前回の「歴史ノート」で国際連盟理事会でわが国の全権松岡洋右が昭和七年十一月二一日に演説をした内容の前半部分のポイント部分を紹介させていただいたが、今回はその後半部分について書くこととしたい。
満州事変は不戦条約違反ではない
リットン報告書では満州事変のきっかけとなった昭和六年(1931年)九月十八日の柳条湖事件について、満州鉄道の爆破の規模は小規模であったにもかかわらず、その後日本軍が北大営を占拠し、翌日までに長春、奉天等を占拠した軍事行動は自衛のためのものとは認められないとしていた。それに対し松岡は、支那兵による鉄道の襲撃や破壊行為はこれまで何度も起きており、犠牲者も多数出ていたことから現場の兵士に強い緊張状態が長らく続いていた。同日の鉄道爆破事件はきっかけにすぎないとし、さらに以下のように述べている。
満鉄沿線に散在する日本守備兵の機敏な行動が、司令部からの命令が到着せぬ以前に於いて早くも行われたという事実については、当時日支両軍間にあって相互の疑惑と緊張の如何に高まっていたか、また日本軍ないし日本居留民が、いかに重大な危険に晒されていたかを知らぬ者にとっては、あるいは驚愕に値するものかも知れない。他の如何なる軍隊も同様である如く、日本の軍隊も一朝危急の場合に備えられていることが必要である。外国領土の近接地帯に駐屯し、特に敏速な処置をとらざるを得ないような事件が頻々と続発されるような場合、平生慎重に考慮された応急手段を準備しておくことは、如何なる軍隊にとっても当然ではないか。…中略…
日本軍隊といえば、わずかに一万四百名を以てして、数に於いて二十倍する学良軍、飛行機を備え、支那全国中最も優秀なる武器を貯えた兵器廠を有する学良軍に囲繞されていたのである。かかる情勢からして日本軍隊は自衛上、当然一の手段を準備していて、即ち一たび警鈴響けば、即時自動的に行動を開始するのである。九月十八、十九日の事件に言及して調査団は、「当夜における日本軍隊の軍事行動は、適法の自衛手段と認めることが出来ない」と言っているが、この点我々は断然同意することが出来ないものである。
米国国務長官ケロッグ氏の一九二八年六月二十三日付の文書中、「自衛権」の問題に関する部分は次の如く記されてある――
『(1)自衛(Self-defence)。 不戦条約の米国の原案には、自衛権に対しこれを制限しもしくは損するような条項はいささかもない。この権利は各独立国家にとって独自なものであり、すべての条約に於いて絶対的なものである。各国家は攻撃または侵略に対し自らを防衛するためには如何なる場合においても自由であり、条約の条項如何に関することがないのである。しかしてその攻撃または侵略、ただそれのみが、事態が自衛のための戦争手段に訴える必要があるかどうかを決定する力となるのである。』さらに該条約が各締約国に批准されるにあたって米国議会においてなされた決議を挙げれば――
『自衛権の運用は、これを運用する国家の領土権の限界外にその力を伸張して良いし、かつ現にしばしばよく伸張されていると解釈して差し支えない』
同上書 p.16~18
第一次大戦後の一九二八年に、国際紛争を解決する手段として、締約国相互で戦争の放棄を行い、紛争は平和的手段により解決することを規定した「不戦条約」(パリ条約、ケロッグブリアン条約ともいう)が成立し、英米独仏日をはじめとする十五ヶ国が署名し、ソ連など六十三ヶ国が批准した。「不戦条約」とはいっても、自衛権の発動は認められていたのだが、松岡は柳条湖事件以降における日本軍の行動は、「不戦条約」にいうところの「自衛権」の発動にあたることを述べている。
日本軍は満州における支那兵による度重なる満鉄破壊や邦人居留民を狙った掠奪・暴行などの行為に対して、その策源地を叩く軍事行動は合法であると主張したわけだが、自衛権の決定権は各国政府が持つという考え方はイギリスのオースチン・チェンバレン卿も認めていたことを述べている。
オースチン・チェンバレン卿の第二書翰には次の如く言っている――
『余は全くケロッグ氏が四月二十八日に述べられた見解に一致する。即ち、この条約案は如何なる点においても自衛権を制限または阻害するものではないということ。さらにまたその自衛の目的のために戦争手段に訴えることを必要とするほど、事態が切迫しているかどうかを決定する権能は、各々の国家それ自身にあるのだ、ということに於いて氏の意見と同様である』
仏国政府も、一九二九年七月十四日付の回答に於いて同様な見解を下し、ドイツ政府もまた同様であった。日本政府はこれら一切の通告を受け、これまた一九二八年五月二十六日付で米国大使に手交した覚書において、次の如く力説することを忘れなかったものである。即ち「米国今回の提案は、各独立国に対し、各自の自衛権を拒否する何物をも含まざるものと解せられる」
これらの公表された留保あるにかかわらず、かつまた我が諸権益に対し、わが国民に対し、わが軍隊に対して組織された敵対行為を以て圧迫しつつある事態に鑑み、事件に関し誰の目にも至当な裁判官であるところの日本政府は、あの場合の日本軍隊の行動を、全く自衛権の発動と認めるものである。しかも自衛権に対しては、パリ条約がいずれの国からも疑問も否定もなく、明確に受容されているところではないか。
同上書 p.19~20
アメリカ政府は一九三二年一月七日に「不戦条約」を根拠に日支両国政府に警告を発していたのだが、そのような解釈は「不戦条約」の生みの親であるフランク・ケロッグ自身が否定していたことは重要である。
上の画像は十月十八日付の「東京日日新聞」の記事だが、八月八日にスチムソン米国国務長官がニューヨークの外交問題調査会の席上で不戦条約の効用を力説したことに対し、ケロッグ前国務長官は「不戦条約」には自衛戦争が認められており、自衛権を行使するかどうかの決定権は、国連で決めるような話ではないとの考えであった。
ケロッグは「誰が侵略者かを決定することは徒らに各国政府をして際限なき紛争に巻き込む結果となり、延いては同条約の効果を非常に減殺することとなる」ので、「予は侵略者を定義するこの企てには反対するものだ。何故なら予はそれは侵略者にあらざるものにとっては一つの陥穽であり、侵略せんとするものにとっては巧みな抜け道を作る一つの指標となると信ずるからだ」と明確に述べている。
したがってわが国が「不戦条約」に違反し侵略行為を行ったというスチムソンらの主張は誤っており、わが国が「不戦条約」に違反していたわけではないのだ。
満州国誕生について
次に松岡は三月に独立した満州国の誕生について述べている。
満州国における独立運動の純粋性如何が調査団で問題になった。報告書にはこう言っている。
「現役乃至退職の日本の官吏及び軍人のグループが、日本における政治上の新運動と密接な接触を保ちつつ満州国の独立を計画し、組織し、貫徹したものである」
この言は正しくない。新国家は、その組織を日本人のイニシアチブに負うものではない。それは実に永年の張家の桎梏から脱せんとする民衆の明らかな願望に基づくものである。それは一部分報告書にも見える如く、民衆を圧迫するに於いて実に無慈悲な、残酷極まる支配ぶりであった。それ故に救済される機会を捕えんとすることは民衆にとって頗る自然なことであった。この願望が数年前には「保境安民」の叫びとなり来たったのは歴史上の事実である――それは「国境を安固にし、我らに平和を与えよ」ということを意味し、もっと西洋流に言うならば「満州人のための満州を」という意味なのだ。この運動の存在は決して想像からの虚構ではない。その指導者は何れも実際に有名な、しかも人格の高い人々であった。
同上書 p.23
「リットン報告書」には満州族による満州独立運動は一九三一年九月十八日の柳条湖事件以前に存在しなかったと書いているが、それも誤りである。そして柳条湖事件のあと日本軍が張学良軍を満州から追い払ったのを機に、各地の有力者が満州人独立のために一気に動き出したのである。
奉天地方治安維持委員会は、早くも一九三一年九月二十四日に設立され、同九月二十六日には独立要望の宣言が発せられている。同じ日に熙洽将軍が吉林省の独立を宣言した。同二十七日には、ハルビンに治安維持委員会が結成され、十月一日には張海鵬将軍が洮南の独立を宣した。十月十七日には遼寧守備隊の指揮官于芷山将軍が独立を宣し、旧清朝皇帝を君主に迎えて満蒙国家を建設すべく要望した。九月十八日事件以後わずか三週間以内に、先に例に挙げられたような、あまり有難くもない日本の官憲が、しかも比較的少人数で、国内を駆け回り、急激に民衆の信念を変えて、旧政権に反抗するように鼓吹し得るものかどうか、想像もできないことではないか。…中略…これら各地に起こった運動は、即ち独立を歓迎する当の証拠を示してはいないか? もしそうでないとしても、これらは張学良政権の滅亡によって救われ、安心された徴以外のものではないのである。
当時のわが外務大臣幣原男*、並びに陸軍大臣南将軍は、九月二十六日に訓電を発し、満州に於いて新しい政治的秩序を建設せんがため、既に進行しつつある種々の計画に、軍人、官吏その他の日本人の参加することを厳禁したのであった。 *幣原男:幣原喜重郎男爵
同上書 p.24~25
「リットン報告書」では、わが国の官吏や軍人のグループが、満州の有力者に独立工作を仕掛けたように書かれているのだが、広大な満州の地で少人数しかいない日本人がわずか三週間以内に各地の有力者や民衆に工作をかけて独立宣言をさせたという説には無理がありすぎる。それまでの経緯やその後の経緯からして、満州人の有力者がが自発的に動き出したと考えるのが妥当であろう。
我々は侵略者ではない
松岡が柳条湖事件のあとの日本軍の行動を「自衛行動」と主張したが、同様な事例がアメリカにもあったことを述べている。
我々はまた、一九一六年から一九一七年にかけて米国が、メキシコ湾に遠征軍を送った事実を想起する。その時代のメキシコ政府は、米国人居留民の生命を保護する能力がなかったからである。
満州の場合は、時の官憲自らが反日活動を現実に煽動したものである。我々はその結果に対して責任を負うわけにいかない。支那と張学良の独立政府自らが責任を負うべきである。それは彼らの行為であって、断じて我々のなしたことではない。それは我々が再三、執拗に警告したにもかかわらず、それに逆らって為されたのである。日本は決して連盟規約にも、九ヶ国条約に、またパリ不戦条約にも違反するものではないのである。余は理事会に対し、日本が今から八十年前に、外国の交易に対し門戸を開放して以来の記録を見てくれるようにお願いしたい。三百年もの間――世界中の如何なる国のレコードより長い――我々は外国と戦ったことがなかった。その後我々は数回戦争する機会を持った。しかし我々はこれらの戦争に於いて、他国の脅威より我々自身を保護する以外に何物かを求めたことがかつてあったろうか? これに反し、如何に長い年月の間、支那の状態が世界平和の脅威となって来たことか? しかも今後また如何に長くそれが続けられることか?…中略…
余の故国日本の政策、希望、決断、それはただ平和の維持に存する。我々はいずれの国とも戦いを欲しない。我々は現在以上の領土を欲するものではない。我々は侵略者ではない。我々は我々の偉大なる隣国の幸福を衷心から熱望しているものである。
同上書 p.29~30
松岡はアメリカがメキシコに遠征軍を送ったことに触れているが、上の画像を見ればアメリカがメキシコに何をしてきたかが分かる、黄色で表示した部分は一八二四年のメキシコ領であるが、一八四六年から一八四八年の米墨戦争で勝利したアメリカは、メキシコから現在のテキサス、カリフォルニア、ネバダ、アリゾナ、コロラド、ニューメキシコ、ワイオミングの各州を奪い取っている。その後一九一〇年にメキシコで革命が起きアメリカに奪われた領土を取り返そうとするが、アメリカは革命派の分断を図りカランサ派を支援し、後に軍隊を派遣したのだが、どういう経緯でどの程度の規模を派遣したかについては英文のWikipediaには何も書かれていない。
「神戸大学新聞記事文庫」で調べると、東京朝日新聞の記事が引っかかった。文中の「墨」は「墨西哥」を意味する。
米国大統領は、目下米墨国境守備の任にあたり居れる三万の正規兵を、必要に応じて墨国に増遣するに決し、之に代りて国境防備の任に就かしめんが為に全国の州兵十四万を動員せり。是れ目下墨国チワワ州に駐在せる米国軍隊の撤兵を要求せるカランザ政府の態度の頗る不遜なるが為め、之が示威運動に外ならずという。
「神戸大学新聞記事文庫」外交7-16
当時において最も厳しくわが国を批判したのはアメリカであったわけだが、松岡が少し触れただけで当時の人々が理解できた内容が、今では余程調べなければわからないようになっている。
一九一六年にアメリカは侵略戦争を仕掛けてメキシコから得た領土を守るために、米墨国境に大軍を派兵したわけだが、このような侵略国に日本を批判するなどとんでもないと、当時の日本人が考えていたに違いない。
わが国は日露戦争に勝利したのちポーツマス条約によって、ロマノフ王朝の満洲における鉄道・鉱山開発を始めとする権益のうち南満洲に属するものは日本へ引き渡され、その権益については条約で清国も承認していたのである。わが国は条約に基づいて満州に莫大な投資をしてインフラを整えていったのだが、張学良の時代になって条約が無視されるようになり、官憲自らが煽動して鉄道破壊や日本商品ボイコット、邦人居留民に対する襲撃が行われた。責められるべきは松岡の言う通り、条約を守らない支那と張学良の方ではなかったか。
満州事変勃発時には、関東軍は司令部要員を含めて総数一万五千人ほどしかいなかった。そんなわずかな兵力が反撃すると三十万以上の張学良兵が逃げるように満州から出て行ったのだ。戦後の歴史叙述では、これを「侵略」と記すことになっているのだが、「自衛」と呼ぶことが何故許されないのか。
国連を利用して日本を叩こうとした英米や支那の戦略が見え隠れするのだが、松岡が演説の最後で述べた「我々は侵略者ではない」という言葉で何を伝えようとしたかについて、多くの読者に考えていただきたいと思う。
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