ラウレル政権の正体
前回の記事で、フィリピン第二共和国のホセ・ラウレル大統領は日本の傀儡ではないことを書いたのだが、ラウレルは回顧録を残しており、十月に挙行される建国式典の直前に日本を訪問して東條首相らと会談している。彼の回顧録には次のように記されている。
東條首相が立ち上がり、米国および英国に対する宣戦布告を要求する通告文を読み上げた(浜本氏通訳)。
私は東條首相の正面に、バルガス氏は私の右側に、アキノ氏は私の左側に座っていた。それはわれわれ三人にとってショックであった。
われわれはこのような通告を全く予想していなかったので、それに即応する回答を準備していなかった。私は静かに神に祈り、そして祈りの言葉をつぶやいた。東條首相の言葉を浜本が通訳してから、私は立ち上がり、出来るだけ丁寧に、その要求には応じられない旨答えた。
私は次のように言った。「わが国民はそれを認めないでしょう。私は国民を納得させることは出来ません。
わが国で実力のある指導者はケソン、オスメニア、ロハスの三人であって、私は決して人望のある指導者ではありません。
しかし、たとえこの三人が応じることを私に望み、私が進んでそうしたとしても、私はだれも支持する者のない指導者になるだけでありましょう。
なぜならば、フィリピン人はこのような手段には反対だからです。アメリカは彼らの後援者ですから、アメリカに宣戦布告することはフィリピン人にとって、思いやりのないやり方です。どんなくだらない民衆でも、そのようなことは希望しておりません」何の準備もない私の即答は、バルガス、アキノ両氏に感銘を与えたらしく、私は二人の祝福をうけた。
その後、私は首相の通告文のコピーを貰い、フィリピンに持ち帰った。…中略…私は最も困難な状況に直面していることを悟った。われわれが聞いた苛酷な要求、すなわち、日本臣の封建的で残忍な手段は、日本人に対する深い憎悪の念を駆り立てる結果を招いた。これと同じ状況が私のリーダーシップの中に起きないよう、祈らずにはいられなかった。…米国と英国に対して宣戦を布告するよう要求された時、独立はその代償と引き換えに与えられるだろうということが明らかになった。東條の言葉に対するわれわれの選択は、絶滅か自由かのいずれかであった。
『ホセ・P.ラウレル博士戦争回顧録』日本教育新聞社出版局 昭和62年刊 p.60~61
この文章を読めばわかるようにラウレル政権は明らかに親米であり、ラウレル自身が「私の内閣には一人の親日分子もおらず(同上書 p.71)」と書いていることからわかるように彼の政権は断じて「日本の傀儡」ではなく、日本の首相の面前でフィリピン人がアメリカに支援されていることを公言し、日本とともに米国と戦うことを拒否するような人物であったのである。その後ラウレルは日本側から在比大使館を通じ、日本人顧問、専門指導官二百二十人を派遣する旨の通知を受け、これにも必死の抵抗を訴えたという。深田祐介の『大東亜会議の真実』にその時の東條首相との個別会談でラウレルが述べた内容が引用されている。
「率直に申せば、農業、工業、財政、経済の専門部面については、ぜひとも日本人顧問を擁すべきも、政治部面には予は自信あり。日本人顧問の指導の要なしと考う。斯くの如き大組織を擁するときは、フィリピン政府があたかも、傀儡政府なりとの悪印象を与うべしとの危惧を有す」(『東條内閣総理大臣機密記録』)
深田祐介『大東亜会議の真実』PHP新書 平成16年刊 p.103
なぜ日本軍が新生フィリピンの政府に親日派のメンバーを入れなかったかについては、この記録が参考になる。一人でもリカルテやラモスのような親日派を入れたら、アメリカから「傀儡政府」と呼ばれることになると言いくるめられて日本軍はラウレルの推薦する内閣のメンバーを受け容れたのであろう。ところが、親日派が一人もいない内閣であるにもかかわらずアメリカはラウレル政府を「傀儡政府」とよび、戦後のわが国の歴史叙述では当時のアメリカのプロパガンダそのままに「傀儡政府」であったとレッテルが貼られたままなのだ。
日本占領下でありながらわが国が親米派の政権を認めてしまったばかりに、その後のアメリカが反日工作しやすい環境を作ってしまったことは言うまでもないだろう。
アメリカ軍によるフィリピン奪還戦とラウレル政府
一九四一年十二月八日の開戦から約半年間日本軍は連勝を続けたのだが、一九四二年六月のミッドウェー海戦では四空母と艦載機三百九十機を失う大敗を喫し、八月のガダルカナル戦以降も日本軍は敗退が続いていた。
一九四二年三月にコレヒドール島から脱出して「南西太平洋方面連合軍最高司令官」となっていたマッカーサーは、コレヒドールの屈辱を晴らすべくフィリピンの奪還に強くこだわっていた。一九四四年六月のマリアナ沖海戦で米軍が日本軍に勝利した後ルーズヴェルト大統領はフィリピン攻略作戦を承認し、マッカーサーが最新鋭軍を指揮してフィリピンを奪還する作戦が動き出した。
大本営は、フィリピンこそ日本の運命を決する天王山であるとし、軍の声望を一心にになう山下奉文大将を派遣した。一九四四年(昭和一九年)八月のことである。これによって日本の派遣軍司令官は、本間中将から田中中将、黒田中将を経て山下大将と、わずか三年半の間に、四人を更迭したことになる。そのたびに戦略も軍政方針も変更され、幕僚も変わる。ここにも日本の対アジア政策における基本路線の欠陥があった。
山下大将の幕僚として西村参謀副長が着任すると、ふたたびクーデター計画が持ち上がった。ラウレル政権には治安能力も民心収攬の力も、動員力も経済政策も‥‥何もない。何もないばかりか明らかにアメリカの謀略網と通謀している。見過ごすわけには行かないというのが西村参謀副長の気持であった。かれはリカルテ将軍を主班とする親日派の政権を作り、ラウレル政権を倒す計画をたてた。そしてこの計画をリカルテの許にもたらした時、リカルテはまたも頑強に拒絶した。…中略…
米軍の比島逆上陸が迫っているというのに、軍は労働力の不足に困り抜いていた。結局はラモスのガナップ党の協力に頼るしか味方になる勢力はなかった。ラウレル政府では労働力はまったく集まらなかったのである。
かねてラモスは武装した義勇隊「フィリピン愛国国民軍(マカビリ)」の創設を軍に進言していた。またリカルテは、独立した国家に軍隊のないのは片端(かたわ)にひとしいと言って、フィリピン国軍の創設を繰り返し提唱していた。前者に対しては、軍政担当の宇都宮少将や村田大使が反対し続けた。ガナップ党に武器を渡したら何をしでかすか分からないという不安があったからである。後者に対しては、軍はもとより、ラウレルもこれを巧みに拒んだ。このころラウレルはすでにアメリカの勝利を察知していたらしい形跡がある。しかし戦局は急迫し、ゲリラは益々激しさを加えるのに、ラウレル政府は労働力も資材もほとんど集まる見込みはなかった。マニラが爆撃されても、修理や対策に労働力を集めうる実力を示すものは、ラモスのガナップ党か旧のサクダル党員以外にない状況であった。かくて日本軍はやむなく――米軍の逆上陸のため、とうていマニラを守り得ない戦況となった段階にいたって――山下奉文最高司令官の名をもって「フィリピン愛国国民軍(マカビリ)」の創設を許可したのである。その実権は当然ながらラモスが握った。
田中正明著『アジア独立への道』展転社 平成三年刊 p.174~175
アメリカは潜水艦で大量の武器を送り込み、捕虜収容所から脱走したアメリカ兵にフィリピンゲリラを支援させていたし、ラウレル大統領はゲリラに対しては有効な対策を実施しないばかりか、自国を守るための兵の募集も行わなかった。またラウレルは米英軍に対する宣戦布告を拒否し続けてきたのだが、一九四四年九月にアメリカ軍によりマニラ市内が激しい空襲にさらされ、日本軍からの圧力でようやく米英軍に宣戦布告したものの、「アメリカと戦うために徴兵はしない、またフィリピン人の徴集はしない、という共和国の政策を発表」しており(『ホセ・P.ラウレル博士戦争回顧録』p.76)、最後までフィリピン人の徴兵を認めなかった。
結局日本軍に協力して米軍と戦ってくれるメンバーはラモスしかいないことが明らかとなり、十二月になってようやく日本軍は「フィリピン愛国国民軍(マカビリ)」の創設を許可したのである。田中正明によるとここまで許可が遅れた理由は、「日本軍政担当の宇都宮少将や村田大使が反対し続けた」ことによると記されている。村田大使については後述するが、宇都宮直賢少将もラウレル政権をかばい続けた人物のようだ。
このようにラウレルは一貫してアメリカに協力して来たのだが、戦後のわが国の通説ではラウレル政権は「日本の傀儡」とされている。戦後になって多くの歴史叙述が戦勝国にとって都合の良いように書き換えられてしまったのだが、戦後に書き換えられて広められている通説の多くが真実とは異なることを知るべきである。
日本陸海軍がレイテ戦で早期に敗れた背景を考える
一九四四年十月二十日にマッカーサー率いる米軍はレイテ島のタクロバンに上陸した。日本軍はレイテ島には一個師団(約二万名)しか配置していなかった。日本軍はルソン島で米軍を迎え撃ち決戦する準備をしていたが、急遽方針が変更されレイテ島が決戦場となり、周辺の島々から部隊が送り込まれたものの戦車もなければ大型大砲もほとんどなかった。また空母機動部隊はマリアナ沖海戦で壊滅状態に近く、空母四隻を率いた機動部隊を出撃させたが、技量のあるパイロットがいなかったのでそれを囮に用いアメリカの空母艦隊を引き付けて攻撃させている間に、戦艦や重巡洋艦がレイテ湾内に突入し米艦隊を砲撃する作戦であった。
しかしながら、囮としていた機動部隊より先に突撃部隊である三艦隊が米軍に発見されてしまい、米軍は主力の栗田艦隊を集中攻撃して戦艦武蔵を撃沈させている。その間に西村艦隊がレイテ島に向かうもスリガオ海峡で待ち伏せしていた米軍の攻撃を受けほぼ全滅してしまう。栗田艦隊もその後レイテ島に向かったがアメリカの護衛空母艦隊に遭遇し交戦二時間で重巡洋艦三隻と駆逐艦一隻を失ってしまう。その後栗田艦隊はレイテ湾を目指したのだが、あと八〇キロという地点に達した時になぜか栗田中将は反転を命じている。また囮部隊となった空母機動部隊は四隻すべてを失ってしまった。かくして、日本海軍の全力を投入したレイテ沖海戦で米軍に完敗した。
殆んど制空権を失った状態となり、日本陸軍もレイテ島に上陸した米軍を相手に大苦戦し、援軍を送り込んでも上陸もままならず、武器弾薬食糧を積んだ輸送船が沈められてしまった。その後も援軍が送り込まれたのだが、戦車も大型大砲もほとんどない日本軍がいくら頑張っても米軍相手には歯が立たず、惨憺たる敗北に終わっている。
日本軍がこのような負け方をしたのは圧倒的な戦力差に原因があることは認めざるを得ないが、もし日本軍が親日派が一人もいないようなラウレル政権ではなく、はじめから親日派中心の政権を選んでいたらこんな無様な負け方をすることはなかったと思う。
日本軍が許可したことにより「フィリピン愛国国民軍(マカビリ)」が創設されたのは一九四四年十二月八日のことなのだが、翌月には彼らはルソン島に上陸した連合軍と戦うことを余儀なくされている。
ラモスの指揮するマカビリは、日本軍から与えられた兵器で、アメリカ軍のマニラ占領に抗して戦った。その彼らの働きぶりは、日本軍にもまして実に勇敢であった。ガナップのマカビリたちが山岳地帯に逃れたころの『村田日記』によれば、そのころ村田大使やラウレル大統領は、バギオの避暑地でゴルフなどしたことが書いてある。そして翌三月には危機が迫ったので台湾へ逃れた。
同上書 p.176
『村田日記』というのは、大阪商船社長を経て第二次・第三次近衛内閣で逓信大臣兼鉄道大臣を経験したのち一九三七年に帝国陸軍第十四軍(フィリピン占領軍)の最高顧問に就任し、翌年にフィリピン特命全権大使に就任した村田省蔵の日記なのだが、この日記は『村田省蔵追想録』(大阪商船 昭和34年刊)に「駐比大使日記抄」があり、その中に重要部分が抄録されている。この本を「国立国会図書館デジタルコレクション」の全文検索機能を用いて「ゴルフ」で検索すると、この人物が何度もラウレル大統領とゴルフをしていたことがよくわかる。一九四五二月十五日にもラウレルとゴルフをしているが、マニラで日本軍と連合軍が戦っていた真最中に二人がゴルフに興じていたことになる。(『村田省蔵追想録』p.382)
フィリピンにおける日本軍の統治が失敗したのは、村田のような人物を帝国陸軍第十四軍の最高顧問に据え、フィリピンの大使に任命したことと無関係だとは思えない。田中正明氏の前掲書によるとラウレル政権は「明らかにアメリカの調略網と通謀している」と書かれているのだが、フィリピンの軍政に関与していた誰かが日本側の重要情報をラウレル政権に流していたことになる。そのような人物が複数いた可能性もあるのだが、村田省蔵はそう疑われても仕方がない人物の一人であろう。
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コメント
しばやんさま
小生の書いた状況証拠の確認に貴重なお時間を掛けられた事をお詫びします。
今後は出典の曖昧な事柄に付いては、書くことを控えたいと思います。
誠に申し訳有りませんでした。
井頭さま
返信していただきありがとうございます。
ユダヤの問題はまだまだ不勉強なのですが、ユダヤに関しては多くの方が事実確認をせずに推測で、まるで事実であるかのように断定する人が多いのが気になっています。もちろんユダヤ人らが証拠を残すようなことは滅多にないと思うのですが、だれがいつどう発言したくらいのことは明確にしておくことが重要だと思います。
世界の重大な紛争の全てをユダヤ人に結び付けようとする人もいますが、ユダヤ人と全く接点がなくともユダヤ勢力にとって都合の良い動きをした人物は少なからずいると思います。
淡路島を小旅されているのですね。東京の国立劇場が建て替え中です。建て替え前に 文楽を数回楽しみました。 三番叟は 2組の人形使いが操るのですが さすがに 人間国宝の操り手の人形の動きは 見事なものでした。 建て替え後に また 文楽を楽しみたいと思っています。
最近は有名観光地は外国人が多すぎるので、あまり知られていない地方を調べて旅行することが多くなりました。
淡路島には魅力的な伝統文化や文化財が多数残されているのですが、訪れる人が少ないのが残念です。兵庫県も淡路島の魅力をもっとアピールしてもいいと思うのですが、今の知事には期待薄ですね。
人形浄瑠璃は、一流の人形遣いが人形を操ると、俳優よりも喜怒哀楽をうまく表現するのがすごいと思います。