ多からしめればよいということになり、それにはまた金が必要なところから、党利党略を事するに至り、全く政治家、政党政治、議会というものは国民の信用を失うに至ったのである。
富山直孝『孤立日本の危機 : ○国の暴慢と日本の憤激』日本図書刊行会 昭和7年刊 p.19~23
政治の目的は、結局のところ国を守り、国民を豊かにすることにあるのだが、選挙で選ばれた政治家が、国益より政治資金を拠出した企業や団体からの意向で動くことで、国家の存立が危うくなるという状況は今のわが国の現状と似ているところがある。当時の投票率は今よりもはるかに高かったのだが、利権で動くような政治家を大量に当選させてしまったために、政治が確実に腐敗していったことを知るべきである。
目も当てられぬ庶民の貧困
当時も今も政治家は、国民を豊かにすることよりも、自分の利権を優先する傾向にあるのは同じだが、当時の庶民の生活の苦しさは今とは全く比較にならないほど酷いものであった。
前掲書には次のように書かれている。
現日本の農民は粗衣粗食にあまんじ一日営々と働きながら六十億の借金に苦しんでいる。しかも彼が営々として働いて稼ぎだすものは如何か。これは全くお話にならぬ。働いても働いても足らぬのだ。働いても働いても食えぬのだ。その結果は自分の子女を売る者も少なくない。そのために東北のある村では若い女が一人もいなくなったという事実もある。…中略…
かくして売られ行く村の娘達の売上代金は主として借金の利息になっている。今のところ借金の元金など返そうにも返されぬ農村の実状である。…中略…
生活の窮乏に泣いている者は農民のみではなかった。日本全国幾百万の中小商工業者も同じく困窮のどん底にあった。
物は造っても売れぬ。売れても製品の値下がりは、材料費さえも出ない。それに貿易は全く不振である。ことに第一の得意先とする支那は、満州、上海事件以後その取引は絶滅した形である。またアメリカ合衆国も国民的感情や、米国自身の不況から取引をひかえる。この上に、何れも税率を高率ならしめて、日本品の輸入を防止する。従ってこれは中小工業者にも大きな打撃となる。
また、一方中小商業者にたいしては大資本の圧迫がある。しかも金融は出来ぬ。この上に百貨店の進出は、ついに小売業者をして解消せしめるに至ったのである。…中略官吏は減俸になる。職工は賃金が貰えぬ。失業者は続出する。農民は餓死に近いというのでは中小商業者の商売も上がったりであることは言うまでもない。…中略…
かかる社会情勢に対して、農業、工業、商業いずれの方面に於いても良き対策を講ぜざりしことに依るものである。一口に言えば、経営よろしきを得なかったのである。なおまた、政治家たるものが国民に対して空手形を乱発するのみにて、これがために忠実なる努力と善政を施かざりしによるのである。
同上書 p.35~42
当時東京には七千人の娼妓がいたそうだが、そのうち東北、北海道から売られて来た女性が四十六パーセントもいたことが記されている。生活が厳しいのは農家だけでなく中小工業者、中小商業者の家庭も同様で、失業者は百万とも二百万とも言われていた。繁昌していたのは三菱、三井等の大企業ばかりであったのだが、こんな状況が続けば、政治家や大企業が庶民の怨嗟の的となり、家庭の生活を見て、また学校の赤化教員の影響を受けて、マルクス主義にシンパシーを持つ若者が増加したことは当然だと思う。一方コミンテルンは大衆の軍隊化を推進しており、「共産主義者はブルジョアの軍隊に反対すべきに非ずして進んで入隊し、之を内部から崩壊せしめることに努力しなければならない」と主張していたのである。このコミンテルンの主張に共鳴して軍隊に入隊した者がどれだけいたかは不明だが、終戦直前には相当な数になっていたことは確実なのである。その点については、いずれ書くことと致したい。
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