将軍継嗣問題と日米修好通商条約
前回の「歴史ノート」で、将軍継嗣問題のことを触れた。第十三代将軍・徳川家定はもともと病弱で、非常時の将軍に相応しくないうえに子供がなく、兄弟も皆早世していたのである。
この事態を憂慮した島津斉彬・松平慶永(よしなが)・徳川斉昭ら有力大名は、大事に対応できる有能な将軍を擁立すべきであると考えて、斉昭の実子である一橋慶喜 (後の徳川慶喜) 擁立に動き、老中阿部正弘もこれに加担した(一橋派)。これに対して譜代大名や大奥は、家定に血筋が近い紀州藩主の徳川慶福(よしとみ:後の徳川家茂)を擁立しようとした(南紀派)。
血統では徳川慶福は申し分がないのだが、当時はまだ十二歳の少年で天下の難局に当たるには若すぎた。一方、一橋慶喜は徳川斉昭の七男で身体強健で文武の修養も深い二十歳の青年であった。
ところが阿部正弘が急死すると、同じく一橋派の堀田正睦が幕府の主導権を掌握したのだが、譜代大名の巻き返しが始まった。
安政五年四月二十一日(1858/6/2)に日米修好通商条約の勅許取得に失敗した堀田が江戸に戻ると、四月二十三日(6/4)には南紀派で彦根藩主の井伊直弼が、将軍と大奥の支持を得て大老となり幕府の主導権を握ったのである。
井伊直弼は五月一日(6/11)に、次期の将軍を徳川慶福にすることに内定したのだが、一橋派が容易に納得しないことを考慮してしばらくこのことを厳秘としていた。そして六月一日(7/11)に将軍の継嗣を血統のうちから定めるべき事を内示し、翌日に朝廷に奏して勅許を求めている。一方一橋派は、「英明・年長」を兼ね備えた者を将軍継嗣とすべきであることを朝廷に働きかけて、勅書を出させようと動いていたのである。
こんな状況下において、予期に反して通商条約調印の問題が切迫して来た。前回の「歴史ノート」で記した通り、アロー戦争で英国が清国に勝利し、天津条約を結んだ後、いよいよ日本に通商条約締結を求めてくるという情報が飛び込んできたのである。
幕府内の多数意見は、ここに至ってはアメリカと急いで条約を締結するしかないが、朝廷の説得に日時を費やしている余裕はない。もしアメリカとの条約締結前に英仏軍艦が来航し、圧倒的な武力に威圧されて条約交渉を余儀なくされれば、国威を失うことにもなりかねないと考えたのである。
昭和十五年に出版された『概観維新史』には、この局面における井伊の決断を次のように描いている。
衆議は即時調印にあったが、大老はなおも(井上)清直ら二人に、なるべく朝命を得るまでは調印を延ばすよう談判すべきことを命じた。しかし清直が「万やむをえぬ場合には調印するも可なるべきか」と反問して指揮を請うたので、大老は終に拒み得ずこれを容認したのであった。かくて再び米艦に赴いた清直・(岩瀬)忠震の二人はハリスを説得するに至らず、十九日(7/29)の午後日米修好通商条約十四箇条・貿易章程七則に調印を了した。
(『概観維新史』維新史料編纂事務局 昭和十五年刊 p.242)
しかし、幕府が勅許を経ないでアメリカとの条約を締結したことを朝廷に奏上すべきところを、堀田正睦ら五人の老中は、臨機応変の措置を取らざるを得なかった理由を老中奉書にしたため、使者も立てずに飛脚便に託して京都に送ったのだが、このことが孝明天皇の逆鱗に触れることとなる。
次期将軍の公表と井伊大老による一橋派の処分
幕府が勅許を得ずに条約に調印したという話は、翌日以降には広く知られるようになっていった。
一橋派の諸侯は幕府の専断に対して非難攻撃を加え、次期将軍を徳川慶福に決めようとしている井伊大老に圧力をかけた。例えば徳川斉昭は嫡男の慶篤(よしあつ)とともに六月二十一日付で建議書を提出し、幕府が勅許を得ないまま条約調印を進めたことを「違勅の大罪」をなしたとし、幕府がそのことをすぐに公表しないことを問題とした。
幕府は条約に調印した事実を二十二日に諸侯に公表することを決めたが、井伊大老はそれに先立って幕閣の改造による内部固めを行うこととし、二十一日に老中の堀田正睦と松平忠固を登城禁止にして、二十三日(8/2)にはこの二人の老中を罷免してしまった。
そして、二十二日に在府の諸侯に条約調印の顛末を説明し、今後の処置について意見を求めたところ、幕府に対する非難が相次いだという。前掲書には一橋派の反発をこう解説している。
一橋慶喜は二十三日、田安慶頼を誘って共に登営し、直弼に対し、違勅の罪を犯したにもかかわらず、老中奉書を以て奏聞した不法を面責し、更に老中を招いて、当将軍の時代に至って、黠虜(かつりょ:悪賢い野蛮人)の虚喝に辟易して違勅ともなるべき処置に出たのは、台慮(たいりょ:上意)に出たものか、はたまたその方どもの取り計らいかと詰まり、速やかに京都に遣使あるべきを促した。伊達宗城、松平慶永(春嶽)もまた前後して井伊大老を訪い、条約調印の不都合を詰める所があったが、斉昭は井伊大老をはじめ条約調印に関係ある有司を黜(しりぞ)け、以て天朝に謝する道を講ぜしめ、また慶永をして幕政を総括せしめようとし、宗城もまた岩瀬忠震等と内外策応して慶永の幕政参与を企図した。
(前掲書 p.246)
この段階では将軍継嗣が誰になるかはまだ発表されておらず、幕府は二十五日(8/4)になってようやく、紀州の徳川慶福が次期の将軍と決定したことを正式に発表している。発表がこれだけ遅れたのは、将軍継嗣問題に条約勅許問題が加わって政情が混乱したことが大きかった。
そこで井伊大老は幕府の権威を回復させるため、一橋派の処分を行う決断をした。たまたま七月二日(8/10)の夜に第十三代将軍徳川家定が危篤に陥り六日(8/14)に薨去したのだが、その前日に将軍命で徳川斉昭に蟄居、松平慶永、徳川慶恕に隠居謹慎、徳川慶篤、一橋慶喜に登城禁止などの処罰を行っている。
井伊大老が人望ある親藩の人々を処罰したことは世間の悪評を招く一因となり、無勅許での通商条約締結や継嗣問題の対応とともに、幕府に対する強い反感を惹起させることとなった。
安政五カ国条約の締結
幕府は朝廷から急いで上京して説明せよとの勅が発せられていたのだが、すぐに対応できる状況ではなかった。すでに江戸にはわが国と通商条約交渉をする目的で、オランダ商館長兼駐日オランダ理事官のクルティウスが三月十日(4/23)には江戸に来ていた。クルティウスは現在ロシア、イギリス、フランス等の列強国の使節がこれから相次いで日本に渡来し、アメリカと同様に通商条約の締結を求めてくることを伝えていた。
しかしもし彼らが一時に交渉を迫ってきた場合は、日本にとって災禍を招来するおそれがあるので、速やかに日米と通商条約を締結すべきであるとアドバイスしていたという。
日米修好通商条約締結は六月十九日(7/29)だが、その時点で幕府は他の諸国とも同様な条約を締結することを覚悟していたと考えて良い。
また、六月二十日(7/30)にはロシア全権のプチャーチンを乗せたアスコリド号が通商条約交渉の為に神奈川に入港し、七月四日(8/12)には芝愛宕下の真福寺に入っていた。。
幕府は六月十九日(7/29)に日米修好通商条約を締結した後、七月十日(8/18)に日蘭修好通商条約、七月十一日(8/19)に日露修好通商条約を相次いで締結しているが、条約の内容は日米修好通商条約とほぼ同様な内容であった。
さらに、イギリスもジェイムズ・ブルース(第八代エルギン伯爵)も通商条約締結のために四隻の船で日本に向かっていた。ハリスは「(イギリスは)50艘の戦艦を引き連れて過大な要求をしてくる」と主張していたのだが、予想していたよりも貧弱な戦力で来日している。これは、ハリスが条約調印を急がせるために大げさに述べた可能性もあるが、Wikipediaによると「エルギン伯の日本遠征には当初東インド艦隊司令長官シーモア提督も十分な海軍力を率いて同行する予定であった。ところがシーモア提督は訓令を無視して10隻以上の艦船を上海から香港へ帰還させ、自身も一時長崎に寄港したもののすぐに香港へ引き返してしまった」とある。
この記述が正しければ、ハリスが主張した「50隻の軍艦」は大げさであったとしても、イギリスはペリーと同様に武力で威圧して、自国に有利な条約を締結する方針でいたことになる。
またエルギン伯は六月二十四日(8/3)に長崎に到着し、七月二日(8/10)に下田に上陸してアメリカのハリスと面談している。昭和十四年に出版された『維新史 第二巻』にはこう記されている。
英国艦隊が下田に入港するや、ハリスは直ちに通弁官ヒュースケンをしてエルギンをその乗艦に訪わしめ、次いでエルギン伯もまたハリスを訪問して答礼をなし、始めて日米条約の調印を知った。ハリスはエルギン伯に対して大いに日本及び日本人を称揚し、またヒュースケンを英艦に便乗せしめて、今般の外交折衝に大いなる便宜を与えたのである。
(『維新史 第二巻』維新史料編纂事務局 昭和14年刊 p.856)
エルギン伯は四日に下田を出港して江戸湾に進入し、神奈川沖に戻ることを要求する幕吏を無視して、品川沖に停泊した。応接掛の井上清直らは折衝を重ねた結果、エルギン伯以下二十数名は上陸して、宿舎に選定された西応寺に入っている。
七月十日(8/18)にエルギン伯は老中の太田資始・間部詮勝と面談して、通商条約締結を提議し、英国女王より将軍に蒸気船エンペラー号を贈呈する旨の提案があった。(この時はすでに将軍は薨去していた。)
幕府が一番恐れていた英国との条約交渉は、先にハリスと条約調印に至ったことにより、面倒な難題が生じることもなくスムーズに終了し、七月十八日(8/26)に調印が行われ、引き続きエンペラー号の贈呈式が盛大に挙行され、お台場の砲台から二十一発の祝砲が轟いたという。エンペラー号は蟠龍丸(ばんりゅうまる)と名付けられ、幕府海軍に組み入れられている。
エルギン伯は品川入港以来わずか十五日でその使命を終えて退去したのだが、彼は中国に急いで戻らねばならない事情があった。
エルギン伯はアロー戦争でイギリス軍を指揮して清軍を撃破し、天津条約を締結した人物である。日本との条約調印の後、アヘン貿易の合法化を内容とする通商章程善後条約を清政府との間に締結している。そして天津条約で開港された揚子江流域の鎮江、九江、漢口を視察した後、1859年3月にイギリスに帰国したのだが、清国が一向に天津条約を守ろうとしなかったため、イギリスはフランスと共に再び武力行使を実施することとなる。
1860年3月に英仏両国は清政府に最後通牒を発し、エルギン伯は中国に派遣され、英仏連合軍は8月31日には再度大沽砲台を占領し、その後北京を無血占領した。
以前このブログでも書いたが、北京にあった円明園の破壊は、エルギン伯がイギリス人捕虜虐待の報復として命じたものである。円明園から略奪された宝物は、今も大英博物館など主にヨーロッパ各地の博物館に所蔵・展示されているが、もし幕府が条約交渉の対応を一歩誤れば、このようなことが実際に起こってもおかしくなかったと思うのだ。
話を通商条約交渉に戻そう。エルギン伯が品川を去ると今度は八月七日(9/13)にフランス全権のグロ男爵が軍艦ラプラス号に搭乗し下田に来航した。十三日(9/19)に品川港に入港し、将軍の喪中のためスタートは遅れたが、条約交渉は極めて順調に進み、九月三日(10/9)に日仏修好通商条約が締結され、フランス艦隊は六日(10/12)の朝に品川を去り清国に向かっている。
安政五年(1858年)に江戸幕府がアメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスの五カ国と結んだ条約を「安政五カ国条約」と呼ぶが、いずれも勅許なく調印されたため「安政の仮条約」とも呼ばれている。
この条約を結ぶことによって、幕府は最も懸念していた外国との紛争を回避することが出来たのだが、勅許を得ずに調印を強行したことで朝幕間の対立は深まり、攘夷派の幕府攻撃が激しさを増すこととなるのである。
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ブログ活動10年目の節目に当たり、前ブログ(『しばやんの日々』)で書き溜めてきたテーマをもとに、2019年4月に初めての著書である『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を出版しています。
通説ではほとんど無視されていますが、キリスト教伝来以降ポルトガルやスペインがわが国を植民地にする意志を持っていたことは当時の記録を読めば明らかです。キリスト教が広められるとともに多くの寺や神社が破壊され、多くの日本人が海外に奴隷に売られ、長崎などの日本の領土がイエズス会などに奪われていったのですが、当時の為政者たちはいかにして西洋の侵略からわが国を守ろうとしたのかという視点で、鉄砲伝来から鎖国に至るまでの約100年の歴史をまとめた内容になっています。
読んで頂ければ通説が何を隠そうとしているのかがお分かりになると思います。興味のある方は是非ご一読ください。
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