最近は有名観光地は外人観光客が多すぎるので敬遠して、あまり有名でない地方の社寺巡りを楽しんでいるのだが、新緑の季節を迎えたタイミングで滋賀県の米原市や長浜市の古社寺巡りの旅程を立てて、初日は米原市内の寺社を巡って来た。
徳源院

自宅を出発して最初に訪れたのは徳源院(米原市清滝288)。駐車場は参道の途中に大きなスペースがある。
古く近江を領していた近江源氏佐々木氏は、鎌倉時代中期に六角氏・京極氏等に分かれていて、本家筋の六角氏は戦国時代末期に織田信長に攻められ滅亡したが、京極氏は江戸時代から明治維新に至るまで、転封を繰り返しながら大名家の命脈を保ち続けた。
この京極氏が最初に本拠地としたのがここ清滝で、初代氏信が弘安六年(1283年)にこの寺を創建し当初は清滝寺と称したという。氏信の死後、京極氏はこの寺を菩提寺に定め、歴代当主の墓所としたのだが、その後浅井氏が台頭したために寺運は衰えていった。しかし、寛文十二年(1672年)に丸亀藩主京極高豊(二十二代)が、所領の播磨国の二村と徳源院周辺の知行替えをすることにより、子院十二坊の再建と三重塔を建立し、寺名を徳源院と称するようになったという。

杮葺きの三重塔は滋賀県の重要文化財に指定されている。最近になって修復工事が完成したようで、杮葺きの屋根の軒ぞりが凛として美しい。

徳源院は境内に大きな桜の木が二本あり、桜の咲く季節には大勢の観光客が訪れるという。上の画像は京極高氏(道誉)公お手植えと伝わる「道誉桜」で滋賀県指定名木となっている。この寺は紅葉も美しく、ネットでは美しい桜や紅葉の画像が多数紹介されている。
本堂の裏山斜面には京極氏初代氏信を始め歴代当主の宝篋印塔が並び、墓所全域が京極家墓所(国指定史跡)となっており、また本堂の裏には池泉式回遊式の徳源院庭園(県指定名勝)があるのだが、入口の門に「工事中」と張り紙が貼られていて中に入ることができず、残念ながらいずれも見学することが出来なかった。予約をしていれば本堂内部や庭園などを見ることが出来たのかも知れないが、コロナ禍以降は、拝観受付に人のいない寺が増えているのは残念なことである。
醒井宿

徳源院から旧中山道六十一番目の宿場である醒井宿に向かう。駐車場はJR醒ヶ井駅前にもあるが、醒井宿入口に近いOnedayパーキング醒ヶ井駅前を利用した。

駐車場のすぐ近くにあった醒井宿資料館は国登録文化財である。アメリカ出身のヴォーリズが設計に携わり、大正四年(1915年)に創建された建物で、昭和四十八年迄は醒井郵便局として使われていたそうだ。一階は無料で入場できるが、二階は有料(\200)となる。郵便局や醒井の資料などが展示されている。

古来から醒井は交通の要衝であり、中山道だけでなく古代の東山道もこのあたりを通っていたと考えられている。長きにわたり道の位置が変わらなかったのは、豊富な水が湧き出ることが大きいのだろう。

加茂神社の近くに醒井地蔵尊がありそのあたりから清冽な水が湧き出る「居醒めの清水」が有名だが、ここが街道沿いを流れる地蔵川の水源地になっている。地蔵川に繁茂する梅花藻には、夏になると梅の花に似た白い花を咲かせるのだそうだ。
記紀の物語には伊吹山で荒ぶる神に痛めつけられた日本武尊はやっとの思いで山を下り、山麓の清い水を飲んでようやく回復したと言われ、その水がこの泉であるという説もある。

この街道沿いに幕府により江戸時代に宿場が整備され現在の醒井の原型を作ったとされているが、今は宿屋はなく、昔は本陣であった樋口山など数か所で食事を提供している。醒井には近くに養鱒場があり新鮮な鱒をいただくことが出来た。
蓮華寺
醒井宿から蓮華寺(米原市番場511)に向かう。

寺伝によるとこの寺は聖徳太子の創建でもとは法隆寺と称していたそうだが、鎌倉時代に当地の領主であった土肥元頼が時宗の一向上人に深く帰依して、上人を迎えて蓮華寺と改めたという。歴代天皇の帰依厚く、花園天皇より勅願寺院としての勅許を賜り、寺紋として菊の紋を下賜された。その後時宗一向派の念仏道場として栄えたが、今では浄土宗の本山となっている。

寺の本尊は二躯あり、本堂の中央に阿弥陀如来立像と釈迦如来立像が安置されている。

鐘楼の梵鐘には弘安七年(1284年)の銘があり、国の重要文化財に指定されている。

本堂の右手奥に北条仲時従士の墓がある。元弘三年(1333年)に後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒の兵を挙げた時、京都合戦で敗れた六波羅探題北条仲時らは、鎌倉へ向かうべく中山道を下り六十二番の宿所である番場宿まで来たのだが、数千の南朝軍に包囲されてしまい、この寺の本堂前庭にて仲時以下四百三十余名がことごとく自刃したという。時の第三代住職同阿上人は深く同情してその姓名と年齢及び仮の法名を一巻の過去帳に認め、さらに供養の墓碑を建立してその冥福を弔った。この時上人が認めた過去帳(「紙本墨書陸波羅南北過去帳」)は国の重要文化財に指定されている。

本堂の裏手には樹齢七百年の「一向杉」が聳え立っている。開山一向上人が弘安十年に遷化され、荼毘に付された後に植えられたと伝わっているが、周囲五メートル、高さ三十メートルもある巨木で、平成十四年に滋賀県自然環境保全条例の自然記念物に指定されている。
山津照神社

蓮華寺から山津照神社(米原市能登瀬390)に向かう。この神社は『延喜式神名帳』に記載されている式内社で、社伝によると主祭神の国常立尊は当地方を支配した古代豪族である息長氏の祖神とされ、かつてはこの地域を息長村と称し、神社の南を流れる天野川は、古くは息長川と呼んでいたそうだ。

境内には六世紀前半に築造された全長約六十三メートルの前方後円墳(山津照神社古墳)があり、滋賀県指定文化財となっている。
この古墳は神功皇后の父君・息長宿祢王の墳墓と伝えられている。戦後になってからはすっかり神話扱いにされてしまっているのだが、仲哀天皇九年(200年)に神功皇后が海を渡って新羅へ攻め込み、百済、高句麗をも服属させた三韓征伐の話は戦前の小学校の国史教科書に記されていた。
明治十五年(1882年)に社殿移築に際して墳丘を削ったところ横穴式石室がみつかり、周辺部に五個の鈴をつけた五鈴鏡のほか、刀剣や馬具、勾玉、土器など多くの副葬品が出土したという。それらの出土品も滋賀県の指定文化財だが安土城考古博物館に寄託されているそうだ。
青岸寺

山津照神社から青岸寺(米原市米原669)に向かう。この寺は南北朝時代の延文年間(1356~60年)に近江の守護・京極(佐々木)道誉によって創建され、当時は米泉寺という寺名であったという。その後荒廃したが、江戸時代初期に再興され後に寺名を青岸寺と改めたという。

当寺の庭園は背後の太尾山を借景とする枯山水の庭園で国の名勝指定を受けている。かつて米原宿に来た人々は必ずこの寺の庭園を鑑賞するために立ち寄ったと言われるほど有名であったそうだ。新緑の時期もいいが、紅葉の時期にはさらに多くの観光客が訪れるようだ。

この寺は拝観料とは別料金になるが、コーヒーや抹茶、ケーキなどをオーダーできる。あるサイトによると、住職の奥様は調理師免許をお持ちで、ケーキは奥様の手作りなのだそうだ。私は冷たい抹茶をいただいたが、国名勝の庭園を鑑賞しながら至福の時間を過ごすことが出来た。たまたま営業時間中に訪れることが出来たが、定休日などがあるので予め寺のホームページで確認しておいた方が良い。
湯谷神社

青岸寺のすぐ近くの湯谷神社(米原市米原771)に向かう。
この神社の主祭神は大己貴命で、社伝によると上古に出雲の国の人がこの地に来て村人に地面を掘らせると霊泉が湧き出て、荒れ地を切り拓き五穀の種を植えると豊作となった。これは出雲の祖神である大己貴神の霊験であると人々は歓喜し、山谷の岩上に祠を建てて奉斎したのが始まりだという。かつては温泉が湧き出て万病に効くと評判であったようだ。
「出雲の国」というと島根県東部あたりを思い浮かべてしまうので、なぜ出雲の国の人々がこの地に来たのか違和感を覚えるところである。しかしながら、出雲国が島根にあったというのは通説であるにすぎず、高天原は伊吹山麓にあり出雲国は近江国の湖北平野にあったとする研究が古くからあるようなのだ。例えば橋本犀之助 著『日本神話と近江』にはその論拠が示されていてそれなりに説得力があり、興味深いところではある。少なくともこの主張が正しいとすれば、滋賀県にいくつか残された日本神話に関する伝承が、不自然なものではなくなるのである。

曳山祭りというと長浜で行われる祭りが良く知られているのだが、米原でも同様な祭りが行われて来た歴史があり、この神社の秋の祭礼の時に三日がかりで子供歌舞伎が曳山上で演じられる。米原の曳山は北町の旭山組、中町の松翁山組、南町の寿山組の三つがあり、歌舞伎の役者は小学1年~6年の男子が演じるのだそうだ。上の画像は湯谷神社境内にある松翁山の山倉である。
米原市YouTubeチャンネルに9年前の曳山祭りの動画があるが、このような伝統行事を通じて地域の人々が地域を愛し、世代を超えて交流する仕組みが残されている米原市は素晴らしいと思う。
お祭りなどの地域の伝統行事は、子供に地域固有の文化や歴史を学ばせるきっかけとなるだけでなく、地域の先輩世代との交流を通じて地域の伝統が承継され、同時に各世代のリーダー格が育成されることで将来にわたり地域社会が繫栄していくことを意図していたと思うのだが、今日では地元に残る若い世代が少なくなり、そのために伝統行事を継続することが厳しくなっている地域が少なからず存在する。
大型店が相次いで出店することによって地域の多くの店舗が閉店を余儀なくされ、それらの店舗に商品を卸していた地域の業者も淘汰されて行く。若い世代が地元に残りたくとも働く場所がないために、多くが地元を離れざるを得なくなる……これでは地方の伝統も文化も衰えていくしかない。地域を守るには、地域を経済的に豊かにし、若者が地域に残ってて生活ができるような施策が必要なのだが、今のわが国では地方を疲弊させるような政策が随分長い期間続けられて来たのではないだろうか。
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