誤った日支親善
前回は支那の暴動に巻き込まれて在留邦人が掠奪され暴行されても、支那との融和を説いた幣原喜重郎外相の「軟弱外交」を須藤理助が痛烈に批判している文章を紹介させていただいたが、わが国が当時の支那と融和を図ろうにもこの国では十数年来極端な排日教育が続けられていて、子供の頃からそのような教育で育てられてきた者が街頭に立って盛んに排日を宣伝するようになり、「在留邦人の子供が支那の子供に馬鹿にされ、人々は随所で侮辱され、商売は妨害されるという現状」であったという。当時のわが国はそのような状態を打開するために日支親善を推進しようとしたのだが、このようなわが国の姿勢に関して支那人はどのように受け止めていたのであろうか。須藤理助は以下のように記している。
日支の関係は緊密である。相携えて進まねばならぬ。日支は共存共栄を図らねばならぬ。この意味において年来日支親善が叫ばれているが、相手の支那では馬耳東風、磯の鮑の片思いで、日支親善を叫ぶほど支那を増長させるようになるのは皮肉と言わねばならぬ。日支共存共栄を唱えれば支那は独存独栄で沢山だと鼻であしらっているという調子である。
支那を相手とするはまるで悪戯盛りの駄々っ子を相手とするようなもので、甘やかせば甘やかすほどつけ上がるのである。その革命を助け、不完全ながらも統一の形式を整え、列国をして国民政府を承認せしめるまでにこぎつけたのは誰のお陰であるか。蒋介石はよろしく日本に対し、絶大の感謝を捧ぐべき筋合いであるのに、却って恩を仇で返そうとするは悪みても余りある仕打ちではないか。
日本では文化事業費として毎年三百万円を支那に提供しているが、支那では要らないと言っている。これはちょうど振られて女にお金を押し付けているようなもので、全然無意味な金である。
須藤理助『満蒙は併合せよ : 附・南支問題の真相』忠誠堂 昭和七年刊 p.46~47
今のわが国の対中外交も同様で、日中親善を主張する政党や政治家は中国に対して甘々の対応を繰り返すばかりで、一昨年七月に尖閣沖に中国が大型ブイを設置した問題も、昨年九月に深圳日本人学校の男子児童が刺殺された事件も、わが内閣は中国に対してただ改善を要請するだけで、厳しい措置を取ろうともしない。須藤の言う通り、この国は甘やかせば甘やかすほどつけ上がるばかりで、反省することもなく、改善されることもない。
中国に事態を改善させる努力が見られないのであれば、普通の国なら貿易を禁止したり、高関税をかけたり、自国にいる中国人を追放したりすると思うのだが、いつもわが国では強硬策が見送られる背景には、中国に巨額の投資を行った企業が少なからず存在し、これまでの努力が無駄にならないように政権与党に圧力をかけて中国を刺激しないようにさせているからではないか。戦前も同様で、わが国は満州に巨額の投資をしてインフラを整備し、多くの企業が満州や支那本土に工場設備を建築していて、簡単に中国や満州から離れられない状態にあった。
前回記事で紹介した須藤の文章には「彼ら(支那)は満蒙の天地から日本の勢力を駆逐せんと企てたのである。否々支那全土から日本の全勢力を掃討せんとしている」と書かれているのだが、支那にとってみれば反日暴動でも仕掛けて日本人を追い出すことができれば、日本が建築したインフラや工場設備が支那にそのまま残ることになる。
このような歴史を知らない戦後のわが国の企業経営者の多くが1980代以降中国に進出し、戦前と同様に巨額の投資をして立派な工場設備を完成させたのだが、将来これ等の設備や技術が中国に奪われるリスクは決して小さくはないと思う。
もし中国で有事が起きて、中国政府が「国防動員法」(2010年7月1日施行)を発令した場合には、日本企業もその従業員も中国政府及び中国軍の管理下に置かれることになるのだが、この対策がわが政府や各企業で充分に練られているのであろうか。
満州事変勃発
話を昭和六年(1931年)に戻そう。政府が対支外交で甘い対応を続ける中で満州事変が起きている。満州事変については、戦後の昭和三十一年(1956年)以降になって、関東軍の自作自演によるものと歴史が書き換えられたことはこのブログで何度も書いているので繰り返さないが、須藤はこの事変について次のように記している。
果然、満州事変は勃発した。九月十八日支那の正規軍が我が奉天鉄道を爆破したのに端を発したものであることは社会の耳目に新たなるところである。当時これについて事実転倒の誤伝が流布されたのであるが、支那の正規軍が爆破したものであることは極めて明瞭であって一点の疑う余地はないのである。
その証拠を申し上げるならば支那兵は奉天鉄道爆破後、日本兵に追撃されその逃げ道には数個の死骸が点々として横たわっており、しかも皆北大営*に向かって仆れていたのである。しかも蔽うべからざる証拠は、北大営に支那将校が遺棄した日記を点検してみると、このことは既に数日前から計画され、九月十八日に実行した事実を物語る記事が歴然として存していたのであるから、支那側の手によって爆破されたものであることは毫末も疑うべからざる問題である。
わが軍は猛然として疾風迅雷的に各要所を占拠した。皆自衛権の発動である。
*北大営:奉天の郊外にあった約七千の兵員が駐屯する支那軍の兵舎支那は奥の手を出してこの問題を国際連盟に持ち出した。しかるに国際連盟は親支排日の態度を以て日本を圧迫し、わが国は重大なる難局に立つに至った。
超えて十一月には馬占山軍との衝突となった。これまたわが国としては止むことを得ざる自衛権の発動である。
天津も砲撃された。これは満州ではないが根幹は一である。一体支那は条約によって日本租界から二十清里(日本里程約三里)以内に軍隊を接近させることは出来ないことになっているにも拘わらず便衣隊討伐に名を借りて数万の大軍を以て天津を包囲し、僅かに六百の兵を以て守備している日本租界に二回までも砲撃を加えたのである。
同上書 p.47~49
関東軍は支那兵が満鉄線を爆破したあと攻撃を仕掛けて来たので応戦したと主張し、支那側は関東軍が自ら線路を爆破したのち攻撃を仕掛けて来たと主張したのだが、支那は、日本側に原因があることを全世界に宣伝し、さらに国際連盟に訴えて、列強の理解を得ようと動き出した。
昭和三十一年以降、わが国では満州事変は関東軍の自作自演であったと解説されるようになったのだが、当時の世界の論調はどうであったのか。支那の主張をそのまま伝える新聞も多いが、日本の主張の方が正しいと書いている新聞が少なくない。満州事変が起きた直後の英独の新聞論調を東京朝日新聞が伝えている。
(イギリスの)週刊新聞「オブザーヴァー」紙は二十日の社説において今回の日支両軍衝突事件を論評し「今や暴風は起った、今後憂うべき道程をたどるやも計られない」と冒頭して中国の現状に対し左の如き悲観的見解を漏らしている
南京政府が、その実力に拘らず支那全土の上に覇権を振う如き態度を誇示しつつあることがその土台に横わる禍根であることは疑を容れない。実際中国がその解決を連邦的基礎の上に求めざる限り、国内の平和を招来することは絶対に不可能と想われる。例えばソーバーン少年行方不明事件に対しても南京政府が英国に対して満足を与えることが出来なかった如き、偶々中国政府が外国の信用を得ることの不可能なる所以を説明するものである。…中略…ドイッチェ・アルガマイネ紙はいわく
今回連盟総会真最中なるに拘らず連盟の有力なる二加盟国間に砲火を交えるが如きは何んたる皮肉ぞ。支那側は国際法に保障された南満の満鉄を不法にも破壊するが如き、何れが是か非かの問題は論ぜずとも、兎に角連盟及びケロッグ不戦条約の無意義なるを如実に証明するものだ。…
「神戸大学新聞記事文庫」外交98-49
当時の南京政府は支那十八省のうち揚子江流域の数省を統治しているにすぎず、残りの大部分は軍閥か共産勢力が支配していた。内戦が繰り返され無政府状態が長く続き、暴兵や匪賊による掠奪行為が各地で頻発していたため、各国は支那に居住している自国民の生命財産を守るために自国の軍隊を駐在させていたのである。
そのような状態であったにもかかわらず、南京政府はまるで支那全体を統治している政府であるかの如く振舞い、国連に訴えて満州事変の解決を図ろうと動いたわけだが、イギリスの「オブザーヴァー」紙は、中国が支那全体を統治するようにならないと国内が平和は訪れない、と当然のことを書いているのだ。
一方アメリカの満州事変に関する論調は、支那の情報をそのまま信用してわが国を批判するものが多いのだが、例外的な記事がいくつかある。外務省情報部が当時の世界の新聞記事を要約した記録を「国立国会図書館デジタルコレクション」の「送信サービス」で読むことが出来るのだが、例えばニューヨークのヘラルド・トリビューン紙は九月二十三日付で次のように報じたと記録されている。
…支那は満州に於いて文明的政治を行うを得ず。支那官憲は排日運動を助長し、朝鮮移民を迫害し、彼らに私法上の保護を拒否し、1915年条約を頑強に拒否し、その条約上の義務の履行を拒み、近くは一日本将校の殺害を黙過し、日本が実力によりその権利を主張せんとする場合には連盟または列強に訴えれば保護を得るべしと信じて、何らの措置に出でざるのみか、日本より救済を求むれば却って日本の地歩に対する潜行的攻撃を倍加するを敢えてせり。日本軍部及び強硬論者が実力を行使するに非ずんば日本の権益を擁護し難しと考えたるは理由あり。
鞏固にして責任ある国家がその重要なる利益を虚弱無責任なる国家に依りて脅かされるを見る場合、かかる変事を生ずるは必然なり。要するに支那人は、今回の事件に於いて決して非難すべき点なしとは言うべからず。外国人は早急に判断を下すことを得ず。
外務省情報部『各國新聞論調 第一輯一』p.8
文中の「一日本将校の殺害」とは満州事変が勃発した三ヶ月ほど前に、軍用地誌調査の命を受け、黒竜江省興安嶺で調査をしていた中村震太郎大尉が張学良配下の支那兵に拘束されたあと銃殺され、証拠隠滅のために遺体を焼き捨てられた事件(中村大尉事件)を指している。この事件は新聞にも大きく報道されていたので、当時の日本人の大半が知っていたと思われる。
可憐なる支那の人々
戦後刊行された中国史の解説書で、支那の人々が内乱が続くなかでどのような生活を強いられていたかについて言及しているものは皆無に近いのだが、須藤は以下のように記している。
支那本土は武漢革命以来二十年の長き軍閥の戦乱相次いで起こり、十八省悉く戦禍に見舞われざるはなく、兵火に焼かれ、財産を略奪され、家族を虐殺され、右往左往、安全の地を求めて逃げ回り、僅かに携えたる家財金銭まで無残にも奪い去られるばかりでなく、支那の軍隊には輜重兵*がないから役に立ちそうな男子は捕らえられて強制的に後方勤務に酷使されるのである。
*輜重兵:水食料・武器弾薬・各種資材など様々な物資を第一線部隊に輸送する業務を担当したそればかりではない。軍隊にさんざん荒らされたあげく、戦争が静まれば土匪、兵匪と称する強盗団が現れ、掠奪、凌辱、放火、殺人などあらゆる暴虐の限りを尽くし、支那としては比較的相当の警備ある江蘇、浙江の地方すら彼らの蹂躙するところとなったほどで、各省ほとんどその災いを免れ得なかったのである。
支那の良民ほど可憐なるはない。軍閥と泥棒に責めなやまされて安住の地なく、平和郷満州を目指して北上するもの引きも切らず、その数年々数十万と註せられ、満州の人口は一躍倍加するに至り、就中租借地帯における支那人口は驚くなかれ二十倍に達したのである。
以上の事実は何を物語るか。これ満蒙の天地は軍紀厳粛なるわが駐箚軍の守備によって過去二十余年、絶対に平和が確保されているからである。
『満蒙は併合せよ : 附・南支問題の真相』 p.49~50
支那の良民たちは安心して住める場所を求めて、英米などの軍隊が駐留している租借地や、日本軍が駐留している満州を目指して大量に移動していったのだが、そのような史実が戦後の日本人にはほとんど知らされていない。
もともと満州は満州民族の故地であり、漢民族はほとんど居住していなかったのだが、日清戦争以前は五~六百万程度であった満州の人口が、その後わずか三十年の間に三千万人近くなったという。大量の支那人が居住地を棄てて満州に移住したのは、わが国がインフラを整えて住みやすくし、かつ治安が良好であったと理解するしかないのだが、その事実が広く知られては、わが国が国際連盟を脱退する原因となったリットン報告書や国際連盟の対日非難決議の正当性が失われ、日本が侵略国であるとする自虐史観の根幹部分が揺らぐことになりかねない。だから、満州事変が勃発した頃の支那や満州の真実が記された大量の書物がGHQに焚書処分され、戦後の日本人が読めないようにされ、このようなテーマを扱う番組や書物がほとんど存在しないという状態が今も続いているのだと思う。
これまでは自虐史観を固守する勢力がマスコミや言論界や学会に強い影響力を持っていたのだが、昨今はマスコミや所謂「専門家」と称する人々の信頼度が急激に低下しており、自虐史観のおかしさに気付く人が今後大幅に増加していくことを期待したい。
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