華僑のルーツと苦力貿易
前々回の「歴史ノート」の記事で、アヘン戦争のあとで中国の苦力(クーリー)貿易が開始されたことを書いた。
19世紀に入って欧米諸国で相次いで奴隷制が廃止されたために、奴隷に代わる低賃金労働者が欧米の植民地などで求められることとなり、そこでかき集められたのがイギリスの植民地であったインドの貧民層であり、アヘン戦争後にはさらに中国人が加わった。このようにして集められたインド人・中国人の労働者を「苦力」と呼んでいる。
建前上は「苦力」は自由意思による渡航移民なのだが、過酷な低賃金の肉体労働のために自費で外国に渡る者がいるはずがなく、実際には金銭で集められ貿易の対象とされて船に積み込まれ、実態は奴隷とほとんど変わらなかった。彼らは劣悪な環境で扱われ、航海中や作業中に多くの死亡者が出たという。彼らがどのような場所に送られたかについては、Wikipediaに次のように解説されている。
アメリカには大陸横断鉄道建設の労働者などとして使われ、中国からカリフォルニアに10万人以上が送られた。オーストラリアやマレーシア、マダガスカルなどにも、各々10万人程度が移住したとされる。また、ロシアでもシベリア鉄道建設の労働者などとして10万人以上が送られた。 こうした19世紀の移民によって、世界各地に華人社会の原型が形作られていった。
Wikipedia
中国本土から海外に移住した中国人およびその子孫を「華僑」と呼ぶが、その数は今日20~30百万人にもなると言われている。こんなに多くの中国人が世界各地に住んでいる理由は、「苦力貿易」にルーツがあると言って良い。
しかしながら、中国ではこのような労働者の海外渡航を禁止していた。にもかかわらず、大量の苦力がどうやって集められ、世界に送られていったのであろうか。
須山卓氏の「植民地奴隷制度と中国人苦力貿易―華僑経済史に関する一側面」という論文に、苦力の募集についてこのような記述がある。
…募集の方法には、中国人の奸商を代理人として使用し、…さらにその配下に…募集要員を使用し、奥地に赴かしめて種々の手段を弄し、無知の農民たちを誘惑・誘拐して海外植民地向け労働者として輸送した。中国官憲はこれら労働者の渡航を不法として許可しなかったので、彼らは中国法権の及ばないホンコンおよびマカオを根拠地にして、ここに監獄部屋式の苦力収容所を設けた…。募集人は自分の拉致した労働者を修養所に収容した頭数によってそれぞれの手数料が支払われた。最初の手数料は二ドルであったが、彼らは移民の一人一人に支払われる金額―最初は一人当たり八ドルであったが、公式にはこれ以上であった―を着テク氏、自由勝手に悪事を働いた。とくに輸送代理店の競争が激しい場合には、一人あたり百ドルの儲けが懐にころげ込んだという。
…アモイ、汕頭、ホンコンなどに出入りしたこれらの誘拐者は、一時は二千人以上に達したといわれ、しかも彼らは少ないときに五・六人、多いときは百余人の苦力を募集して、これを引率して植民地へ乗り込んだのである。
募集された苦力は、まずバラクーン(収容所)に拘禁されたのち、船の出航をまって輸送されるのであるが、その間の待遇はもっとも惨酷を極め、裸体首架されたのち各人の胸部にはC(Cuba行)、P(Peru行)、S(Sandwich Island行)の各文字がスタンプされた。また衣服についても、与えられるものは彼らの餓(うえ)を凌ぐだけの僅少の食糧とわずかに陰部を覆うだけの織物の切片だけであった。また、留守家族のためには、わずかに一ドルないし二ドルの扶養料の給与しか与えられなかった。
(「植民地奴隷制度と中国人苦力貿易―華僑経済史に関する一側面」p.61)
マリア・ルス号事件
明治五年(1872年) 6月1日(旧暦)に、暴風雨に遭いマストの一部が破損し帆綱も断れた状態で、南米ペルー船籍の古い帆船(マリア・ルス号)が横浜港に修理のために入港した。横浜港長パーヴィス大佐の命令を受けて同船に対し役人の臨検が行われ、この船に225名の中国人苦力を載せていることが明らかになった。この事件のことは戦前には多くの書物で詳細に解説されているのだが、戦後は一般の歴史書などで解説されることは皆無と言って良い。
GHQ焚書である菊池寛著『大衆明治史』などを参考にしながらこの事件のことをまとめておこう。『大衆明治史』の「国民版」はKindle版も出ていて270円で読むことができる。
この船が横浜入港してから数日後に、過酷な待遇から逃れるために一人の中国人苦力が海へ逃亡し、近くに停泊していた英国軍艦アイアン・デューク号が救助した。その中国人には明らかな虐待の形跡があり、本人の陳述から英国領事館はマリア・ルス号を「奴隷運搬船」と判断し、「この驚くべき蛮行の事実を率直に当局に告げ、日本政府が適宜の処置を執られんことを切望する」旨を、神奈川県庁を通じて通告した。
神奈川県庁の権令(副知事)の大江卓は義憤を感じつつも、条約が締結されていない日本とペルーとの間で国際紛争を起こすことはないとの考えでその苦力をヘレロ船長に戻したのだが、船長は船に戻るとその苦力に再び笞刑を加え、その悲鳴が遠くまで達したという。
数日後またもや別の苦力が英艦に泳ぎ着き、再び船長の暴状を訴えた。激昂した英艦乗組員は英国代理公使ワットソンに急報し、ワットソンは米国公使とともに外務卿の副島種臣を訪ねて日本政府に注意を喚起したのである。
当時政府部内では、司法卿江藤新平や陸奥宗光等は条約国でもないペルーと事を構えるのは不得策だと反対したが、副島はこの非人道的な事件に対して断固糾弾すべきだとし、また法理的立場から見ても、マリア・ルス事件の処断は、正当な権利だと主張した。
即ち、清国とペルーに対しては、日本としては、条約による領事裁判は認めてないから、両国民は日本に於いてはその国権、すなわち裁判に従う義務があると言うのである。
(『大衆明治史(国民版)』p.44)
「領事裁判」とは在留外国人が起こした事件を本国の領事が本国法に則り領事裁判所で行う裁判のことをいい、江戸幕府が安政年間に条約を締結した米・英・仏・蘭・露各国には認められていて、領事により本国に極めて有利な判決が下される傾向が強かった。副島種臣は中国やペルーとはこのような条約がないので、この問題はわが国の法律で処すべきであると述べたのである。この副島の主張は閣議を通過し、この事件の調査は大江卓に命ぜられた。
大江の査問に対しヘレロ船長と弁護人は、問題の苦力たちはいずれも乗客であるから相当な待遇を与えていると主張し、「本事件は公海において発生したものであり、日本国法権の及ぶところでない。」「マリア・ルス号出港停止による、損害賠償を請求する」と主張した。一方、大江は他の苦力たちを公判に呼び証言させたところ、いずれも船内の暴状を訴えたという。
大江卓を裁判長とする特設裁判所による7月27日の判決は、中国人は船客として当県庁所在の一般居留民同様の権利と自由を共有するので、船には返さない。その上でマリア・ルス号の出港を認めるというものであったが、ヘレロ船長はこの判決を不服としたうえ、中国人苦力に対しての移民契約破棄の罪状で告訴するに至った。
船長に対し大江卓が8月25日に出した判決は痛快である。移民契約は奴隷契約であり、人道に反するものは無効であると却下したのである。この判決により、中国人苦力は全員解放され、清国政府は直ちに特使陳福勲を派遣して大江卓神奈川県県令および副島種臣外務卿に深謝し、9月13日に苦力から解放された者とともに上海に向かったという。
国際仲裁裁判での勝利
ところが、問題はこれでは終わらなかった。
のちにペルー国はわが国に対して損害賠償を要求し、わが国もそれに反論を加えたが議論は平行線となり、最後にはロシア皇帝アレクサンダー二世に仲裁を依頼することとなった。サンクトペテルブルクで開かれた国際仲裁裁判には、日本側代表として榎本武揚が出席し、裁判の結果、明治八年五月に「この事件は民条約国家間に起こった問題であるから、日本政府が自国の法律習慣によって処置したのは、万国公法に認められた独立国家当然の権利の行使に基づくものである。更にまた本件は全く私意に出でたものでないから、ペルー国の人民が多少の損失を蒙ったとしても、日本政府はこれに対して何ら責に任ずる理由はない」との判決が言い渡され、ペルー側の要求は退けられたのである。
菊池寛は同書でこう解説している。
阿片売買と共に、この苦力売買は、西欧人が支那に対して行った罪悪の、最も悪逆なるものの二つである。当時ハバナの総領事から、外務大臣への報告に依ると、この奴隷船の支那苦力の死亡率は14パーセントに達したと言われる。ひどい例になると、同じく澳門(マカオ)からペルーへ送られた二隻740名の苦力中、航海中死んだ苦力が、240名という記録さえある。これから見ると、マリア・ルス号など、まだ待遇が良かった方かもしれない。
…
後に清国政府は、わが国の厚誼を徳として、副島外務卿及び大江権令に対し、感謝の印として、頌徳の大旆(たいはい:大きな旗)を贈ったという。
(同上書 p.49)
清国はいくら労働者の外国渡航を禁止しても、自国民を騙して法権の及ばない地域に連れ去られては、国民を守ることも取り返すことも出来なかった。それを明治初期のわが国の外交努力により225名の苦力を取り返したことを中国から感謝されたことはもっと知られてよいと思う。
この大旆は神奈川県公文書館に収蔵されており、『公文書館だより』創刊号に大江権令に贈られた大旆の画像が出ている。大きさは縦348cm、横187cmとかなり大きなものである。
最後に菊池寛はこう述べている。
国際法の知識の貧弱なわが外務当局が、敢然起って、自主的にこの事件に干渉し、この好結果を得たのは、もとより副島の果断、大江の奮闘にもよるが、わが当局が、人道上の正義に基づく行動は結局世界の同情を得る、という確信から出発したことにもよる。外務省公刊の「秘魯(ペルー)国マリヤルズ船一件」なる文書の末尾に、
「此一件ノ当否ハ普(あまね)ク宇内(うだい:天下)ノ正決ニ信ズ」
と壮語しているが、全くこの自信を現したものに外ならない。
(同上書p.49~50)
わが国が、明治の初期に奴隷解放の正式裁判に勝利したことは、世界の人道史の上で誇りとしても良いぐらいの話だと思うのだが、戦後のわが国ではほとんど知らされていないのは残念なことである。
戦後のわが国は、国民が拉致されても領土を専有されても、金をばら撒いて相手国の出方を待つような 情けない 交渉しかできない国になってしまったが、こんなやり方で外交交渉がうまくいくとは思わない。政治家や官僚は、正しいことは世界に訴えて勝利を勝ち取ろうとする気概を持ち、相手国と腹を据えて交渉にあたって欲しいものである。
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ブログ活動10年目の節目に当たり、前ブログ(『しばやんの日々』)で書き溜めてきたテーマをもとに、昨年(2019年)の4月に初めての著書である『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を出版しています。
通説ではほとんど無視されていますが、キリスト教伝来以降ポルトガルやスペインがわが国を植民地にする意志を持っていたことは当時の記録を読めば明らかです。キリスト教が広められるとともに多くの寺や神社が破壊され、多くの日本人が海外に奴隷に売られ、長崎などの日本の領土がイエズス会などに奪われていったのですが、当時の為政者たちはいかにして西洋の侵略からわが国を守ろうとしたのかという視点で、鉄砲伝来から鎖国に至るまでの約100年の歴史をまとめた内容になっています。
読んで頂ければ通説が何を隠そうとしているのかがお分かりになると思います。興味のある方は是非ご一読ください。
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コメント
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