プチャーチンの長崎来航
ペリーは嘉永六年六月九日(1853年7月14日*)の久里浜の会見を去る時に「来春4月か5月に、日本に戻ってくるつもりだ」と答えたのだが、再び江戸湾に現れたのは翌年の2月13日であり2~3ヶ月も早かった。
*以下、和暦は漢数字、西暦はアラビア数字で表記
ペリーの再来日が早まったのは、ロシアの極東艦隊司令長官のプチャーチンが軍艦四隻を率い、嘉永六年七月十八日(1853年8月22日)長崎に来航したことの影響なのだが、わが国のロシアとの交渉は如何なるものであったのか。
ペリーの場合は外国船の来航が許されない浦賀に艦隊を乗り入れ、そこで高官との面談を要求し、さらに浦賀湾内の測量まで強行して幕府側に威圧を加えたのだが、プチャーチンの艦隊はオランダのシーボルトのアドバイスに従って、日本で唯一の対外国窓口である長崎に向かい、長崎では武力で威圧するようなことは一切なく、長崎奉行応接掛の馬場五郎左衛門の聞書きによると、「奉行より食料薪水なども差支え候わば、手当致すべき旨申し聞き候ところ、万端不足これなき由相断る」とあり、漂流船でも猟船でもなく使節の船であるので、故なくわが国から助力を受けることを断ったという。
プチャーチンが携えてきた国書は長崎奉行に渡されて、プチャーチンは江戸から幕府の全権が到着するのを待つことになったのだが、そもそもこの国書には何が書かれていたのだろうか。
徳富蘇峰の『近世日本国民史』にその全文の日本語訳が紹介されている。長い文章だがポイントとなる部分を紹介したい。
今般使節を、大日本国の大主へ差上げ候趣意は、その一には本国より親交を相求め候意味と、世界当時の形勢事情如何というところを申し立て、その二には両国境界を取り定め候肝要のことを申し立て、その三には両国領分の人民互いに利益あるの交わりを相始め、両大国を至極安全の場に至るよう成行き候事は、疑いなく存じ候。…
(徳富蘇峰『近世日本国民史. 第31 彼理来航及其当時』p.343)
ロシアはペリーよりもはるかに穏当な方法で接してきたのだが、樺太と千島の領土の確定まで提案して来たのである。また、ロシアにとっては運の悪いことに、プチャーチンが長崎に来航した少し前の六月二十二日(7月27日)に第十二代将軍家慶が没している。幕府からすれば、アメリカの国書の対応と将軍の後継問題で大混乱している最中に、長崎にロシアが来航した報告が飛び込んできたのである。そこで幕府はロシアの国書に対する返事を、ペリーと同様に引き延ばすことにした。
プチャーチンは散々待たされて、長崎奉行に何度も幕府の全権の到着を催促していたのだが埒が明かず、待ち続けている間にロシアと英仏との関係が切迫してきたため、11月23日に長崎を離れて一旦上海に向かっている。
では、プチャーチンを待たせている間に江戸ではどのような議論がなされていたのであろうか。徳富蘇峰によると、ロシア船を追い払えとする意見はほとんどなかったという。
幕府はロシアに対する明確な方針を決めないまま、長崎で交渉するメンバーとして川路聖謨(としあきら)と筒井政憲(まさのり)を派遣することに決定し、二人が江戸を発したのは十月三十日(11月30日)と随分遅い時期であった。プチャーチンも再び長崎に引き返し、 両国の談判が十二月二十日(1854年1月18日)から領土問題を中心に六度にわたり行われた。
結局交渉はまとまらなかったが、最後に交わした覚書には、将来日本が他国と通商条約を締結した場合にはロシアにも同一の条件の待遇を与える事や、ロシアより先に他国と交易を開始しないことなどが記されていた。
嘉永七年一月八日(1854年2月5日)にロシア艦隊は長崎を去ったが、交渉を終えた川路らが「覚書」を携えて江戸に向かっている頃、アメリカ東インド艦隊司令長官のペリー提督は七隻の軍艦を率いて、江戸湾に近づいていたのである。
なぜペリーは予定よりも早く江戸湾に向かったのか
冒頭に記した通り、ペリーが再来日するのは春の4月か5月を予定していた。ではなぜペリーは二度目の訪日を早めたのであろうか。『ペルリ提督日本遠征記』にはその理由をこう記している。
11月末頃、当時マカオに碇泊中のフリゲート艦コンスタンチン号に乗っていたかのフランスの提督が、突如秘密命令をうけて海上に乗り出した。彼が一両日中に、フランス公使ド・ブールボロンとその夫人を旅客として乗艦せしめて、上海に出発するはずであるということは当時よく知られていたが、ヨーロッパから郵便物が到着するや、誰にも行き先を知らせないで、急遽出かけて行ったのである。この時、フリゲート艦パラス号に乗り込んでいたロシアの海軍大将プチャーチンは、他の戦艦三艘を率いて上海にあった。長崎から到着したばかりだったのである。ペルリ提督は、ロシア人は日本に引き返して、結局江戸に行こうとひそかに企てており、この企ては自分の活動を大いに妨げることになるだろうと懸念し、かつフランスの提督も同地に赴かんとしているのだと推測して、贈物用のある品物を積み込んで来る運搬船レキシントン号の到着を、非常に待ち焦がれていた。そこで彼は、ロシア人またはフランス人のいずれかが、自分よりも有利な地歩を占めるのを許すよりも、むしろあらゆる不便を冒して、真冬に日本への航海に乗り出そうと決心したのであった。
(岩波文庫『ペルリ提督 日本遠征記 (三) 』p.90-91)
先ほどプチャーチンの艦隊が、ロシアと英仏との関係が切迫したために一時的に長崎を離れ、上海に向かったことを書いたが、ペリーはこのロシアの艦隊が再び日本に向かうらしいとの情報を入手していたのである。フランス艦が急遽出港したのは、日本とは関係なく、おそらく英仏露の緊張感が高まっていたことと関係があったのではないだろうか。
ペリー提督は1854年1月14日、サスケハナ号に乗り込んで香港を出発し、ミシシッピ号、ボーハタン号、レキシントン号、サザンプトン号とともに琉球に向かったのである。
琉球で受け取ったオランダからの書状とペリーの対応
ペリーの艦隊は琉球に到着したのち2月3日に首里宮を訪問し、琉球島の踏査を行って多数の標本を採集したのち、2月7日に出港しいよいよ江戸湾に向かっている。
一方オランダはペリー艦隊の動きを監視し続けていて、那覇を去るに先立ってペリー提督はオランダのインド総督から手紙を受け取っている。その手紙の内容については、『ペルリ提督日本遠征記』に出ている。
それには、大統領の親書受領後まもなく日本の皇帝が崩御された旨を奉じてあった。日本政府(と手紙には書いてあった)はオランダ監督官に対して、次のような事実をアメリカ政府に通じるようにと要求したのであった。即ちこの事のために日本の法制及び慣習によって一定の葬送の儀式と帝位継承の手続きとを行うことが必要になり、またその結果当分大統領親書についてのあらゆる審議が延期されることになったと。オランダ印度総督の述べる所によると、そこで日本当局者は長崎駐在オランダ商館管理官に対して、アメリカ艦隊がペルリ提督の定めた時期に江戸湾に帰港してくれるなという日本政府の希望を明らかにしてくれるように、繰り返し要求したのであった。アメリカ艦隊の出現によって紛争を醸し出さざらんがためであった。
提督はオランダの印度総督の通信に答え、皇帝崩御の事について通例の如き儀礼上の哀悼の意を表し、かつ、自分の手紙に記されたように、合衆国大統領の意向は、アメリカの国民と日本国民との友好関係を確立する途上に当たって何ら重大なる障害を挟もうとするものではなく、この点については日本の支配者がよろしく満足せられんことを望むと付言した。
(同上書 p.127~128)
アメリカの情報収集力はこの時代からなかなかのもので、ペリーはロシア艦隊の士官達から日本の皇帝(正しくは将軍家慶)が崩御されたという噂を聞いており、ロシアの国書に対して幕府の回答が遅れている理由がそのためであるということも掴んでいた。オランダからの書状には、将軍崩御の為に大統領国書に対する審議が延期されることとなり、再来日の時期を遅らせて欲しいとの幕府が要望していたのだが、ペリーは初めからその要望に応じるつもりはなかったのである。ペリーの考え方では、将軍が変わったのなら承継した者が執務を行えばよいだけのことであり、国の公務が中断されることはありえないのだ。
幕府が開港を認めない場合は、ペリーはどうするつもりであったのか
しかしながら、幕府の要望を無視して江戸に向かっても、良い結果が出るとは限らない。もし幕府が開港を認めない場合はペリーはどう動くつもりであったのだろうか。
提督は、自らの計画の邪魔をしようとする人々が、非常に念を入れて通達してくれた不利な通告のためにその計画の遂行を思い止まる筈はなかった。
…中略…
提督は、アメリカ市民に対する酷遇救済の要求に関する自分の使命が容易に達せられると信じたが、それにもかかわらず、如何なる失敗をも防ぐ準備を行った。もし日本政府が協定を拒絶するか、あるいはまたわが商船あるいは捕鯨船集散の港を指定するのを拒むならば、日本帝国の属国たる大琉球島をアメリカ国旗の管理の下に置こうと用意していた。もし、それが必要ならば、アメリカ市民に対して行った周知の無礼凌辱への抗議を理由としてこのことを行う筈であった。
(同上書 p.130~131)
この文章を普通に読めば、琉球を武力で奪い取るつもりなのかと思うところなのだが、同上書にはこう記されている。
(日米の)協議未決定なる間、大琉球島上に一定限度の権力を握ることは、合衆国の正当な要求を確実にするために肝要なり思われるが故に、自分の留守中に合衆国政府の財産その他の権利を監視せしめたるため艦隊より二人の一等兵曹と約十五人の水兵を派遣したと。
これらのことは、術策に富む日本の政策の公正に少しも信頼し得ざるため、および琉球の如き日本の属領に入り込み、それを略取することにおいてロシア人、フランス人およびイギリス人が熱心に努力してアメリカ人に先んずるかもしれないためにも、かつは日本に関するわが国の目的を大いに促進せんがためにも、正当と思われる予防的の処置に過ぎなかった。提督は琉球をとること又は琉球が合衆国に征服された地域であり合衆国に属する地域であると主張することを目論んだのではなかったし、また同島当局または人民を悩まし、あるいは彼らに干渉すること、または自己防衛の場合以外に何らかの武力を使用することを目論んだのでもなかった。アメリカ人はすでに、琉球に於いてあらゆる必要な勢力を有していたのだから、事実、武力に訴えるべき何等の機会がありそうにも思われなかった。そしてこの勢力というのは、親切と同島の法律習慣に抵触せざる行動によって得られたものであった。
(同上書 p.132)
琉球には第一回目の来航の行きと帰りと今回を含め既に三度訪問していて、摂政らの要人との会談も済ませており、すでにアメリカの貯炭場は完成している。武力に訴えなくとも、アメリカの目的は十分に達成し得る段階にあると考えていたのである。
浦賀を会見場所とする幕府の提案を拒否したペリー
ペリーの艦隊は江戸湾に入り、2月13日までに湾内に旗艦サスケハナ、ミシシッピ、ボーハタン、マセドニアン、ヴァンタリア、レキシントンの六隻が碇泊した。しばらくすると幕府の御用船が向かって来て、浦賀に戻ることを要望したのだが、アダムス館長はそれを断り、必要ならば江戸へでも遡っていくと答えた。
翌日再び同じ御用船が来て、「委員たちは二三日中に提督を迎える用意をするだろう」と述べ、場所については鎌倉を指定して来た。アダムス館長は、ペリーのいるサスケハナ号に秘書を送ると提督は「会見の場所は目下の碇泊位置から遠くない場所というのが提督の同意を与える根本条件である」と秘書に伝え、アダムス館長は「提督は江戸に赴くだろう」と申し出た。
その後何日か会見場所について交渉が続き、アメリカが浦賀沖は強風時において軍艦が安全に碇泊できる場所ではないと繰り返し強硬に主張し、江戸幕府はそれを認めなかった。
たまたま2月22日(一月二十五日)が初代ワシントン大統領の誕生日にあたり、その三日前に幕府に通達の上、七艘の軍艦から祝砲が放たれたのだが、この音に驚いた人々の記録が残されている。
ペリーの二時目の来航時に見聞したことを当時の人々がまとめた『亜墨理駕船渡来日記』という記録がある。この記録が明治三十一年に横浜貿易新聞(現:神奈川新聞)で連載され、平成二十年(2008年)に神奈川新聞社から解説書が原文と訳文付きで出版されている。この本を読むと当時の人々がペリー来航をどうとらえたかが良くわかるが、この祝砲についてはこう記されている。
彼の異人の大筒は一発四響、六響、火薬伝わりこれあり。百発の筒音は響き五、六百の音仕り、筒又火薬の製し方、別にて其煙半時も清まず候得ば今日、船々にて放す筒音は百千の雷の一度に落ちる如く渦巻たちたる煙の中へ筒口の光走り稲妻の如く。煙雲の濛々たる中に雷霹靂、このごとくに凄まじく候へば天のしきみも挫け地軸も裂け三災壊劫の時来るかと恐怖の人多し。
(神奈川新聞社『亜墨理駕船渡来日記』p.45)
銚子では、鎌倉で日米の戦端が開かれて、砲撃により数千の日本人が殺されたとの噂が飛んで、わざわざ横浜まで真偽を確かめに来た人がいたことがこの日記に記されているが、幕府の役人もこの砲声に度肝を抜かれて、交渉態度を一変させることになるのである 。
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ブログ活動10年目の節目に当たり、前ブログ(『しばやんの日々』)で書き溜めてきたテーマをもとに、2019年の4月に初めての著書である『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を出版しています。
通説ではほとんど無視されていますが、キリスト教伝来以降ポルトガルやスペインがわが国を植民地にする意志を持っていたことは当時の記録を読めば明らかです。キリスト教が広められるとともに多くの寺や神社が破壊され、多くの日本人が海外に奴隷に売られ、長崎などの日本の領土がイエズス会などに奪われていったのですが、当時の為政者たちはいかにして西洋の侵略からわが国を守ろうとしたのかという視点で、鉄砲伝来から鎖国に至るまでの約100年の歴史をまとめた内容になっています。
読んで頂ければ通説が何を隠そうとしているのかがお分かりになると思います。興味のある方は是非ご一読ください。
無名の著者ゆえ一般の書店で店頭にはあまり置かれていませんが、お取り寄せは全国どこの書店でも可能です。もちろんネットでも購入ができます。
内容の詳細や書評などは次の記事をご参照ください。
コメント
しばやんさん、こんにちは。
ブログ、勉強させていただいており、感謝です。
>幕府の役人もこの砲声に度肝を抜かれて、交渉態度を一変させることになるのである
なんか、思わず笑っちゃいます。さぞかし驚いたことでしょう。
何度もしばやんさんが言及されている『大隈伯昔日譚』。とても読みにくい本ですが、驚く内容がてんこ盛りになっています。この本の中で幕末には、安静大地震で巨大地震3つあり、彗星が3つ来て、おまけにコレラが持ち込まれたとあります。どれか1つでもパニック状態になると思いますが、3つも重なると当時の人々の動揺は、想像以上ではなかったでしょうか。その上、大砲の轟音ですから・・・。
今、大隈重信の動画を作っています。概要蘭にしばやんさんのアヘン戦争関係のブログを貼らせていただきました。大隈は上記の本の中で、明治維新を英仏の勢力争いとし、幕府が英国に依頼して薩英戦争・英仏に依頼して下関戦争が起きたと分析しています。征韓論は、攘夷派の新政府に対する怒りをそらすものだったとしています。
また、ロシア軍艦対馬占領事件に前後して、横浜に英仏軍に勝手に駐留されて、『明治大帝の御遺業』の中で「対馬もロシアのなすがままに任せた」、「当時の有様のままで進めば、遂には日本が印度のような運命に陥ったかもしれぬ。」と述べています。
徳富蘇峰についてですが、終戦後日記『頑蘇夢物語』の中で、「幣原内閣も、今日十月九日愈々出来あがったようである。この内閣はマッカーサーの所謂る傀儡内閣である。」と書いています。
https://tokutomisoho1863-1957.life/ganso3-41-298
大隈重信の動画は作成中ですが、2本YouTubeにアップしていますので、お時間のある時にご覧いただければ幸いです。
『人種平等否決なら国連脱退せよ!』 https://youtu.be/Koa3WPEet8g
『福沢諭吉&大隈重信、一心同体』 https://youtu.be/vH_rxysZ8Sw
シドニー学院さん、コメントありがとうございます。
精力的に動画を制作しておられるのですね。私の記事の紹介までしていただき感謝です。
1本目の動画を拝見させていただき、大隈重信という政治家に魅力を感じました。こういう気骨のある政治家が今の日本に欲しいところですね。権利ばかり主張したり、他国の意向や世論を気にするような政治家ばかりでは、国がバラバラになるばかりです。
ご指摘の「征韓論は、攘夷派の新政府に対する怒りをそらすものだった」という言葉は、初めて知りましたが、実態はそのとおりであったのかもしれません。パークスとの論争にも興味を覚えました。いずれ勉強して、また記事の中で採り上げられればと思います。
佐賀藩はフェートン号事件で幕府から大目玉を食らい、その後藩政を立て直し、多くの人材を育てました。大隈だけでなく江藤新平、副島種臣、久米邦武も佐賀藩出身ですね。
日本で最初に蒸気機関車を完成させたのもたしか佐賀藩だったと思います。コロナ騒ぎが落ち着いたら九州にも行ってみたいです。