『奥の細道』の旅程
月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口をとらえて老をむかふる物は、日々旅にして、旅を栖(すみか)とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲(へんうん)の風にさそはれて、漂泊の思いやまず、海浜(かいひん)にさすらへ、去年(こぞ)の秋、江上(こうしょう)の破屋(はおく)に蜘蛛の巣をはらひて、やゝ年も暮れ、春立てる霞の空に、白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神(どうそじん)のまねきにあひて、取もの手につかず、もゝ引きの破(やぶれ)をつゞり、笠の緒付(つけ)かえて、三里に灸すゆるより、松島の月先(まづ)心にかゝりて、住(すめ)る方は人に譲り、…
『奥の細道』至文堂 昭和5年刊 p.1-2
有名な『奥の細道』の冒頭の部分だが、古文の教科書にも出ていたので何度も口ずさんだ記憶がある。

松尾芭蕉は元禄二年(1689年)の三月二十七日、弟子の河合曾良とともに、『奥の細道』の旅に出たのだが、この二人が歩いた距離が半端ではなかった。
全行程約六百里(二千四百km)を百五十日で歩いたということになるのだそうだが、当然のことながら当時の旅は基本的に自分の足で歩くしかなかったし、何度も山を越えなければいけなかった。雨が降れば道路はぬかるんだと思うのだが、そのような道を、草鞋をいくつも履き潰しながらこれだけの距離を歩いたことはすごいことなのである。

次のUR Lに『奥の細道』の全行程と日付が出ているが、三月二十七日に江戸深川を出発した芭蕉がわずか三日後の四月一日に日光東照宮を参拝している。江戸から日光までは百五十km以上あると思うのだが、一日平均五十km近く歩いた計算になる。
当時、江戸日本橋から京都までの東海道五十三次(約四百九十二km)を、旅人は徒歩で二週間前後かけていたようだが、十四日で計算すれば歩行距離は一日平均して三十五kmである。当時芭蕉が四十六歳であったことを考慮すれば、芭蕉が随分健脚であったと言わざるを得ない。観光しながら俳句を詠むことが主たる目的である旅行であるのに、なぜ江戸から日光までこんなに急いで歩く必要があったのか誰しも疑問に思うところだ。
また、仙台藩に入る前に黒羽で十三泊、須賀川では七泊しているのは何故なのか。出発の際に『松島の月まづ心にかかりて』と絶賛した松島を、芭蕉は一句も詠まずに一泊して通過しているのには誰しも疑問を覚えざるを得ない。
松尾芭蕉隠密説
『奥の細道』の一日の移動距離の長さや、芭蕉の出自などに注目して、芭蕉は忍者であったとする説が松本清張・樋口清之『東京の旅』(光文社、1966年)で登場して以来、推理小説やテレビ時代劇などで忍者のように芭蕉が描かれることによって「芭蕉隠密説」が拡がっていったことがWikipediaに書かれている。そのことを明確に裏付ける当時の記録が存在するわけでないのだが、興味深い説ではある。


松尾芭蕉は寛永二十一年(1644年)に伊賀国(現在の三重県伊賀市)で生まれたのだが、「伊賀」と言えば忍者の里として有名な場所である。
父・松尾与左衛門は阿拝郡柘植郷(現在の伊賀市柘植)の無足人(準武士待遇の農民)で、母・梅は百地(桃地)氏出身とも言われ、いずれも伊賀忍者の一族であったという説もあるようだ。
少し気になったので、伊賀忍者の歴史を調べてみた。
伊賀国では、藤林・百地・服部の上忍三家が地侍を支配下に、最終的に合議制を布いて、外部からの侵略に対しては結束して戦った歴史がある。
伊賀衆は天正六年(1578年)に織田信雄が伊賀国を支配するために送り込んだ滝川雄利(たきがわ かつとし)を追放し、その報復として攻め込んできた織田信雄(おだ のぶかつ)の軍をも翌年に壊滅させたという。(第一次天正伊賀の乱)
しかし天正九年(1581年)に織田信長が大軍を編成して攻め込んで来た際には伊賀衆は壊滅的な打撃を受け(第二次天正伊賀の乱)、百地丹波以下百名が紀州に落ち延びたと伝えられている。
その後天正十年(1582年)に、信長の招きで徳川家康が少数の供回りで堺の見物中に本能寺の変が起き、この際に家康らを三河の岡崎まで安全に帰らせる(神君伊賀越え)ために、服部半蔵正成らの伊賀衆や甲賀衆が家康の警護に当たったことが評価され、その後服部半蔵は徳川家に重用され、伊賀衆や甲賀衆も徳川家に召し抱えられるようになって、諸大名の内情を探ったり、大奥の警護、屋敷の管理や江戸城下の治安警護などを行なったという。
再び芭蕉の話に戻そう。
明暦二年(1656年)、芭蕉が十三歳の時に父・与左衛門が死去し、兄の半左衛門が家督を継いだが、その生活は苦しかったと言われている。
また寛文二年(1662年)、十九歳の芭蕉は服部半蔵の従兄弟にあたる保田采女(藤堂采女)の一族である藤堂新七郎の三男・良忠に仕え、この頃に良忠とともに俳句を学び、俳諧の道に入ったという。
ところが寛文六年(1666年)二十三歳の時に、藤堂良忠が死亡し藤堂藩への仕官の道が途絶えてしまう。芭蕉は突如脱藩して京へ上り、その六年後には江戸へ住まいを移している。
次のURLに松尾芭蕉の年譜が詳しく記されているので、興味のある方は参考にしていただきたい。
伊賀の国で生まれたことや、服部半蔵の親族に一時仕えたことや、異常に健脚であったことが『芭蕉忍者説』の主要な論拠になっているようだが、他にもいくつかの論拠がある。

室町時代の連歌師・柴屋軒宗長(さいおくけん そうちょう)は、朝比奈家の掛川城について詳しい記述を残しているなど、連歌師として各地を渡り歩きながら、諜報活動をしていたことが窺われるのだそうだが、各地を旅する者に接近して、情報収集を依頼する者が出てきてもおかしくないという考え方がある。
条件が良ければ、芭蕉も応じることがあったのかも知れないが、これだけでは芭蕉が諜報活動をしていたと断じる論拠にはならないだろう。
また、二人の百五十六日にもわたる旅費をどうやって捻出したのかと疑問を持つ人も少なくない。俳句による収入だけではとても生活できず、別の安定収入がなければこのような長期間にわたる旅行に出ることは考えにくいとの視点である。
俳句を作ったり指導することで、当時どの程度の収入になったのかはよく分からないのだが、芸術や文学の世界では、知名度の低い時期は多くの収入を得られないという構造は今も昔も変わらない。
神田川の水道工事監督を勤めた芭蕉
いろいろ調べていると、寛文十二年(1672年)に江戸に下り(29歳)、日本橋にあった小沢卜尺の家に起居するようになってから、延宝八年(1680年)深川の芭蕉庵に移る(37歳)までの間、芭蕉が神田川の水道工事の監督を務めていたという。
『東京の川と橋 知命庵論考』というホームページの第三章に『6 芭蕉と神田上水』という文章がある。昔見つけたリンクが切れていたのでウェイバックマシンでURL紹介させていただく。
知命庵氏によると、芭蕉の弟子の森川許六という人物が著した『風俗文選』という書物に、この様な記述があるという。
「世に功を遺さんが為に、武小石川之水道を修め、四年にして成る、速やかに功を捨てて、深川芭蕉庵に入りて出家す」

神田上水は家光の時代(1629年)に作られて、樋が木製であったために何度も改修や修繕が加えられ、特に延宝五年(1677)から八年かけて行われた改修工事は大規模なものであったらしく、芭蕉がこの工事の監督に四年間従事したことが、先ほど紹介した芭蕉の年譜にも記されている。
また芭蕉が俳諧の宗匠となったのは延宝五年(1677)で、神田水道改修の工事監督となったのと同じ年であり、その後は各地で句会などを興行し、精力的に句集などを刊行していることが芭蕉の年譜を見ればわかる。句会の興行や、刊行した作品集の販売、俳句を短冊や色紙に書くなどして結構な収入が得られるようになっていったと考えられ、危険を伴う諜報の仕事を受けることは考えにくいところだ。元禄二年(1689年)の奥の細道の旅も、弟子や支援者の協力によって、実際にはそれほど旅費はかからなかったことも考えられる。
河合曽良は何者か
しかしながら、『奥の細道』の旅行で芭蕉に同行した河合曽良については、諜報活動をしていた可能性を感じさせる点がある。
河合曾良は、『奥の細道』の旅から二十一年後の宝永六年(1709年)十月に、幕府より九州方面担当の巡見使随員に任命されたという。「巡見使」というのは江戸幕府が諸国の大名・旗本を監視する目的で設置されたもので、具体的には諸藩・代官の政治の善悪、幕府法令の実施状況、民情・物価・海防、社寺の様子などを実地に調べ、江戸に報告する仕事で、「悪政」と評価された大名は処罰される可能性があったそうだ。曽良は神道・国学の素養から、主に社寺方面を担当したとされている。
河合曾良が巡見使になった時の年齢は六十一歳であったが、Wikipediaによれば「寛文八年(1668年)頃より長島藩主松平康尚に仕え、天和元年(1681年)頃に致仕(ちし:引退)」とある。
普通に考えれば、二十八年間も公職に就いていなかった人物が六十一歳になってはじめて幕府に雇われたというのは異常なことであり、それまでに何らかの形で、幕府と繋がっていた人物だと考える方が自然ではないだろうか。神道・国学の素養があったとしても、情報収集能力や報告能力、機密管理などで幕府から信頼されていなければ、その年齢でいきなり新規に採用されるようなことは考えにくいのだ。

そして宝永七年(1710年)に曽良は巡見使随員としての最初の九州巡見の仕事で、五月に壱岐島に上陸したあと体調を崩して亡くなったことが記録されているのだが、病名までは記されておらず詳しいことは分からない。
『奥の細道』と『曾良旅日記』
芭蕉も曾良も隠密活動をしていたという決定的な証拠が存在しないとして隠密説を否定する学者が大多数のようだが、証拠がないということは隠密説を否定する論拠にはならず、隠密説を強く支持する論者は今も存在する。よく指摘されるのは、芭蕉の『奥の細道』と曽良の記録との相違である。
河合曾良は『曾良旅日記』という旅行記を残していて、それと『奥の細道』とを読み比べると、八十ヶ所以上の食い違いがあるのだそうだ。
例えば『奥の細道』には三月三十日に日光に入り、翌四月一日に「御山に詣拝(けいはい)す。往昔、此御山を『二荒山』と書(かき)しを、空海大師開基の時『日光』と改(あらため)給う。」と書かれていて、日光東照宮に行ったことは明記されていないのだが、『曾良旅日記』には江戸浅草・清水寺からの紹介状を携えて、養源院という水戸家代々の宿坊に拝観の便宜をはかってもらって、東照宮を拝観したことが記されているようだ。
ところで芭蕉には以前から水戸家と接点があった。
芭蕉の俳句の師匠である北村季吟は水戸家の出入りを許された幕府お抱えの文人だったし、先ほど芭蕉が神田川の水道工事に携わった時期があったと記したが、この神田上水は水戸家の庭園である後楽園にも引き込まれていたのだそうだ。
今でこそ東照宮は誰でも拝観料を支払えば拝観できるが、当時は然るべき紹介がなければ拝観できなかった。芭蕉が東照宮を拝観できたのは、水戸家の便宜によるものだったのだ。
ところで、芭蕉が訪れた際の日光東照宮は天和三年(1683年)の大地震により、奥社宝塔が倒壊するなど、社殿全体が被害を受けており、大規模な修復を行なおうための修理費を、江戸幕府は伊達藩に命じていたという。おそらく、江戸幕府は東北の雄藩である伊達藩に巨額の負担を押し付けて藩の弱体化を狙ったのだろう。

宮元健次氏の『日光東照宮 隠された真実』に、江戸幕府と伊達藩とのやり取りについてこう記されている。
『伊達家文書』によれば、芭蕉が日光を訪れる三か月前の一六八九年一月、伊達藩は、『全面的建て替えではなく、一部修理なら大変ありがたい』という書状を幕府に提出した。その二ヶ月後の三月、将軍綱吉から『日光の修復について申し出ることはまかりならぬ』という返書が届き、両者の間が極めて緊迫したことがうかがえる。芭蕉が日光へと旅立つまさに一ヶ月前であった。
おそらく、芭蕉は、日光の修復の状況及び伊達藩のその後の動きを偵察する目的を持っていたため、日光と伊達藩領は急いで通過し、句を詠むことも少なかったと金子氏は指摘するのだ。
(『日光東照宮 隠された真実』p.92-93)

「金子氏」というのは、『芭蕉=隠密説』を持論とする俳人の金子兜太(とうた)氏のことである。日光では芭蕉は「あらとうと青葉若葉の日の光」という、日光で詠んだとは思えないような句を残して一泊しただけだ。伊達藩領でも仙台や塩釜や松島や石巻では一句も残さずに通り過ぎている。
面白いことに、芭蕉が伊達藩を訪れたすぐ後に江戸幕府が動いたのだが、これは果たして偶然だったのか。宮元氏は続けてこう述べている。
芭蕉が伊達藩領を訪れたのは五月。その一か月後の六月十一日、幕府ははじめて日光の具体的内容を発表した。この時点ではじめて、今回の工事が『一部修理』であることが明らかにされた。伊達藩の希望が受け入れられたのである。
金子氏は芭蕉が日光と領地における伊達藩の状況を幕府に知らせ、それが幕府の判断材料になったというのだ。
(同上書 p.93)
私は金子氏の説に結構説得力を感じるのだが、反応は人により様々であろう。
『俳聖』と呼ばれた松尾芭蕉の評価を貶めるつもりは毛頭ないのだが、いくら優秀な作家であっても、旅行を楽しまずしては良い作品が残せないだろうと思うのだ。
芭蕉が有名な観光地であった日光や松島で一句も残さなかったのは、観光を楽しむどころではない特殊な任務を伊達藩から要請されていたのかもしれない。
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