盧溝橋事件直前の英国スパイの動き
前回の記事で、昭和11年(1936年)の2・26事件以降統制派が陸軍の主導権を固めて、翌年には内閣の組閣人事に介入して政府に対する発言力を強めるようになったことを書いた。さらに新聞統制が行われて「一県一紙」の方針により多くの地方新聞社が統合されて姿を消している。その後、言論統制が強化されて、軍部にとって都合の悪そうな新聞記事が以前よりかなり少なくなっている。たとえば、外国のスパイによってわが国の軍事機密が奪われ、その事件に日本人が関与していたというような事件を詳細に報じるような記事が激減するのだが、実際にどのような記事が新聞で報じられているか紹介することにしよう。最初は昭和12年6月7日の国民新聞の記事である。
【張家口六日発同盟】去る五月十五日京包線涿鹿県桑樹村に英国大使錆附武官と称する挙動不審の外人ありとの報に、当地我が憲兵隊では直ちに我が作戦地域内に行動する怪しき英人二名を連行し目下張家口憲兵隊に留置厳重取調べ中である。右は上海英国大使館附陸軍武官スピーア(四五)中佐及び北京英国大使館附陸軍武官補佐官クーパー(二六)中尉にして、スピーア中佐は英国軍務局長を勤め昨年十月上海へ赴任、本年二月カー駐支英大使の命令により汽船で上海より香港経由河内に趣き更に飛行機で重慶に向い各所で国府要人と面接の後四川、陜西、山西、河北等各方面共産軍の状況視察のため共産軍の本拠陜西省西安、延安、葭県より山西省奇嵐、五台、揚家坪を経て涿鹿県桑樹村に達したもので、葭県より同地までは全部徒歩で調査しその間上海北京との間に共産軍の無電を利用して巧に我が作戦範囲内の状況を報告、日本軍に発見されることを懼れて揚家坪からは部下の支那人を北京英国大使館に派遣し、スピーア中佐救出のため前記クーパー中尉は我が完全なる諒解を得る事なく北京より同地に潜行、両人共垢まみれの背広服に身をやつして各所に潜伏、我が軍の目を掠めていたものである。
『神戸大学新聞記事文庫』軍事(国防)46-155
この記事は、日中戦争のきっかけとなった盧溝橋事件が起きる1ヶ月前のものだが、このイギリスのスパイは国民政府の要人と面談の後共産党の本拠地に向かい、その後日本軍の情報収集にあたっていたところで我が憲兵隊に連行されている。なぜこんな時期にイギリスのスパイが中国国民党と共産党の要人に会っていたのだろうか。盧溝橋事件や第二次国共合作は、イギリスが関与していたのではなかったか。
重要情報が公使館、領事館などから洩れていなかったか
上の画像は昭和14年2月1日の大阪毎日新聞の記事だが、某国高官がわが国の公使館、領事館などから重要情報を奪うことは容易であると豪語したことが書かれている。
わが在外公館ことごとく玄関開けっ放しであるという事実も黙過してよいかどうか、大公使館、領事館等々受附が皆外人であるということは訪問客、書信、電信、電話などことごとく外人の手を経ることを意味する、大公使の自動車運転手これまた外人であるということも考えもので、もしある国がわが在外公使をスパイしようとしたと仮定せんか、ただこうした外人雇員を懐柔するだけの一挙手、一投足の労で足りると某国高官が豪語したという、聞き棄てならぬ重大事ではないか、今や国際険悪、スパイ横行の時、玄関の戸締り絶対必要の声が起って来たのは当然である。
どこの国の高官がいつ、どこで発言したかについては触れず、実際にそのような発言があったかどうか真偽は不明なのだが、かつて日本の暗号電報が某公使の睡眠中にスパイによって写真を撮られていたために、日露戦争時にわが国の電報がロシアに解読されていたという事実がある。このことは、以前このブログで書いたことので以下の記事を参考にしていただきたいのだが、在外公館に限らず外国に進出した企業は多くの現地人を雇っていて、その中にスパイを潜り込ませてわが国の重要情報を盗むような事は、決して難しいことではなかったと思われる。
昭和12年に軍機保護法が改正されたのだが…
昭和12年に「軍機保護法」が改正されて、偶然知り得た軍事関係の秘密情報を外国人や外国人の為に行動している者に漏らした者は厳罰に処すことが法令で定められたのだが、その後も軍事機密の漏洩が続いていたようである。下の画像は昭和14年12月13日付の大阪毎日新聞の記事である。
陸軍では複雑怪奇な国際情勢と国際スパイ戦に備えるため軍機保護法施行規則の拡大強化に努めていたが成案を得たので十二日陸軍省令で一般に公布するとともに即日実施に着手した。
それによると今後は事陸軍に関する限り全面的な緘口令が布かれたわけで、違反者に対しては知ると知らざるとを問わずどしどし処罰されるから一般国民は特に「口」に御注意下さいと当局では警告を発している。…中略…でこの改正により今後は日本に大将や中将が何名あるとか士官学校や幼年学校の入学者数や卒業生の人員や階級別または兵科部別による尉官の任官数、戦死者や在郷軍人の人員数についてもうっかりしゃべったりペンをとったりすることが出来なくなったものである。
『神戸大学新聞記事文庫』軍事(国防)48-159
この改訂により、たとえば将校の数や補充計画、軍事用の飛行場の位置、全国または各徴兵区の毎年の現役兵、第一補充兵の徴集人員などの軍事関係の情報が機密扱いとなり、このような情報の漏洩が厳罰化されるようになったのだが、以前はこのような情報がかなり外国に洩れていたことが判明したからこそこのような陸軍省令が出されたということだろう。
相次いで暴かれた外国のスパイ網
上の画像は昭和15年9月22日付の大阪朝日新聞の記事だが、神戸市内で英国のスパイ一味十数名を一網打尽に検挙したことを伝えている。
上の画像は同年10月1日の大阪朝日新聞の記事だが、7月27日に英国スパイ十名が起訴されたことを伝えている。報道が遅れたのは、しばらく報道が禁じられていたことによる。
この事件は9月22日付けの記事とは別件であるのだが、記事によると今回検挙された十名のスパイのうち五人までもが神戸の居住者であるという。この二つの記事から、神戸が彼らのスパイ活動の重要な拠点であったことがわかる。当然のことながら、彼らの活動に協力した日本人がいたはずなのだが、その点については記事ではこう記されている。
こうしたスパイの手先となって活躍した日本人男女も相当数に上っており、当局ではいまさらながら国民がスパイに対し迂闊だったことに驚いている。そのうち数名は明らかにスパイ行為と知りつつ情報蒐集に参画しているために留置で取調べられ、共犯として起訴されているものも多くは外人スパイと交際中不知不識のうちにスパイ行為をしていたもので、今回は特に寛大に取扱われているが、今後は断乎処罰する方針である。
『神戸大学新聞記事文庫』軍事(国防)50-63
なおこのスパイ事件でむしろ寒心せねばならないのは政界、財界など知名の人々―ーいわゆる上層階級の人々がこれらのスパイと連関があったことで、憲兵隊ではこれらの人々に対して一応厳重な警告を発したが、今後の言動は十分に監視することとなっている。
昭和12年に「軍機保護法」が改正されて、外国人組織に軍事機密を洩らした者は厳しい処罰を受けることになっていたのだが、政界や財界で名の知られた人物がスパイとつながっていたということは大問題である。法の条文に則り厳罰に処されるべきなのだが、「今回は特に寛大に取扱われ」たとはとんでもないことである。余程の重要人物が関与していたのではないだろうか。
昭和16年の外国人スパイ一斉検挙
わが国がハワイ真珠湾を攻撃した翌日の大阪毎日新聞に、スパイ一斉検挙の新聞記事が出ている。
【情報局八日午後六時半発表】米英両国との開戦に当り敵国および敵性国の諜報、謀略活動を徹底的に覆滅するため、法規の命ずるところによりかねて内偵中なりし敵国および敵性国人など外諜被疑者に対し、十二月八日朝、検事指揮の下に警察、憲兵両当局の手によりこれが一斉検挙を断行しその目的を達成したり。
『神戸大学新聞記事文庫』軍事(国防)53-19
当局談【八日午後六時半発表】 国際情勢の緊迫に伴い敵性各国の帝国に対する諜報、謀略活動は特に熾烈を極め、これが封殺のためにはその基根たるスパイ網の徹底的検挙こそ最も緊要とするところであるが、その内外におよぼす影響を顧慮し今日までこれを差控えて来た。いまや皇国は、暴戻飽くなき米英両国に対し正義の刄を揮うにいたり、法規の命ずるところに則り、ここに帝国に蚕食しあるこれら敵国およびその傘下のスパイ網を一挙に覆滅して禍根を一掃するの処置をとった。翻って今次武力戦の発動にあたり、よく奇襲的効果を発揮し諸戦必勝を期し得たのは実に近時昂揚せられた防諜精神の発揚の結果によるもの大であって、衷心感謝に堪えざるところである。しかれども情勢の進展に伴い、敵国はもとより中立敵性国の行う謀報、宣伝、謀略など秘密戦は将来ますます巧妙なる形態をもってわが政治、経済、思想など各種の部面に熾烈に指向せらるべきは火をみるより明かであって、皇国不磨の国是を貫徹せんがためには、ますます偉大なる武力の発揮とともにこの影なく形なき秘密戦防備に完璧を期することが極めて緊要である。とくにわが戦争遂行力を阻害せんとする経済、思想、破壊謀略などに対しては官民を問わず最も警戒を要するところであって、利用せらるるがごときことの断じてなきよう要望する次第である。
この記事は、どこの国のスパイがどのようなことをして、どんな人物が検挙されたかなど具体的な内容には全く触れられていない。
実は同じ年の10月にソ連のスパイであったゾルゲや尾崎秀實、宮城与徳らが逮捕されているのだが、『神戸大学新聞記事文庫』のメインページで「ゾルゲ事件」で逮捕されたメンバーを検索しても、この事件に関する記事がなぜか1件もヒットしないのである。
上記記事で書かれている「スパイ網」はゾルゲの一味ではないのかもしれないのだが、「ゾルゲ事件」のような大事件が昭和16年から20年の間に新聞に一度も報道されないとは考えにくく、神戸大学の研究者が重大スパイ事件の記事を見逃すこともあり得ないだろう。私はこの記事は、やはりゾルゲ事件のことを書いたものだと考えているのだが、だとするとゾルゲ事件の詳細について新聞で報じられなかったのはなぜかという疑問が残る。
尾崎秀實は近衛内閣のブレーンでもあったのだが、(第三次)近衛内閣総辞職後に首相となった東条英機はこの事件の徹底的な捜査を命じていながらそれが出来なかったという。三田村武夫は著書の中でゾルゲ事件について次のように記しているのだが、新聞でこの大事件が詳細に報じられなかった理由はこの辺りにあるのではないだろうか。
時は太平洋戦争開始直後であり、日本政治最上層部の責任者として重要な立場にあった近衛およびその周辺の人物をこの事件によって葬り去ることの如何に影響の大なるかを考えた検察当局は、その捜査の限界を、国防保安法の線のみに限定し、その諜報活動の面は、出来うる限り避けるべく苦心した事実を筆者は承知している。
三田村武夫『大東亜戦争とスターリンの謀略――戦争と共産主義』自由選書 p.138
軍機保護法が存在していた時代においても首相のブレーンがスパイ活動を行っていたくらいなのだから、スパイ防止法を持たない戦後のわが国は推して知るべしである。特に今の国会議員は与野党とも相当劣化しており、かなりの割合でどこかの国の工作にかかっていると考えて良いだろう。まともな政治家が選ばれているなら、とっくの昔に憲法が改正され、スパイ防止法が制定されていて当然なのだ。
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