前回はGHQ焚書の須藤理助『満蒙は併合せよ:南支問題の真相』の中から、支那軍に関する部分を紹介させていただいた。支那兵に関しては興味深い話が他にもいくつも記されているのだが、今回は支那の統治機構の実態について書かれている部分を少しばかり紹介させていただくことと致したい。
この本に紹介されているような支那の実態については、当時の書籍や新聞記事などでいくらでも確認できるのだが、戦後の日本人にはほとんど知らされていない現状にあり、当時の支那のプロパガンダがまるで真実であったかのように描かれていることばかりである。
今のわが国において中国政府から発信されるニュースをそのまま真実であると信用している日本人は皆無に近いと思うのだが、戦前戦中の歴史に関してあの国が声高に主張する歴史についてはなぜか、マスコミの解説と同じことを言っているので疑問を持たない人が少なくない。しかしながら、戦前の日本人がそうであったように、あの国が声高に主張する話については、歴史に限らずすべてに於いて疑う姿勢が必要だと思う。
支那の警察の実状
まず支那の警察制度についての話題だが、須藤理助は次のように書いている。
列国は支那に対し治外法権を有しているが、支那は絶えずこれが撤廃を要求してやまないのである。某々小国は既に撤廃したが、日本をはじめ欧米の大国はまだ撤廃しない。何故に撤廃しないか。言うまでもなく支那の文化の程度が低いからである。行政司法の機能が正しく完全に働いていないからである。…中略…
支那の警察制度は日本の警察制度を学習してそれに準拠したものであるから、形式的には日本の制度組織と同様になっているが、その内実は似て非なるものである。巡査部長以上は帯剣であるが、平巡査は銃を持って兵隊のように路傍に立っているのである。また平巡査は自分の家が無く寄宿舎に雑居している。而して人民の生命財産を保護する本来の使命とは殆んど没交渉で、ただ何か大事件が勃発した時、隊伍を組んで出動するだけで、常には遊んでいるようなものである。
蒋介石は麻雀を禁止し、犯すものは厳罰に処することになっているが、もし麻雀をやって検挙されても賄賂を提供すれば釈放するから、金のない者だけが正規の処分を受けるのである。私は南京警視庁の顧問を務めた経験があるから、よくその内情を知っている。建築についても日本と同じく警視庁の許可を受ける制度になっているが、既定の通り書類を調整して願い出ても当局はこれを放っておいてなかなか許可しない。そこで手をまわして賄賂を提供すれば、さっそく許可するという調子である。
支那では警察署長の地位を踏めば一ヶ月十万円からの賄賂の収入がある。これを外水と言っている。余得という意味である。しかしその半額は上官に提供しなければならぬ。その外水を目当てに警察署長の椅子を狙う者が多いのであるが、学識才幹があっても金が無ければ署長にはなれない。そこで署長候補者に金主がついてやっと署長に任命されると、金主は貸金の倍額を受け取るまでは署長についていて離れない。
須藤理助『満蒙は併合せよ : 附・南支問題の真相』忠誠堂 昭和7年刊 p.26~28
昭和七年の十万円を「日本円消費者物価計算機」のサイトで試算すると毎月二億円を超える水準になる。
賄賂が行われているのは警察だけでなく、裁判においても同様であるという。須藤によると「訴訟が起これば裁判官と弁護士で当事者双方から巧みに金をまき上げ、原告も被告も金がなくなれば判決する」と書いている。
支那の社会が腐敗しており賄賂が横行していることは今の中国も同様で、ネットで探せばそのような記事はいくらでも見つけることが出来る。
わが国のテレビや大手紙では中国にとって都合の悪い報道は殆んどしなくなっているのだが、わが国は中国の賄賂文化に、今のマスコミも政治家も官僚も財界もかなり汚染されつつあるような気がしてならないのは私だけだではないだろう。岩屋外務大臣が中国企業から賄賂を受け取ったことでアメリカの司法省が起訴した事件もおそらく氷山の一角であろう。政権が吹っ飛んでもおしかしくない事件でありながら、日本のマスコミには真実を追求して詳しく報道する姿勢が見えてこない。マスコミが自らの役割を放棄して重要なニュースを伝えなくなっているのだから、テレビや新聞はさらに国民の支持を失っていき、新聞購読者の減少が止まらないことは当然のことである。
支那の国民性
次に須藤は支那の国民性について書いているが、同様なことは戦前の多くの書籍に書かれている。多分今も本質的には同じではないだろうか。
四千年の歴史によって馴致された支那国民性は譎詐、虚偽の結晶である。外交上手、宣伝上手は支那の国民性の発露である。
個人間の喧嘩でも日本人同士の喧嘩とはまるで違っている。初めは相手と怒鳴り合っていてなかなか手を出さない。野次馬が出てくるのを待っているのである。野次馬が出て来ると喧嘩の相手を互いに除け者にして野次馬の方に向き直り、自分が善くて相手が悪い所以を宣伝するのである。そうして結局宣伝上手の方が勝つのである。たとえ自分が悪くても逆宣伝が上手ならオブザーバーの力で勝利を得るのであるから宣伝が上手になるのも当然と言わねばならぬ。
国家としても何か事あるごとに第三国を引っ張り出し、外交手段によって相手国を押さえつけんとするのはやはり国民性の現われである。今回国際連盟における施肇基の活躍もその手であることは言うまでもない。
残酷なこともまた支那の国民性である。虐殺して目玉を抉り抜くとか、何とか口するさえ忍びないような残忍非道なことをする。
同上書 p.29~30
以前このブログの記事で書いたとおり、昭和六年(1931年)に満州事変が起こると、支那ははじめからわが国と交渉する気などなくすぐに国際連盟を巻き込もうと動いたのだが、連盟に提訴したのは国際連盟中国全権代表の施肇基であった。
この国は今もそうだが、自分が悪事を働いてもその罪を認めず、逆に他人に罪を負わせようとすることを平気でする国だ。彼らの宣伝戦で多くの歴史的真実が歪められてきたのだが、左翼の多いわが国の歴史学者はまともな反論をしてこなかった。いずれこのブログで書く予定だが、南京大虐殺などというものは真実ではなく、支那の得意なプロパガンダである。
わが国政府の軟弱外交姿勢
わが国の外交姿勢は今も軟弱だが、当時に於いても同様であったようで、須藤は大正八年以降の政府の対支外交を激しく批難している。
我が対支外交は一言にして言えば退嬰自屈であって、いずれの内閣時代たるを問わず失敗の歴史を止めざるはない。殊に大正八年以後の対支外交は全然なっていない。その結果如何に国家の権益を害し、在支同胞の発展を妨げ、国威を失墜したか測り知るべからざるものがある。就中国内において支那問題を党争の具に供した事例があるなどは沙汰の限りと言わねばならぬ。加えるに、出先官憲は袖手無為、国家の権益が侵害されようと居留民が迫害されようと、何ら積極的の手段をとることなし。居留民は自国の官憲に頼ることが出来ないで、自ら起って自衛手段を講ぜねばならぬような状態である。これ畢竟*、政府の弱腰に起因するものと断じざるを得ない。
かの国辱、南京事件の当時政府のとった無抵抗主義および善後処置等を回想すれば日本臣民として痛憤禁じ難いのである。
甘やかせば甘やかすほどつけあがるのが支那の国民性である。米国の宣教師などは支那人を人面獣心だと言うている。かかる国民に対してわが政府は何故に下から出るのであろう。支那に対して懐柔政策は無駄である。強硬に徹底しなければならぬ。殊に軍閥に対しては絶対に弱みを見せることは禁物である。紳士扱いするが如きは阿保の極と言わねばならぬ。
*畢竟:つまるところ、わかりやすくいうと
同上書 p.35~36
大正八年以降の支那外交は酷いと指摘しているのだが、大正八年はベルサイユ講和会議開催中に中国で五四運動が起こり、英米の宣教師に煽動されて支那で反日運動が本格化した年でもある。当時の内閣総理大臣は立憲政友会総裁の原敬で外務大臣は内田康哉だったのだが、当時の新聞を検索すると各紙が何度も政府の無策を厳しく批判していることが確認できる。
依然として国民生活の安定は保障されず、戦後の問題として労働問題は世界的に解決を急ぐ可きであるが、当局は「自然の発達に委す」の一天張りで通し議員の質問また徹底的でなく、対外貿易策に就きては更に無方針、形式的政党内閣の招牌を掲げしのみであって、実際的には前官僚内閣の為したる所と殆ど全く変りは無い。変りし事の無かりしは即ち「無事」なりし所以、政府党たる政友会よりは目出度く無事の議会なりしならんも、斯の如き無事の議会は国民より言えば決して目出度い議会ではないのである。
「神戸大学新聞記事文庫」外交8-8
無能な人物が重要なポストに就いても、ただ失敗がないことだけを心がけ、問題が起こっても解決することを期待し見守るだけで動かないのは今のわが国の政府とほとんど変わらない。今の政府は国民が望みもしていないことを実行するというとんでもない状態だが、政府が無能であればとんでもない危機に国民が巻き込まれることがよくある。
何処かの国がわが国に何かを仕掛ける時には、まずはわが国や世界の反応を見てから次の一手を考える。この国が問題を仕掛けてもわが国や世界がさしたる反応を示さなければ、「この程度なら大した問題にならない」と考えて、さらに大きな問題を仕掛けようとする。何もせずに事態の推移を注視するだけのような政府では、日本の立場はどんどん悪化していくことになる。今のわが国の状態は要注意である。
話を元に戻すと、須藤は政府の対支外交を批難したのち昭和二年に起きた第一次南京事件のことを書いているのだが、これは無為無策の政府が、何も問題がなかったことを装うために事件の緘口令を敷いたことが問題を大きくさせたことを書いている。その点については次回に紹介することと致したい。
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