日本軍政時代の写真
前回の記事で、わが国は昭和十八年(1943年)五月の御前会議でフィリピンを独立させることを決定し、十月にホセ・ラウレルを大統領とするフィリピン第二共和国が誕生したことを書いたが、日本軍によるフィリピン占領からフィリピン第二共和国誕生までは、日本軍がフィリピンを統治していたことになる。その当時の写真や記録を読むと、少なくとも当初においては多くのフィリピン人が日本に親しみを持っていたことが伝わってくる。
上の画像はフィリピン戦の緒戦でマニラに入城する日本軍の戦車隊だが、多くのフィリピン人が日の丸を振って日本軍を出迎えている。
上の画像は兵隊さんの慰問に集まった子供たちが相撲を取っているところ。子供たちは楽しんでいるようだ。
フィリピンでは日本語熱が高まり、日本軍が強制したわけでもないのに、各所でフィリピン人が指導する日本語学校が生まれという。
フィリピン全土で日本のラジオ体操が広まっていったのだが、こういう画像を見ていると、少なくとも日本軍制時代に於いては、フィリピン人は決して反日ではなかったことが窺われる。
日本軍による占領後に見られたフィリピン人の変化
このブログで何度も書いてきたが、中国や朝鮮半島の反日は英米が仕掛けたものであり、その目的は日本が開拓して来た市場を奪い取るのと同時に、アジアの主要国の住民に反日感情を抱かせることによって、日本がアジアのリーダーとなることを阻む点にあった。フィリピンにおいても同様に、アメリカは住民に反日を吹き込んでいたのだが、日本は比較的早い段階でフィリピン人の反日洗脳を解くことができたようだ。
奥間徳一は『フィリピン読本』(GHQ焚書)の中で、日本軍がフィリピン全土を占領し軍政を開始したのちにフィリピン人たちがどのように変化したかについて次のように解説している。
戦争前まで、アメリカの排日宣伝にあやまられて、わが日本に快く思っていなかったフィリピン人も、日本人のほんとうの気持ちがわかるにしたがって、次第に日本人に親しむようになり、大東亜建設への協力を喜ぶようになった。
次にドクター・フリオ・ルスの書いた一文をかかげて、フィリピン人たちがどんなに日本人との協力を喜んでいるかを、知りたいと思う。
「大日本帝国フィリピン派遣軍がフィリピンを占領してから二ヶ月がたたたぬのに、大概のわれ等フィリピン人は、既に日本国民の善良な考え方を確信している。
われ等は今や、日本帝国陸軍がフィリピンに来た第一の目的は、フィリピンの国土からアメリカ人を追い払うためであって、フィリピン人民と戦うためではないということを知っている。われ等は今や、日本人はわれ等の味方であって、敵ではないということを十分にわかるようになった。フィリピン人の間にあるこの感情は、マニラにおいて真実であるばかりでなく、地方における民衆の間に於いても真実である。…中略…このような短い月日の間に日本国民が、フィリピン人の武力ではなくてその精神を征服しつつあることは、夢のようにさえ思える。二か月足らずの間に、マニラや地方の街路の沿線で、フィリピン人の子供たちが日本の兵隊さんと共に、楽しげに遊んでいるのを見るに至ったことは、何と愉快なことであろう。…中略…
日本人とフィリピン人のこのような友好関係は、一般の人民の間に見られるのではない。上流社会=上に立つ人たちの間では、兄弟のような友好関係は、さらに深いのである。
行政委員会委員長ホルヘ・ヴァルガス氏および前の大臣に当たる行政委員五名が、日本の高官たちと共に、毎日のように愉快に談笑しつつ食事しているのが見られる。フィリピンの歴史の中で、僅か二ヶ月の間に、われ等の国民と新しく来た国民との間に、ほとんど完全なる協力を、このように見事になしとげたことは、未だかつてなかったことである。
いま、われ等の国土において起こりつつあることを十分によくわかるためには、われ等は眼を閉じて、われ等の精神を、かのアメリカの暴虐に斃れたフィリピンの愛国者たちのことを深くおもいださなくてはならない。
ただ今、フィリピンの政治家で、ただ一人も牢獄に入れられている者はいない。まして、政治家で銃殺された者は、もちろん一人もいない。このようなただ今の有様は、アメリカフィリピン占領の時との目立って異なったところである。」…中略…新しい東洋に目覚めたフィリピンは、皇軍のあたたかい指導のもとに、行政委員長ヴァルガスの音頭で、新生フィリピンの建設に力強い一歩一歩を踏みしめている。
ところで建設の第一歩は、まずフィリピン人の精神をたたきなおして、本当に東洋人であるという自覚を持たせることだというので、今さかんに精神の入れ替えを行っている。
すなわちこれまでお金さえあれば何でもできる、自分さえよければ国家などどうでもよい、といったようなアメリカ精神をかなぐり捨てて、親兄弟や国家、社会のためには自分の命をも喜んでささげることの出来るような東洋精神をうち立てて行こうというのである。
東洋精神の華は、何といっても日本精神である。そこでフィリピンでは、日本精神を学ぶことに一所懸命になっている。しかし、日本精神を学ぶには、まず日本語を話すことが第一だというので、男も女も、年寄りも若者も、あらそって日本語を練習している。そのために日本語を教える塾が方々にあらわれ、日本語けいこの本が飛ぶように売れる。学校でも、今まで教えていた英語をやめて日本語を教えることになり、殊に中等学校以上は、毎日日本語の時間をもうけて、充分にこれを教えることになっている。…中略…次にフィリピンの役人たちが、自ら進んでその俸給を減らすことにしたのも、かれ等がいかに新生フィリピンの建設に真剣であるかを物語るものである。
奥間徳一 著『フィリピン読本』改造社 昭和18年刊 p.212~219
大東亜戦争前まではアメリカにならってここの大臣はわが国の大臣の二倍の俸給をもらっていた。大臣ばかりだけでなく、一般の役人たちも、ずいぶん高い俸給を取っていた。
しかし考えてみれば、フィリピンはそんなにお金のある国でもなく、また普通の人民は何れも貧乏に苦しんでいる。新しいフィリピンを建設するためには、ぜいたくなど望んではいられない。役人の俸給は今までの半分でも沢山だというので、思い切って半分に切り下げることになったのである。人民を治める役人がこの決心だから、下人民もこれにならって、ぜいたくをやめ、まじめに働いて新しいフィリピンの建設につくそうと意気込んでいる。
アメリカは一九三五年に、フィリピンに対し一九四六年を以て独立することを認めていたのだが、わが国はフィリピン戦で米比軍に勝利した当初から「フィリピン人によるフィリピンの建設」を行政の根本理念とし、フィリピン人の創意と責任とを尊重しつつ施政にあたっていた。
上の画像は昭和十七年一月二十三日付の東京朝日新聞で、日本軍が米比軍とバターン半島で戦っていた時期に東条首相が議会でフィリピンの独立を約束する宣言をしたことがフィリピンで報じられ、フィリピン人が歓喜したを伝えている。大東亜戦争は大東亜を米英の支配から解放することが最大の目的であったのだから当然のことではあるのだが、アメリカのルーズヴェルト大統領はわが国が早々とフィリピンの独立を認めたことに狼狽したという記録がある。(『比律賓情報 第8年(77)』p.7)
しかしながら、その後アメリカは反日ゲリラ組織であるユサッフェ及びフクバラハップ(共産系)を結成し、アメリカの援助によりフィリピン各地で巧妙なゲリラ戦が展開されることになるのである。そして次第にその勢力が増大していったのには、日本軍政に問題があり、アメリカがそこにつけこんで工作を行ったと言うしかない。
日本軍政の失敗で親日派が日本から離反して行った
当時日本には、フィリピン革命軍を率いてスペイン・アメリカと戦ったアルテミオ・リカルテが亡命していた。リカルテは「フィリピン陸軍の父」とも呼ばれ、フィリピン人民から敬愛されていた人物なのだが、田中正明氏の『アジア独立への道』によると、日本軍はフィリピンで三つの誤りを犯してしまったという。一つ目はリカルテがフィリピン戦でバターン半島から攻めるべきであるとの忠告を無視し、先にマニラを占領して敵軍をバターン半島に追い込んでしまって戦いを長引かせる原因を作ってしまったこと。残りの二つの誤りは日本軍政時代のもので、そのためにフィリピンの親日派勢力の主要メンバーが日本と距離を置くようになっていく。
第二のあやまちは、昨日までアメリカと一体となってフィリピンを統治してきた親米派の政府高官を、そのまま起用して、日本軍政下の衝にあたらせたことである。ことにマッカーサーとともにバターンに逃げ込んだケソン大統領を呼び戻すという理由で、ケソンの腹心の親米派のバルガスをあえて行政長官に任命したことである。ケソンはマニラ脱出に際して、腹心のバルガス書記官長をあとに残し、日本軍の”命令受領者”に仕立てられたのである。現地軍はこの米比側の謀略にまんまとのせられた結果となったのである。
どうしたものか日本軍は、バルガスとかラウレルとかアキノといった親米派を比島政府の閣僚として活躍させたのに対し、日本に終始協力し、生死をともにしたリカルテやラモスやジュラン博士やドウラン議員などの親日派を起用しようとはしなかった。これはフィリピン人からしてみれば奇妙なことであった。日本は口でこそ、革命とか、独立の達成とか、フィリピン人のフィリピン建設などといっているが、結局は、アメリカの植民地政策の踏襲ではないかという感を抱かせた。同時に親日派に拭いがたい不信と不満をつのらせた。第三の重大過誤は、軍政を布くと同時に、突如「比国国旗掲揚禁止令」を発布し、独立運動を禁止したことである。この命令はリカルテをはじめとするフィリピンの民族主義者をいたく落胆させ、憤激させた。日米開戦で触発されて燃え上がったフィリピンのナショナリズムの焔に、冷水三斗をあびせたようなものであった。フィリピンの民心が益々日本から離れていき、抗日ゲリラがますます勢いをえてはびこっていったのも当然のことであった。
田中正明著『アジア独立への道』展転社 平成三年刊 p.171
なぜこんな人選をしてしまったのかはよくわからないが、当時陸軍の重要人物の中にアメリカにつながる人物がいたのか、あるいはアメリカから「傀儡政権」と呼ばれることを嫌って親日派の起用をあえて排除したか、あるいは大本営にフィリピンに詳しい人材がおらず、今までの政府高官にメンバーを相談してそのまま任命してしまったかのいずれかであろう。つまるところ、この人選の失敗が親日派を大いに失望させ、アメリカによる反日ゲリラ活動や抗日宣伝を活発化させることにつながるのだ。
ラウレル初代大統領は日本の傀儡であったのか
一九四三年十月に日本軍による軍政を撤廃する旨軍司令官の布告が発せられ、ホセ・ラウレルを大統領とするフィリピン第二共和国が誕生した。アメリカはこの国を「日本の傀儡」として認めなかったのだが実態は親米政権であった。だからこそいきなり親日派がクーデターを起こす動きがあったのである。
親日派のクーデター計画は、日本の若手陸海軍の将校も交えて、皮肉にもこの独立記念日の前夜から謀議された。それによると、リカルテを擁して一挙にラウレル政権を倒す。その暗殺名簿は十数名に及んだ。これに対してリカルテ将軍は「同胞相剋の悲劇を演ずべきではない――」といって断乎これをしりぞけた。
軍の首脳はクーデターの危険を知り、リカルテ将軍を独立許容に対する答礼の意味で日本を訪問させることにした。…中略…比島国内におけるゲリラ活動は、このころ最高潮に達していた。夥しい数のゲリラ組織が結成されたが、その中心となったのは、マッカーサーの西南太平洋司令部に直属するUSAFFE(ユサッフェ)ゲリラであり、今ひとつは共産系の抗日人民軍(フクバラハップ)である。ルソンの豹といわれる三十七歳のルイス・タルクを団長に、そのはげしいゲリラ活動は、大いに日本軍を悩ました。これらの国内ゲリラと相呼応して、米軍はサイパン、モロタイなど内南洋の諸基地を奪取し、比島奪回戦に全力を集中した。
同上書 p.173~174
戦後の歴史叙述ではフィリピン第二共和国のホセ・ラウレル大統領は日本の傀儡であり、大東亜戦争中フィリピン民衆はずっと反日であったと書かれていることが多いと思うのだが、当時のアメリカの国益にとってはラウレルを「日本の傀儡」だと言い続けて独立を認めない方が都合が良かったのだと思う。
もし、アメリカがフィリピン第二共和国を独立国と認め国家承認していれば、いち早く独立を認めてくれた日本の方にフィリピン人は親しみを覚えることとなり、なかなか独立を認めてくれなかったアメリカに対する親密度は衰えて行かざるを得なくなる。
そもそも、アメリカはバターン半島・コレヒドールの攻防戦で日本軍に敗れてフィリピンをあきらめたのではなく、戦力を立て直して必ずフィリピンを奪い戻そうと動いていた。アメリカは一九四六年にフィリピンの独立を約束していたのだが、経済利権等は引き続きアメリカが掌握していく方針は変えておらず、そのためにはフィリピン人民を再び反日・親米に傾けて行く必要があった。
日本の軍政が始まってからアメリカは抗日ゲリラ組織を育てるなど裏で様々な工作をしていたのだが、アメリカがラウレルを「日本の傀儡」と呼び、独立国としてのフィリピンを認めなかったのも、フィリピン人民を反日・親米に向かわせるために必要な宣伝工作の一つではなかったか。
またアメリカは日本軍政を失敗させるための工作も同時に行っていたとしても何の不思議もない。日本軍政の時代に独立準備メンバーに親米派を重用し親日派を入れなかったことや独立運動を禁止させたことが、私には何となく不自然に思え、アメリカの工作臭を感じてしまうのだが、皆さんはいかがですか。
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コメント
続々と良い記事を出されています。そうですね。今回はフィリピンでの軍政と言う記事ですが、軍政はとても難しいものです。相当の深い知識と現状に対する認識、そして共に助け合うと謂う大いなる理想が必要です。日本人は白人に比べて人種偏見は無い方です。当時も日本人の中にも色々と居りまして、思想的な面では他にも沢山ゐますが一人挙げれば「吉野作造」などが㋴の褌担ぎの役割をしてゐました。外交的にも一人挙げれば「幣原喜重郎」などが㋴日本外交に於ける手下です。他にも大勢います。学者のなかにも政治屋のなかにも軍人のなかにも、その手下は多く居ます。国内から㋴に崩されていました。
井頭さま
コメントをいただきありがとうございます。とても励みになります。
国内からつぶす勢力が多数いたことは確かなことですが、それが㋴の工作によるものなのか、本人の思想信条によるものなのか難しい問題ですね。
最近白柳秀湖のGHQ焚書を読んでいますが、結構鋭い指摘をしています。わが国の商業資本家たちが、彼らの事業継続のために、わが国が親米であり続けることを望んでいたという動きに連動した有名人や政治家がいたという事実に注目し、彼らはワシントン会議以降いかに動いたかについて、いずれこのブログで記事にする予定です。
しばやんに教えて頂いた、「山中峯太郎氏」の様な、秀でた方が居られた事は希望が持てます。現在もこう謂う優れた人は居るのでしょうか?戦前の著作を読む限り、戦後の日本人は知的にも道徳的にも劣化しているのでは無いかと苦しく成ります。小生の感覚が間違いで有れば好いのですが、世間を見渡してみますと、どうもそうでは無いようです。現在、新聞・テレビは左翼ですが、教育も同様です。中年の方は殆どの方が緩い洗脳に罹ってゐます。民主主義が好いとか、ヒトラーは悪魔だとか、何も真実の背景を知らず、そんな感想が聞かれます。受験体制の中では、左翼㋴教科書で洗脳されているのですから、それを覚える事で合格しますので仕方の内面は有りますが、大事で大切な真実を見る好奇心とか
洞察力とか、判断力が育って居ないように感じます。杞憂で有れば好いのですが。お大事に、ではまた…。
井頭さま
洗脳は何度も同じことを聴き続ければ解けることはありませんが、今まで聞かされていなかったことが真実であることの情報を知ると一気に解けて行く可能性があります。
今の若者は新聞を読まず、テレビもほとんど視聴しなくなっているので、ある意味で洗脳が非常に解けやすいのではないかと考えています。彼らは収入の半分近くを税金や社会保険料で失っており、彼らが真実を知って怒りだすと広まっていくのは意外と早いかもしれません。今はX(旧ツイッター)などで、真実に触れる機会が圧倒的に多くなっているので期待しましょう。