昭和七年には物騒な記事が多いのだが、この年の二月に井上準之助、三月に団琢磨が暗殺され、五月に五・一五事件が起きている。以前このブログで五・一五事件を起こした海軍の青年将校が記した檄文を紹介させて頂いたが、この檄文を読めば彼らが共産主義思想の影響を受けていたことは明らかであった。
ところがその年の十一月には、右翼団体がテロを企てたとして検挙されている。面白いことに、彼らは五・一五事件のメンバーと繋がっていたことが報じられている。
十一月五日に検挙された人物の検挙理由の一つに「五・一五事件背後の有力人物紫山塾主○○氏等の依頼により同氏の手を通じてピストル六挺を提供したこと」とあるが、彼らのメンバーの一部に右翼を偽装していた人物がいた可能性を疑わざるを得ない。
それまで愛国陣営には多数の団体が存在していたのだが、次第に「国家社会主義」と「皇道主義」の二つの思想にまとまっていく傾向が出て来た。「愛国」とはいっても、それぞれの思想は明らかに異なり、「国家社会主義」の陣営には、左翼からの転向者が多数いたことが報じられている。
そして昭和八年三月には、日本国社会党(略称:国社党)が陸軍青年将校の支持を得たことが報じられている。スローガンの中には「マルクス主義の撃滅」があるのだが、これも偽装ではなかったか。
国社党本部が発した密令は去る四日のことで、これによるとマルキシズムの流れをくむ、従来の国家社会主義を明らかに清算し、国難日本に対する最大任務として「皇道維新の断行」を高唱している
昭和8年3月16日 大阪時事新報 神戸大学経済経営研究所所蔵 新聞記事文庫
同党の皇道維新とは一君万民の日本精神に基く国家改造であると声明し、明治維新と同一軌道同一基調のもとに社会改造を断行すべく 一、亡国的政党政治の粉砕 一、非常時強力国民内閣の実現 一、個人主義を基調とする資本主義の打倒 一、国家統制経済の確立 一、金融大産業の国家管理 一、非国家的自由主義及びマルクス主義の撃滅のスローガンを揚げ尽忠報国の血盟をなし、決死的突進の敢行を慫慂している。又「経済戦時編成」は連盟脱退に際し国民総動員による国力充実運動を強調し、現政府の非常時財政経済政策の樹立に対する無気魄を痛撃して国内経済力の動員を主眼とし、各種産業の生産力の増殖と調節、生産費の低減を図り一朝有事の際はよく軍需に応ずるの準備を説き暗々裏に軍部との連絡関係を物語っている
一方、軍部の将官クラスや全国の在郷軍人たちは新しい政治団体を結成した。地方の農民組合も参加して会員は三万余に達していたという。軍部の中にも右と左が存在していたことがわかる。
皇道会の綱領は以下の通りで、比較的穏健な内容である。
皇道政治を徹底し以て金甌無欠なる我が国体の精華を発揮するを主眼とす
一、既成政党の積弊を打破し以て公明なる政治の確立を期す
昭和8年4月5日 時事新報 神戸大学経済経営研究所所蔵 新聞記事文庫
二、資本主義経済機構を改廃し国家統制経済の実現を期す
三、国民道徳の振興を図り以て綱紀の粛正を期す
四、軍備を充実し以て国防の完備を期す
五、国際正義の貫徹を図り世界資源の衡平を期す
しかるに同年七月に、今度は右翼団体によるクーデター未遂事件(神兵隊事件)が起きている。大日本生産党・愛国勤労党が主体となって、閣僚・元老などの政界要人を倒して皇族による組閣によって国家改造を行おうと企図したものであるのだが、彼らが狙っていたのは皇道派の理論的支柱であった荒木貞夫陸相であった。彼らはなぜ穏健な皇道派の中心人物を狙ったのか。
今までに警視庁の取調べによって判明した彼等一味の陰謀の根幹はまず別項証拠品中にある揮発油とライターをもって帝都の要所十数ヶ所に火を放って蜂起し閣僚大官の暗殺を断行して戒厳令を布かしめ皇道維新を達成せんしするもので同時に館山航空隊の飛行機数台がこれに応援することになっていたといわれているが、彼等の目指す新政府はどんなものかといえば畏くも某宮殿下を総理大臣に推戴し奉ることにあり。特に被等の暗殺目標は荒木陸相に集注され、同大臣を斃した後には前朝鮮軍司令官林銑十郎大将を推さんとするもの。
昭和8年9月14日 中外商業新報 神戸大学経済経営研究所所蔵 新聞記事文庫
翌昭和九年一月に荒木は風邪をこじらせて、陸相の座を同期で皇道派の真崎甚三郎陸軍大将に禅譲しようとしたのだが、反対派の動きがあり新陸相に林銑十郎陸軍大将が就任した。林陸相は政策最高職員である陸軍省軍務局長に統制派の永田鉄山少将を登用し、その後統制派対皇道派の抗争が激化するようになっていく。
統制派も皇道派も対ソ戦に備えていたことは同じだが、統制派が総動員体制の構築・北支進出を狙っていたのに対し、皇道派は満洲国の安定・「皇道精神」に基づく体制構築・対中関係安定・対列強関係修復を目指していた。
そして同年の十一月に、在京の青年将校や士官候補生がテロ事件を計画していたことが発覚している。この事件(十一月事件)は証拠不十分のため不起訴処分となったが、中心人物の村中孝次陸軍大尉は、皇道派青年将校グループのリーダー格であり、後に二・二六事件において首謀者の一人となった人物である。
そして永田鉄山軍務局長を中心とする統制派が、皇道派を軍中央部から一掃しようと動き出した。
皇道派領袖の真崎甚三郎は教育総監として陸軍の人事にも強い影響を与えていた人物であったが、昭和十年七月に林陸相は突如として真崎の更迭を実行した。
林陸相をしてかくのごとき強行手段をとるに至らしめた裏には、なるほどとうなずかせる部内に相当複雑した諸事情が集積していたのであった。元来林大将が陸相に就任した最大の使命といえばこれを部内的に見て統制の強化にあった。…中略…
しかして陸相ならびに陸相を中心とする首脳部では右牽制勢力の重立ったところに真崎大将の影像を描き、また現在師団長にある某中将ら、はてはかって栄職にあった某大将二名の姿までもそのうちに数えていたのであった。
かくのごとく真崎大将をめぐる一派の存在と行動とは林陸相の統制人事方針と到底相容れざるものであるとの空気が次第に醸成せられ、かかる空気の昂揚のうちに今回の異動が行われることになったのである。…中略…
真崎大将は荒木大将とともに故武藤元帥幕下の双璧で、参謀次長時代荒木陸相と相応じて一時代を形成するに努め、ついで教育総監として三長官の地位を占むるや同大将を中心としての動きはその強靭な資質と相まって陸相はじめ現首脳部の警戒するところとなっていたものである。
昭和10年7月17日 大阪毎日新聞 神戸大学経済経営研究所所蔵 新聞記事文庫
要するに今回の更迭は真崎大将にとっては相当大打撃である、一部では面目上自発的に現役をも勇退するにあらずやとまでいわれているが、今後の真崎大将らを中心とする勢力の動向こそ陸相の統制的態度に対応して如何なる波紋を描くか、すこぶる注目されている。
そして、真崎教育総監の更迭は永田鉄山軍務局長を中心とした統制派による皇道派弾圧の陰謀だとする怪文書が出回り、その影響を受けた皇道会系の相沢三郎中佐が、八月十二日に永田鉄山を殺害する事件(相沢事件)が起きている。そして翌年に二・二六事件が起きると、統制派が軍部内の皇道派将校を排除し、さらに退役した皇道派の将校が陸軍大臣になることを阻むべく軍部大臣現役武官制を復活させ、これにより陸軍内での対立は統制派の勝利という形で終息した。
二・二六事件は皇道派の青年将校が起こした事件とされているのだが、左翼からの転向組が皇道派に潜り込んで大事件を起こし、陸軍中枢から皇道派排除を仕掛けたのではなかったか。
特高の右翼担当であった宮下弘が皇道派の大物・真崎甚三郎を訪れた際に、真崎が宮下に語ったという言葉を紹介したい。
君、世間は知らないんだが、二.二六事件の青年将校たちをふくめて、みんなアカなんだよ。統制派も皇道派もそんなものはありゃしないんだよ。アカがなにもかも仕組んでいろんなことをやっているんで、軍もアカに攪乱されているんだよ。
宮下弘『特高の回想』田畑書店 昭和53年刊 p.153
当時日本共産党は壊滅状態にあったのだが、メンバーの一部は転向を偽装して軍や政治家や官僚などに潜り込んでいたのである。彼等からすれば、軍を攪乱し、政治を攪乱して革命に導くには、右翼を偽装していた方が身の安全が担保され、都合が良かったことが考えられる。政府が「軍国主義の暴走」を止められなかった理由はそのあたりにあるのではなかったか。
次回は昭和十一年以降の新聞記事を紹介することとしたい。
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