前回は「国立国会図書館デジタルコレクション」の全文検索を用いて歴史データを探索する方法を中心に書いたが、今回は「神戸大学新聞記事文庫」の全文検索を用いて調べる方法について書くこととしたい。
神戸大学新聞記事文庫について
最初に、簡単に「神戸大学新聞記事文庫」について説明させていただく。
このデータベースは、神戸大学経済経営研究所によって管理されている明治末から昭和45年までの新聞切抜資料で、利用するにあたり会員登録などは一切不要で、ネット環境があれば誰でも無料で利用することができる。
現在の神戸大学の前身のひとつである「神戸高等商業学校」が、商業経済関係の新聞の切り抜きを開始したのは明治四十四年(1911年)のことで、大正八年(1919年)に「商業研究所」が設置されると新聞切り抜き事業は大幅に拡大され、終戦後に神戸大学が誕生すると新設された経済経営研究所にこの事業が継続されたのだが、この頃から新聞各社が縮刷版を出すようになったことから事業が縮小され、昭和45年に切り抜き作業が終焉したという。しかしながら明治末から昭和45年まで60年以上にわたって続けられた切抜帳はそのまま残されることとなり、冊数にして約3200冊、記事数にすると約50万件にも及び、わが国ではこれだけの規模の新聞切抜資料は他に存在しないと言われている。
この「新聞記事文庫」に収録された新聞の種類は大手紙だけでなく、経済紙や主要地方紙のほか、「台湾日日」「満州日日」「京城日報」等かつてわが国が統治した地域で発行された新聞などが幅広く採録されており、史料価値が高い。また同じ事件について、代表的な記事を一つ選ぶのではなく、複数の記事を採録していることもありがたいところで、当時の出来事について様々な視点からの論説などを読むことで、日本や世界の情勢や、当時の空気感が伝わってくる。
とは言え、当時の経済学・経営学研究者にとって興味深いと判断された記事が中心なので、戦争や大事件にかかわる写真付きの報道記事や政治関連や文化関連などの記事が少ないのは止むをえない。しかしながら、経済・経営研究者の視点で選ばれた記事だけが切り抜かれたものであり、結果として読み応えのあるものが少なくないのである。
しかも大半の記事の書き起こしがなされておりデジタルデータ化がなされている。したがって前回記事で「国立国会図書館デジタルコレクション」で紹介させていただいた「全文検索」を行うことにより、調べたいテーマに関する過去の新聞記事を瞬時に絞り込むことが可能なのである。
今日の新聞記事の質は相当低下してしまったが、昔の新聞社には優秀な記者が少なからずいて、しっかりと取材して真実を追求しようとする姿勢があった。政府や広告主やどこかの国に忖度して真実を歪めて報道するようなことは皆無とまでは言えないが、少なくとも今の新聞よりはるかに偏りが少なく、今もなお資料価値があることだけは確かである。
「神戸大学新聞記事文庫」で新聞記事を探す方法
では具体的にどのような方法で、過去の新聞記事を探せばいいのか。
以前このブログで、長野朗が『支那三十年』(GHQ焚書)の中で支那の排日運動を仕掛けたのは英米の宣教師であったと書いている部分を紹介したことがある。このような内容は戦後の歴史解説書には一切かかれていないのだが、当時の書物や新聞にはしっかりと記されているので、その探し方を紹介させていただく。
① 神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ「新聞記事文庫」にアクセスし、検索ボックスにキーワードを入力(複数可)してクリックする。
検索ボックスには、間にスペースを入れることで複数のキーワードの入力も可能である。例えば、「宣教師 排日」と入力して検索すると、記事の中に「宣教師」と「排日」の両方の文字が含まれているデータが瞬時に205件抽出される。
②日付順に並び変え、一覧表示件数を増やす
並び順は古い記事から新しい記事に並び替えが可能なので、「並び順」の選択ボックスの右側にある「∨」ボタンをクリックして、「出版年:昇順」を選択。一覧表示件数も同様の方法で500に変更。
さらに絞り込みたい場合は「出版年」の年度を特定年のみとすることも可能だが、既に記事を出版年順に並べているので、マウスホイールを用いて調べたい年度までデータを進めればよい。
③記事の見出しをみて読みたい記事を読む
205件の記事を全部読むことは初めから考えない方が良い。まず記事の見出しをざっと見て、探している情報が書かれていそうな記事を開いてみる。例えば上から2番目の記事「新移民法案の目的」(1912/3/22~3/24)をクリックすると、その記事の画像と翻刻文が表示される。
短い記事ならすぐに読めるが、この記事は連載記事なのでかなり長い。この記事のどこに「宣教師」が出てきて、その前後がどういう文脈になっているかが知りたいのだが、以下のような方法で簡単にできる。
「Ctrl(コントロール)キー」と「Fキー」を同時に押すと全文検索ができるボックスが表示されるので、そこに「宣教師」と入力すると、翻刻文のどこに「宣教師」が出て来るかをオレンジ色で表示してくれるので、その前後だけを読めば自分の探している記事かどうかの判定ができる。この記事にはこの年にアメリカ議会に提出された「新移民法案」の内容が紹介されていて、この法案では日本人は官吏や宣教師、教師、学生、観光者などを除き、アメリカに入国することを禁止することが書かれていたことを報じていることがわかる。とりあえず、支那の排日とは関係が無いので今回は必要のないデータだと判断できる。
長野朗の著作では支那で排日運動が始まったのは1919年の五四運動の頃からという記述があったので、1919年の新聞記事の見出しを読んでいく。例えば4/25付の東京朝日新聞の記事によると、
近時欧米人の長江一帯に於ける活動は頗る注目に値すべきものあるが、最近湖北省樊城、安徽省蕪湖、湖南省常徳及四川省重慶に於ける施設状況は略左の如く、欧米人が耶蘇教会或は青年会を先躯として巧に支那人間に取入り以て一面伝道の美名を藉り、親欧米排日を鼓吹し、或は税関長を介して排日貨を企図すると共に、他面着々自国商権の拡張を進捗せしめつつあるは掩う可らざる事実なるものの如し…
「神戸大学新聞記事文庫」外交23-16
とあり、以下詳細に英米がキリスト教伝道の名を借りて、五四運動の前から支那人に排日を鼓吹していたことが報じられている。このように支那の排日運動は英米の宣教師が吹きかけたことは、先ほどの検索結果を見ればわかる通り、数多くの新聞が繰り返し具体的に報じており真実であったと考えてよいのだが、戦後の日本人にはそのような史実は伝えられておらず、教科書などでは北京の学生たちが抗議運動に起ち上がったのを機に日本の帝国主義に反対する民衆運動が広がったかのように記されている。
教科書やマスコミなどで語られる歴史叙述は、戦勝国にとって都合の良いように書き換えられたものであり、戦後の解説書をいくら読んでも、真実にたどり着けるとは限らないことを知るべきである。
戦後になってタブーとされている用語で記事検索を行う
新聞やテレビの解説で「情報戦」とか「宣伝戦」とか「思想戦」、あるいは「陰謀」とか「謀略」「ユダヤ(猶太)」などという言葉が登場することは皆無に近いのだが、「神戸大学新聞記事文庫」で記事検索すると、結構多くの記事がヒットする。
例えば、「情報戦」…1367件、「宣伝戦」…2161件、「思想戦」…2408件、
「陰謀」…1996件、「謀略」…172件、「ユダヤ」…545件、「猶太」…1086件。
これらの記事が毎年同様な頻度で登場するのではなく、特定の年に集中している。例えば「思想戦」であれば、1918年に123件、1919年に277件、1920年に202件、1921年に121件と多く、「猶太」であれば、1919年に174件、1920年に103件と多い。これはわが国やドイツ等に対してどこかの勢力の工作活動が活発に行われていた時期と無関係ではないだろう。ちなみに1918年に第一次世界大戦が終戦となり、1919年には中国で五四運動がおこり、パリでヴェルサイユ講和会議が行われ、1920年に国際連盟が誕生した。
この類の話は戦後の長きにわたりタブー視され、このような話題になるとすぐに「陰謀論」のレッテルが貼られて、誰もが深く考えないようにされてきたのだが、ここ数年間に相次いでおかしなことが起こり、マスコミも政治家も重大な問題に何も触れようとしないことに疑問を覚えて、わが国のマスコミや政治家に圧力をかけている勢力の存在に気付いた国民が一気に増えた感がある。マスコミのニュースの信ぴょう性を疑う人が増加し、戦後に広められて来た歴史叙述にも疑問を覚える人が多くなってきた。
「神戸大学新聞記事文庫」で戦後になってタブーとされてきた言葉で記事検索すると、これまで知らされることがなかった出来事や、これまで考えたことのなかった権謀術数に充ちた世界が見えてくるのだが、時間に余裕のある方は、一度検索してみてどのような見出しの記事がヒットするか試してみられたらよい。見出しをざっと読むだけで、熟読したくなるような記事がいくらでも見つかるので、時間がいくらあっても足りなくなる。
例えば1919年9月20日の大阪朝日新聞は、第一次大戦で敗戦したドイツがユダヤ人の天下となったとを伝えている。
ユダヤ人の天下、実際今日のドイツはユダヤ人の天下である。
金!、金!、金で買えないものは命ばかり。ドイツに一番ない筈の食糧品すら、金を積めば問題はないのだ。食糧欠乏でベルリンでは日々幾十人の死亡者を出て居るのも事実。その食糧が金て購い得るとすれば、今ドイツでは生命さえも金で買えるという事実がある。
それ程貴重な金権は戦争以来大半ユダヤ人の手許に帰した。ベルリンを始めフランクフルト、ハンブルグ、ブレーメンなどの大都会でシャンペンを浴びながら、芝居、舞踊と騒ぎ廻る不景気知らずは、挙げてベルリンの漂浪者である。瀕死に呻吟する本来のドイツが骨骸に徹する庭(程?)の怨恨を並べるのも、また無理ない事と言わねばならぬ。
ドイツの共和国に変ったのを正確に革命と言えるかどうかは問題外として、兔も角もあの大変革に際して、嶄然頭角を顕わし来った者は即ちユダヤである。前内閣が出来た時、エベルト・シャイデマンは幸いユダヤ人生まれでないそうだが、その他の閣員には多数ユダヤ人がいた。今日ドイツの政界を支配する頭領株の七割は、ユダヤ人だといわれて居る。
然もそのユダヤ人は、挙げて国家を超越した世界人で、国家を基礎とした総ての法律と徳義と感情から解放された民族である。フランクフルトの如きは古来有名なユダヤ人町であるが、彼等は休戦の際市街の一部が占領地帯に触れたのを幸い、全市を挙げて仏蘭西領に帰してはどうかと運動した者も少くなかったと伝えられる。彼等の国家に対する破壊力は、到底日本で想像する程生優しいものではない。
「神戸大学新聞記事文庫」社会事情2-126
食糧不足でベルリンでは毎日数十人の餓死者が出ていたなかで、少数のユダヤ人が貴重な食糧を買い去っていく。敗戦後のドイツの政界及び経済界は少数のユダヤ人が支配していたと言うが、当時ドイツにユダヤ人はどの程度きょじゅうしていたのだろうか。
大正15年刊の『国際事情』p.628によると、1920年でドイツに於けるユダヤ人人口は615,029人でドイツの人口に占める割合はわずか0.95%にすぎなかった。そんな少数のユダヤ人が、ドイツ人が貧しい生活を余儀なくされ餓死者も出ていた中で、ユダヤ人は毎日都会で「シャンペンを浴ながら、芝居、舞踊と騒ぎ廻」っていたのだから、ドイツ人がユダヤ人に嫌悪感を抱くようになったことは誰でも理解できるだろう。
教科書などではヒットラーがユダヤ人を迫害した事実は書かれているが、なぜドイツ国民がユダヤ人を迫害するナチスを支持したかについて触れることが無い。キリストを死に追いやったからユダヤ人が迫害されたと解説する人が多いのだが、そんなレベルの話では決してないのだ。ちなみに第一次世界大戦前のドイツの食糧自給率は、布浦芳郎 著『世界食糧戦』によると平均75~80%で、酪農品は50%、大麦は40~50%、小麦は30~40%であった。
一方、わが国の現状の食糧自給率は38%と第一次世界大戦前のドイツの半分程度しかなく、かつ肥料や種子はほとんど輸入している現状にあり、実態の自給率は1割程度だと言われている。
今のわが国の政治家の大半は、労働不足の解消と経済成長の為に大量移民が必要との考えのようだが、他国の事例を見ても、国別、宗教別に何の規制もかけない移民推進政策は危険である。市町村レベルで特定国の外国人居住者割合の上限を定めることや、犯罪率の高い国からの移民制限や、医療目的のみの移住禁止などのルールは最低限必要だろう。大量に移民を入れる前に、なぜルールを決めようとしないのか。
もしわが国に敵意のある国が意図的に大量の移民を送り込み、わが国の行政がそれらの移民に簡単に国籍を取得させたり、一部地域で外国人参政権を認めてしまえば、いずれ我が国の中に外国人が実質的に支配する地域が拡大していくことになるだろう。そしてわが国は、第一次世界大戦後のドイツのように、各地で少数の外国人がわが国の政治や経済を牛耳るようになり、一部の日本人が飢える日が到来するかもしれない。そして、外国人に主導権を奪われた地域の文化や伝統は消滅していくことになるだろう。そうならないために、次回の選挙で、全国民一丸となって売国政治家の一掃をはかりたいものだ。
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