これまで、ソ連・コミンテルンがわが国の教育機関や軍隊に対して盛んに赤化工作を行ってきたことを書いてきたが、同様な工作を全世界レベルで行っていた。今回は彼らの世界の赤化工作について書くこととしたい。
コミンテルンによる世界赤化工作
一九一七年(大正六年)にロシア革命が起こり史上初の社会主義政権が誕生したのだが、国内では反革命勢力(白軍)との内乱が続き、外債を踏み倒された独英仏などは反革命勢力を支援した。
そこでソヴィエト政権は、反革命勢力と対抗するため義勇軍を中心とした赤軍を組織し、さらに反革命派を取締まるためにチェカ(非常委員会)を置き、対外的には一九一九年にはコミンテルン(共産主義インターナショナル、第三インターナショナルともいう)を結成して、全世界の左翼勢力をソ連共産党の指導下として、レーニンの『敗戦革命論』の考え方に則った世界の共産主義化をはかろうとした。ちなみにわが国に、コミンテルン日本支部として日本共産党が結成されたのが大正十一年(1922年)のことである。
『敗戦革命論』についてはこのブログで何度か書いてきたが、要するに資本主義国家間の矛盾対立を煽って、複数の資本主義国家が戦争をするように仕向け、そしてそれぞれの国家を消耗させて敗戦に導き、その混乱に乗じて共産勢力が権力を掌握するという革命戦略である。

上の画像は大正十二年(1923年)五月二日の大阪毎日新聞の記事であるが、この記事によるとソ連・コミンテルンの赤化運動には五つのルートが存在したという。即ち
①ヨーロッパの西部ドイツを経て英国に至るもの
②フランス及びイタリアに至るもの
③バルカン半島に至るもの
④ペルシャからインドに至るもの
➄シベリアから満州を経て朝鮮及び支那に至るもの
の五ルートのうち、①~④はうまくいっていなかったようだが、➄は大成功していた。また五ルートとは別にアメリカでも順調であったという。記事には次のように解説されている。
第五線は地方の関係上大成功ということが出来る。シベリアは露国の領土であるため赤化運動には万事好都合らしく既にウラジオストックまで赤くなっているのは勿論、ハルピンの如きはユダヤ人の活動は目覚しいもので同地は大部分赤化している。延いて同地から満洲に至る不逞鮮人に対する宣伝は完全に成功し朝鮮境外における不逞鮮人の生活状態を見る時は如何にそれが深く内部に侵染して居るかが窺知される。而して朝鮮内部でも表面は平静であるが内部は相当赤いという。又満洲から支那本土に入ったものは上海で幾分赤く、孫文氏一派の急進論者と連絡があるらしい。これは同地の組織上これ等の運動に便利なためで、支那本土に充満せる支那労働者は彼等の特色ともいうべき刹那的享楽主義を奏するもので、労働賃銀による簡易生活を営み政治及び社会に対し深刻な不満を抱懐して居らぬため一時赤化運動者は各所に充満する無数の支那苦力を目指し熱心な運動を試みたが今日では失敗の形である。
更に太平洋を越えて米国におけるユダヤ人の活動は久しいものであり同国の国情また赤化運動に好都合の点が多かったため、赤化運動者は米国は既に我がものであると豪語している位であるから政治上社会上余程深く染んで居る、又我が帝国内においても可なり運動は熱心に試みられている。
「神戸大学新聞記事文庫」政治25-89
「不逞鮮人」というのは、戦前の日本において韓国併合後の日本政府に不満を持つ内地の朝鮮出身者という意味で当時良く用いられていた言葉だが、日韓併合後の朝鮮半島を分断するために赤化工作が行われて大成功した。また満州にも朝鮮人が居住しておりその赤化工作が進行し、支那では孫文派の急進論者の赤化に成功していた。このようにコミンテルンによる極東の赤化工作は大成功を収めており、アメリカも赤化工作が順調に進んでいたようなのだが、のちにアメリカはソ連・コミンテルンによる赤化工作を警戒するようになっていった。

大正十五年(1926年)四月七日付の「中外商業新報」に小松緑の『赤化運動の十年』という連載記事の二回目に次のように記されている。
真先にロシア承認に反対したのはニューヨーク商業会議所であった。その会頭ブッシュ氏は、決議を大統領と国務長官とに提出すると同時に、自己の意見を一般に発表した、それは一商業会議所の所見のみならず、世論をも代表するものといわれている。
第一、共産党の両翼たるソヴィエト政府と第三インターナショナルとが、世界革命宣伝を主持する限り、忠実なるアメリカ市民は、ロシア承認を危険視せざるを得ない。一たびロシアを承認せんか、その大使館員及び領事館員は、特権を利用して、破壊主義を全米に宣伝するに至るべく、それを制止するためには、再び国交を断絶せねばならなくなろうが、その時分には、害毒が既に深く流布された後であろう。
第二、ロシア人が自国の同胞の財産を分有しようが将た共有しようが、素よりその自由であるが、他国から借た金を踏倒したり他国人がロシアの国内で正当に収得せし財産を取り上げたりすものは、正しく強盗の仕業だ。紳士たる者は、断じて強盗とは交際うことができない。
第三、もし共産制度が、現在の制度よりも一層優良なものであることが立証されたならば、我々は喜んでそれを採用する。これに反し、一般に信ぜらるるが如く全然失敗に終ったとすれば、なにも同じ制度を再び他国に適用してこの上無益に百千万の生霊を犠牲に供するにも及ぶまい。
第四、アメリカ人は、世間から黄金崇拝者だといわれているが、イギリス人や、フランス人や、ドイツ人などは、単に貿易上に利益ありという慾情からロシアを承認したではないか。かれ等は思い通りに巨利を博したか、災厄以外に何物を勝ち得たか。見よ、未だにロシアを承認しないわれ等の対露貿易は、却てかれ等のそれよりも遥に多額に上っているではないか。以上は、アメリカ人の排露理由の概要であるが、なかなかよく急所急所を痛撃している。 日本も利慾に迷ってロシアを承認した仲間であるから、アメリカ人の論法を以てすれば、少くとも赤露の害毒が既に深く浸み込んだ時分に、漸く目を覚まして、国交を断絶し門戸を閉鎖すべく余儀なくされる運命に陥る訳である。
「神戸大学新聞記事文庫」政治25-123
わが国も英仏独も貿易上の利益があるとの理由でソ連を承認したのだが、アメリカの商工会議所は慎重であった。しかしながら、少々非難されたぐらいで赤化工作を止めるようなコミンテルンではなかった。

昭和3年(1928)10月8日の時事新報には、米国でコミンテルンによる赤化工作が続けられていたことを伝えている。
米国々務省は本日米国に於ける第三インターナショナルの活動に関する報告を公表したが、これに拠るとニカラグワ派遣の途中にあった米国海兵団及び支那動乱地に向う陸兵に対し不穏の宣伝を企てたばかりでなく、露国の赤化運動の手が拡大されたことが判る。共産党一味はニュージャージー州バサイックの織物罷業、ペンシルヴァニアの炭鉱罷業、紐育及びシカゴの毛皮、外套職工罷業、コロラドの鉱山罷業、並にマサチュセッツ州ハーヴァーヒルの靴職工罷業等米国各種の産業争議にその手を延ばして居るのである。…中略…
国務省の報告では『露国を擁護之を承認せしむる為めの運動』なるものを詳細に記しており彼等が共産党大会を数百回に亘って開いたこと、夥しき共産文書を分布したこと、ニカラグワ及び支那に派遣されんとして居た米国海陸兵の間に反帝国主義運動をなしたこと等がよく判る。共産党の運動員は米国にある支那国民党支部と連絡して、『支那と干渉するな』と云うスローガンの下に国民革命に対する米国の干渉に反対し一大運動を起した。すなわち米国軍隊が支那に出発する時ニューヨーク、フィラデルフィア及び沙市(現湖北省荊州市)の海軍造船所では示威運動が行われ、又乗船中の海兵団や軍隊内にまで宣伝ビラが撒かれたのである、ちなみに米国海兵団が自国政府に反抗せよと煽動されたのは米国労働史上今回が始めてである。
「神戸大学新聞記事文庫」思想問題5-8
コミンテルンはアメリカだけでなく、世界主要国に対しても赤化工作を続けていた。同年十月二十一日の「京城日報」には、ソ連による主要国に対する工作活動の内容と、各国の取締り状況が纏められている。

例えばスウェーデンとインド、南スラヴのセルビアについては次のように記されている。
【スウェーデン】
ソヴィエト密偵の動静に関する警察署の報告書が公表されたが、それによると労農大使館員ミトケーウキチは常にスウェーデンの機密をロシヤに報告しておったのみならず、ロシヤとの開戦の場合、瑞典が暴動を起こすべく各所に多数の武器を隠匿していた事も発覚した。なおこれが操従者アレキサンドルの家宅捜索の結果、ヤチェイカの組織、罷業の計画に関する書籍も出た、右アレクサンドルはモスクワよりの命令を受け活動したものであるが、国籍が瑞典にある事とて退去さるとも恐れなく思い切って密偵任務に服しつつあったものだと。
【インド】
ポンペイ製粉工場を起こった罷業は、モスクワよりの資金で行われた事が発覚した、先週莫大な金がモスクワから送って来、罷業の首謀者ドゥユーリ個人の分として二千ループカの送金があった労働者等は毎月モスクワより保助金がくるのだと公言している。
【南スラヴ】
セルビヤ政府はモスクワよりウインナに、南スラヴ騒乱の目的で煽動員が入り込んだ旨発表したが、これ等の主たる任務はセルビア大官、政治家の暗殺で最後に国交を断絶してそれから赤化宣伝を行い一挙に革命運動を起さしめんとする企図であると、なおザクレバ、ペログラッドその他各地で党員の家宅捜索が行われた。
『神戸大学新聞記事文庫』思想問題5-12
このようにソ連は、世界各国で赤化工作を行なっていたのだが、最も成功したのが極東であった。
ソ連にコミンテルンがなぜ必要であったか
コミンテルンによる赤化工作に関する記事は、時に主語が「ソ連」となることもあるのでわかりにくいのだが、コミンテルンとソ連とはどういう関係にあるのだろうか。
わが国の場合はソ連との条約を締結しており、国家の現状を破壊するような宣伝や運動をしてはいけない旨明白に規定されていた。その点は他の条約締結国も同じなのだが、もしそのような宣伝や運動行為をいくら批難しても赤化工作は行われて、ソ連の解釈では条約違反ではないというのだが、その点について彼らはどのように説明していたのであろうか。

昭和三年九月二十六日に中外商業新報に掲載された小松緑の連載記事の三回目に重要なことが書かれている。
曾てイギリス政府は、第三インターナショナル議長ジノウイエフ氏の署名ある軍人煽動の檄文を発見したとて、強硬な抗議を提出し、その結果、英露国交は遂に断絶したのである。今ロシアの半官報に、日本の陸海軍人に革命運動を勧むる檄文を登載しあるを見ては、如何に隠忍な我当局者といえども、必ず厳重な抗議を試みずにはえられなかったであろうが、いかにせん、こういう場合に、ソウェート政府は、総ての赤化運動を第三インターナショナルの単独行為に帰して、一切の責任を逃避するのを常用手段としている。
是において、ソウェート政府と第三インターナショナルとは果して全然没干渉なる別物であるか。…中略…
併し第三インターナショナルの目的は、世界革命に由って無産階級の独裁政治を強行するに在り、この目的を実現したものが即ちソウェート政府である。しかして第三インターナショナルの事務局はモスクワに在って、全世界の共産党総本山となっていると同時に、ソウェート政府の母体たる全ロシア共産党の本部となっている。これを加うるに、ロシアの共産主義者は、第三インターナショナルを、自分等の専属宣伝機関と見做して「共産党インターナショナル」と称し、更に略して単にコミンテルン(露語 Komintern)といっているが、このコミンテルンの幹部が、ソウェート政府を組織しているのである。逆に云えば、ソウェート政府の各部委員は、総てコミンテルンの党員となっているのである。されば、第三インターナショナルとソウェート政府とは、異名同体の、両頭一身ともいうべきものである。
『神戸大学新聞記事文庫』思想問題5-7
「ソ連」は資本主義諸国との外交関係を結ぶが、「コミンテルン」は各国の革命運動を支援する。彼らに言わせると「ソ連」と「コミンテルン」は別物であるのだが、コミンテルンの幹部はソ連の政府メンバーなのである。このような言い訳をするような国とは国交を断絶した方が良いと誰でも思うところだが、当時のわが国ではそのような決断をする人物は政財界に存在しなかった。
赤化のリスクを軽視し自社利益を優先した日本財界

小松緑は同連載の第六回目の記事で重要なことを述べている。
吾人は、世界いずれの国とも、国交を断絶したり、干戈を交えたりしたくはない。況や永久に相離れ難い宿命を荷っている隣国においておや。併し断交や戦争が怖さに、思い切って言うことも言えず、断じて行うこともできずとあっては、独立国たる面目は丸潰れになるから、苟くも国家の存在が脅かされるから、その権益が侵されるする場合には、自衛の権利に依って、いやおうなしに最後の手段に訴えねばならぬものと覚悟するより外はあるまい。
そこで、我露支両国に対する外交を塩梅するに当っては、或いは取越し苦労であるかも知れないが、万一の場合に、我国の蒙るべき利害を打算して置かねばならぬ。
さきに日本がいやいやながら赤露と国交を開始したのは、言うまでもなく通商上の利益を考慮したからだ。若しそれが予期に反して、赤化宣伝に害用されるだけでは、間尺に合った話じゃない。ところが、いざ実際の商売となるとどうだ。先方では、輸出入の均衡を保つ為に、煩細な規定の下に、政府自身が取引に当るというのだから、結局ロシア側の利益になるばかりで、日本の為になるものとては、絶無ではないが、僅少だ。
昨年度の日露貿易額は、総計一千八百七十万円弱で、しかもその中七割五分までが日本の輸入になっている。イギリスは、赤化宣伝を理由としてロシアと国交を断絶する為に、一億三千万円の貿易を犠牲にした。イギリスは、この位の利益に目がくらんで赤化病感染の危険を冒しては、割に合わないと、ちゃんと得失の打算をつけていたのである。これは、日本に取って、好個の実物教訓ではあるまいか。
支那との関係に就ては、猶さら通商上の得失を考慮しなければならない。支那の方では、日貨排斥や経済断交などで、頻りに日本を威嚇しているが、それが実際に日本の正当な主張を抑制する効果のあるのは、実に不思議で耐らない。
そもそも国際貿易は、相互に均等の利潤を浴するのを原則としている。然るに、今支那が日本との経済断交を敢てすれば、其結果として、支那だけが利益を得て、日本が損失を蒙るという理屈が那辺にあろうか。試みに日支両国の貿易関係を見るがいい。その総額は、約十一億円であるが、これを支那の対外貿易総額約三十億円に対照すれば、三割強に上っているから、日本は、支那に取って、欧米、いずれの国より遥に優れた最上顧客である筈だ。これに反して日本の対外貿易総額四十四億円から見れば、対支貿易額は僅二割二分にしか当らないから、支那は、日本に取って、遥に米国の下位にある第二流の顧客に過ぎない。
『神戸大学新聞記事文庫』思想問題5-7
イギリスはソ連との貿易を犠牲にして国交を断絶したのだが、わが国も同様に、赤化工作のリスクを考えたうえでソ連や支那との国交をどうするかについて検討すべきであることを述べている。
この問題は、現在の中国と我が国との関係を考える上で重要である。当時において中国に投資した企業や貿易をしている企業は中国との国交断絶を好まなかったし、与党政治家はそのような企業から献金を貰っていたなどの事情があり思い切った決断をすることがなかったのだが、今のわが国の政治家も財界も官僚も、大きな問題がいくつも起きているにもかかわらず中国に対しては毅然とした決断ができない状況にある。財界との関係や他国の工作があれば、国益を守るあたり前の政治が行われなくなるのは、いつの時代もどこの国でも同様であろう。
第七回コミンテルン大会
一九三五年(昭和10年)の七月二十五日から八月二十日にかけてモスクワで第七回コミンテルン大会が開催され五十七か国、六十五の共産党から五百十名の代表が集まっている。この大会で決議されたことがわが国にとっては非常に重要なことであるので、Wikipediaの解説を引用しておく。
統一戦線はコミンテルンの根本政策とした決議の第一には、コミンテルンはそれまでの諸団体との対立を清算し、反ファシズム、反戦思想を持つ者とファシズムに対抗する単一戦線の構築を進め、このために理想論を捨て各国の特殊事情にも考慮して現実的に対応し、気づかれることなく大衆を傘下に呼び込み、さらにファシズムあるいはブルジョワ機関への潜入を積極的に行って内部からそれを崩壊させること、第二に共産主義化の攻撃目標を主として日本、ドイツ、ポーランドに選定し、この国々の打倒にはイギリス、フランス、アメリカの資本主義国とも提携して個々を撃破する戦略を用いること、第三に日本を中心とする共産主義化のために中華民国を重用することが記されている。
この大会で世界の共産主義化の目標が、日本、ドイツ、ポーランドに選定され、ソ連は英米仏と連携してこの三国を撃破する戦略で、特に日本については中華民国を重用すると述べているのだが、実際にこのシナリオに沿って第二次世界大戦が行われたのではなかったか。

この大会の後わが政府は、わが国に赤化工作が行われていることを内政干渉に当たるとしてソ連に対し「厳重警告」を発したようだが、世界がいくらソ連に抗議しても、この国は各国の抗議に耳を傾けるような国ではなかった。おそらく当時のソ連にとっては、資本主義の大国は工作の対象でしかなかったのだろう。
Wikipediaによると、在野の歴史研究家・杉本幹雄氏が、第七回コミンテルン大会におけるスターリン演説が次のような内容であったと主張している。
ドイツと日本を暴走させよ。しかしその矛先を祖国ロシアに向けさせてはならない。ドイツの矛先はフランスとイギリスへ、日本の矛先は蒋介石の中国に向けさせよ。そして戦力を消耗したドイツと日本の前には米国を参戦させて立ちはだからせよ。日・独の敗北は必至である。そこでドイツと日本が荒らし回った地域、つまり日独砕氷船が割って歩いた跡と、疲弊した日独両国をそっくり共産陣営に頂くのだ
杉本氏は国会図書館所蔵の興亜院政務部・コミンテルン関係一括資料の中でこの記録を見つけたようなのだが、このスターリン演説の内容を記した資料は「国会図書館デジタルコレクション」の検索では確認できない。スターリンのこのような主張は「砕氷船理論」と言われているが、スターリンの演説の内、最後の一行に書かれている我が国の共産化だけは実現しなかった。その要因は、米軍による広島・長崎の原爆投下とソ連の対日参戦の直後に、昭和天皇のご聖断で終戦に導いたことが大きいのだと思う。あの時の天皇陛下のご聖断がなければ、樺太や千島以外の国土が、スターリン演説のとおり共産化していた可能性が高かったと思うのだ。

この第七回コミンテルン大会が開かれる一週間前の『大阪時事新報』に、ソ連共産党委員会が恐るべき内容の対満州謀略の方針を決定したことが報道されている。「便衣兵」というのは民間人に偽装して各種敵対行為を行う兵士を言うが、事実満州では日本人や満州人が何度も匪賊に襲われて多くの犠牲者を出していた。
その後のソ連の動きを見てみると、反ファシスト人民戦線の形成を各国共産党に指令しておきながら、ドイツとは一九三九年に独ソ不可侵条約を締結し、日本とは一九四一年に日ソ中立条約を締結している。
そして日本を支那とアメリカ・イギリス、ドイツをイギリス・フランスと戦わせて疲弊させ、ドイツ・日本の敗戦が近いと分かった時点で、条約を破棄してそれぞれ宣戦布告し、そして第二次大戦後に多くの国々を共産圏に取りこんだのである。
この動きはスターリンの描いたシナリオ通り進んだとも読めるのだが、通説ではソ連やコミンテルンの動きについて触れられることは皆無に近い。しかしながら当時の新聞記事を少し検索するだけで、通説と矛盾するような記事をいくらでも容易に見つけることができる。このように通説に矛盾する史実が膨大に存在する場合は、通説が誤っていると考える方がずっと自然だと思うのは私ばかりではないだろう。日本の歴史学会は今も左翼が大多数でコミンテルンの謀略には触れたくないのだろうが、コミンテルンの動きを無視して、この時代の歴史を正しく理解できるとは思えない。
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