丹波もみじめぐり
今年も紅葉の季節がやって来た。毎年この季節にはなるべく田舎の古社寺の紅葉名所を巡ることにしているのだが、今年は丹波市の紅葉を楽しんできた。最近は地方の社寺を訪れても無人であることが多いのだが、丹波市は市内の古社寺の観光客誘致に力を入れており、毎年この季節は丹波市観光協会が選んだ紅葉名所をホームページで紹介してパンフレットを制作し、今年は市内にある十二社寺がピックアップされていて、これらの社寺の近くには要所要所に幟が立てられているので、道を迷うことがない。
また期間中は地元のボランティアの方が観光客の受付や案内や、地元産品の販売をしていることが多いので安心して楽しむことができる。丹波市のこの取り組みは十年以上続いており、春には桜の名所のパンフレットも制作されている。桜や紅葉名所の古社寺のある他の市町村も真似できないものかと思う。

慧日寺
最初に訪れたのは臨済宗の慧日寺(丹波市山南町太田127−1)。永和元年(1375年)に足利義満の管領細川頼之と養子の頼元により建立された臨済宗の寺である。かつては塔中寺院十八ヶ寺、末寺四十六を数える大寺院であったが、明智光秀の丹波攻めの戦禍で天正三年(1575年)に焼失した。
江戸時代の寛永期に再建されるも寛文七年(1667年)にまた焼失し、現在の建物はそれ以降に再建されたものである。

上の画像は元禄十五年(1702年)に再建された慧日寺の仏殿で、ほぼ完全な禅宗様式の建物であり兵庫県の指定文化財である。須弥壇上に安置されている仏像は室町時代のものと伝わっている。

慧日寺の方丈(本堂)は江戸時代後期の建造で国登録有形文化財となっている。方丈と庫裏の裏に多くのモミジが植えられている。
慧日寺には室町時代に制作された絹本着色仏光国師像や絹本着色夢想国師像など県指定文化財を所蔵しているが、普段は公開されていない。

方丈と庫裏の間にある中庭のモミジは残念ながらピークを過ぎたようだった。

仏殿の近くの石仏当たりの紅葉はしばらく楽しめそうだ。
常勝寺
次に向かったのが天台宗の常勝寺(丹波市山南町谷川2630)。寺伝によると大化年間(645~650年)に法道仙人が開基し、永保年間(1081~84年)に火災に遭い、再建されたのち天正三年(1575年)十月に明智光秀の丹波攻めの際に全焼してしまう。現在の堂宇は元禄年間に建てられたものだという。
法道というのは日本に渡る時に牛頭天王とともに渡ったとされるインドの仙人で播磨国一帯の山岳寺院などに開山・開基として数多く名を残している。

この寺は秋の紅葉も美しいが、春の桜の名所としても有名だ。

参道はかなり長く、普門橋から本堂まで三百六十余の石段を上る必要がある。この辺りは中間点にも達していない。

本堂には平安時代から鎌倉時代初期の作とされる本尊の千手観世音菩薩立像が安置され、薬師堂には鎌倉時代の作とされる木造薬師如来像が安置されている。何れも国の重要文化財に指定されているが、普段は公開されていない。
この寺で毎年二月十一日に本堂で行われる追儺式は有名で、法道仙人の面をつけた童子のあとを四匹の鬼が追「鬼こそ」と呼ばれている。丹波で六百年続く伝統行事でである。
石龕寺
次に真言宗の石龕寺(丹波市山南町岩屋3)に向かう。寺伝では聖徳太子が開基したとあるがそのことを裏付ける記録は存在せず、この寺が記録で確認できるのは『太平記』二十九巻に寺名が登場し、足利尊氏・義詮の親子がここに身を寄せたと記されている。
天正七年(1579年)に織田信長の丹波攻めにより南大門を残して堂宇が焼失したが、その後復興したという。

仁王門は鎌倉時代に建築されたものである。

仁王門に安置されている仁王像は仁治三年(1242年)に仏師定慶が制作したもので国の重要文化財に指定されている。

石龕寺の参道もかなり長く、美しい紅葉を楽しみながら歩を進めていく。

駐車場から本堂までは約七百メートルあり、約六百本の古木のモミジがある。色づきの早いモミジ、遅いモミジがあり、長い期間紅葉を楽しめそうだ。、

ようやく毘沙門堂(本堂)にたどり着く、ここからさらに八百メートルの山道を登ると奥の院があり、石龕寺の名前の由来となった石窟があるのだが、予定の時間の戻れないのでカットした。
達身寺
次の目的地は曹洞宗の達身寺(丹波市氷上町清住259)。寺伝によるとこの寺は奈良時代に行基菩薩が開基したとされるが、かつては達身寺の前身である寺の達身堂が十九山の中腹にあったという。
明智光秀の丹波攻めで達身寺の前身である寺は焼かれてしまったが達身堂は残されて、多くの仏像が放置されたまま荒廃して行ったという。元禄八年(1695年)に村に疫病がはやり、多くの人々が亡くなった為に、占い師に占ってもらった結果が「三宝を犯した仏罰」と言われ、村人たちは破損していた十九山の達身堂を現在地に下ろして修復して仏像を安置し、「十九山 達身寺」と名づけられたという。

決して大きな寺ではないのだが、この寺には破損した仏像も含めて八十躯の仏像があり、そのうちの十二躯が国の重要文化財に指定されている。なぜこんなに仏像が残されているのか。この話は若一光司さんが分かりやすく解説されている動画が公開されているので、是非視聴していただきたい。
八十躯の仏像の中には製造途上の作品があったり、一寺に一躯奉ればよいと思われる兜跋毘沙門天が十六躯もあることから、郷土史家の船越氏によってこの寺はかつて仏師たちの工房であったのではないかとの説が唱えられるようになった。寺のパンフレットには次のように記されている。
奈良の東大寺の古文書の中に丹波講師快慶と記されている、「私は丹波仏師である。もしくは丹波の地とつながりの深い仏師である。」と言っているのである。とすれば鎌倉時代の有名な仏師快慶は、達身寺から出た仏師もしくは、達身寺とつながりの深い仏師であるといえる。ところが残念ながら達身寺には、古文書が何も残っていない為、はっきりとしたことはわからない。鎌倉時代から平安弘仁期の古い仏像が沢山おられると言うことだけははっきりしている事実である

境内には多くのモミジが植えられており、十三年前に訪れた時よりも一回り大きくなっている。

達身寺は秋の紅葉だけでなく、春には水仙や片栗の花が咲くのだそうだ。
丹波市は電車やバスなどで観光するには本数が少なくてかなり不便な地域だが、歴史好きには魅力的な寺や神社が多数あり、昔からの風情を残している地域である。関西在住の方なら日本海方面に行く途中で観光するのに、季節の良い時に立ち寄られることをお薦めしたい。
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