満州事変についてのGHQ焚書の9割はネット公開されていない
本のタイトルから判断して満州事変に関する本は30点がGHQによって焚書処分されているのだが、そのうち「国立国会図書館デジタルコレクション」でネット公開されているのは3点のみで、9割がデジタルデータ化されていながらネット非公開である。
国立国会図書館のホームページには、著作権保護期間満了が確認された書籍はネット公開されるルールになっており、
「公開調査により著作者の著作権保護期間満了であることが確認できた場合は、著作権保護期間満了としてインターネット公開を行います。著作権保護期間内であり、著作権者のご連絡先が判明した場合、利用に関して許諾依頼を行い、許諾が得られましたら、インターネット公開を行います。」
「著作権状況が不明又は著作権保護期間内であり、著作権者の連絡先が分からないもの(いわゆる「孤児著作物(orphan works)」)については、著作権法第67条に基づき、文化庁長官の裁定を受けた上でインターネット提供を行っています。」
と書かれている。
GHQが焚書処分した著作は全部で7千点以上あるのだが、そのうち32%程度が「国立国会図書館デジタルコレクション」でネット公開されている。中国関連書籍においてはGHQ焚書の約4割がネット公開されているのだが、なぜか満州事変に関する書籍ではネット公開されている著作が異常に少ないのである。公開されている3点のうち著作権保護期間満了が1点で、他の2点は文化庁長官の裁定によるとあるのだが、80年程度以前に出版された本であれば、かなりの割合で 著作権保護期間が満了しているはずであり、たとえ著作権状況が不明であっても、 文化庁長官の裁定を受けてネット公開をして然るべき年数が経過していると思われるのだ。なぜ大半の書籍がネット公開されないのだろうか。
最近の教科書における満州事変
最近の教科書では満州事変についてこのように記されている。
1930年代に入って、協調外交がゆきづまり、中国の反日民族運動が激しくなって、満州における日本の権益がまもれないのではないかとの危機感が高まると、陸軍のあいだには、軍事力を用いてでもこれを打ち破ろうとする気運が高まった。
『もういちど読む 山川の日本史』p.295
1931(昭和6)年9月18日、武力による満州の制圧をくわだてた日本の関東軍は、奉天近郊の南満州鉄道の線路をみずから爆破し(柳条湖事件)、戦争のきっかけをつくって奉天付近の中国軍への攻撃を開始した。こうして満州事変が始まった。
今日のマスコミなどの解説も概ね同様で、戦争原因を作ったのは関東軍側にあると描かれるのだが、戦前の日本人はこんな教科書の記述を読んだらどう思うのだろうか。
以前このブログで桜井忠温の『常勝陸軍』という本を紹介した。満州事変の発端となった柳条溝事件は、当時の日本側の記録では満鉄線路を爆破したのは支那兵であったと明記されており、その後日本軍が中国軍から攻撃を受けたことが書かれているのだが、その点については中国側も反論しておらず、東京裁判でも問題にされなかった。
ところが昭和30年に発行された雑誌『別冊 知性』の12月号に、元関東軍参謀の花谷正の名前で「満州事変はこうして計画された」という記事が掲載されたことが契機となって満鉄線路を爆破したのは関東軍の自作自演であると歴史が書き換えられていったのだが、この雑誌記事は当時23歳であった東大生・秦郁彦が本名を伏して花谷の手記として発表したものである。しかも関東軍の指導者であった板垣征四郎や石原莞爾らは物故していたので、その裏付けも取れていない。興味のある方は、過去の記事に、問題の『別冊 知性』の論文のリンクを貼っているので参考に読んでいただければありがたい。この論文が関東軍主謀説の唯一の根拠資料となっているのだが、そもそもこの論文は信頼するに値するものなのだろうか。
関東軍による自作自演であるならば、直後から中国側が声高に世界に日本の犯罪を指摘し、その論拠に説得力があれば世界も厳しく日本を批難したはずなのだが、国際連盟から派遣されたリットン調査団の報告書には、どちらが爆破したについては触れられていない。ただ「鉄道に対する損傷は、もしあったとしても長春から南下列車の定刻到着を妨げなかったのだから、それだけでは日本軍の軍事行動を正当とするわけにはいかない。」(『リットン報告書』ビジネス社 p.186)と書いている。支那側は挑発行為をしていないことを主張したのだが、調査団は、日本軍が支那軍と敵対行為が起きることを予想して慎重に準備していたと結論付けていることを知るべきである。
「国立国会図書館デジタルコレクション」で満州事変関連書籍の9割が今もネット公開されないのは、戦後になって満州事変の発端となった柳条溝事件に関する歴史が真逆に書き換えられたことと無関係ではないのではないかと考えているのだが読者の皆さんはどう思われますか。
満州事変の前にどんなことがあったのか
戦前の日本人の満州事変の理解は現状の教科書などの記述とは全く異なる。今回は青少年のために書き下ろされた山県信敬 著『少年満洲事変と上海事変』(GHQ焚書)という本に、満州事変がどう解説されているかを紹介したい。
教科書や通史ではこの事変が起こる前に何があったのかについては何も書かれていないのだが、当時の中国はどんな国情であったのだろうか。
この事変の直接的な原因は、言うまでもなく、九月十八日の柳条溝における南満州鉄道の破壊にあるのですが、その誘因は、よほど前から存したのでありました。即ち、支那は、我が帝国が支那とこれ迄に締結した条約を無視し、乃至(ないし)は、満州における特殊権益を蹂躙し、あらゆる暴戻、排日、侮日、抗日貨の数々をなしました。言いかえると、日本の正当なる立場が極度にふみにぢられ、否定されたのでした。
しかも、それまでの我が国の外交は、色々な事情からして、成るべく支那と事をかまえずに、協調提携して行こうとさえした程でありましたが、此の為に、却って、支那はますます増長してくるのみで、何の効果もなく、唯々彼に暴戻を増させるに過ぎなかったのでありました。さて、我が国は、満州とは・・・特殊の利害関係を有するのであって、日清、日露の両戦役を経て、支那と多くの条約を結んできたのでありました。その頃よく言われましたように、満州は我が国の生命線でありましたが、支那は、この日本の生命線たる満州に関する我が特殊権益を蹂躙し、そのために、色々未解決のままに残された問題が、大小三百件以上にも及びました。その中、もっとも重大なものについて、少しく説明をしておきましょう。
【一】鉄道利権蹂躙の問題
我が国は、南満州鉄道を経営するにあたって、その利権が支那のために侵害されることを心配したため、支那との間に、色々な条約を結んだのでありましたが、支那はこの条約を無視して、鉄道網を完成致しましたが、これによって、満鉄の利権を奪うことに、腐心したのでありました。
・・・明治三十八年十二月には、我が国は、支那と会議を開いて、日支満州善後協約というものを締結致しましたが、その付属秘密議定書の第三条には、
「清国政府ハ南満州鉄道ノ利益ヲ保護スル目的ヲ以テ、該鉄道回収以前二、該鉄道ノ利益ヲ害スル虞アル他ノ鉄道ノ本線又ハ支線ヲ敷設セザルベキコトヲ約ス。」
と明らかに規定して、いわゆる、満鉄平行線の布設することを禁止したのでありました。
然るに、支那は、これを無視して、幾多の鉄道を布設し、鉄道網の完成につとめました。南満州鉄道の包囲計画といわれるのが、即ち、これであります。
(イ)、打通(だつう)線の建設、これは打虎山(だこさん)から通遼(つうりょう)に達する百五十六哩(マイル)の鉄道で、大正十五年八月、これが建設に着手し、我が政府並びに南満州鉄道側の数度の抗議にも係わらず、工事を進捗させ、昭和二年十一月に至って、仮営業を始めたのでした。これは、明らかに、満鉄の併行線であり、これによって、満鉄ならびに大連港の勢力を奪おうとしたのでありました。
(ロ)、西安(せいあん)線、北山城子(ほくさんじょうし)から東豊(とうほう)に至る約四十哩の奉海支線で、昭和二年五月に工事に着手し、我が政府からの抗議を無視して、同年末に至って、これを完成した。
(ハ)、吉海(きっかい)線、これも満鉄の併行線であることは言うまでもなく、しかも、満蒙四鉄道借款予備契約の規定を蹂躙したものでありました。この鉄道は、昭和四年五月に至って完成しましたが、北寧・奉海・吉海の三線を連絡して、満鉄に脅威を与えたものでありました。
以上は、ただ南満州鉄道の併行線の布設のみについて、お話したのですが、この外に、満鉄の運行妨害は非常に多く、昭和四、五年度に於いて、年八十件から九十件の多きに達しました。或いはまた、満鉄に必要な材料に不当課税をなしたり、乃至は、不法制限をしたりなど、その暴行のかぎりをつくしたのでした。【二】大連の繁栄奪取策
支那は、胡蘆島に築港を造りましたが、その目的は、これによって、大連の繁栄を奪わんとしたものでありましたが、更に、大連に対しては、関税の二重負担をなさしめたりしました。これに対しては、我が国は、勿論数回に亙って、抗議を申し込みましたが、その要求を入れませんでした。【三】商租権問題
南満州及び東部内蒙古に関する日支条約、即ち、大正四年の二十一ヶ条条約の第二条には、
「日本国臣民ハ南満州二於テ、各種商工業上ノ建物を建設スル為、又農業ヲ経営スル為、必要ナル土地ヲ商租スルコトヲ得、」
と規定して、我が日本国民は、南満州に於ては、土地を商租することの出来る権利を有していました。しかし、実際に於ては、この権利は、未だ、実現されてはいませんでした。このために、我が国民の受ける経済的の打撃は、かなりに、大きかったのでありました。
この権利に対する蹂躙の最初と考えられましたのは、昭和四年七月の頃、奉天省政府が、懲治盗売国土暫行条例というものを制定して、管内の各地方官に密令を下して、外国人に対する土地の抵当租輿を厳禁し、是に違反したものは、死刑以下の罪に処することとして、商租を厳禁したことでありました。
この条例は、昭和六年になって、名称を、国土盗売懲罪令と改められたが、これによって、我が商租権の獲得は、結局、空文に等しいものとなってしまいました。【四】内鮮人問題
山県信敬 著『少年満洲事変と上海事変』 大同館書店 昭和11年刊 p.45~51
満州には、約八十万の朝鮮人が居住していますが、これらの殆んど全部は、農業に従事していました。ところが、支那官憲は、これら朝鮮人の農耕に対して、直接、間接に圧迫を加え、租地乃至は小作契約に対して、妨害をするほか、支那人の地主を強制して、朝鮮人の立ち退きを命ぜさせたりしました。また不法にも、逮捕、監禁をなす等、実に、無暴をきわめました。
この外、満鉄の沿線鉱山の経営を妨害したり、或いは、各地鉱山の鉱石を強制回収したり、また不当課税をなし、乃至は、間島協約を履行しなかったり、一々これらは数え上げることは出来ません。
中国は徳のある人が国を治め、徳が国を動かすという考えるので、「法」よりも「徳」が優先され、法を守らなければならないという意識が乏しいという解説を読んだことがあるが、韓国も中国と同様だ。実際には徳のない人が国を治めることが多いので、条約や契約などは何度も破られることになる。
人治主義の国では、法治国家の常識が通用しないのだ。
恐るべき排日教育
また、支那では排日教育を徹底した。どれだけひどかったかが具体的に解説されている。
例えば、地理の書物の中では、台湾は日本にとられた、朝鮮もとられた、また琉球もとられた。支那はこれをとりかえさねばならぬと言うことを書いて、これを一年生の頃から、既に、教え込み、更に、上級生に対しては、いかにすれば日本を倒すことが出来るかということを教え、その積極的方法としては、軍備又は経済を充実して日本を打ち破り、もしも、この積極的方法が不可能である場合は、その消極的方法として、日本と経済絶交をすることを述べているのであります。
あるいは又、毎朝生徒に排日文字を連ねた革命日読というこのを唱読せしめたりしましたが、この革命日読は、実に巧妙に出来ております。次に、この訳文をかかげてみましょう。(一)汝らは何国人か? 中国人
同上書 p.51~53
(二)汝らは何省の人か? 山東人
(三)汝らは山東を愛するか? 山東を愛す
(四) 汝らは中国を愛するか? 中国を愛す
(五)山東の最大の仇敵は誰か? 日本人なり
(六)朝鮮、台湾、琉球は元誰のものか? 中国のものなり
(七)現在朝鮮、台湾、琉球は誰に卯木割れているか? 日本人に
(八)旅順口と大連湾は何所にあるか? 奉天省にあり
(九)誰に強奪されたのか? 日本人に
(一〇)二十一条を提出して我が国を亡ぼさんとせるは誰か? 日本人
(一一)青島を占領し膠済鉄道を管理するは誰か? 日本人
(一二)日本は久しく山東及び東三省を占領せんと考えおりしが、汝は知っているか? 知っている
(一三)最近済南事件で日本人が我が同胞幾千人を惨殺せり。汝は忘れたり屋? 決して忘れぬ
(一四)日本人は済南に於いて掠奪強姦す。汝は残念に思わぬか? 残念なり
(一五)我々は日本のかくの如き侵略に対し如何にすれば良いか? 日本を打倒す
・・・以下略・・・
この「革命日読」は全部で二十三項まであるのだが、これを学校で毎朝唱和して、児童の脳裏に注ぎこんでいたのである。言うまでもなく朝鮮、台湾、琉球はわが国が条約で合法的に獲得したものなのだが、この国には条約や協定や契約は、絶対に守らなければならないものという意識が乏しいのは今も変わっていない。
また済南事件(1928年)で大量の住民が惨殺され、掠奪強姦されたのは日本人の方であり、世界が支那の暴虐を批難したのである。Wikipediaによると英国のデイリー・テレグラフ紙は、「中国人は掠奪と殺人を天与の権利であるかの如く暴行を繰り返している」、「日本人の忍耐にも限度がある」、日本軍の行動を「正当防衛」と論じたとある。米仏の論調も同様である。この国が真逆のことを声高に世界に発信して、加害者であるのに被害者のポジションに立とうとするのは今に限ったことではない。
支那の排日教育は、革命日読だけでなく、排日唱歌を歌わせたり、排日内容を盛り込んだテキストを発行し、学校や兵営などで読まれたという。そのために、各地で侮日、排日的行為が行われた。GHQ焚書の中には、この当時支那が発行した排日テキストの紹介本や、排日テキストの解説書などもあるのだが、なぜこのような書物をGHQが焚書処分したかについて考えてほしいと思う。
萬寶山事件
そんな中で 萬寶山事件 が起こっている。 満州の権益を持っていた日本政府は、1930年の間島共産党暴動で追われた朝鮮人を 萬寶山 に入植させていた。この事件 について、前掲書には次のように解説されている。
萬寶山というのは、長春の北方六里の地でありまして、ここには、約二百名ばかりの内鮮人が、農業に従事していましたが、偶々、水田に灌漑をするために、同地方を流れている伊通河から水路を開鑿しようとして、その工事にとりかかっていました。ところが、突然、この時(昭和六年五月二十四日)長春の公安局は、工事の中止を命じ、翌二十五日には、五十名の武装した軍隊で以て、鮮農をおそいました。そして無謀にも惨虐のありたけをつくし、かつ、即時退去を命じたのでありました。
なお、三十日になって、さらに、二百名の保安隊を現場に出して、そこに働いていた支那人労働者に、工事の中止を迫り、かつ、鮮人の主なるものを牢屋に入れました。このようなことがありましたので、我が国は、直ちに、領事に命じて、その保護にあたらせることにしました。それと共に、一方、厳重な抗議を支那に申し込ませたのでした。しかし、すべては、無駄に終わってしまったのでありました。こうして、せっかく、遠く、北満の地で、困苦欠乏に堪えながら、一生懸命に働いて水田開発に余念なかったところの同胞は、常に、支那官憲からは、迫害を受け、地主からは多くの税をとられ、しかも、今や、退去命令を受けるに至ったのでした。
同上書 p.56~58
こうした事件は、昭和三年の一ヶ年だけにでも、四百件に達していました。殊に、昭和四年になってからは、次第に、激しくなりましたが、その一二をあげますと
(一)昭和四年二月十九日、一面坡(東支沿線)にて、支那官憲が、数回に亙って、在住鮮人の金品を不法強奪したため、遂に、一家十八名、長春に退去した。
(二)公太堡(こうたいほ)事件といって、昭和四年五月十一日、新民県 公太堡 において、勧業公司経営の水田事業に対して、支那官憲も交じって、支那村民百数十名が襲い来たり、公司員を拉致しました。そこで、日本警官は之を追跡して、ようやく公司員をとり戻しましたが、その帰途、またもや襲撃を受けて、我が警察官に若干負傷者を出しました。
などがあり、この外、鮮人学校回収問題とか、本渓湖、田庄臺(でんしょうだい)、傳家甸(でんかてん)などの鮮人立退強制など、枚挙に暇ありませんでした。
この事件で朝鮮人の怒りが爆発し、平壌などの都市で支那人に対して暴動を起こしたのだが、その後日本人にも犠牲者が出ることとなる。
中村大尉事件
昭和六年六月下旬に、コロンバイル地方を視察していた陸軍の現役将校である中村震太郎大尉以下数名が、支那人に虐殺される事件が起きたのである。文中の「護証」は旅行免許証である。
中村大尉の一行は、どうして、支那人のために、虐殺されたのでありましょうか。中村大尉には、支那官憲の公許の旅行免許状がついています。従って、虐殺はおろか、この護証を見せると、むしろ、積極的に、保護を受けねばならないはずでありました。
しかるに、この無念の惨虐とは ‼
我が軍の憤起したのも、また、当然ではありませんか。さて、事件は次のようであります。中村大尉一行は、六月二十九日、札賚(さつらい)特王府西方区フルリー付近を出発して、洮児(とうじ)河畔の蘇鄂公府(ソーコンエフ)に向かいました。途中、馬賊討伐の第三団所属騎兵に遭遇して、馬賊と誤認せられたため、遂に、追跡せられて、一時公府北東の華南公司に難を避けました。そして、再び、南行して、途中、草刈の蒙古人に、公府の所在地をたずねて、尚も続行致しました。
一行は、やがて、公府に到着しましたが、ここで、昼食をとるために、三合居という飲食店に立ち入りました。そして、今や、渇と飢とをいやそうとしていた時、突然、外で、蒙古軍のいななきを耳にしたかと思うと、王連長が、十数名の兵卒をひきつれて、どかどかとなだれ込んで来ました。
「護証を見せろ」
支那官兵は、言葉きびしく、一行をねめつけて言いました。中村大尉は、従容として、ポケットから、用意していた護証を取り出しました。すると官兵は、直ちにこれを受け取って、一目見るなり、ずたずたに引きさいてしまいました。その中に、第三団団長代理の関玉衡(かんぎょくこう)というものがまいりまして、直ちに四名を縛して、団部に拘引しました。・・・彼らは四名のものの身体検査を行い、所持品を一応調べると、拳銃一挺と薬品、金品、信書等が出てまいりました。そこで、これ等所持品について、一々取調べを受け、尋問せられましたが、やがて、そのまま、監禁せられてしまいました。
同上書 p.61~63
その後中村大尉らは東山溝というところで銃殺され、石油で死体を焼却されて埋めらてしまったのだが、このことが発覚したのは、この事件に関与した支那人将卒が、ある飲み屋で中村大尉一行の掠奪品のことを話題にしてしまい、この話を聞いた日本人の酌婦が日本軍に通報したことによる。この事件が明るみになり、中村大尉らが支那軍兵により虐殺されたことで、日本人が憤激したことは言うまでもない。
この事件の後も満鉄の列車への投石などが続いたのだが、九月十八日に奉天郊外の柳条溝で冒頭で記した鉄道爆破事件が起きている。この事件から後の話は次回に記すことにしたい。
満州事変に関するGHQ焚書
タイトル | 著者・編者 | 出版社 | 国立国会図書館デジタルコレクションURL | 出版年 |
活機戦 第1部満州事変 | 佐藤庸也 | 日本軍用図書 | デジタル化されているが非公開 | 昭和18 |
極東新時局 満州事変の展望 | 三浦悦郎 | 日本書院 | デジタル化されているが非公開 | 昭和6 |
上海事変従軍日記 | 赤尾善徳 | 日本政治経済通信社 | デジタル化されているが非公開 | 昭和10 |
上海事変の裏表 | 中山勤之助 | 二友堂書店 | デジタル化されているが非公開 | 昭和7 |
上海事変の経過 | 仲麿照久 編 | 新光社 | 国立国会図書館に蔵書なし あるいはデジタル化未済 | 昭和7 |
上海事変を語る | 村松梢風 | 平凡社 | デジタル化されているが非公開 | 昭和7 |
少年満洲事変と上海事変 | 山県信敬 | 大同館書店 | https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1717367 | 昭和11 |
昭和満州上海大事変史 | 松尾政夷編 | 立正護国会本部 | デジタル化されているが非公開 | 昭和7 |
戦績を顧みて 第二巻 熱河作戦 | 服部兵次郎 | 兵書出版社 | デジタル化されているが非公開 | 昭和9 |
戦争小説 満州事変の後に来るもの | 中山四郎 | 戸張書店 | デジタル化されているが非公開 | 昭和7 |
忠勇列伝. 満洲上海事変之部 第15巻 | 忠勇顕彰会 編 | 忠勇顕彰会 | https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1114651 | 昭和12 |
帝国海軍と上海事変 | 高橋邦夫 | 日本評論社 | デジタル化されているが非公開 | 昭和7 |
熱河討伐及熱河事情 | 仲摩照久 編 | 新光社 | デジタル化されているがネット非公開 内務省検閲発禁図書 | 昭和8 |
熱河討伐とその真相 | 神尾 茂 | 大阪図書販売 | デジタル化されているが非公開 | 昭和8 |
爆弾三勇士 : 満洲上海事変美談集 | 金蘭社 編 | 金蘭社 | https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1717180 | 昭和7 |
眼のあたり見た満州事変 | 三島泰雄 | 時事新報社 | デジタル化されているが非公開 | 昭和7 |
満州及第一次上海事変 銃後の回顧 | 三島幸雄 | 東学社 | デジタル化されているが非公開 | 昭和12 |
満州建国と満州上海大事変史 | 神戸又新日報社編 | 神戸又新日報社 | デジタル化されているが非公開 | 昭和17 |
満州建国と満州上海大事変史 | 下野新聞社編 | 下野新聞社 | 国立国会図書館に蔵書なし あるいはデジタル化未済 | 昭和17 |
満州建国と満州上海大事変史 | 横浜貿易新報社編 | 横浜貿易新報社 | デジタル化されているが非公開 | 昭和17 |
満州建国と満州上海大事変史 | 東洋文化協会編 | 東洋文化協会 | デジタル化されているが 国立国会図書館限定公開 | 昭和7 |
満州建国と満州上海大事変史 | 日出新聞社編 | 日出新聞社 | デジタル化されているが 国立国会図書館限定公開 | 昭和7 |
満州事変衛生勤務記念写真帖 | 青木袈裟美 編 | 陸軍省医務局 内陸軍軍医団 | デジタル化されているが非公開 | 昭和9 |
満州事変国防献品記念録 | 陸軍省 | 陸軍省 | デジタル化されているが非公開 | 昭和8 |
満州事変写真帖 | 佐野佑一 編 | 大日本軍事教育会 | デジタル化されているが非公開 | 昭和6 |
満州事変写真集 | 樋山光四郎 編 | 偕行社 | デジタル化されているが非公開 | 昭和9 |
満州事変と朕が密偵 | 浦路耕之助 | 赤爐閣書房 | デジタル化されているが非公開 | 昭和16 |
満州事変の経過 | 仲間照久 | 新光社 | デジタル化されているが非公開 | 昭和7 |
満州上海事変全記 | 朝日新聞社 編 | 朝日新聞社 | デジタル化されているが非公開 | 昭和17 |
満州上海事変盡忠録 | 田中国重 編 | 満州上海事変 盡忠録編纂部 | デジタル化されているが非公開 | 昭和8 |
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