日本の「鎖国」後、台湾全土を植民地としたオランダ
先日、台湾を占領したオランダに抵抗した日本商人・浜田弥兵衛のことを書いたが、江戸幕府が人質としていた元台湾総督ノイツを解放してこの事件が完全に解決したのは寛永十三年 (1636年)のことである。しかしながら、その頃から江戸幕府の「鎖国」政策により、朱印船貿易は終焉を迎えつつあった。
すなわち、寛永十年(1633)には、日本人の海外渡航は、朱印状の外に老中奉書という別の許可状をうけた奉書船に限る事となり、寛永十二年(1635) には、日本人の海外渡航と国外にいる日本人の帰国が全面的に禁じられてしまっていた。そして、寛永十六年(1639年)にはポルトガル船の来航が禁じられ、その結果、朝鮮と琉球以外で日本に来る外国船はオランダ船と中国船だけになり、その来航地は長崎一港に限られることとなる。
わが国の朱印船が台湾に向かうことが無くなったことで、競合がなくなったオランダが台湾における貿易の全権を握ろうとしたことは自然の成り行きであった。また台湾の北部は当時スペインが占拠していたのだが、1642年にオランダは鶏籠(ケーラン:現在の基隆市)に艦隊を派遣しスペイン人勢力を台湾から駆逐した。
かくして台湾はオランダの植民地となったのだが、台湾の原住民より漢民族移民の課税負担が大きかったことやオランダ兵士の汚職により漢民族の不満が爆発し、1652年に郭懷一を領袖とする大規模な反乱が発生している。反乱は間もなく鎮圧されたが、この事件により一万人以上の漢族系住民が殺害されたという。その後、同年に台北で原住民反乱が発生しているが、これも鎮圧されてしまった。
その後、オランダによる台湾統治が十年ばかり続いたのだが、オランダの統治は意外と短く、日本人を母に持つ中国人・鄭成功(ていせいこう)がオランダ勢力を排除することによって幕を閉じることになる。
鄭成功の父・鄭芝龍
鄭成功の父・鄭芝龍(ていしりゅう)は、台湾や東南アジアと朱印船貿易を行っていた李旦*の配下にいたとされている人物で、貿易船の積荷の監督として中国から渡って来た。
*李旦:1560年に王直が死亡し、彼の築いた貿易ルートを受け継ぎ、平戸に居住し江戸幕府から朱印状を得て朱印船貿易に携わった。
鄭芝龍は平戸藩士の田川七左衛門の娘・マツと結婚し、1624年に息子の福松が生まれている。この福松がのちの鄭成功である。
鄭芝龍はのちに単身明国に渡り、1625年に李旦が死亡すると鄭芝龍が船団のリーダーを受け継いでいる。当時明国は海禁政策を取っており、鄭芝龍らの活動は非合法の密貿易であったのだが、彼らの船団は千隻もの船を保有し、政府軍や商売敵との抗争の為に武装化していて、福建省周辺では強い勢力を有していた。
明国は1628年に鄭氏龍を懐柔して都督に取り立て、そののち鄭芝龍は七歳になる福松を福建に呼びよせて、以後福松は父親の手で育てられている
当時の明国は反乱が相次ぎ、1644年には李自成軍の包囲の前に崇禎帝(すうていてい:明朝第十七代皇帝)は自殺し、同年満州族の清国が李自成を破って北京を占領してしまった。
一方、中国南部にいた明朝の皇族と遺臣たちは、「反清復明」を掲げて各地で清朝への反抗を繰り返した。鄭成功の父の鄭芝龍らは唐王朱聿鍵(しゅいっけん:隆武帝)を擁立して抵抗を続けたという。
鄭成功の成長と鄭芝龍との考え方の違い
1645年、福松が二十二歳の時に、父に従って隆武帝(唐王)に拝謁しているが、その時に福松は隆武帝に気に入られ、隆武帝から明の朝廷と同姓の「朱」という苗字を賜った上に、名を「成功」と改め、さらに御営中郡都督という役目を授かっている。
ところが彼は、国姓の「朱姓」を使うことは畏れ多いとして、以後自らの名を鄭成功と名乗るようになった。一方、人々は彼のことを、隆武帝から「国姓を賜った」と言う意味で「国姓爺(こくせんや)」と呼ぶようになった。
また鄭成功は、隆武帝に拝謁した翌月に、父と相談して母を日本から呼び寄せ、十五年ぶりの再会を果たしたという。
しかしながら、その頃の明国は衰退期にあり、満州族の清国の勢力が南に伸びてくると、父親の鄭芝龍の考え方と、日本人の血の流れた鄭成功と母親の考え方の違いが浮き彫りになる。
前回紹介した菊池寛の『海外に雄飛した人々』の文章をしばし引用する。
芝龍は、唐王を奉じては見たものの、清の兵がだんだん南下してくるので、もはや明も駄目だと悟り、不忠にも清に内通して本拠の安平鎮へ帰ってしまい、八月、唐王が捕えられるに及んで、自ら部下と共に福州へ赴いて清の大将に降伏しました。
ところが、芝龍の子の国姓爺は、さすが日本人の血をうけただけあって、身を以て国難に殉じようとする忠義一徹の日本武士の本領を発揮しました。父から清に降ることを勧められて聞き入れなかった彼は、更に南方に移り、厦門(アモイ)と金門の二島を根拠地として、あくまで清軍に抗戦したのであります。
この時、国姓爺にとって悲しい事件が起こりました。それは母の死です。清の大軍が泉州を抜き、安平鎮まで攻めてきたとき、国姓爺の腹違いの弟の鄭芝豹(ていしひょう)たちは、驚き恐れて戦う気力がなく、妻子や財産を軍艦に乗せて海上に遁れたのですが、国姓爺の母だけは、女ながらもそこを去ることを拒み、剣をとって立派に割腹して死んだのであります。
(菊池寛『海外に雄飛した人々』p.146 昭和十六年刊)
このように父親の鄭芝龍は明と隆武帝を見捨てて清国に内通し、鄭成功の腹違いの弟も明を見捨てたのだが、鄭成功と母親の考えは全く正反対だった。母は明のために戦って自害し、鄭成功は、唐王のため、また母のためにも、清に復讐しようと考えて、それから十五年間も清との戦いを続けているのだ。
台湾からオランダ人を追い払った鄭成功
しかしながら、清の勢力が厦門に迫って来たので、鄭成功は台湾に拠点を移して、そこで清と決戦する機会を待つこととした。ところがその頃の台湾は、冒頭に記したとおりオランダ人が支配していた。鄭成功が台湾を本拠とするためには、まずオランダ人を台湾から追い払う必要があったのである。
1661年3月、鄭成功は約百隻の船に二万五千人の兵を乗せて厦門を出発し、4月2日に台湾本土にあるプロヴィンシャ城(今の赤嵌楼)の付近に上陸している。
では、鄭成功が如何にしてオランダ人台湾からを追い払ったのか。再び菊池寛の著書を引用する。
…時のオランダ台湾総督コイエットは、4月5日、2人の評議員に通訳をつけて国姓爺の陣営に赴かせ…使者は、二城とその付近の沃野の領有を前の通り認めてほしい旨を申し入れました。
国姓爺は静かに使者の言葉を聞いていましたが、やがて口を開いて、
「自分は清の軍と戦争の都合上、台湾を占領しようとするのである。もともとこの地は支那のものであるから、オランダ人は、これを正当な旧主に明け渡さねばならない。自分はオランダ人を相手に戦争をしようとも、その財産を奪おうとも考えていない。城を壊してその材料及びその私財を持ち帰ってよろしい。ただ一刻も早く、この事を実行して欲しい。もしもオランダ側にて、24時間以内に、この要求に応じないならば、その時は、こちらも、採るべき方法を実行に移すばかりである。」と申し渡しました。
使者の帰りを迎えたゼーランジャ城では、その報告を聞いて、兵数は少なく、武器も余り多くはないが、どこまでも城を死守して抗戦することに決し、降伏の勧告を拒絶しました。そして真赤な戦旗を城頭高く掲げました。到底かなわぬまでも、38年の間に築き上げた台湾における今の地位を、一戦も交えずに国姓爺に渡すことは、彼らの誇りが許さなかったのです。」
(同上書 p.148~149)
鄭成功(国姓爺)はプロヴィンシャ城を降伏させた後、ゼーランジャ城を攻めたのだがオランダの守りは堅かった。そこで鄭成功は城を包囲して、食糧攻めでオランダの降伏を待つこととした。
オランダはバタビア*から援軍を差向けたが海陸戦とも成功せず、兵士も食糧も乏しくなっていく。そして籠城九か月目となる十二月の初めに、鄭成功はゼーランジャ城の一斉攻撃を開始し、オランダも勇敢に応戦したのだが力尽き、鄭成功に降伏したのである。籠城中に戦死したり、病死したオランダ人の数は、千六百人にも達したという。 鄭成功は、孤立無援のゼーランジャ城を九カ月にもわたって護ったオランダ人に名誉の開城を許し、「バタビアに引き上げるオランダ兵士は、充分に武装し、国旗をひるがえし、隊伍堂々と鼓を鳴らして乗船することができた」のだという。
* バタビア: オランダ植民地時代のインドネシアの首都:現在のジャカルタ
短かった鄭政権とその意義
鄭成功はこの勢いで、スペインが占領していたルソン(フィリピン)を攻略しようと考え、翌年三月に使節をルソンに送って朝貢を促している。しかしながら、鄭成功はその年の五月に三十九歳の若さで病死してしまったのである。
その後台湾は、鄭成功の子の鄭経らが二十三年間統治したのち、1683年に反清勢力撲滅を目指す清朝に敗れている。
鄭氏の政権は短期間ではあったが、鄭成功がオランダ勢力を台湾から追い出した意義は大きかったと思う。もし鄭成功がオランダ勢力を追い出していなければ、おそらく台湾は、インドネシアと同様に、第二次大戦までオランダの植民地であり続けたことであろう。その場合は、台湾が日清戦争後五十年にわたりわが国が統治するようなことにはならなかった。
今日の台湾には親日的な人が多いと言われるが、日清戦争後の日本統治時代が台湾の人々に評価されていることのほかに、鄭成功に日本人の血が流れていることの親近感もあることだろう。
そしてオランダ人を追い払った鄭成功は、今も台湾の英雄である。
彼は台湾人の不屈精神の支柱として、また孫文、蒋介石とならぶ「三人の国神」の一人として、台湾城内に祀られており、毎年四月二十九日に復台記念式典が催されているのだそうだ。
戦前には多くの書物にこの人物のことが記されていたのだが、戦後の歴史教科書や通史などで鄭成功が登場することはまずないと言って良い。
先日の浜田弥兵衛の記事で、戦後のわが国では戦勝国にとって都合の悪い歴史がタブーになっていることを書いたが、戦後の教科書やマスコミなどで流布されているような歴史叙述を学ぶだけでは、多くの場合、「戦勝国にとって都合の良い歴史」に洗脳されてしまうことになる。戦後に封印された歴史と読み比べながら、何が真実かを自分なりに考えることが必要だと思う。
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ブログ活動10年目の節目に当たり、前ブログ(『しばやんの日々』)で書き溜めてきたテーマをもとに、今年の4月に初めての著書である『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を出版しています。
通説ではほとんど無視されていますが、キリスト教伝来以降ポルトガルやスペインがわが国を植民地にする意志を持っていたことは当時の記録を読めば明らかです。キリスト教が広められるとともに多くの寺や神社が破壊され、多くの日本人が海外に奴隷に売られ、長崎などの日本の領土がイエズス会などに奪われていったのですが、当時の為政者たちはいかにして西洋の侵略からわが国を守ろうとしたのかという視点で、鉄砲伝来から鎖国に至るまでの約100年の歴史をまとめた内容になっています。
読んで頂ければ通説が何を隠そうとしているのかがお分かりになると思います。興味のある方は是非ご一読ください。
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