二回目のロシア交渉に対する幕府の動き
以前このブログで、第二回目のペリー来航(嘉永七年一月十六日)の少し前に、長崎に於けるロシアのプチャーチンとの談判が終了したことを書いた。
長崎では領土問題がまとまらず条約調印には至らなかったが、将来日本が他国と通商条約を締結した場合にはロシアにも同一の条件の待遇を与える事などで合意して、嘉永七年一月八日(1854年2月5日)にロシア艦隊は長崎港を出て、船の修理のためマニラに向かっている。
一方幕府ではロシアの対応についての協議が行われ、アメリカとの条約談判の結果を標準とすることは定まったものの、国境をどこにするかについては簡単に結論を出せるものではなかった。
長崎の談判では、プチャーチンは択捉(エトロフ)島について五十年前まではロシア人のみが居住していた島であり日本人があとから来たと主張し、樺太はアイヌ人の居住地で南方に僅かの日本人が居住しているだけだ。すべてをロシア領とするか、一部を日本領とするか、日露の国境を早急に定めたいと申し出てきた。一方川路聖謨(かわじ としあきら)は、かつて千島列島はカムチャッカ半島まで日本人が住んでいたが、ロシア人があとから居住するようになった事情にあり、択捉島は断然日本領であると反論した。また樺太については、我国は南には番所も置いておりこれも日本領だと主張し、長崎での議論は平行線に終わっている。しかし、実際のところは、わが国が管理しているのは樺太島の一部分に過ぎなかったのである。
当時幕府は堀織部、村垣与三郎を蝦夷に送って調査させ、二人の意見と川路らの意見を総合した上で、今回の交渉においては樺太については境界を定めず現状維持(両国共有)を得策とする方針を定めている。
イギリス艦隊を恐れ、下田港を好まなかったプチャーチン
プチャーチンはディアナ号単艦で日本に向かい、八月三十日に箱館に入港している。単艦となったのは、当時ロシアはクリミア戦争中であり、旗艦以外の三隻の船はイギリス艦隊との戦闘に備えるため沿海州に残ることとなったことによる。プチャーチンは箱館での交渉を拒否されたために大阪に向かい、大阪奉行からは伊豆半島南東部の下田へ回航することを要請されて、十月十四日(12月3日)に下田に入港している。
なぜプチャーチンが箱館や大阪湾に入ったかについては、クリミア戦争の敵国である英仏の探索を避けなければならなかった事情があったことのようだ。その意味で、ロシアの軍艦が下田に向かうことはリスクのある事であった。徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第33 日露英蘭条約締結篇』に、同年の閏七月十五日にイギリスのスターリング提督が長崎に入港し、長崎奉行に与えた書翰の全文が紹介されている。その内容は「英国は露国と交戦最中につき、露艦対抗の必要より日本の諸港に随時出入するの許可」を請う内容であり、日本の許可がなくとも彼らはロシアの軍艦を攻撃する可能性を示唆している。プチャーチンがわずかな距離の移動に随分時間をかけているのも、蘇峰によると、イギリスの軍艦を警戒していたからだという。
プチャーチンが下田に到着したとの報告を受けた幕府は筒井、川路を派遣し、十一月三日(12月22日)に第一次談判が行われたが、この時はアメリカと締結した条約の内容に準じた内容にすることや、今後開港する場所について討議されている。この時にプチャーチンはアメリカが選んだ下田港は欠陥があり好まない旨の発言をしている。何か不吉な予感があったのかもしれないが、彼は港の形状からすると夏は問題がなくとも、冬の季節には船を繋ぎ留めにくい港であることを述べている。
アメリカ人何故にこの港に取り決め候やわかりがたきことに候。夏の内ゆえ、風と心づかず承知いたし候儀にもこれあるべく、港の形、冬分は船を繋ぎ留めがたく、すでにここ到着以来三度まで船を繋ぎ替えようようと相凌ぎおり候くらいの儀にて、甚だ難渋に存じ候あいだ、当所最寄りにて、可なりの港を御ゆるし下され候よう相願い候。
(『近世日本国民史. 第33 日露英蘭条約締結篇』p.80)
安政大地震で大破したディアナ号の沈没とその後の幕府の対応
ところが、第一次談判が行われた翌日の十一月四日(12月23日)に安政東海地震が発生し、下田一帯は大被害を受けている。運の悪いことにディアナ号も津波で大破し、乗組員にも死傷者が出たため、日露交渉は一時中断を余儀なくされてしまった。
プチャーチンは艦の修理を幕府に要請し、幕府もそれを認めて戸田(へだ:静岡県沼津市)港で修理されることが決定した。応急修理がなされた後、ディアナ号は修理地に向かったのだが、十一月二十七日(1855年1月15日)に強い風と高波により浸水しはじめ、ついに航行不能となっている。翌日になってディアナ号は漁船数十艘により曳航を試みたのだが、高波でひっくり返り、とうとう海中に沈没してしまったのである。幸いに乗組員は周囲の村人の救助もあり全員無事であった。
プチャーチン一行は暫く戸田に滞在し、幕府に船の建造許可を得て、ロシア人指導の下、日本の船大工を使って代船を建造することが決定した。わが国で初めて西洋型帆船を製造した経験は、その後わが国の造船技術が格段に進歩するきっかけとなったという。
勝海舟は『海軍歴史』にこう記している。
此露国の一大不幸や我が幸となり、我が諸工艱苦を経たりと雖も西洋造船の諸法暗に是を実地に得たるもの多しとす。…
この後これらの法に因りて作る船を君澤形と称し、君澤形第一第二第三漸次に増製せしむ。露人の造りて乗り去りし船も後我に送り還付し当時の高意を鳴謝す。
この時露人に従って就業せし諸工多く幕府海軍所附属となり、その中良工の今なお存在して横須賀に至り、諸工の長たる者数名を存す。
(『海舟全集. 第8巻』p.17~18)
戸田村でつくられた西洋式帆船を「君澤形」と呼ばれたのは戸田村が君澤郡に属していたことによる。プチャーチンが帰国するために新造された船は日本側が資材や作業員などを提供し、支援の代償として完成した船は帰国後には日本側に譲渡する契約であったという。この船は安政二年三月十日に進水式を終え、建造地である戸田(へだ)にちなんで「ヘダ号」と命名されている。
戸田村の船大工・上田寅吉はその後榎本武揚らとオランダに留学し蒸気船製作法を学び、維新後は明治海軍の代表的な建築技術者として多くの軍艦の設計に関わり、近代日本の造船技術と海軍の基礎固めに貢献した人物として名前を残している。
プチャーチンの方針変更
話を元に戻そう。このディアナ号の遭難とその後の幕府の対応は、日露の交渉に大きな変化を与えたという。
徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第33 日露英蘭条約締結篇』にはこう解説されている。
露人の遭難は、かえって日露談判にとりてはしあわせであった。日本の露人に対する好意と親切とは、いたく彼の心を感激せしめ、そのために、すべての談判がすらすらと進行する傾向を来たした。
(『近世日本国民史. 第33 日露英蘭条約締結篇』p.173)
津波で大破したディアナ号が応急修理の後、戸田港での修理のため下田を出航したのが十一月二十六日(1855年1月14日)。ところが高い波に揉まれて浸水が進み、乗組員全員がボートに乗り移り、ディアナ号が沈没したのは二十八日(1月16日)のことである。乗組員はすべて無事に救助され、わずか三日のうちにロシア人の仮宿舎が手配され、上官には戸田村の宝泉寺が宿泊所に提供されたという。
十二月十六日の川路聖謨の日記はこう記されているという。
江戸の御沙汰にて、異人の危難救うべきよしのこといと厚し。…仮屋なども速やかに出来したるを、異人共目覚ましがり、かつ上の御恩を謝して、外国の人の災難に御心を尽くされ候こと。その御手厚さ。全世界中に聴きも及ばぬ御仁恵なり。その有難さは露王に申立つべきはさらなり。永世へ伝え申すべしとの旨まで申したり。うまきことばをいうはプチャーチンの常ゆえ、いう百分の一もとおもいいたるに、昨日の懸け合い、…決して承知いたすまじなど申して異見ありけるを、断然として今一度と言いて申争いたるに、思いのほか屈して、数十ヶ条の条約悉くに決したり。はじめいかにと言いしは古賀金一郎なりしが、いたく驚きて、いかなればプチャーチンのきょうの安売りして負けにけむ、怪しむべしなど申したり。その源を良く思えば、いかに夷狄にても、公儀の御処置有難くといいし言葉の、少しは膓(はらわた)のうちにありしなるべし。
(同上書 p.175)
このように、遭難事故以降プチャーチンがすっかり交渉スタンスを変えてきたのである。
かくして領土については、千島列島における日本とロシアの国境を択捉(エトロフ)島と得撫(ウルップ)島の間とし、樺太については国境を画定せずこれまでの慣習のままとすることでまとまり、またロシア船の補給のために箱館、下田、長崎の三港を定め、ロシア領事を日本に駐在させることを決定している。徳富蘇峰は同上書でこう述べている。
世の中には、往々人力にて如何ともすべからざる偶然の出来事にて、それが仕合(しあわ)せとなることもある。すなわち上記の如きがその一例だ。しかもそれにしても、日本側がよく人事を尽くして、露人をして感激するに至らしめたることがあづかりて最も力ありと言わねばならない。
(同上書 p.176)
『日露和親条約』の締結と『日米和親条約』との相違
かくして談判は順調に進行して、安政二年十二月二十一日(1855年2月7日)に伊豆下田の長楽寺において調印が行われている。上の画像は外務省外交史料館に保存されている『日露和親条約』の日本語原文である。
中身を見ると、領土の問題を除く条項についてはアメリカと締結した『日米和親条約』とほぼ同様な内容の条項が多いのだが、大きく異なるところは以下の二点だと思われる。
・条約港として下田、箱館のほかに長崎を加えている点
・ロシア領事の日本駐在を箱館・下田の内一港に認めたこと
教科書などにはあまり書かれていないが、領事については『日露和親条約』で次のように定められている。
第六条 若(もし)止むを得ざる事あるときは、魯西亜(ロシア)政府より、箱館・下田の内一港に官吏を差置くべし。
(同上書 p.185)
また、その『条約付録』には「魯西亜官吏は安政三年(暦数千八百五十六年)より、定むべし。」とあり、先にアメリカのペリーとの交渉で定められた『日米和親条約』とは随分異なっている。『日米和親条約』のことはこのブログでも詳しく書いたが、和文と英文で領事の駐在に関する第十一条の内容が微妙に異なるのである。
すなわち、和文では日本がノーと言えばアメリカは領事を置くことが出来ないのだが、英文ではアメリカ単独の判断で、必要と考えれば領事を置くことが可能になっている。しかも領事を置くことが出来るのは、条約調印から18か月の経過が必要だ。ところが『日露和親条約』ではロシア単独の判断で翌年から領事が置けることが明記されているのである。この条文についてはその後問題となったのだがその点については次回の「歴史ノート」に記すことにしたい。
第二次大戦後問題となった、第二条の日本語とオランダ語の訳文の相違
条約交渉はオランダ語で行われ、オランダ・ロシア語条文から日本語・中国語条文が翻訳されたという。国境について第二条に明記されているが、Wikipediaにオランダ語と日本語との違いが解説されている。このわずかの違いが、第二次大戦後に問題になるのである。
【オランダ語条文の邦訳】
「これから後、境界はイトルプ(イェドロプ)島とウロプ島の間にあるべし。イトルプ全島は日本に属しそしてウロプ全島は残りの、北のほうの、クリル諸島とともに、ロシアの所有に属する。カラフト(サハリン)島について言えば、従来どおりロシアと日本との間に不分割のままにとどまる」
【日本語の条文】
「今より後日本国と魯西亜国との境 ヱトロプ島と ウルップ島との間に在るへし ヱトロプ全島は日本に属し ウルップ全島夫より北の方クリル諸島は魯西亜に属す カラフト島に至りては日本国と魯西亜国との間に於て界を分たす 是まて仕来の通たるへし」
この正文間の文言の相違は、日露和親条約の時点ではなんら問題のないものであり、国境線は択捉島と得撫島との間に確定されていることが双方の正文により明示されているが、サンフランシスコ会議のさい日本が放棄することとした「クリル諸島」の解釈についての文理解釈のさいに取り上げられ論点とされている。
ロシア語・オランダ語では「残りの、北のほうの、クリル諸島」と書かれているが、日本語では「夫より北の方のクリル諸島」と書かれており、日本語では「残りの」が抜けている。このため、日本語の条文を見るかぎりクリル諸島の地理的呼称とは得撫島よりも北であるかのように読めるが、ロシア語・オランダ語ではクリル諸島の地理的呼称は得撫島以北に限定することはできないとする。
その後明治八年(1875年)に千島樺太交換条約によりウルップ島以北のクリル諸島が日本領となったが、第二次大戦中の昭和二十年(1945年)八月九日にソ連が対日参戦し、十八日には千島列島に侵攻を開始し、九月三日までに北方四島を占領してしまった。そして、昭和二十七年(1952年)に締結されたサンフランシスコ講和条約の第二条(c)で、わが国は千島列島(Kurile Islands)の放棄に合意している 。
「日本国は、千島列島…に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。」
“Japan renounces all right, title and claim to the Kurile Islands,… “
この第二条(c)における「千島列島(Kurile Islands)」に国後島、択捉島が含まれるか含まれないかが今も問題になっている。
『日露和親条約』の日本語の条文を普通に読めば「得撫島以北の列島をクリル諸島と呼ぶ」という理解が可能ではあるが、ロシア語・オランダの条文では、ウルップ島よりも南にある択捉島や国後島もクリル諸島の一部であると理解されていたことを匂わせる表現になっている。もしかすると、『日露和親条約』交渉時において両国の「クリル諸島(Kurile Islands)」の理解が異なっていたのかもしれないのだが、もし「クリル諸島」に国後・択捉両島が含まれると解釈すれば、わが国はサンフランシスコ講和条約でこの両島を放棄することに合意したということになってしまうことになる。
わが国の「北方領土四島一括返還論」は「国後島と択捉島は古来よりわが国固有の領土であり、いずれも千島列島に含まれない」と解釈することによって成り立っているのだが、その説明が国際的に通用している状況にはなっていない。世界が” Kurile Islands”と呼ぶ列島について、地図にはクナシリ島、エトロフ島が描かれており、英文のWikipediaで確認すると両島と歯舞・色丹島も含めてKurile Islandsの島とされ、日本が「北方領土」と呼び自国の領土であることを主張していると説明されている。サンフランシスコ講和条約に於ける”Kurile Islands”と書いた列島には、両島は含まれていると考えるのが自然ではないか 。
わが国が「四島一括返還論」を唱えるなら、国後島と択捉島は歴史的にKurile Islandsに属さないことを明確な根拠を示して世界に説明し納得させる必要があると思うのだが、そのような努力が今まで充分になされてきたのであろうか。
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ブログ活動10年目の節目に当たり、前ブログ(『しばやんの日々』)で書き溜めてきたテーマをもとに、2019年4月に初めての著書である『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を出版しています。
通説ではほとんど無視されていますが、キリスト教伝来以降ポルトガルやスペインがわが国を植民地にする意志を持っていたことは当時の記録を読めば明らかです。キリスト教が広められるとともに多くの寺や神社が破壊され、多くの日本人が海外に奴隷に売られ、長崎などの日本の領土がイエズス会などに奪われていったのですが、当時の為政者たちはいかにして西洋の侵略からわが国を守ろうとしたのかという視点で、鉄砲伝来から鎖国に至るまでの約100年の歴史をまとめた内容になっています。
読んで頂ければ通説が何を隠そうとしているのかがお分かりになると思います。興味のある方は是非ご一読ください。
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