前回の「歴史ノート」で支那の排日運動が始まったのは大正八年(1919年)で、当時北京の支那人の家に下宿した長野朗の『支那三十年』(GHQ焚書)によると、初期における支那の排日運動の背後には英米が動いていたことなどを紹介させていただいた。
次第に過激化していった排日運動
もっとも、初期の排日運動はそれほど過激なものではなく支那人もわが国に対して遠慮気味のところがあったようだ。しかしながら排日教育が全国各地に広がっていくにしたがって次第に運動が過激化していったという。
排日もだんだん生長して行った。第一回が大正八年、第二回が大正九年、それから毎年のように何か口実を設けてはやった。全く一つの慢性病化したのである。初めの時は期間も短かかった上に、既に契約済みのものは取引を許したので、気の利いた者は排日前に二、三ヶ月分契約して置き、それを打って終わった頃は、もうやめようじゃないかと止めたものである。やり方も粗漏で抜け道はいくらもあったし、地域も北とか南とかに起こったので、北に起こった時には南から入れるし、南に起こった時には北から入れた。学生が私設の監視隊を作り、百貨商の店先に来て帳簿の検査をするし、違反者は番頭を捕らえて町を引き回したりした。そこで電話で取引をやっていると、排日屋が電話局に入り込んで通話を妨げるようになったので、取引は困難になった。
ボイコットが第二期に入ってくると、ボイコットの期間が長くなり、又開始前の契約も認めないようになったので、日本の小さい店は倒れるものも出てきた。それにボイコットも部分的でなく多くは全国一斉に行われ、後には南洋まで拡がった。期間が短いと欧米に注文する暇はないが半年一年となると、欧米品が日本品に代ってどんどん入るようになり、この機会に支那にも盛んに工業が起こってきた。ボイコットの方法も深刻になり、違反者を捕えて檻に入れたり、爆弾を投げ込んだり、莫大な罰金を課したり、耳を切ったり、それをすべて私的団体でやり政府は見ているから、支那の政府に抗議しても何にもならない。
又日貨の没収や日貨に課税したりしてその収入が数千万円に及び、それを争って上海では主謀者の争奪戦が行われた。第三期になって来ると、国民政府が自ら主宰し、政府の機関を動かし、商工部で立案し、支那は不自由せずに、日本だけが困る方法を考え、全国のボイコットを統一した。しかし表面は国民党によって組織された反日会が本部を上海に設け、支部を全国に於き、国民党の支部員がこれに当たった。この時期になると、ボイコットは政府の任務であり、政策として行われた対日経済戦であった。
長野朗著『支那三十年』大和書店 昭和17年刊 p.82~83
長野氏は中国の排日活動の初期を三段階に分けて、次第に過激化していったことを書いている。
第一期では、排日と親英米の空気を造るために、中国の隅々に宣教師を送り込み、教会や学校や病院を創る一方で、中国人に「排日思想」を植え付け、日貨(日本製品)のボイコットを始めた。
第二期では、日貨のボイコット期間が長くなり、日本品に代って欧米品が中国に入ってきた。
第三期では、国民政府がボイコットを自ら主宰するようになり、ボイコットの期間も長くなり、支那でも模倣品を製造販売するようになり、わが国の経済に与える影響は少なくなかった。
共産勢力による「反帝国主義運動」の鋒先をかわした英国
その後英米は支那の排日活動から手を引くようになるのだが、支那の排日運動はどのように変化していったのだろうか。
長野朗は『支那三十年』で次のように書いている。
英米資本の東亜独占と、支那の民族主義とがからみつき、大正八年から排日が起こったが、その方向は二つの進路をとった。
一つは支那の民族運動として、満州の漢人化となり、満州からすべての日本の勢力を駆逐しようとする企ては、遂に張学良をして満州事変を起こさせるに至った。
一つは経済的の現われで、上海を中心として興りかかった支那の新興財閥と英米資本との合作によるボイコットで、これは当然浙江財閥の傀儡たる蒋介石と、英米の合作にまで進んできたのである。排日の内容も時には変化があった。排外運動が排日の形で出たのは当然であるが、その後ソ連の指導する中国共産党が現れるに従い、大正十二年頃から少し雲行きが変わって来た。学生会のリーダーは、英米系の基督教青年会の幹事から、いつの間にか共産主義青年団の幹部となり、排日から反帝国主義運動になったが、英米人は巧く游ぎ廻って、その鋒先を絶えず日本側に向けたのと、支那人の外人崇拝と日本軽視とは、日本人にはやるが外人には手を着け得なかった。ただ反基督教運動だけは起こり、英米人経営の学校にストライキが起きたり、奥地にある宣教師が逃げ出したりして、宣教師の活動は振るわなくなったが、彼等の播いた排日の種子は既に生え、彼らはその任務を果たしたのであった。
同上書 p.84~85
このように、大正十二年(1923年)頃から、排日運動を背後で動かしていた勢力が英米系のキリスト教会から共産勢力に移っていくとともに、運動のターゲットが「排日」から「反帝国主義」に変わっていったようだ。共産主義者にとっては資本主義は敵であり、英米資本も例外ではなくなった。学生や排外団は日本人経営の商店だけでなく英国人の商店をも襲撃して店舗を破壊したり商品などを掠奪するなどしたという。
しかしながらその後英国人はうまく立ち回って、支那人から襲撃されないようになったというのである。
長野は同上書で英国がいかにしたたかに「反帝国主義」の鋒先をかわしたかについて具体的に記している。文中の「北伐」というのは、蒋介石率いる国民党が、北京に拠点を置く軍閥政権を倒すために採った軍事行動で、「国共合作」というのは、北伐の為に国民党と共産党が手を組んだことを言う。
大正十五年の北伐には、国共合作であったため、ソ連と英国との仲の悪い時ではあり、反帝国主義運動の鋒先をまず英国に向け、武漢に飛び出してきた国民革命軍は口々に「打倒英国」を叫び、武漢政府は漢口の英租界を武力で占領した。すると機を見るに敏なる英国は、あっさりと漢口、九江の英租界を支那に返して反英の気を抜き、今まで北方軍閥派の討赤連合軍を助けていたのを、鮮やかに百八十度転回して、当時江西まで下っていた蒋介石と手を握り、蒋介石に国共分袂の芝居を打たせ、蒋介石の共産党弾圧となり、ソ連は英国に背負い投げを食わさるるとともに、反英は又排日となり、国民革命軍が南京まで下ってくると、南京の日本領事館の襲撃が行われた。この蒋と英国との連合は今日まで続いている。同時に排日も抗日から抗戦へと予定のコースをとってきた。
同上書 p.85~86
コミンテルンの息のかかった国共合作軍は、最初は「反帝国主義」でイギリスを狙って漢口の英租界を武力占領したのだが、英国はすぐさま漢口と九江の英租界を返還して反英の気勢を削ぎ、さらに国共合作軍の蒋介石に接近して、わが国にだけ鉾先が向かうようにさせたというのだ。このような巧妙なやり口は、日本人にはなかなか真似ができないところだ。
かくして支那では「反帝国主義」運動のターゲットがわが国に集中するようになっていった。
支那の排日教育の影響
排日運動が始まって間もない頃は、学生の排日暴力団に対して自衛団を組織したり、地域でボイコットが起きてもボイコットの起こっていない地域から商品を仕入れることも可能であったのだが、次第にボイコット期間が長期化しさらに全国レベルに運動が拡大していくと、次第に排日運動によるダメージを避けることが難しくなっていった。
排日で日本は経済的打撃を受けたことも少なくなかったが、それにも増して大きな問題は、支那民衆の間に排日の感情を深く滲潤させたことである。ある支那の要人は「支那人は生まれながらにして排日だ」といった。四つか五つの何も知らない子供が、自分の好きな玩具で遊んでいるのに「それは日本品だ」と一言いうと、どんなに大事にしていた玩具でも投げ捨てるということである。支那人が日本人からの電話口に出ようとすると、女房と子供が反対して出さないということである。…中略…
しかし何といっても女子供の頭の中に深く刻まれたのには困ったものである。大正八年から排日教育を受けているが、子供の頃に注ぎ込まれたものはなかなか抜けるものではなく、それが国民革命頃には排日の立派な闘士となっていたし、今度の事変前には抗日の指導者となっている。…中略…
街路の正面にも抗日の札があり、門にも壁にも抗日の文句があり、日本品には「仇貨」「敵貨」と銘打っているし、紙幣にも排日の文字が捺してあり、時計の中にも書いてある。買うものには排日の字があり、町を出れば排日、新聞も書籍も排日、音楽も排日、これで二十年もたてば如何に鈍い支那人でも骨の髄まで排日にならざるを得ないだろう。これが蒋の長期抗戦の原動力となり、抗日連合戦線の糊付けとなっている。
同上書 p.86~88
排日教育や宣伝により支那民衆が次第に排日感情を抱くようになり、その影響で日支の関係は悪化していった。それまで日本に好意を持っていた商人もボイコットに参加するようになり、大正十四年(1925年)以降は多くの労働者がストライキに参加するようになったという。教科書だけでなく、街中至る所に排日ポスターが貼られて、紙幣にも排日の文言が印刷されていたという。
一九二六~一九二八年に国民党が北伐により支那統一を果たした一連の政治過程を国民革命と呼ぶが、排日教育の初期において子供の頃に排日教育を受けたメンバーはその頃には立派な排日の闘士となっており、一九三七から始まった支那事変の頃には抗日の指導者となっていたという。
支那による日貨排斥(ボイコット)
英米の使嗾により支那の排日が始まったのだが、なぜ支那は英米が手を引いてからも積極的に排日活動を続けたのであろうか。長野朗は『民族戦』(GHQ焚書)のなかで、支那はいずれ日本と衝突することを予期していて、武力では敵わないので、戦わずして日本を弱体化させるためにこのような方法を採ったことを述べている。
彼等が第一期に採用した対日民族戦の方式はボイコットであった。彼らは曰く、今支那では武力では日本には敵わない。然るに日本は経済的には自給が出来ない。支那から物資を取り、支那を市場とせねばならぬ。即ち支那に依存せねばならぬから、まずボイコットにより日本を経済的に弱め、支那の実力充実を俟って武力を以て日本に抗せんとするものである。この運動は大正八年から昭和六年の満州事変まで続いた。…中略…
次は昭和六年の満州事変から昭和十年の北支問題が起きるまでの期間で、この期間に於いては、一面抵抗、一面交渉と称し、未だ武力を以て抵抗できないので、ここに時間の余裕を得る必要があり、その他に案出されたのが一面抵抗、一面交渉である。この期間に於いては、一方では依然として徹底したボイコットをやりながら、一方では抵抗の準備をなした。彼らは満州を撤退して日本軍の占領地域を大にし、なるべく期間を長くし、地域と時間による持久戦を講ずるとともに、一方では戦備を整え、蒋介石は共産軍討伐を口実に中央軍を整備し、武器弾薬を準備した。またこの間に腹心の患である共産軍を討伐し、…また国際的に日本を孤立せしめるため、ソ連と通じ、英米と結びて、日本の国際的包囲を企てた。
第三期は昭和十年末の北支自治運動に始まり、全国的抗日運動となり、愈々武力を以てする日本との抗戦を準備した時代で、十二年七月の支那事変勃発に至る期間である。この時代にはボイコットはすでに影を潜め、抗戦準備に向かって全力が集中された時である。
長野朗『民族戦』柴山教育出版社 昭和16年刊 p.234~236
わが国が国際連盟を脱退したのは昭和八年(1933年)で、長野朗の分類に従うと第二期に当たるのだが、松岡全権の演説にも「ボイコット」という言葉が何度も出て来た。この「ボイコット」は単なる不買運動ではなく、日本商品を取扱った業者を捕らえたり、爆弾を投げ入れたり、莫大な罰金を科したりしたのだが、そのような行為を私的団体がやっているのを支那政府が取締まることはなかったという。
今日の教科書などでは「日貨排斥」という言葉が用いられているのだが、彼らが「ボイコット」戦略を採用した理由については、次のように解説されている。
…日本は土地狭くして資源少なく、それに人口が多く、商工中心政策を採っては来たが、原料と販路を他に求めねばならぬ。然るに隣邦支那には幾多の原料を蔵し、かつ四億の民衆があるから、日本は勢い原料と販路を支那に求める。この関係を知っている支那人は、日本は支那が無くては生きていけないと思うから、日本を虐めるには日貨排斥を行うことが第一策だということになる。即ちボイコットをやって行けば、日本は生存が出来なくて支那の言う通りになると思っているし、また如何に虐めても未練があるから何にもなし得ないと思っている。支那人のこうした考えは日本の官庁や学者によって発表される日本の人口食糧問題の対策論等により確かめられ、更に支那を訪問する日本の名士が、異口同音に日支の共存共栄を説くことにより深められた。
支那人は言う。日本は支那が無いと生きていけないから共存共栄かも知れないが、支那は日本が無くても生きていくのに一向差し支えないのだから、共存共栄を唱える必要がない。日支の共存共栄等は日本人が言っているので、支那人の方から嘗てそうした言葉を言い出したことはないと。武力で日本に及ばないことを知っている支那は、ボイコットにより日本のこの弱点を衝くことが最も有利な戦法であると考えているから、何か一寸したことがあってもすぐにボイコットをやって日本の進出を牽制し防止せんと試みたのである。ボイコットの一因は支那民族資本の勃興であった。支那が外国の市場的位置から脱却せんとし、上海を中心に民族資本が起こるや、まず日本の産業と衝突した。日本の産業は支那よりかは進んでいるが、欧米に較べては遅れている。そこで支那の産業が進歩するに従って、日本の産業とは競争的地位に立つことになり、日本工業品の輸入により緊迫される支那の工業家は、自己の販路を展開するため、ここに日貨排斥の挙に出で、日貨に代わり国貨を以てせんとしたから、日貨排斥には必ず国貨提唱が付きまとい、国貨の製造販売業者が日貨運動の中心の一つとなった。同じ外貨でも欧米品は多く高級品であるか、或いは支那品と競争しない特殊品であるため、欧米品を排斥しても得る所なく、排斥の必要を感じなかったことが、ボイコットの対象が日本品に限られた一因でもある。
同上書 p.240~242
ボイコットで日本に強いダメージで与えるためには、全国の民衆が日本嫌いになればなるほど効果が大きくなることは言うまでもない。そのために、子供の頃から全国で排日教育を施して、「日本=悪」のイメージを植え付けたのである。子供の頃から長い期間にわたり植え付けられた感情はそう簡単に抜けるものではないだろう。
今でも中国では子供の頃から排日教育がなされているのであるが、支那人民の不満がわが国に向けられることが近い将来に起きてもおかしくないだろう。被害に遭うのは中国にいる日本人や日本企業だけではなく、わが国にいる中国人や中国企業にも注意が必要である。この国はいつでも、日本国内においても、中国政府の指令により反日暴動を起こすことが可能なのである。
二〇一〇年に制定された「国防動員法」により、在日中国人は有事の際に中国政府の命令に従わねばならず、破壊活動や軍事活動を命じられる可能性があり、また二〇一七年に制定された「国家情報法」により、在日中国人・中国企業は、諜報活動の実施が求められている。わが国にいる中国人は、命令があれば中国兵にもなるしスパイにもなるということを覚悟しなければならないのだが、こんな法律を持つ国からの移民や留学生や観光客を歓迎することなど常識的にはあり得ないことである。また企業の重要業務に中国人を用いることについては慎重であるべきだと思うのだが、今の政治家も官僚も財界もマスコミも、このような問題に切り込むことがほとんどない。このことは、わが国の政官財マスコミには、重要な地位にありながら中国スパイや工作員とつながっている者が少なからずいることを疑わざるを得ないのだ。
世界の多くの国で外国によるスパイ活動を取り締まる「スパイ防止法」が存在するのだが、わが国にはそのような法律は存在せず、中曽根内閣の時(一九八五年)に国会で審議されたが審議未了で廃案となった経緯がある。その時は自民党の一部議員と全野党が断固反対したのだが、あれから四十年近く経って未だにスパイ防止法は成立していない。いったい国会議員は何をしてきたのか。今では与党も野党も、どこかの国のスパイのようなメンバーが与野党議員の多数を占めているために法案が提出できないのではあるまいか。
次回の総選挙では、そのような怪しいメンバーを軒並み落選させ、国民の為に頑張ってくれそうなフレッシュな政治家を国会に送り出したいものである。
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