イギリスが、マリア・ルス号の苦力虐待を非難する資格はあったのか
前回の「歴史ノート」の記事で、明治時代にわが国が横浜で中国人苦力(クーリー)を奴隷と認定し全員解放したマリア・ルス号事件(1872年)の事を書いた。
前回も記したように、19世紀以降相次いで欧米諸国で奴隷制が廃止され、奴隷に代わる低賃金労働者としてイギリス商人がかき集めたのがインドの貧民層であり、アヘン戦争後にはさらに中国人が加わって欧米やその植民地に「苦力」として運ばれていった。「苦力」は、建前上は海外渡航者なのだが、実態は奴隷であった。
マリア・ルス号事件では南米ペルー船籍の船で虐待を受けていた255人の苦力をわが国の判断で全員解放させたのだが、それが可能であったのはペルー及び清国と我が国との間には領事裁判を認める条約がなく、わが国の法律に基づいて裁くことが出来たからである。例えばもしこの船の船籍がイギリスであるか船長がイギリス人であったなら、英国領事が苦力の解放を認める判断をしたであろうか。
この事件に関して以前から理解に苦しむ点があった。ペルー船籍のマリア・ルス号から逃亡した苦力には明らかな虐待の跡があり、この苦力を保護した英国領事館は「日本政府が適宜の処置を執られることを切望する」と伝えてわが国に引き渡したのだが、そもそも中国人苦力の輸出を始めたのはイギリスである。当時においてイギリスの船もペルーの船と同様の事を行っていたとすれば、他国の所業をこのような方法でわが国に伝達することは考えにくいのだ。
またこの苦力がマリア・ルス号に返された後、また別の苦力が逃亡しイギリスの軍艦に保護された。イギリス代理公使は米国公使を伴って外務省の副島種臣を訪れ、日本政府の注意を喚起したというが、これまで苦力の労働力を大量に利用して来たアメリカの公使が、なぜイギリスと行動をともにしたのであろうか。
その背景が知りたくて、中国人苦力についてもう少し詳しい本を探していると、GHQ焚書の 仲小路彰 著 『米英の罪悪史』にこのような記述が見つかった。
彼等苦力は暴力か詐欺により、まずマカオにある奴隷屯舎に監禁され、悲惨にも鉄鎖にしばられた航海をなし、中には苦痛のあまり十人に一人の割合にて気が狂い、あるいは海中に投身する者があった。キューバに着きますと苦力は高値に売却され、その後は耐え難き労苦を強制され、何の休日もなく、鞭のために不具となり、疾病のために斃れる者無数。たとえ期限が終わるも再契約を拒めば、直ちに食に窮するので、更に再び労役に就くか、あるいは他に売り渡されるまで監禁されるのである。なお旅行免状を得るには高価なる金が入用にてキューバを脱出することは全く不可能であると。――このようなのが、苦力の戦慄すべき悲惨な実情でありました。
ようやく1855年、シナ苦力売買禁止に関する最初の法令が、イギリス議会を通過し、これにより英国船が苦力売買に従事することが不法となり、香港政庁をして、これを禁止せしめました。
さらに1862年、アメリカ議会は、アメリカ船がシナ及びその他の東洋諸国よりの労働者を諸外国に輸出することを不法となす法律を通過し、米国海軍に、この法律を犯す米国船舶を探索捕獲するの権力を与えたのでありまして、なおアメリカ国内における奴隷廃止法案は、その後三年1865年に議会を通過したのであります。
( 仲小路彰 著 『米英の罪悪史』 世界創造社 昭和17 年刊 p.117~118)
この文章から、マリア・ルス号事件はイギリスやアメリカが苦力売買禁止を決めたのちに起こった事件であることがわかる。「苦力貿易」の最盛期は1850年代と言われているが、その後1868年にアメリカは清国との間にスワード・バーリングゲーム条約を締結し、国家間の条約においてアメリカは明確にシナ人の移民保護を確約し、清国は自国民が職を求めて海外に出ることを公式に認めたのである。マリア・ルス号でイギリス代理公使とアメリカ公使が外務省を訪れて中国人苦力の救済を要請したのは、このような動きと関係がありそうだ。わかりやすく言えば、アメリカやイギリスは苦力を奴隷のように扱わないで海外に送り込むとのできる、もう少しマシな方法に変更していたものと思われる。
ロバート・バウン号事件
しかし、アメリカもイギリスも、それまでは中国人苦力に対して随分酷いことをしてきた記録がある。
沖縄県石垣島の観音崎に、1852年にこの地で犠牲になった中国人苦力のために建立された唐人墓がある。この墓がどういう経緯で建てられたものであるか、Wikipediaの解説にはこう記されている。
咸豊2年(1852年)、中国アモイからカリフォルニア州へ航行中のアメリカの奴隷貿易船、ロバート・バウン号内で、400人の中国人を裸にし、辮髪を切り落とし、CやPの焼き鏝を胸に押し当て、売り物にならない病気持ちは海に突き落として鮫に喰わせたところ、奴隷にされたことを知った中国人は暴動を起こした。苦力は米国人船長と船員を殺して船を操縦したが、2月19日に石垣島の崎枝村沖合で座礁し、380人の中国人苦力が上陸した。事情を知らない八重山の役人たちは崎枝村の赤崎に収容所を設けた後、監視しやすい富崎に移して収容した。
その後、離礁したバウン号の報告を受けてイギリス船2隻が石垣島に来航し、3月16日に富崎の収容所を砲撃し、さらに武装した兵士200人以上が上陸して逃走した苦力を射殺・捕縛して、白人に抵抗した見せしめにその場で百人近くを吊るし、3月23日に出航した。また、4月4日にはアメリカ船1隻が来航し、兵士100人以上が上陸・探索を行ない、4月12日に引上げた。捕縛を免れた中国人は琉球王国に保護されたが、収容所の衛生は悪く、翌年9月29日に中国に送還された生存者は172名で、この間に病死、自殺、あるいは行方不明になった者は128名に上った。これを弔った三百唐人墓とよばれる古い石積みの墓が近年まで付近に点在しており、陶製の墓碑が八重山博物館に収蔵されている。
Wikipedia 唐人墓
1852年と言えば、ペリーが浦賀に来た前年の話である。石垣島の人々は、この事件に巻き込まれた中国人苦力たちの慰霊を、事件から168年も経過した今も続けているということになるのだが、つくづく日本人は心の優しい、素晴らしい民族だと思う。
この事件の詳細については「琉球大学学術リポジトリ」に西里喜行氏の論文「苦力貿易とロバート・バウン号事件:福建師範大学におけるシンポジウムへの基調報告」がネットで公開されている。
イギリスとアメリカは石垣島に武装した兵士を送りこみ、上陸させて公然と苦力奪還作戦を展開している。西里氏の論文によると、イギリス兵は23名の苦力を捕獲し、アメリカ兵は57名の苦力を捕獲したという。その間琉球王府は、武力を恐れて両国の領土侵犯行為に抵抗できなかったという。両国の船が去った後、石垣島には172名の苦力たちが残された。
琉球王府では、もしイギリスやアメリカの艦船が苦力の捕獲に再来した場合は、残留している苦力たちを引き渡す方針が策定されていたのだそうだが、その後両国の船が苦力奪還を目的に再来することはなかった。
相次いでいた中国人苦力の暴動
調べると、この時期は中国人苦力が、石垣島だけでなく各地で暴動を起こしている。
須山卓氏の「植民地奴隷制度と中国人苦力貿易――華僑経済史に関する一側面」という論文に、当時の中国人苦力による暴動が記されている。
1850年ペルー行のフランス戦アルバート号のごときでは、苦力たちが船上で暴動をおこし、中国へ逃げ帰ったことがある。
また1852年には、ペルー行のイギリス船ローザー・エリアス号では、船長を殺害してシンガポール付近に上陸させている。
さらに、1852年キューバ行のアメリカ船ロバート・バウン号においては、苦力たちは、船長と船員たちを殺害して船を岸に近接させて逃走した。
1857年イギリス船ガーナル号はキューバ以下の苦力432人を乗船させて汕頭を出港したが、その初日に苦力たちは船を乗っ取らんとして失敗したので船に火を放った。船はホンコンに引き返したが、彼らのうち18人の苦力が海賊と結託していた。三人は死刑に処せられ。そのほかの者は戍海島へ流刑にされた。また同年イギリス船デューク・オブ・ポートナンド号も中国苦力を乗船させる予定になっていたが、同船がホンコン埠頭に繋留中に苦力たちが暴動をおこし、それが流血なしに鎮圧されたので、同船はキューバに向かって出港した。
また、このほか、苦力の暴動によって船が難破され、乗客全部が死亡するなどの例は枚挙するのにいとまがない程である。
(須山卓「植民地奴隷制度と中国人苦力貿易」p.67~68)
このように中国人苦力による暴動が相次ぐとともに、中国民衆の間にも苦力貿易に反対する世論が広がり、外国人社会に多大なる脅威を与えることとなったようだ。そのため、イギリス領のアモイやカントンを拠点とする苦力取引は困難となり、ポルトガルの主権下であるマカオに苦力貿易の拠点が移っていったという。マリア・ルス号がマカオから出発し、イギリスやアメリカが中国苦力の救済をわが国に要請したのには、このような背景があったのである。
ロバート・バウン号の苦力たちが解放された経緯
話を、ロバート・バウン号事件に戻そう。この事件に関わった苦力たちはその後どうなったのか。
イギリス船で捕獲された苦力のうち18名は広州に送られ、アメリカ代理公使パーカーは予備審査で苦力の行為を有罪と認定し、清国側の正式裁判へ委ねられた。ところが、両広総督の徐広縉はアメリカ公使のパーカーの干渉を斥けて18名のうち1人だけを有罪と認定し、他の17名に無罪を宣告して放免してしまったという。パーカーはこの判決に納得せず、徐広縉との間に二か月にわたり交渉が行われ、パーカーは清国へ圧力をかけるために海軍の急派を主張したが、アメリカ政府は動かなかったという。
西里氏の論文にはこう解説されている。
徐広縉のような地方当局者でさえ、欧米資本家の非人道的な「苦力貿易」に対して憤激し、ある種の「民族主義」的な感情を持つにいたったことを示しているのではなかろうか。このような「民族主義」的感情は、「苦力貿易」の拠点となった開港都市の民衆に共有され、ロバート・バウン号事件の真相が知れ渡ることによって、より一層増幅され、高揚させられた。たとえば、広州駐在のイギリス領事バウリングは1852年7月16日付の外務大臣マームズベリあての書簡において、ロバート・バウン号で船長らを殺害しアモイへ連行されてきた苦力たちの散布する伝言のため、イギリス商社のハバナ向け苦力輸送に困難が生じている旨報告している。
また、同年11月21日から24日にかけて展開されたアモイ民衆の苦力反対運動は「民族主義」的感情が爆発したもっとも具体的な例証であるといえよう。イギリス側は民衆運動の拡大を恐れ、英艦サラマンダーの陸戦隊をアモイへ上陸させ、中国人4名を銃殺、5名以上を負傷させることによって、かろうじて民衆の苦力貿易反対運動を鎮圧したが、イギリスの苦力貿易そのものは重大な困難を蒙らざるを得なかった(H.B.Morse,”The International Relations of The Chines4 Empire”Vol.1.p.401-403)。
(「苦力貿易とロバート・バウン号事件」琉球大学教育学部紀要第一部(29):92-110 p.96~97 )
石垣島に残されていた172名の苦力については、福建当局からアモイ駐在のアメリカ・イギリスの領事に照会をし「事件はすでに決着済みであるから、いまなお石垣島に残留している苦力の罪は不問に付す」との回答を得たことが石垣島にも通知された。そして1853年11月8日に苦力たちは1年七か月ぶりに福州の土を踏み、この事件はひとまず解決したのである。
戦後の日本人に知らされない歴史
このような史実は、西洋の植民地支配が如何なるものであったかを知るうえで極めて重要なものだと思うのだが、このような事件が存在したことは戦後の日本人にはほとんど知らされておらず、学術論文などで発表されても一般に公表されることは少なく、研究成果の大半はわずかな研究者の中で読まれているだけだ。マスコミも教育界も学会も、いまだに第二次世界大戦の戦勝国に忖度しているかのように、市中にあふれている歴史叙述の大半は、戦勝国にとって都合の悪い史実は伏せられていて、都合の良いように描かれているのが現状である。
戦勝国にとって都合の悪い史実は戦前の書籍に数多く書かれており、特に戦後GHQが没収し廃棄した書物にはそのような史実が満載されているものが少なくないのだ。
GHQ焚書については、このブログでテーマ別、著者別にリストを公開しているところだが、焚書処分された書物の3割程度は「国立国会図書館デジタルコレクション」で公開されていて、ネット環境があればこのブログで付記したURLをクリックすることにより誰でも無料で読むことが出来る。
中韓やマスコミが声高に主張する歴史に疑問を持ち始めている方は、戦前の日本人によって研究され終戦時まで広く伝えられきた歴史叙述にも関心を持っていただき、先入観なしに読んでみて頂きたいと思う。
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ブログ活動10年目の節目に当たり、前ブログ(『しばやんの日々』)で書き溜めてきたテーマをもとに、昨年(2019年)の4月に初めての著書である『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を出版しています。
通説ではほとんど無視されていますが、キリスト教伝来以降ポルトガルやスペインがわが国を植民地にする意志を持っていたことは当時の記録を読めば明らかです。キリスト教が広められるとともに多くの寺や神社が破壊され、多くの日本人が海外に奴隷に売られ、長崎などの日本の領土がイエズス会などに奪われていったのですが、当時の為政者たちはいかにして西洋の侵略からわが国を守ろうとしたのかという視点で、鉄砲伝来から鎖国に至るまでの約100年の歴史をまとめた内容になっています。
読んで頂ければ通説が何を隠そうとしているのかがお分かりになると思います。興味のある方は是非ご一読ください。
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