満州はいつから漢民族が支配するようになったのか
紀元前三世紀に中国を統一した秦の始皇帝は、遊牧民が生活していた満州・蒙古を統一することが出来ず、彼らによる北方からの侵入を防ぐために万里の長城を建設している。このことは二千年前において満州・蒙古が漢民族の領土ではなかったことを意味しているのだが、それ以降漢民族が支配した支那歴代王朝の版図が、万里の長城を超えて満州に及んだことは、1912年に中華民国が成立するまでは歴史上存在しなかった。
金・元・清の版図は満州にも及んでいたという反論があると思うのだが、これは満州族・女真族(金・清)、蒙古族(元)という異民族が、逆に長城を超えて漢民族を支配したことによる。
万里の長城は「農耕民族と遊牧民族の境界線」と言われいて、その外側は「化外の地」とされて支那の統治下ではなかったことを意味するのだが、その位置は南北両勢力の強さや歴代王朝の国防方針等により移動してきた。
秦・漢の時代の長城は広大な草原の中に建っているところが多かったのだが、明代に建設された現存の長城は、防衛を容易にするために北京にかなり近いところに建設されている。そして満州はもちろん長城の外側にあり、広大な草原が広がる人口密度の極めて低い地域であった。
漢民族が統治していた明国は1636年に満州に建国された清国に1644年に征服され、それから1912年まで清王朝が中国本土とモンゴル高原を支配した。満州にはもともと人口が極めて少なく漢人については殆んど住んでいなかったのに加えて、清朝はこの地を封禁の地として漢人の移住を制限した。しかしながら、ロシアによる満州侵略をおそれて清朝末期に漢人移住の制限を緩和し、そのために満州に漢人が移住するようになったのだが、わが国が鉄道などのインフラを整備し、関東軍の駐留により治安が安定化していくと満州に移住する漢人が急増することとなる。その後漢民族による独立運動が起こって清朝が倒され、アジアで初めて共和制国家である中華民国が誕生したのだが、新国家の版図については清国の領土をそのまま継承したのである。
「中国革命の父」孫文は満州についてどう考えていたか
しかしながら、辛亥革命を主導し「中国革命の父」とも呼ばれている孫文が、日露戦中に米国で発表した宣言文の中で、満州と支那とを峻別して次のように述べている。文中の「支那人」は「漢人」の意味で用いている。
我々は故意に満州政府といって支那政府とはいわない。支那人は現在彼ら自身の政府を持っていない。もし支那政府なる言葉が支那の現政府に用いられるならそれは誤謬である。支那の事情に通じていない人々には怪訝に思えるかも知れない。しかしこれは事実であり歴史的事実である。読者にこのことを信じさせるためには満州王朝の出来た由来を略述すれば足りる。
満州人は支那人と接触する前にはアムール地方の原野に放浪する野蛮な遊牧人種であった。彼らはしばしば国境地方の平和な支那住民を侵(おそ)い掠奪した。明朝末期に支那には一大内乱があり、この絶好な機会に乗じて彼らは突然南下し、ローマ帝国を北方蛮族が侵ったと同様な方法で北京を占領した。これは一六四四年のことである。
萱野長知 著『中華民国革命秘笈』帝国地方行政学会 昭和15年刊 p.72~73
孫文の当初の計画では、清王朝を倒した後の新中国の版図には満州も蒙古も含まれていなかった。孫文等の革命運動に資金援助した人物の一人である内田良平の『日本の亜細亜』には、明治三十一年(1898年)九月に孫文が内田に発言した内容が記されている。
孫曰く、『革命時に乗じ、たとえロシアが支那の領土を奪取するとも深く憂うるに足らず。革命政府にして一旦樹立する場合に至らば、清朝政府は必ず満州に走り、ロシアの後援によって国命を維持せんとすべし。これに対し、新政府は日本と同盟してロシアを打たざるべからず。即ちロシアとの衝突は何れにするも免かるべからざる所にして、革命は一日も早きを有利とすべし。元来吾人の目的は滅満興漢*にあるものなれば、革命成就の暁には、満蒙、シベリアの如きは日本に付与するも可なり』と。…中略…
*滅満興漢:満洲人を滅ぼし漢人を復興する筆者は、清朝政府が日本軍の露軍を撃破して占領せる土地に対し、片っ端より清国に引き渡すべしとの無法なる交渉を持ち出し来たりたるを見て、清国はいよいよ露軍に応ずべき口実を作りつつあるものと認め、孫に機会の切迫し来たりたるをつげしに、孫は之より朝野の人士に向かって『満蒙は日本の取るに任ぜん。支那革命の目的は滅満興漢にあるを以て、建国は長城以内の中国に於いてするにあり。故に日本は革命党を援助せよ』と、盛んに運動遊説するところがあった。
内田良平『日本の亜細亜』黒竜会出版部 昭和7年刊 p.321、339~340
孫文は革命成就の暁には満州や蒙古は日本にくれてやると明言しており、当時の孫文の頭の中では革命後の中華民国の版図は万里の長城の内側とし、外側は支那固有の領土とは見做していなかったと思われる。しかしながら、革命が成就するや孫文らは豹変するのである。
革命の成就するや、孫文等は、当初より革命の大義名分とせる滅満興漢の主張を変じて、遽(すみや)かに五族共和を唱道し、孫が日本にて作り置きたる晴天白日の国旗は採用せずして、新たに五色の国旗を制定するに至った。これ革命人等が隴を得て蜀を望む*に至りたる現象にして、彼らは依然滅満興漢を継続するにおいては満州・蒙古並びに西蔵(チベット)を失うこととなるので、さきの満州譲与の言質の如きは全然忘れ去りたるものの如く、ここに五族共和を唱えるに至ったものであるが、わが政府者としては支那革命後に於ける人心の変化を考慮し国命の転換を機会として、その際に満州問題の根本的解決を成さねばならぬのであった。…
同上書 p.347~348
*隴を得て蜀を望む:人の望みや欲望には、際限がないことのたとえ
この国では「騙された方が悪く、騙す方は賢い」という考え方が普通で、外交に於いても条約や覚書などを平気で破ることは今も変わっていないように思う。
中華民国が満州を自国の領土と主張する資格はあったのか
1912年に成立した中華民国は清朝領土の継承を宣言し、満洲もその統治下に入ったのだが、新生中華民国は袁世凱と孫文が対立し、各地域の軍閥による群雄割拠の状態が長く続き、満州は張作霖の軍閥が台頭してその支配下となり、張作霖の死後はその長男である張学良が支配した。
それでも、革命後の中華民国の統治となって人々の暮らしが少しでも改善したのであれば満洲人が独立を叫ぶことはなかったと思うのだが、満州は無法地帯と呼ぶべき状態が続いた。住民たちは馬賊の襲撃に何度も遭い、被害が出ても官憲が犯人を捕らえるわけでもなく、特に張学良の時代には馬賊たちが正規兵となり同様に悪事を働き、その上に苛酷な税の支払いを求められ、応じなければ掠奪されるようなことが何度も起こり、満州の人々は塗炭の苦しみを嘗めて来た経緯にある。
だから1931年の満州事変で関東軍により張学良が満州を駆逐されたことを機に、満州人の満州を取り戻そうと各地で満州独立運動が起ちあがったのだが、中華民国は、満州事変が起きた直後から国連に対し「日本の侵略行為である」主張し、翌年(1932年)に建国された満州国はわが国の「傀儡国家」と呼んで国家承認しなかったのである。国連はリットン調査団を派遣し、満州事変の事実関係を調査することになるのだが、その点については別途記すことにしたい。
もともと満州は満州人の故地であり、清朝末期に大量の漢民族が移住するまでは満洲には漢民族はわずかしかおらず、既述した通り漢民族が支配した歴代王朝の版図が満州に及んだ例はなかった。にもかかわらず、辛亥革命のあと中華民国を成立させた孫文等は満州を自国領と主張したのだが、彼らはその後満州のことは張作霖とその長男である張学良に支配させた。そのために満州人も日本人も酷い目に遭ったのだが、中華民国は満州の治安改善のためにやるべきことは何もせず、無法地帯と呼ぶべき状況を長く続けただけだ。
中村粲著『大東亜戦争への道』には、次のように解説されている。
清朝を否定して生まれた新中国(中華民国)は、せいぜい所謂支那十八省のみを自己の統治範囲とすべきだったのに、満州、蒙古、新疆(ウイグル)、西域(チベット)を含む全版図を以てその領土、即ち中国と称した。いうなれば、新生中国は清朝を否定したにもかかわらず、その全遺産を継承せんとした訳である。ここに辛亥革命の欺瞞――理念と現実との矛盾――があり、また漢民族と近隣諸国との紛争の第一原因があるといって良い。
近年、チベットや新疆で中国からの独立運動が起きていたのも、辛亥革命の時に西蔵(チベット)族や回族に独立を認めなかったことに起因する。例えばチベットは辛亥革命の翌年一九一二年に清朝からの独立を宣言したが中華民国はこれを認めず、一九一七年には第一次世界大戦で英国が欧州に釘づけになっているのを好機として東チベットに侵攻、中国の南北統一の完成した一九二八年にはチベット東半分を併合せんとしてチベット東部に青海省と西康省を新設して中国領土に編入してしまった。第二次大戦後の一九四九年には中華人民共和国が樹立されたが、翌五〇年、数百万の”人民解放軍”が東チベットに侵入、この地方の共産化と植民地化を推進した。そして侵略が完成すると西康省という省は不要となり、一九五五年には西康省は廃止されてしまった。現在のチベット独立運動は、辛亥革命のこのような欺瞞と侵略政策の当然の帰結なのである。
外蒙古はやはり辛亥革命直後に独立宣言を発して中国から離脱した。中国はこれを承認しなかったが、外蒙初めは帝政ロシアの、次いでソ連の勢力下に入ったため、中国は外蒙の離脱をどうすることもできず現在に至っている。かかる状況下、辛亥革命で中国における勢力を失墜した満州民族が、自らの故地たる満州で独立国家を建設せんと願うのは当然ではなかろうか。そして満州に利害の深い日本がそれを援助するのは、ロシアが外蒙を、英国がチベットを後援するのとどれ程違うだろうか。満州独立をめぐる日華の争いも、つまるところ、満州民族の故地までおのれの領土であるとした中国の野心――あるいは大いなる錯覚――が出発点になっている。満州事変や満州独立を日本の侵略と呼ぶ前に、清朝を否認しながら清朝の遺産相続人たらんとした中国の欺瞞と支配欲が、全ての紛乱の起因たることを深思すべきであろう。
中村粲著『大東亜戦争への道』展転社 平成二年刊 p.333~334
一九四九年に中華人民共和国が成立し、共産党政権はチベット人、ウイグル人などの少数民族を消滅させ、漢民族に同化させるために、その年から少数民族への軍事占領政策を推進している。最初に狙われたのはウイグルで、共産党政権樹立から五日後に人民解放軍が動き出し、同年の十二月に新疆全域の制圧を完了した。
チベットは一九五〇年十月に人民解放軍が侵略を開始し、翌年十月に全域の制圧が完了した。続けて内モンゴルにも同様の占領政策を進め、建国後の二年間で「少数民族」と呼ばれる各民族の軍事占領を完成させている。
もちろんその後も各民族から激しい抵抗があったのだが、抵抗する人々は大量虐殺の標的となり、一方では漢民族を大量に送り込んで混血を推進してきた。
石平氏の『中国共産党暗黒の百年史』に出ているが、たとえばチベットでは、人民解放軍がチベット全域を制圧した一九五一年以降の約二十五年間で、「もと東京大学史料編纂所教授の酒井信彦氏の推定では、チベット総人口の約五分の一、すなわち百二十万人が殺されたという」と書かれている。もちろんこのような虐殺は二十五年間で終わったわけではなく、チベットの悲劇は今もも続いている。またウィグルや内蒙古ではチベットほどの虐殺は行われなかったが、同様のことが行われてきた経緯に在り、今も様々な問題を引きずっているといって良いだろう。
中国には多くの少数民族が住んでいるのだが、彼らの伝統文化の多くは破壊され、民族固有の言語まで失われつつある。これらの問題の根底には、中村粲氏が指摘しておられる通りで、「清朝を否認しながら清朝の遺産相続人たらんとした中国の欺瞞と支配欲が、全ての紛乱の起因」になっている。
満州の場合は一九四五年二月のヤルタ会談で、満州を中華民国に返還することが秘密裏に決定されていて、翌年五月に満州は蒋介石率いる中華民国に移譲されている。その後一九四八年に中国人民解放軍が満州全域を制圧したのだが、その時に満州人がどの程度抵抗したかについてはよくわからなかった。すでに満州の人口は漢人が圧倒的多数となっていたので、チベットやモンゴルほどの抵抗はなかったと思われる。中国共産党は、匪賊を用いて満州への漢人の大量移民を促し、早い段階で人口割合で漢人が満州民族を圧倒できたことが、結果として満州を奪い取ることを容易にさせたことを忘れてはならない。中国が満州国を承認せず「偽満州国」と呼んだり、日本の「傀儡国家」などと呼んだのは、満州国を独立国家として認めてしまっては、わが国によってインフラが整えられた満州を奪い取るのに都合が悪かったのではないのか。その点は、今の中国が台湾を独立国として承認しないことと同じだと思う。
中国が大量の移民を送り込む時は、のちに侵略することを狙っていることを警戒すべきと考えるのだが、わが国の現状の移民対策が他国と比してあまりに緩すぎることが非常に気になっている。特定地域に大量に移民を計画的に送り込み人口比で多数派を占めてしまえば、わが国のような民主主義国家の場合、選挙権を与えてしまえば、その地域の政治主導権を簡単に奪われてしまうだろう。さらに「反日暴動」を仕掛けてその地域の日本人を追い出していけば、いずれ独立運動を起こすことも考えられる。
そうならないように早く手を打たなければならないのだが、今の政治もマスコミも官僚も財界も既にこの国の工作にかかっているのか、国内ではまともな議論がされずに移民推進策が進められている状況であるのに、移民を大量に受け入れた欧米でどのような問題が起こりどのような対策が取られているかについて、国民はほとんど何も知らされていない。このまま今の与野党馴れ合いの政治を続けさせては、一部の地域が、満洲やチベットやウィグルやモンゴルと同様に、いずれどこかの地域でわが国の主権が失われることがあり得るのではないか。あの国にとっては移民は一種の兵器であり、大量移民を先行させることで武力に頼らずに国が奪い取ることに成功した事例が存在していることを知らねばならない。
次の選挙では、危険な国と接点のある政治家や、移民を何の規制もなく推進しようとする政治家を大量に落選させておかしな動きを早く止め、偏向報道を繰り返すマスコミにも鉄槌を下したいところである。
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