なぜ政府は関東軍による犯行を疑ったのか
前回の記事で、わが国では関東軍が実行したとされている張作霖爆殺事件について、ソ連の機密文書ではソ連が実行し日本人の仕業に見せかけたものだと書かれており、イギリスの外交文書においても、ソ連に犯罪の責任があると記されていることを紹介した。ところが、わが国の政府は張作霖爆殺事件の犯人が関東軍だとして幕引きを図ろうとしたのである。では、なぜ政府は関東軍の犯行であると考えたのであろうか。
当時から関東軍がやったという噂があり、関東軍の大佐であった河本大作(上画像)自身が殺害計画があったことを認める発言をしていた。さらに現場には、関東軍がやったと疑われるような工作がなされていたことから、政府も関東軍を疑うこととなったようだ。
河本本人は手記を残していないのだが、河本の義弟で作家の平野零児が『文芸春秋』昭和二十九年十二月号に、河本の一人称を使って「私が張作霖を爆殺した」という手記のようなものを書いている。全文が「青空文庫」で読める。
重要な部分を抜き出すと、動機に関しては
一人の張作霖が倒れれば、あとの奉天派諸将といわれるものは、バラバラになる。今日までは、張作霖一個によって、満州に君臨させれば、治安が保たれると信じたのが間違いである。
巨頭を斃す。これ以外に満州問題解決の鍵はないと観じた。一個の張作霖を抹殺すれば足りるのである。
とあり、爆破に関しては
来た。何も知らぬ張作霖一行の乗った列車はクロス点*にさしかかった。
『文芸春秋』昭和二十九年十二月号
轟然たる爆音とともに、黒煙は二百米も空ヘ舞い上った。張作霖の骨も、この空に舞い上ったかと思えたが、この凄まじい黒煙と爆音には我ながら驚き、ヒヤヒヤした。薬が利きすぎるとはまったくこのことだ。
第二の脱線計画も、抜刀隊の斬り込みも今は不必要となった。ただ万一、この爆破をこちらの計画と知って、兵でも差し向けて来た場合は、我が兵力に依らず、これを防ぐために、荒木五郎の組織している、奉天軍中の「模範隊」を荒木が指揮してこれにあたることとし、城内を竪めさせ、関東軍司令部のあった東拓前の中央広場は軍の主力が警備していた。
そして万一、奉天軍が兵を起こせば、張景恵が我方に内応して、奉天独立の軍を起こして、その後の満州事変が一気に起こる手筈もあったのだが、奉天派には賢明な蔵式毅がおって、血迷った奉天軍の行動を阻止し、日本軍との衝突を未然に防いで終った。
*クロス点:事件の現場となった満鉄線と京奉線とがクロスしている地点。
と書いている。この「手記」が文芸春秋に掲載される一年以上前に、河本大佐は中国共産党軍に逮捕監禁された後に獄死(昭和二十八年八月二十五日)していた。したがって、この「手記」が本物か偽物かを立証することは既に不可能となってから、世に出た文章であることをまず知る必要がある。
河本手記を偽物と判断した新聞記者
元朝日新聞東亞部の国松文雄が、この手記は偽物と判断して昭和三十年一月に文芸春秋社に面談を申し入れさらに文春の調査を実施したことが、国松の著書『わが満支廿五年の回顧』に記されている。
あの原稿は河本氏の真実の手記ではない。〇〇という元〇〇記者をしていた人が、かって河本氏の日記というものをみた。それをどれだけ書き取ったか疑問だが、ともかく、そんなものを見たことがあり、それをその人が書き直したものを、〇〇〇〇〇氏がいよいよ河本死すとの断が下ったので、文春に持ち込んだ、というのが経路である。〇〇氏は今は言論に関係する重要な席にある。それにしても「張作霖は私が殺した」とは偽手記にも記してないことである。文春も思い切った見出しを書きつけて、河本氏の手記としたものである。
私はこの問題を他のジャーナリズム全般の立場から観察して、こんなことは今後大新聞、大雑誌たる者は十分留意してもらいたいと思う。
一 文芸春秋はあれが真実の手記でないことを一度も世間に発表しないし、世論は追究しないのだから後世までもあれは河本氏の手記だとして歴史的記録として残るし、世間の人はあれは本物だと思うが故に、…意識の中には「歴史的事実をその人が書いたもの」として、それこそ貴重だとして残る事実を、一体文芸春秋はどうするのだ。他の言論機関はどうするのだということである。…
国松文雄『わが満支廿五年の回顧』新紀元社 昭和36年刊 p.253~254
今では国松が危惧した通り、河本大作の名前で書かれた「私が張作霖を爆殺した」は、張作霖爆殺事件を引き起こした本人の手記だと思われてしまっているのだが、国松からすれば「私のみならず、多くの支那関係者、旧満鉄幹部、陸軍将官などが、根本的な疑念を持っていることを伝えたいのである」(p.252)とまで書いていることを知るべきである。
以前このブログで書いた通り、昭和初期はソ連・コミンテルンが中国大陸やわが国に対して強力な赤化(共産主義化)工作を仕掛けていた時期なのである。事件当時のイギリス情報部の外交文書の表現を借りると、河本大佐はソ連と共謀した日本人の一人ではなかったか。またわが国や満州で、関東軍が張作霖を爆殺したとの噂をバラ撒いたのはソ連による情報工作によるもので、その工作にわが政府は引っかかってしまった可能性が高い。
しかしながら、現場を検証して、関東軍による犯行とは考えられないと報告した人物もいた。加藤康男によると、当時の関東軍参謀長の斉藤恒(ひさし)は現場を検証して関東軍による実行ではないとの報告をしたのだが、なぜか軍上層部が斉藤の報告を無視し、いち早く罷免しているのだそうだ。もしかすると、すでに軍の上層部までもが、すでにソ連の工作にかかっていたのかもしれない。
犯人が日本人であることに見せかける工作に協力した関東軍
関東軍主犯説で必ず使われるのが、張作霖爆殺の瞬間の写真といわれる上の画像である。山形中央図書館にあるこの写真が、この事件を関東軍が実行したことの動かぬ証拠だと主張する人が多いようだ。
まずこの写真が何故山形中央図書館にあるのか、その入手経路を追ってみよう。
加藤康男の『謎解き「張作霖爆殺事件」』によると、爆破前後の写真から現場検証の様子や張作霖の葬儀の写真まで六十一枚の写真がでてきて、この写真はその中の一枚である。
この写真を密かに保管していたのは、山形県藤島町(現鶴岡市)に住む元陸軍特務機関員で七十歳(発見当時)になるSさんだった。彼は写真の束を河野又四郎という特務機関の上司から預かったという。
加藤康男『謎解き「張作霖爆殺事件」』p.77~80
写真の謎を解くもう一つの手がかりは、写真の裏に書かれていた「神田」と言う文字にあった。「神田」と言えば事件の当事者として名前が出てくる神田泰之助中尉がいる。二人には明らかに接点があることが判明した。
このSと言う人物は、善方一夫氏の『歴史の時間』の記事に出てくる、元軍人の佐久間徳一郎のことだと思われる。
また、加藤氏の前掲書を読むと、実はもう一組の同じ写真が防衛研究所戦史部に保管されているという。秦郁彦氏が『昭和史の謎を追う』のなかでそのことを書いているのだが、秦氏によると写真を撮ったのは桐原貞寿中尉だと記しながら、桐原中尉が爆破スイッチを押したと結論しているそうだ。
爆破スイッチがセットされた場所と爆破現場は二百メートルも離れていた。どうして、スイッチを押した人物がこの写真を撮ることができるのであろうか。
写真撮影者は神田泰之助中尉だという説もあるが、神田中尉も二度目の爆破スイッチを押した人物とされており、桐原中尉と同様の問題が残る。写真撮影は別の人物が行ったと考えないとどう考えても不自然である。
あまり指摘する人がいないのだが、よくよく見るとこの爆破瞬間の写真も不自然だ。煙が立ち上っていない場所でありながら、既に破壊されている部分がかなりある。満州鉄道の橋梁が一部崩れてすでに列車を押し潰した状態になっていることがわかるし、煙の位置は橋梁の位置と微妙に異なる。この画像は、既に爆殺が終わってから、小さな爆発物を破壊させて撮影したものではないのか。
そもそも何故、河本大佐がこのような写真を撮らせたのだろうか。私には加藤氏の結論が一番納得できるのだ。
考えられる結論は、関東軍がやったことをあとで政府の調査委員会に認めさせるための証拠品として、河本が特務機関の人物に撮らせた。そのプリントが最低でも二組あって、出てきたというところではないか。
同上書 p.223
当初は河本も公式には爆殺実行を否定していたそうだ。あらかじめアヘン中毒患者三人を雇った上で声明文を懐に忍ばさせておいて銃剣で刺殺し、「犯行は蒋介石軍の便衣隊(ゲリラ)によるものである」と発表し、この事件が国民党の工作隊によるものであるとの偽装工作を行っていたのだそうだが、三人のうち王谷生という男は死んだふりをしていて現場から逃亡し、張学良のもとに駈け込んで関東軍がやったと証言したために、この事件は関東軍の仕業だという疑惑が強まっていったのだが、ひょっとすると関東軍は王谷生をわざと逃がして関東軍の仕業だと訴えさせたのではないか。
また爆破に用いた電線は巻き取らずに草むらに残していたというのだが、これもわざとらしい。
その上に写真を撮って「神田」という名前まで書き残したのは、少なくとも私には非常に不自然に見える。
こんな杜撰な偽装工作を本当に日本陸軍特務機関のやったことなのかと、詳しく知れば知るほど誰でも不審に思うことだろう。むしろ関東軍が疑われるために工作したものと考えたほうがスッキリするくらいだ。
河本の証言内容とは矛盾する現場の状況
今度は爆破された車両に目を移そう。
河本大作には義弟の平野零児が書いたものとは別に、昭和十七年十二月一日に大連河本邸で森克己との共同聴取筆録という「河本大作大佐談」というものがあり、次のURLで全文が読める。
lこの記録で、爆破の場面を紹介すると、
…鉄道の敷設材料を、支那側が瀋海鉄道の材料に、こっそり竊んで行って盗用することが多かったので、この年三月頃より、この盗用を防ぐために 土嚢を築いて居ったが、この土嚢を利用し、土嚢の土を火薬にすり代えて待機した。
愈々張作霖は六月一日北京を発って帰ることが判った。二日の晩にはその地点に到る筈であったが、…予定より遅れて四日午前五時二十三分過ぎに現場に差しかかった。
その場所は奉天より多少上りになっている地点なので、その当時、貨物泥棒が多く、泥棒は奉天駅あたりから忍び込んで貨物車の窓の鉄の棒をヤスリで摺り切り、この地点で貨物を窓の外へ投出すというのが常習手口であった。そこでこの貨物泥棒を見張るために、満鉄・京奉両線のクロスしている地点より二百米程離れた地点に見張台が設けられていた。
我々はこの見張台の中に居って電気で火薬に点火した。コバルト色の鋼鉄車が張作霖の乗用車だ。この車の色は夜は一寸見分けが付かない。そこでこのクロスの場所に臨時に電灯を取付けたりした。
また錦州、新民府間には密偵を出し、領事館の電線を引張り込んだりした。そしてこれによって張作霖の到着地点と時間とが逐一私達の所へ報告されて来た。… 張作霖の乗用車が現場に差掛かかり、一秒遅れて予備の火薬を爆発させ、一寸行過ぎた頃また爆発させ、これが甘く後部車輪に引かかって張作霖は爆死した。
仮にこの記録が河本の言葉を忠実に記録したものであったとしよう。
張作霖を乗せた列車は二十両編成であった。少し考えればわかることなのだが、線路脇あるいは満鉄戦の橋脚上部に爆弾を設置して列車の中の張作霖を爆殺するのであれば、はじめから張作霖がどの車両に乗っているかがわかっていなければならないのだが、そのような極秘情報を入手することは極めて困難なことである。もし入手出来たとしても、高速で駆け抜けるはずの車両をピンポイントで爆破することは不可能に近く、汽車が余程減速しなければ成功させることは難しい。
また、閉鎖された空間であれば少量の火薬でも威力を発揮するが、オープンスペースでは四方八方に爆発のエネルギーが分散してしまうので相当量の火薬が不可欠となる。その場合は、線路脇に設置した場合は地面に大きな穴ができ、線路は折れ曲がって当然である。また、急に前に進めなくなるために列車の後続車両が次々と脱線しなければ不自然だ。しかしながら、爆破された列車の台車部分は原型をとどめ、かつ脱線していなかった。
上の画像は張作霖が乗っていた車両なのだが、大量の火薬を土嚢に詰め込んで爆発させたにもかかわらず、線路は傷んでおらず地面に穴も開いていない。屋根だけが見事に吹き飛んでいる。火薬は車両の上部か内部に仕掛けられていた可能性が高いのだ。
一方で京奉線の上を走る満鉄線の橋は半分が崩落し、橋梁には大きな破損が生じ、満鉄線の線路が京奉線に垂れ下がっている。
上の画像は満鉄の線路の状況であるが、被害が下方よりも上方に大きく出ていることは明らかである。
『河本大作大佐談』や『河本大作の手記』は現場の状況と明らかに矛盾しており、作り話であることが誰でもわかる。先ほど紹介した爆発の瞬間の写真は、事件の後で小爆発を起こして撮影したものと理解するしかないのだ。
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