かなの発明
『素描祖国の歴史』には政治史や外交史についてはあまり記されておらず、わが国の文化史が中心に描かれていて、平安時代については「かなの発明」について一章が設けられているだけである。
わが国の文化史において「かなの発明」はかなり大きな出来事だと思うのだが、例えば『もう一度読む 山川の日本史』には、「平安初期の漢文学に対し、和歌がふたたびさかんになり、物語や日記があらたな文学として登場した。これは表音文字としての平がな・片かながつくられ、日本的な感情が自由に表現できるようになったためでもある」と書かれているだけだ。この程度の解説を読んだだけでは、「かなの発明」がすごいことであることを理解することは困難である。
漢字輸入当時には漢字ほど、自己の意志を他に伝え得る完全かつ便利な利器は存在しなかったに違いない。といっても、猶、漢字を以てわが国語を的確に表現することはまた至難の業であった。ここに漢字の本来持たなかった音標文字的使用法をわれらの祖先は発明し、まず日本書紀や古事記に見るごとき、仮音による国語の表現が次第に試みられ、いわゆる万葉仮名を生んだ。「い」には以や伊が、「ろ」には呂の字を専ら使うことがいつとはなしに一定し、その草体から平がなが、その偏(へん)や旁(つくり)から片かなが生まれた。隣の朝鮮が長く漢文に支配されて、諺文(おんもん)を容易に発明し得なかったのに対し、わが国のかなの発明の早かったことは、わが国民の文化的自立性の高いことを物語るのである。
かなの発明は世俗に於いて弘法大師に帰せられているが、これには何らの確証はなく、ほぼその時代というに止まる。その性質上到底一人の人の創設し得べきものではなく、国民文化全体の邁進に伴う自然の所産であると考えねばならない。
かなの発明は文学の隆盛を将来するのみならず、文化層の拡大を来たし、国民文化の発達に資するところ、頗る大であったこと想像に難くない。この発明のあったと思われる頃、わが国は唐文化と絶縁して、ここに国風文化が育ち古今集以下の国民文学が相次いで現れたことも興味深いところである。国民がその思うところを自由に歌い出したいという願望が、不自由な漢文漢字を脱して、かな交じり文を作り出した原因で、そのことはまたかなの発明自身、国民文化のある程度の進展が自ずから求めたところによることを示す。即ち、文字の使用が官庁や寺院だけでなく、私人の日常成果にさかんに用いられ来たったこととから、かなの制定が生まれきたのであり、その発明の結果はさらに広い文化層の拡大を生んだのであった。我々が今日高い文化を享受することを得た出発点も、遡ってかなの発明に求められ、当時の国民の努力に対し、今日の我々は多大の敬意を表すべきである。
かなの発明に基づく平安時代国文学の隆昌は、世界的名作である「源氏物語」のような傑出した日本文学をも生んだのであるが、そのことは言葉の地理的な意味での日本風文化を生んだことを意味するもので、天平の文化のような、国家意識にあふれた国民的文化の隆昌というものではなかった。むしろ個人的または個人主義的な性質の文学であった。これはかなを取り上げて文学作品をつくった人達が、宮廷女流文学者であったことから自ずから来た性質であり、藤原氏一門の文化生活に国家意識の旺盛を求めることは木に縁りて魚を求めるようなものであるからである。
このようにいわゆる平安朝文学の示す国風文化は個人心理の妙を描いた繊細美の文学で、直ちにその全てが我々の尊敬に値するものではないが、前にも述べたように、かなの流行は文化の国民下層への浸潤をもたらし、慈円僧正のごとく鎌倉初期にはかな交じり文でわが国の歴史を説き、論語読みの論語知らずの観のあった国民大衆に、国史を知らしめ、国民の行くべき道を示そうとしたような人も現れ、武士を始め広い国民層が文化建設に参与し始めたのも、かな流行のお蔭によるところ少なくなかったであろう。かく考えれば平安時代の国風文化の持つ一面の非国家性も、結局に於いて国民的文化のやがて来たる高まりへの準備の一過程としての意義を十分持ちうると考えられる。一国の文化はそう自由には発達飛躍しない。個人への沈潜が極まってまた国家意識の隆昌を生むのである。吉野時代の文学である徒然草や江戸時代の国学者のあるものが平安時代の文学への復古をめざし、宣長ら復古神道派の人々が奈良時代復古をめざしたのも、国風文化と国民文化はかく対立的であるべきものでなく、融合すべきものであろう。平安国文学に於いてはただ、前述のごとくその間に乖離があった。文学がややもすれば一部人士の遊戯のように視られるは、このようなところから起きるので、理由のないことではないが、またいつでも認め得べき見解でもないこと、ここにいうまでもないであろう。源氏物語のような優秀な文学を物しうる国民にして、始めて柿本人麻呂のに見るごとき、力強い国民詩を歌い出すこともできるのである。国風文化の存在あって、国家意識の隆昌を将来する結果を生むものなることを注意しておきたい。
清水三男『素描祖国の歴史』星野書店 昭和18年刊 p.51~55
漢字がわが国に渡来した時期については諸説があり、紀元前一世紀後半とする説もあれば紀元後二世紀から三世紀にかけてという説もあるのだが、いずれにせよ六世紀から七世紀には儒教や仏教や律令などに関する書物などが渡来していて、文字を通して中国の文化を学んでいたことは間違いがない。しかしながらわが先人たちは、中国の言葉を中国語として読もうとはせず、中国語の音声を無視して漢字を訓読みすることを発案し、さらに語順を転倒させたうえで平かな・片かなを発案して、漢文を日本語として理解できるように苦心した。そうすることで日本語も自由に文字にすることができるようにしたのだが、この時期にアジアで同様なことを成し遂げた国は他には存在しない。
わが国で最初のひらがなによる文学作品として承平五年(934年)に成立したとされる紀貫之の『土佐日記』が有名だが、その冒頭には「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」と記されている。おそらくその頃から宮中では女性がひらがなで日記を書くことが一部で行われていたのであろう。その後「蜻蛉日記」「更級日記」「紫式部日記」と、日記の形式で女性が著した文学作品が相次いで生まれている。
紫式部が寛弘五年(1008年)頃に書いたとされる「源氏物語」は世界的名作で、20か国語を超える翻訳を通じて世界各国で読まれているというが、女性が著した小説で現在世界的に読まれている古い時代の作品といえば、フランスのラファイエット夫人著「クレーブの奥方」(1687年)、イギリスのジェーン・オースティン著「自負と偏見」(1813年)、ブロンテ姉妹の「嵐が丘」「ジェーン・エア」(1847年)などがあるが、「源氏物語」より六百年以上あとになって制作されたものばかりである。
表意文字である漢字は少ない文字で様々な表現が可能だが、内容の濃い文章の読み書きができるには多くの文字や熟語とその意味を知る必要があり、また画数の多い漢字が多いために記述に時間がかかるという欠点がある。一方、アルファベットのような表意文字では、僅かな文字を知るだけである程度読み書きすることは可能になるが、内容の濃い文章を読み書きするには多くの単語の綴りと意味と発音を覚えることが必要で、文章内容が複雑化すればするほど単語が長くなり、文字数が多くなり文章が長くなる傾向がある。日本語は表意文字である漢字と表音文字である平がな・カタカナを組み合わせることで、それぞれの長所を活かして、様々な内容をコンパクトに記述できる言語に変貌した。著者も述べているように、今日我々が世界の思想や文学作品や学術研究などの精華の多くを日本語で学ぶことが出来るのは、この時代に「かなの発明」がなされたことのおかげと言ってもよいのだ。
武家社会の形成
班田収授法により班田を耕作する者は租庸調と呼ばれる税金を納める義務があった。租とは口分田一反につき二束二把(収穫量の3%程度)を収めるものであり、庸とは京での10日間の労役の代わりに庸布と呼ばれる二丈六尺(約7.9m)の布を納めるものであり、調とは朝廷への貢物として繊維品や地域の特産物を治めるものであった。ほかに雑徭(ぞうよう)と呼ばれる、年60日間を上限に国内の土木工事や国衙の雑用を行う労役が課されていたのだが、それが農民にとって重い負担となっていて、奈良時代末期あたりから浮浪・逃亡する百姓が増加していった。
一方、平安時代に入ると人口が増加して口分田が不足するようになり、朝廷は養老七年(723年)に「三世一身法(さんぜいっしんのほう)」を出し、新たに開墾した田畑は三代まで所有できることを定めた。ところが三代目になるといずれ没収されてしまうというので、手入れがされずに再び荒地となることが多くなり、そこで朝廷は天平十五年(743年)に「墾田永年私財法」を出し、開墾した土地の永代所有を認めることとした。この法律により、公地公民制は崩れ、一部の貴族や社寺が奴婢や浮浪人や貧しい農民を使って大掛かりな開墾をするようになり、彼らによる土地所有(荘園)が平安時代になって一層拡大していった。
貴族たちは荘園を守るために用心棒のような男を雇うようになり、後に彼らは武装集団化してやがて「武士」と呼ばれる存在となり、地方や中央の治安維持のために次第に存在感を増していき、平安時代末期には源氏と平氏が中央に認められるようになったという。
やがて平安末保元・平治の乱に際して、東国の源氏、西海の平氏が中央にようやく認められ、国家の安危はこの二氏の双肩に課せられることとなった。源氏・平家ともに皇室の御流より出て、地方に永住された王の子孫で、一は東国の武士、一は西海の海の強者たちの組織者指導者として、即ち、当時一族郎党といわれた強い主従関係で結ばれた、武士団の統率者ではあったが、氏族制を解体して生まれた緩疎な国民連合を、新たな強い結合の小さい鎖によって、固め直すべき使命を帯びて、下から次第に築き上げられつつあった新しい秩序なのであった。旧来の貴族的な国家体制にとっては破壊的な集団であり、それゆえに初期の武士団はしばしば貴族側から山賊や海賊視されたが、しかく道徳性低きものにはあらず、「陸奥話記」なる源義家の奥羽征伐のことを記した物語には、美しい主従関係の情を描き、後に見る武士道精神の早くも現れていることとを見る。地方武士が党として現れているのも、貴族のごとき個人的対立を事とせず、血縁により、また住地により、同盟を結び、主従関係に拠って立つ、全国的な統一にこれを高められるべき素地を有していたと見るべきである。
さて平家は公家に倣って横暴の振舞い多く、後白河上皇の御心に違って人心を喪い、儚(はかな)い栄華の夢を残して、水沫のごとく壇ノ浦の一戦に滅び去ったが、これに代わった頼朝は平氏追討の以仁王(もちひとおう)令旨を奉じて、全国の反平家勢力を組織し、平家討滅に当たった。このために設けた源家の参謀本部たる幕府は、そのままやがて全国武士統率の府とし、全国支配の官府と化した。鎌倉の幕府とは元来このように源家の家の事務を扱う私の役所であった。
文治二年弟の義経等を反幕行為ありとして追放し、これを捕縛するために後白河法皇にお願いして、守護地頭を全国に設置し、頼朝の部下を全国に配して以来、鎌倉の幕府は全国にその力を持ち始めたのであった。しかし守護地頭御家人のみが武士のすべてではなく、非御家人と呼ばれた多くの武士がなお公家領荘園の役人として全国に散在し、これ等公家や寺社の荘園はいまだ鎌倉幕府側の所領に比し甚だ多かった。守護地頭は義経等追捕を名として、自己の警察権をこれ等公家領農村に植付け、漸次貴族の領有権を侵し始めるのが鎌倉時代を通じての形勢であって、決して鎌倉開幕によって直ちに、全国の土地が鎌倉武士の支配下に入ったわけではない。真に全国の土地に武士の領有権が及ぶのは、次の室町時代のことである。それはさておき、頼朝は必ずしも私欲を以て立った人ではなく、政治を淳素の古(いにしえ)に復すことを以てその理想とし、平氏のように藤原氏の勝手な政治に倣うことなく、まず地方生活の安定を計ることを以て念願とし、世のみだれを治めて、大御心を安じ奉らんとした。弟義経との争いのごときも、公家風に染んで武士らしさを失い、第二の平家と化する懼れのあった義経たちの行為を憂いて、鎌倉武士全体のために、ひいては全国の安定のために、涙を揮って弟を攻めたものと解せられうると思う。
かかる頼朝の方針は北条氏にも受け継がれ、貞永式目第一条には、神社を敬い、神国の面目を失わぬことを規定しているごとく、地頭等地方生活の中心指導者が、地方生活の精神的中心たる地方寺社の祭祀修繕を怠らず、地方生活の安楽に第一目標を置くべきことを規定している。由来地頭は地方生活の武力による破壊者侵略者ごとき言われているが、私のみた二三の古文書には、守護が従来国司の行っていた一ノ宮といって、一国の守護の神社と定められた社の祭祀に国司を助け、地頭御家人を率いて参加し、また国内の検地を国司に代わって行うなど、守護が国司の任務を代行する位置に進む勢いのあることが見られ、一方村政が村地頭により行われる傾向が見られることを以てすれば、地頭の荘園侵略は地方村落生活の破壊ではなく、その上に築かれた荘園領主権に対する攻撃でこそあれ、地方政治そのものの破壊ではなかった。地頭が地方の代表者となることによって、武士は荘園領主権を駆逐し得たのであった。
頼朝が地頭設置に当たって従来の荘園の下司を採用したことの多かったことが吾妻鏡により知られている如く、地頭は地方生活の整成に当たることを隠然の仕事として設置されたものであった。そのことによって、始めて頼朝の抱負は実現できるのであった。平安時代まで存在した村長が、鎌倉以後史上より姿を消すのは、村地頭によってとって代わられたのに基づくものと解する他はない。国司・郡司・郷司などは元来それ自身確固たる地盤と権力を有したものであるから、地頭設置によってその地位を奪われることなく、鎌倉幕府の支配網の中に入り込み、またこれと対立して自己の領主化をはかり、その地位を得たが、村の名誉職であり国郡司程権力に関係のなかった村長は、村地頭にその地位と仕事を譲り、または奪われ、あるいは自ら地頭に転身したものと思う。鎌倉以後村民の代表者は村の古老と呼ばれる二三人の顔役で、荘園によっては「おとな百姓」とも言い「番頭」ともいう、村落の有力者たちで、これ等はいずれも前述名主中の有力者であった。
荘園の役人や村地頭が土地から漸次離脱して、武家集団の生活に入り、領主またはその配下に昇華するに従い、村の生活は名主たちの自治に従うことになるが、この名主は多く後の郷士であり、中には商人や富農もあり、また鎌倉武士団の組織内に上進する者もあった。
このように鎌倉時代は武士がその領主化をまだ完全に遂げていない時代で、荘園領には公家寺社の領有がかなり多く残り、その領内には地頭に対抗する武士集団があった。国衙領内にもまた、鎌倉に属する武士としからざる者があって争い、地方的小ぜりあいは不断に続けられ、その争いを通じて武士の全国的統一と、武士の領主化が進むのである。…中略…要するに鎌倉時代は地頭や名主を中心にして、小さな武士領があちこちにつくられていく時代であって、一人の地頭は一村に勢力を持つだけでなく、かなり遠隔の国々に小領地を持ち、後の守護大名のごときまとまった広い領域を支配したものではなかった。このような地頭の上に立つ鎌倉幕府の組織はやがて建武の中興によって、国司守護を中心とする、より広い領域の設定によって代わられることとなるのである。
頼朝の幕府は上述のごとく、鎌倉御家人の統率者であり、別に日本の国政に関係すべき政府ではなかったが、地頭が紊れた地方政治の収拾者であったために、あたかも一国の政治勢力であるかのごとき観を呈したのであった。しかし幕府法たる式目は御家人をのみ対象としたもので、一般には大宝律令がなおも生命を持ったのである。
幕府は御家人なる一部の武士を統率して、国家に仕えたので、決して徳川氏の幕府のような存在ではなく、御家人また室町以後の大名のような、国民に対する政治力を有したものではなかった。而して鎌倉時代と室町時代は単に武家棟梁の家の交代にすぎないのではなく、社会構造上の変化が存したのである。
ともあれ、頼朝の将軍職補任によって、私的な組織として起こった武士団が、国家組織の中に織り込まれ、武士の私闘は公の闘いに転じ、地方生活の安定をめざす武士の行動は、また全国家生活の安寧を志すものに進む道をひらき、地方村落内の生活に、国民生活の面がかさなり来たり、国民の国家意識の新たな勃興を用意したのである。
同上書 p.56~64
教科書や通史を読んでも、頼朝が開いた鎌倉幕府がどのようなものであったのかがピンとこなかったのだが、当初の鎌倉幕府は東国を支配していた地方政権と理解すべきであり、西日本では朝廷が実権を掌握していたことを知るべきである。後鳥羽上皇は承久三年(1221年)に京都で鎌倉幕府打倒の兵をあげたが、味方と頼んだ大寺院の僧兵や東国の武士が上皇につかず、幕府軍が上皇軍を圧倒することとなった。鎌倉幕府が朝廷を上回る権力を持ち、実質的に全国を支配するのはその後のことである。
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