紀伊国屋がみかんで大儲けしたのは真実か
紀伊国屋文左衛門は元禄時代の豪商で、荒天の海にみかん船を乗り出して大儲けをしたという話が有名で、私も子供の頃に何度か聞いた記憶がある。

この話の概要をまとめると、以下のようなものである。
文左衛門はみかんの産地として名高い紀州(和歌山県)の出身で、まだ二十代であったある年、和歌山ではみかんが豊作でありながら長い間荒天が続き、そのためにみかんを江戸に送る船が出せない日が続いていた。江戸では毎年鍛冶屋の神様を祝う「ふいご祭り」が行われていて、この祭りでは鍛冶屋の屋根からみかんをばら撒いて地域の人に振る舞う慣習があったのだが、紀州から船が来ないために江戸のみかんの価格は高騰する一方、和歌山のみかんの価格は暴落したという。
文左衛門はこのチャンスを逃さず大量のみかんを買い集め、荒くれの船乗りたちを説得して命がけで嵐の太平洋に船出をする。船は無事に江戸に到着し、みかんは飛ぶように売れて文左衛門は大儲けしたという話なのだが、この話は実話ではないとするのが最近では通説になっているようだ。
なぜ真実ではないとされるようになったのだろうか。江戸東京博物館館長の竹内誠氏の『紀伊国屋文左衛門の実像』(『えど友』第68号)のp.1を読むとこう解説されている。文中の紀文は紀伊国屋文左衛門をさす。

幕末に為永春水が紀伊国屋文左衛門という実在の人物をモデルにして書いた長編小説『黄金水大尽盃(おうごんすいだいじんさかづき)』は十二年間にわたり二十八編も続き、非常に多くの人に読まれました。その結果、史実と小説がゴチャまぜになり、紀文の実像はわからなくなりました。明治十八年(1885)にでた『大日本人名辞書』に小説が紀文の逸話としてそっくり載せられ、これ以降の人物説明は逸話に沿って書かれているものがほとんどです。…中略…
江戸時代に紀文のことを取り上げた簡単な伝記第一号は『江戸真砂六十帖』(寛延[1748~1751年]のころ)の書です。…中略…
この本には紀州出身であることもみかんでもうけたことも記されていません。
(竹内誠氏『紀伊国屋文左衛門の実像』(『えど友』第68号)p.1)
紀伊国屋文左衛門が亡くなったのは享保十九年(1734年)と考えられているが、みかん船で稼いだ話は十八世紀半ばに書かれた文左衛門の伝記には記されておらず、幕末の小説家・為永春水の『黄金水大尽盃』が初出である。だから実話であるとは考えにくいというわけである。しかしながら、以上の理由でもって文左衛門のみかん船の話を虚構であると断言できるわけではない。
紀州みかんが江戸で好まれるようになった経緯
私も長い間紀伊国屋文左衛門のみかん船の話に疑問を覚えなかったのだが、よくよく考えると当時において駿河や伊豆でも大量にみかんを生産していたはずなのに、なぜ江戸の人々は紀州のみかんを求めたのかなど、いろいろ疑問が湧いて来る。

『有田みかんデータベース』のホームページに、御前明良(みさきあきら)氏が『全国のみかん栽培史と江戸時代の有田みかんの流通』という論文を寄稿しておられるのが見付かった。
この論文にわが国の主要なみかんの生産地におけるみかん栽培史がまとめられている。
和歌山県以東で大きなみかんの産地は静岡県しかなく、静岡県のみかんの栽培は和歌山のみかんが江戸で販売されるようになってから紀州みかんの苗が移植されて拡大していったようである。
まず最初に、和歌山のみかんが江戸で販売されるようになったのはいつの頃からなのか。

元和五年(1619)から堺の商人大阪—江戸の定期輸送船として二百五十石船を運航させるようになった(菱垣廻船)のだが、当時の木造船で熊野灘、遠州灘の荒波を乗り超えていくのは大変な危険を伴い、天候や波の加減を見ながら何度も港に停泊しながら一か月近くかけて江戸に到着したという。冷蔵技術のない時代にそのような方法で、みかんを腐らせずに運搬することは容易でないことは誰でもわかる。
ところが、困難だと思われていた蜜柑の運搬に挑んだ人物が現れた。御前氏の論文にはこう解説されている。

『紀州蜜柑傳来記』に江戸出荷の創始者、有田郡宮原組滝川原村の『藤兵衛』のことが記されている。それによると、寛永十一年(1634年)、藤兵衛は小ミカン四百篭(一篭十五キロ、計六トン)を江戸行きの廻船に積み込んで勇躍出立した。太平洋の荒波に揺られ、揉まれて一ヶ月、藤兵衛の全財産を賭けた初めての輸送は見事成功する。…中略…
江戸には、柑橘類を扱う問屋や小売り、行商人も多かった。京橋の新山屋という水菓子屋から仲買人に売り捌いてもらうと、皆が飛びつき、味のよい有田小ミカンは一篭半(二十二.五キロ)が一両という高値で売れた。
大成功に気を良くして藤兵衛は意気揚々と帰国する。村の人々はこの話に驚嘆し、来年は自分たちのミカンも積んで行って欲しいと依頼。村人の委託を受けて、藤兵衛は翌年二千篭を江戸に送り、二篭一両にて販売する。と書かれている。
(御前明良『全国のみかん栽培史と江戸時代の有田みかんの流通』)
当時の一両の価値については諸説があるが、米だと一両で三百五十キロ前後購入できたらしく、現在の十五~二十五万円程度であったと考えられる。そのような高値で売れたことに紀州有田郡の農民が驚いたことは無理もない。そしてこの年以降、有田みかんは毎年江戸に送られることとなる。

同論文によると大変な勢いで有田みかんの江戸への出荷量が増加している。
寛永十一年(1634年) 江戸へ初出荷 四百篭 六トン
寛永十二年(1635年) 二千篭 三十トン
明暦元年(1655年) 五万篭 七百五十トン
貞享年間(1684年~) 十万篭 千三百トン
元禄年間(1688年~) 二十五~三十五万篭 三千七百五十~五千二百五十トン
正徳年間(1711年~) 四十万篭 六千トン
弘化二年(1845年) 百万篭 一万五千トン
(同上論文)
紀伊国屋文左衛門が生まれた年については諸説があり、寛文九年(1669年)に生まれたとする説を採用するとしよう。また、みかん船で大稼ぎしたという年齢も十七歳の時という説もあれば二十代の時という説もあり、両方の説をまとめると貞享三年(1686年)から元禄中期にかけての話ということになる。この頃は順調に有田みかんの江戸への出荷量が拡大しているのだが、静岡のみかんについてはどんな状況にあったのだろうか。
御前氏の論文にはこう記されている。
『静岡県柑橘史』で静岡のみかん栽培を調べてみると、明暦年間(1655年~1657年)から万治年間(1658年~1660年)にかけて庵原郡富士川町岩淵の常盤小左衛門が紀州よりみかん(紀州小ミカン)の苗木を持ち帰ったのが静岡における蜜柑栽培の発祥とされている。
(同上論文)
実は静岡ではもっと以前から柑橘類の栽培がなされていたが品質があまり良くなかったようだ。御前氏は同論文で、有田郡宮原組滝川原村の『藤兵衛』が初めて江戸に有田みかんを持ち込んだ寛永十一年(1634)の頃のことをこう解説している。
当時、江戸では、既に伊豆、駿河、三河などからミカンらしき柑橘が販売されていた。しかし、それらは九年母、柑子の類であり、皮が厚く、味が淡泊であった。それらに比べて、有田の小ミカンは糖度が高く、風味、色艶、形状が他藩産を圧倒した。
(同上論文)
有田みかんが江戸に持ち込まれ高値で売られているのを見て、それまで別の柑橘類を生産していた静岡の農家が動き出す。そして紀州みかんの苗木が静岡に持ち帰られて栽培されることになったのだが、三ヶ日や藤枝に紀州みかんの栽培が始まるのはもっと後の時代であった。

紀伊国屋文左衛門がみかん船を出したとされる時代に、静岡で紀州みかんの栽培が本格化しつつあったことには間違いがないが、当時の静岡産のみかんの味では江戸の人々を十分に満足させることができず、味の良い和歌山のみかんを必要としていたと考えるべきだと思う。そう考えなければ、和歌山から江戸に運ばれるみかんが一貫して増加し続けたことを説明できないのである。
紀州みかんの共同出荷体制
御前氏の論文によると、有田地域には寛永年間後期(1634年~1643年)に「蜜柑方」という他藩にはない独特の機関が生まれ、みかんの移出に大きな力を発揮したという。このような組織がなぜ出来たのかについて、次のように解説されている。
出荷量が増えると荷主がまちまちな行動を取ることがあり、取引上不利なことも生じた。そこで、有田川流域の村々では出荷組合的な組織「組株」を設け、その世話人の手配によって、有田川河口の北湊にミカンを大量に運び、江戸に販売することとなった。明暦二年(1656年)には初めて「十組の株」を立て、江戸の蜜柑問屋の内、七店を窓口にしてミカンを売却した。
そうなると、仕向地への輸送船手配や運賃、代金回収等の問題、出荷調整等の話し合いが必要となり、ミカン生産地の「組株代表者(荷親)」(現在の出荷組合で、生産地ごとに設立された)を選出した。その代表者たちの集会所(管理事務所)が北湊に設けられた。この集会所は「蜜柑方会所」と呼ばれ、役員(世話人)が置かれることとなった。…(『有田市誌』)
(同上論文)
『蜜柑方』は出荷組合連合会のようなもので、当初は有田・海草で十組であったが、貞享(1684年~1687年)の頃には三十組ほどに増え、江戸のみかん問屋も乱立して過当競争のため安価乱売が続いたために、次のような対策が打たれたという。
貞享四年(1687年)、蜜柑方は問屋に公正価格維持を要請するために代表を江戸に送り、問屋と交渉する。その結果、問屋は京橋の堺屋藤右衛門ら九軒を指定し、それ以外とは取引禁止とする。また、生産者側の組株は、有田郡十九組、海草郡四組に制限し、その増減は、問屋側の承認を必要とするという基本協約が結ばれた。ここに、蜜柑方は指定問屋と結んで利益の確保を図る販売システムを作りあげた。
しかし、有田において、蜜柑の栽培農家が増えるとともに正徳四年(1714年)には組株が二十九組となった。組株が乱立すると、足並みが乱れ、お互いに得にならないとして、『これ以上増えては困る』とばかりに既成組の代表者が奉行所に願い出て、新規設立を御法度にしてもらった。ここに蜜柑方は藩の許認可のもとに存在する『特許組合』となったのである。
(同上論文)
紀伊国屋文左衛門が寛文九年(1669年)に生まれたとすると、彼がみかん船を出して大儲けしたとする時期には、蜜柑方と指定問屋を通すみかん販売のシステムが既に出来上がっていたということになる。
また紀州藩は財政収支改善の為にみかんの売上に対する課税を開始している。そうなるとすべてのみかん取引について蜜柑方を通すことになっただろう。前掲の論文にこう解説されている。

紀州藩が蜜柑の売上げに対して“御口銀”と称して税金を課すようになったのは、元禄十一年(1698年)のことである。『紀州蜜柑傳来記』によると、その時の税金は蜜柑一篭(十五キロ)を基準とした。江戸廻し一篭につき銀一分。近国廻しは銀八厘。尚、正徳四年(1714年)には新金銀吹替えがあり、賦課金が半減している。江戸廻し一篭につき銀五厘、近国廻しは銀四厘。元禄から正徳時代には毎年三十万篭から四十万篭が江戸に出荷されており、紀州藩の財政への貢献は大きかったと思われる。
(同上論文)
このように、紀州藩がみかんの売り上げに課税し始めたのは元禄十一年(1698)以降の話で、紀伊国屋文左衛門が寛文九年(1669年)の生まれだとすればこの時点では二十八~二十九歳ということになる。
文左衛門がみかん船で大儲けした年月が特定されておらず微妙なところではあるが、元禄十一年(1698年)に「御口銀」が課されて以降はすべてのみかん取引が把握されていた可能性が高い。しかしながら「御口銀」が課される以前においては、「蜜柑方」を通さずに個人で大量のみかんを買い集めて江戸に運ぶような行為がある程度許されていたのであれば文左衛門の物語が成立する可能性はゼロとは言えない。
普通に考えれば、「蜜柑方」は蜜柑の価格を安定化させるための制度なので、蜜柑取引の大半について「蜜柑方」を通していた可能性が高いと思われるのだが、荒天が続いて船が出せない時に、個人が蜜柑方を通さずに大量のみかんを運ぶことができたなら、文左衛門のみかん船の物語はありうる話となる。ことほど左様に、真実でないことが一度流布されてしまうと、後世においてそれが事実ではないことを証明することは困難である。
何時の時代もどこの国でも、小説家が実在の人物の伝記を書く時に当時の記録に残されていないことを書くことはある程度やむを得ないのだが、その人物の人生の転換点となる大きな出来事について描く時は、当時の記録に基づいて書かれることを願いたいところである。
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