明治三十七年二月八日の旅順口攻撃を皮切りに日露戦争が始まったのだが、これから戦争が何年続き、戦費がいくら必要になるかは戦争が終結するまではわかるものではない。十年前の日清戦争で約二億三千万の戦費がかかったのだが、今度の戦争はその金額を大幅に上回る戦費が必要となる覚悟が必要である。
戦費調達の成案がなかった曾禰大蔵大臣
菊池寛の名著『大衆明治史(国民版)』に、当時のわが国の財政状態と、当時の大蔵省がどの程度の戦費を予算計上し、その財源についてどう考えていたかについて記されている箇所があるので、引用させていただく。
明治三十二年以来、歳出は二億五千万円から三億の間を往来していたが、歳入は年々数百万円の超過を示している。
そこで戦争になって直ちに使われる剰余金は四千七百万円あったが、わが正金の所有高は一億四百万円に過ぎない。いざ戦争になれば、さしあたりどうしても数億の金は用意しておかねばならぬ。大蔵省は、はじめ三億ばかりの戦時予算を計上したが、それは単なる机上案で、その財源を、増税によるのか、内国債によるか、外国から借金するのか一つも成案はなかったのである。しかも三億円で三ヶ師団の動員をやるという、ケチなものだったのである。
二月四日の最後的の御前会議の席上、伊藤(博文)は大蔵大臣曾禰荒助に対して、戦時財政に就いて成案があるかと尋ねたが、曾禰は黙然として答え得なかった。
『大衆明治史(国民版)』p.273~274
伊藤は色をなして、「財政の基礎が定まらねば、軍費の支弁は出来ん。軍費が支弁されないで、どうして戦争が出来るか」
と追求した。
すかさず元老の松方正義が曾禰蔵相を弁護したが、御前会議終了後、曾禰は自ら責任を感じて辞表を提出している。伊藤はそれを了としたのだが、松方は開戦当初に大蔵大臣を更迭しては、日本には財政に問題があるとのメッセージを発信することになり兵士の士気にも影響すると考え、さらに元老井上馨の助言もあり蔵相の更迭は避けられた。しかしながら蔵相を経験した松方にせよ井上にせよ、この時点において戦費調達について成案があったわけではなく、財政当局者はこの難題を全力で乗り越えなければならなかったのである。
結果的に日露戦争の戦費は戦時特別会計から約十五億、一般会計から約三億が捻出されたのだが、十五億円は如何にして調達したのだろうか。
高橋是清に外債募集の交渉を一任
菊池寛の『大衆明治史』は昭和十六年に汎洋社から上下巻が出版され、翌年に上下巻の主要な章をまとめた普及版である「国民版」が同社から出版されている。国立国会図書館でネット公開されているのは、十六年刊の『大衆明治史 下』のみで、この書籍がGHQ焚書に指定されているのだが、日露戦争の戦費調達については、この本に詳しく記述されている。(「国民版」には出ていない)
誰が実際にこの戦費の調達の衝に当たろうとも、日本としては外債に主力を置いてこの難局を切り抜けなければならぬという点では異論はなかったろうと思う。今日と較べれば、格段に劣っている当時の日本の富の程度では、増税するにしてもたかが知れているし、今日の事変公債のような内国公債を発行しようとしても、巨額に売れる見込みはないのである。
それに軍需品の大部分を外国から買わねばならぬ実情では、どうしても外国の金を借りてその支弁に充てるという外に、方法はないわけである。
そこで廟議は外債募集のことと決すると、その大任を嘱されたのが、時の日銀副総裁、高橋是清だった。時に瓜生戦隊の仁川沖に於ける捷報、つづいてわが連合艦隊の旅順砲撃と、快調を以てすべり出したわが軍事行動が、全国民の血を湧き立たせていた頃である。
高橋是清は、元老井上馨の私邸へ招かれた。井上は血色の良い顔を輝かしながら、
「御苦労だが、高橋君、あんたに外債のことは一切お委(まか)せしたい。」
…中略…高橋は以前に正金銀行の役員として長く外国にいたことがあるし、外国の財界人とも旧知が多く、国際金融に明るいことでは、当時として第一人者だから、政府としてもなるべく日本に置いておきたかったのだろうが戦況の進展は一刻の躊躇を許さない。
菊池寛 著『大衆明治史. 下巻 』汎洋社 昭和16年刊 p.197~198
高橋は、外債募集で様々な多くのブローカーが日本政府に直接交渉を持ち掛けてきても、政府としては一切採り上げず私に全てを委せることを条件に井上の要請を引き受け、明治三十七年二月二十四日に、英語に堪能な深井英五とともに横浜を出発し、最初にニューヨークに向かっている。
高橋一行はアメリカでの外債発行を諦めイギリスに向かった
当時高橋一行に申し渡されていた外債の額は一億円だったのだが、阪谷大蔵次官からは「この戦費は、一ヶ年の予定で、朝鮮から露軍を一掃するだけの目的で、もし戦争が長引き、鴨緑江の外に軍を進めなければならぬようなら、さらに戦費の追加、外債の追加も覚悟せねばならぬ」とも言われていた。戦争というものは、日本が途中でやめたくても、相手が戦うことを続ける限り終わることはありえず、戦費支出が続くことになるのだ。
高橋はニューヨークに到着して数名の銀行家に打診したが、当時のアメリカは自国産業発達の為に外国資本を誘致せねばならない状況にあり、日本外債の発行は困難な状況にあると判断した。高橋はアメリカを諦めて次にイギリスのロンドンに向かい、まずロスチャイルド家やカッセル、香港上海銀行、バース銀行などと交渉している。当時は日英同盟が成立してまだ日が浅く、対日態度は友好的ではあったが、戦争でどちらが勝利するか見通しの立たない状況で、黄色人種の国である日本の巨額の公債引き受けとなると二の足を踏む投資家が多く、話がなかなか具体的に進行しなかった。
注意すべきは、公債を引受けるといっても、英国の銀行業者が全部金を出すというわけではないのである。ロスチャイルドやカッセルは、巨額の資産を以て鳴る金融業者ではあるが、その資金を外国債に固定してしまうほど余裕があるわけではなかった。要するに、ロスチャイルドなりカッセルというものが公債引受人となって、その信用でもって、一般の投資界から資金を吸い上げるのである。
『大衆明治史 下巻』p.205~206
だから、どうしても金融業ばかりでなく、一般の投資家の意向なり機運というものも無視できないのである。
高橋是清は一千万ポンド(約一億円)の外債発行の話をまとめようと動いていたのだが、四月二十日頃にようやく、関税収入を担保として外債五百万ポンドを発行する仮契約ができた。しかしながら年内にあと五百万ポンドの発行がどうしても必要だったのである。
大成功に終わった一回目の外債発行
そんな高橋に、思いがけない幸運が転がり込んできた。なんと残額の五百万ポンド全額を引き受けるという人物が現れたのである。
その人物の名前はアメリカのジェイコブ・ヘンリー・シフというユダヤ人である。たまたまヨーロッパ旅行の途中で英国に立ち寄り、高橋の旧友が主催した晩餐会に参加し、偶然高橋の隣に座っていたという。会の席上で高橋は、隣のシフに対して五百万ポンドの仮契約が出来たがあと五百万ポンドの募集が必要であることなどを話したようだが、その日はシフからは特別の話はなく別れたという。ところがその翌日にバース銀行の取締役が高橋の宿舎を訪ねて来て、昨日高橋の隣にいたシフという人物はバース銀行の取引先であるニューヨークの銀行(クーンローブ商会)の会長で、残りの五百万ポンドを自分で引受る意向があることを伝えに来た。クーンローブ商会は、当時アメリカ財閥のモルガン商会と肩を並べるほどの勢力を占めていることがわかり、高橋が驚喜したことは言うまでもない。
かくして日本公債の発行日が五月十一日と発表された。その少し前の五月一日に日本軍が鴨緑江の戦いで勝利していたことから、日本公債は予想以上の人気を呼び、応募が殺到して、一回目の外債発行は大成功のうちに終わったのである。
ロシアによるユダヤ人虐待
ところで、なぜシフは五百万ポンドの引き受けを申し出たのであろうか。
この点について高橋は『高橋是清自伝』に、「ロシア帝政時代ことに日露戦争前には、ロシアにおけるユダヤ人は、甚だしき虐待を受け、官公吏に採用せられざるはもちろん、国内の旅行すら自由に出来ず、圧政その極に達し」ていて、ロシアと戦おうとしているわが国を支援することで、ロシアの政治変革を期待したことを挙げている。高橋は穏やかに書いているが、ロシアのユダヤ人に対する虐待は極めて激しく、多くのユダヤ人が官憲や民衆により襲撃され、虐殺された者も少なくなかったのである。
ユダヤ人は中世以来ヨーロッパでたびたび迫害を受けてきたのだが、新約聖書にユダヤ人がキリストの磔刑に関与したことが書かれていることから、ヨーロッパではユダヤ人が「神殺し」とみなされて疎外され、ゲットーと呼ばれる場所に隔離されて暮らしていた歴史がある。また彼らは生産的な職業に就くことができず、質屋や金融業や両替商に従事する者が多かった。
十八世紀になってヨーロッパではユダヤ人の解放と地位向上が唱えられるようになっていくのだが、ロシアではユダヤ人とスラブ人との抗争がその後も続いたのである。
昭和十二年に出版された安江仙弘著『ユダヤの人々』という本がある。安江は陸軍きってのユダヤ問題の研究家で、昭和十三年(1938年)にナチスの迫害を逃れるためにドイツを脱出した二万人のユダヤ難民を同期の樋口季一郎とともに助けた人物である。安江のこの書物には、その頃のロシアによるユダヤ人迫害について次のように解説されている。
昔の帝政ロシアは、このポーランドを合わせておったからして、合計六百余万のユダヤ民族を持っていたのである。当時世界のユダヤ人口は、約千三百五十五万と言われているから、帝政ロシアは世界ユダヤ人口の半数近くを保持していたのである。
帝政ロシアが昔から、ユダヤ人に関し種々なる問題を、しばしば惹起し、またこのロシアユダヤ人の中から、各種の有名なる人物が輩出しているのは、蓋し当然のことである。帝政時代において、昔からロシアはこのユダヤ人を非常に虐待したしたことは、有名な事実となっている。ロシアには『ポグロム』という言葉がある。これを訳して『ユダヤ人狩り』という。すなわちロシア官憲が、ユダヤ人をゲットー(ユダヤ人街)から追放することを意味するもので、このポグロムがしばしば行われている。
ロシア官憲が何ゆえにポグロムを実行したか。その第一の原因は、宗教に基づくものと察せらるる。ロシアは耶蘇教(キリスト教)の中でも、最も堅苦しいと言われるギリシャ正教国であった。したがって厳格にユダヤ教を奉ずるユダヤ人との、相互の反感もまた最も激烈である。また民族的に観て、その性格上純ロシア人たるスラブとユダヤ人とは、氷炭相容れざるものがある。
これ等の点からロシアにおけるユダヤ民族は、いわゆるロシア人と常に闘争をつづけ、常に彼らから多大の圧迫を受けていたのである。現にロシアにはスラブ系の純ロシア人のほかに、ドイツ系、タタール系等五十余の異種族が、混然として生活を営んでいる。しかし、ユダヤ人を除いて他の種族は、概ねロシア人と同化し、種族的の反感や闘争の起こることはいたって稀であった。ユダヤ人はただに宗教、種族の相違からばかりでなく、その持ち前の狡猾と、排他的利己心等が、他の種族から忌み嫌われる原因の一つとなったのである。
安江仙弘著『ユダヤの人々』軍人会館出版部 昭和12年刊 p.106~107
ロシアではアレクサンドル3世(在位:1881-1894)およびその子ニコライ2世(在位:1894-1917)の時代に、ユダヤ人迫害が特に激しく行われるようになるのである。
安江氏の前掲書にはその時代のユダヤ人迫害の経緯について詳しく述べられている。
ロシアにおいて、ユダヤ人に対する取締りを厳重にした原因は、ロシア国内にいるユダヤ人が、国外のユダヤ人と相策応し、いわゆる過激思想によって、ロシア帝政の転覆を企図したためである。事実ロシアの各所で、過激派ユダヤ人の逮捕がしばしば行われたのである。されど自由と解放とに熱狂するユダヤ人は、ロシアの制圧が強ければ強いほど、また取締りが厳重なれば厳重なるほど、自己民族の権利を獲るため、一層強くその力を用いた。遂に彼らはアメリカを利用し、次に述べるような巧妙な方法を用いるに至った。
ロシアにおいて自由を得ようとしたロシア在住のユダヤ人は、…どしどしアメリカに渡航した。そしてその滞在間にアメリカの国籍を獲得し、新たにアメリカ国民となり、ロシアにある自分の家に帰って来た。すなわち彼らは国を出るときはロシア人で、帰るときはアメリカ国民になっていたのである。
その当時米露両国政府は、相手国の自由権を、互いに認める事を約束しておった。そこでロシア駐在のアメリカ領事は、この外交上の取り決めに基づいて、このにわか作りの新アメリカ国民に対する、ロシア官憲の干渉を絶対に拒絶し、彼らを保護することに努力した。しかしながら、ロシア政府は、この新しき米国ユダヤ人の過激的陰謀に対して、沈黙することが出来ないので、依然として彼らの検挙に努力し、そのアメリカユダヤ人であると否とにかかわらず、峻烈なるユダヤ人取締りを継続励行した。
同上書 p.110~111
現在のポーランドは当時ロシアに併合されていて、そこに約三百七十万人のユダヤ人が住んでおり、ポーランドを除くロシアにも約三百万人のユダヤ人が住んでいたそうだ。そして西暦一八八二年から一九〇六年に至る二十五年間に、二百万人ものユダヤ人がロシアからアメリカに移住したということは三割近いユダヤ人がアメリカ国籍を取るためにロシアを離れたということになるのだが、ロシアではその後、ユダヤ人への迫害がさらに激しくなっていった。
日露戦争が始まる前年の一九〇三年四月にはキシナウ(現モルドバ共和国の首都)で五十人近くのユダヤ系住民が虐殺されたほか数百人が負傷し、多くのユダヤ系商店や住宅が破壊された事件も起きている。
このような背景を知ると、ユダヤ人のジェイコブ・シフがロシア政府に対し強い憎悪の念を抱いていたことがよくわかる。彼が巨額の日本外債を引受けたのは、ロシアと戦っている日本が、ロシアを痛めつけてくれることを願っていたことは確実で、日露戦争で日本が勝利すると、今度はロシア革命を成功に導くために、レーニンらに巨額の資金を提供している。以前このブログで書いたが、ロシア革命はユダヤ人の革命というべきであり、革命政府の要職の大半をユダヤ人が占めていたことを知るべきである。
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コメント
現在のウクライナ戦争もユダヤ人対スラブ人の抗争の繰り返しですね。ポグロムの恨みがプーチン大統領に向けられているようです。
私見ですが、この地域に住んでいたユダヤ人はパレスチナ出身の真性ユダヤ人ではなく、ハザール王国の末裔のユダヤ人ではないかと思っています。外見上セム系とは見えません。
ジェイコブシフが高橋是清の隣に座ったのは偶然ではないのでは。彼はフランクフルト時代からロスチャイルド一家なじみの人なので。
ネコ太郎さん、コメントありがとうございます。
この地域で歴史的に激しい民族闘争が続いてきたことを知る必要がありますね。ロシア革命はユダヤ人による革命であり、ポグロムを推進したニコライ二世の親族らはレーニンの命により銃殺されています。今回のウクライナ戦争も、その前にロシア人が虐殺されていたことを知らないと、真実を見誤ることになります。
Wikipediaによるとユダヤ人は「ユダヤ教の信者(宗教集団)またはユダヤ教信者を親に持つ者によって構成される宗教信者のこと」とあり、人種とは無関係のような定義になっていますが、確かにこの地域に住んでいるユダヤ人は、セム族とは外見上異なりますね。
私も、シフが高橋の隣に座ったのは偶然とは思えません。わざわざニューヨークからイギリスに来て、高橋の旧友が主催した晩餐会に参加したというのは、何らかの意図がなければあり得ないような気がしています。