関東大震災の時に東京で大量の死者が出たのはなぜか
大正12年(1923年)9月1日の午前11時58分ごろ、相模湾を震源地として発生したマグニチュード7.9の地震は「関東大震災」と命名され、東京、神奈川を中心に約10万5千人の死亡・行方不明者が出た。この数は平成23年(2011年)の東日本大震災の4.7倍にも及ぶ大変な数字で、死因の約9割は火災によるものである。東京に関して言うと、死者は7万人で、火災による死者は6万7千人もいる。なぜこんなに多くの人々が火災で亡くなってしまったのだろうか、当時の記録をもとにレポートしたい。
地震直後の記録を国立国会図書館デジタルコレクションで探していると、震災の翌月に出版された『関東大震大火災記』という本が見つかった。こういう迫真の文章はこの震災を経験したものでなければ書けないものだと思う。
災禍の来る前
この日は農家の大厄日である二百十日の前日なので、農家はもちろんのこと、普通の人々さえ、事なかれかしと祈っていたのであった。中央気象台では八月三十一日午後警報を発して警戒を促したが、東京地方は午前三時頃風雨を催し、四時には晴れてうららかな初秋の朝明けとなった。人々は明日の厄日もこのくらいで済むかと喜んでいたのであった。午前十一時五十五分人々は昼食の支度にと或は厨房に入り、或は食堂を開き、将に食膳に就こうとしたその刹那である。
大惨害来る
何処からともなく異様の音響は起った。それとともに、大地は忽ち波打つ如く大振動をはじめた。スハ大事と思う間もなく続いて起る大震動に、れんが崩れ、かわら落ち、火くじけ、家倒れ、忽ち土砂の煙の天に沖するかと思えば、既に日は紅蓮のほのおとなって家より家に燃え移り、驚いて戸外に飛び出すもの、倒れて五体を傷つけるもの、逃げ遅れて圧死を遂げるもの、阿鼻叫喚の声たちまち全市を蔽うてその惨状名状すべからず。斯かる間に猛火は八方に起こって、黒煙渦まき上がり、突風これに加わってみるみる近隣に燃え上がり、土砂の煙と黒煙と、蒙々天日を閉ざしてこの世からなる阿修羅地獄を現出した。
大正十二年刊『関東大震大火災記』p.11~12
「二百十日」というのは、立春を起算日として二百十日目を言い、コメ農家にとっては稲が開花・結実する重要な時期にあたるので、昔からこの厄日を無事に過ぎることが重大関心事であったのである。たまたまその日の東京は晴れた朝を迎えたのだが、多くの家庭の主婦や工場の食堂などが炊事のために竈(かまど)や七輪で火を使っているところに、大地震が関東一円を襲い多くの木造建物等が倒壊したのである。火災は各地で発生し、その日の風も強かったために、たちまちにして火が広がっていったのである。
全市焦熱地獄
大音響とともに家屋倒壊するや一時に猛火の巷となった處、全市実に十一ヶ所、その一日比谷公会堂前警視庁裏手の方より起ってまず有楽町二丁目の一角から三丁目に映り警視庁を中心として帝劇、東京会館を焼き払い、付近の諸会社を一なめにして数寄屋橋方面に向かい有楽座を焼いて対岸に移り、一方は赤坂区田町新町の方面に起って山王下の通りに出で、二手に分れ一手は北に延びて赤坂見附に向かい、一つ木町田町二丁目に及び、一方は溜池両側を一なめにして虎の門に出で、又二手に分れ、一手は虎の門公園内伏見宮邸に辛うじて支え得たが一手は右手に延びて米国大使館を焼き、靈南坂に上り西久保巴町、櫻川町方面に延びたこの時、既に焼失二千戸死傷三十六名。
『関東大震大火災記』 p.12~13
最大の被害が出た本所被服廠跡で生き残った人の証言
こんな具合に火はどんどん広がり、銀座も日本橋も焼け、神田も浅草も焦土となり、高輪御所も炎上していったという。人々は建物の密集地を抜け出して広い公園などを目指してそれぞれ避難しようとしたのだが、本所区本所横綱町(現在の墨田区横綱)には本所被服廠跡という広大な土地(現:横綱公園、両国中学、日大第一中・高等学校など)があった。近隣の多くの人々はその場所に避難したのだが、その場所で三万八千人もの人々が焼け死んでしまった。なぜ二万坪を超える広い空地に集まった人々が焼死してしまったのだろうか。
同上書にはこの本所被服廠跡に避難して奇しくも生き残った落合松次郎氏の証言を紹介している。
私がめぼしい家財を一まとめに背負い、あり金を腹に巻いて兄弟をひきながら被服廠跡へ逃げたのは昼過ぎでありましたろう。もうかなりの人が思い思いに荷物を持ち込んで避難していましたが、尚あとからあとから来る人のため私たちは丁度原の真ん中になってしまいました。
これで一安心と思っている間もなく、三方からの火の手が猛烈に近寄りました。これはと思う間もありませんでした。火の竜巻が起こって避難民の荷物は一時に火焔をあげはじめました。私たちの体は一二時間も火に煽られて飛ばされました。どうして逃げようという考えなどのわく暇もない。右も左も阿鼻叫喚です。体はたちまち地面に打ち倒されてしまいました。
とっさの間に気が付くと目の前は五間四方ぐらいの低地で、泥水が一尺ばかりの深さで溜まっております。八方から包む火焔の暑さに耐えかねて、私は弟を引きずるようにしてその水たまりへ這いずり込みました。二人は帽子を真深にかぶり、吹き飛ばされる間に拾った外套をひとつずつ引きかぶって、泥水の中に突っ伏し、片手を動かして頭から泥水を一生懸命かけかけしていました。…
(中略)
こうしている間にもこの水たまりを見かけてどんどん人が飛び込んで来るのでややもすれば押しつぶされそうになる。私は全身を水に浸すために、はじめ寝ようかと思ったが、上から上からと人に押しつぶされるのが怖いと思ったので、足をかがめて突伏せた。あとで考えればそれが大変な仕合せだったのです。苦しい苦しいという呻き声、子を呼ぶ声、それらの声が、火の燃えるすごいすごい音の中にありありと聞かれる被服廠二万数千坪に充満した荷物と、三万数千人の人々を綺麗にやきはらって火先がとおのいたのは夜中でした。そっと顔を上げたが長い間煙に咽び焔にあぶられたため、私たちは兄弟ともに目がしくしくと痛んで開けられません。折り重なっている水たまりの中の人とても、生き残った人はわずかで、やはり屍骸の方が多い。私は気を励まして立ち上がった。火のほてりと月の光にすかして見ると、見渡す限り屍骸の山である。…
『関東大震大火災記』 p.46~47
火災旋風とは何か
落合松次郎氏は「火の竜巻」が起こって火に煽られて飛ばされたと書いているが、この竜巻は「火災旋風」と呼ばれ、Wikipediaには次のように解説されている。
個々に発生した火災が空気(酸素)を消費し、火災の発生していない周囲から空気を取り込むことで、局地的な上昇気流が生じる。これによって、燃焼している中心部分から熱された空気が上層へ吐き出され、それが炎をともなった旋風になる。さらに、これが空気のあるほうへ動いていき、被害が拡大していく。火災旋風の内部は秒速百メートル以上に達する炎の旋風であり、高温のガスや炎を吸い込み呼吸器を損傷したことによる窒息死が多く見られる。火災旋風は、都市中心部では、ビル風によって発生する可能性が指摘されている。
旋風が発生する条件やメカニズムはまだ解明されていないが、旋風の温度は千℃を超えるとされ輻射熱による被害も生じるのだという。上の画像はWikipediaに出ている火災旋風の画像である。
荷物や人を巻き上げた火災旋風
関東大震災時に被服廠跡地を襲った火災旋風はかなり強大なもので、荷物だけでなく人をも巻き上げたという。吉村昭著『関東大震災』にはこう記されている。
大和久まつさん(当時十八歳)は、眼前に老婆を背負った男がそのまま空中に飛び上がるのを見たし、荷を積んだ馬車が馬とともに回転しながら舞い上がるのも見た。
大八車も、長持も人も飛び、空地に隣接した安田邸の塀の御影石などが人の群に降った。その間にも、煙に巻かれて倒れる人が続出した。…
(中略)
旋風でものが飛散したが、小櫃政男氏の体験談は旋風の激しさを鮮やかに示している。
かれは、浅草の映画館から吾嬬橋を渡って被服廠跡へ入ったが、そこで旋風に襲われた。かれは、友人の潮田と手をにぎり合って敷地内を逃げまどっていたが、突然焼けトタンがすさまじい勢いで飛んできた。その瞬間身近に乾いたような音が起こり、潮田が倒れた。
引き起こそうとしたかれは、意外にも潮田の頭部が失われているのに気づいた。トタンは、潮田の首を鋭利な刃物でないだように断ち切ってしまっていたのだ。首のない潮田の手は、かれの手をつかんだままはなさない。かれは、必死になって潮田の指をひらき、ようやく逃げ出すことができたという。
(吉村昭著『関東大震災』文春文庫 Kindle版821~845/3872)
中央気象台が大正13年(1924年)に出版した『関東大震災調査報告・気象篇』に、9月1日の午後2時頃に被服廠に避難していた人々の写真が出ている。この人々が火災旋風に襲われたのは、この一時間半ほど後のことなのだが、よく見ると多くの避難者が家財道具などの可燃物を持ち出していることがわかる。そのような場所に多くの人々が可燃物を持参して集まったことも、被害を大きくした要因の一つである。
そして同上書に、火災旋風に襲われた後の安田邸の写真が出ている。安田邸は被服廠跡の西隣の建物であったが、写真cでは樹幹30センチ程度の樹木がねじ折られていることがわかる。火災「旋風」という言葉ではなかなか想像できないのだが、巨大竜巻クラスの火の柱が被服廠跡近辺を襲ったことは確実である。
「火災旋風」は被服廠跡だけではなく東京の各地を何度も襲った。上の画像は同上書の「東京大震火災図 」で、グレーの部分が焼失した地域である。
次のURLには、日本橋や両国橋、上野不忍池、被服廠跡などの写真が掲載されているが、まるで大空襲でもあったかのような悲惨さである。心臓の悪い方にはお薦めできない画像が含まれているので注意されたい。
横浜や、小田原でも火災旋風が発生して大きな被害が出たという。『関東大震災調査報告・気象篇』には各地で発生した火災旋風で被害に遭われた人々の生の証言が多数掲載されているので参考にされると良い。
どうすれば火災による被害を減らすことが出来たのか
このような強大な火災旋風が各地で発生したのは風や地形などの条件もあるのだろうが、火の勢いが強ければ強いほど上昇気流の流れが速くなることが原因の根本にあると思われる。
上の画像は関東大震災の大火災で発生した雲で、東京西部より撮影されたものである。激しい火災が各地で起こり、強力な上昇気流が生じて巨大な積乱雲のような雲が生じている。もし避難した人々が、それぞれの地域で消火の努力を継続して行うことができていたら、これほど大きな雲は生じず、巨大な火災旋風が発生することはなかったのではないだろうか。
関東大震災はそれぞれの家庭や食堂などで火を使う時間帯に発生し、竈や七輪の上に家屋が倒壊するなどして柱などに火が付けば、誰でもなんとか火を消そうと懸命になったに違いない。しかしながら、もし消火しようにも水がなければ消火活動は不可能だ。関東大震災の時には、水道が断水して火を消したくとも消せなかったというのが現実であったのだが、そのような教訓が十分に生かされているのであろうか。
東京に限らず、ほとんどの国民は水の供給を水道のみに頼っている。地下水を利用している人は都心にはほとんどいないし、近くの川の水をポンプで吸い上げるにせよ、電動のポンプの場合は電力が止まれば利用できないのだ。関東大震災のあとで人々が消火を考えなかったわけではないのだろうが、水が出ないことで消火を諦めるしかなく、安全な場所に移動することを選択したことが、結果として火の勢いを強めて、強い上昇気流を各地で発生させることにつながったと考えられる。
もちろん消防隊員も消防車も存在したのだが、火災が同時に何か所も発生しては対応のしようがない。平成18年(2006年)に纏められた『災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 1923 関東大震災』によると、当時の警視庁消防部は6消防署に824名の消防員がいて、ポンプ自動車が38台、水管自動車17台、はしご自動車5台、監督自動車、手曳ガソリンポンプ、オートバイポンプ各1台と、さらに消防部には1402名の予備消防員がいて、120台の手曳水管車を装備していたとある。また市内の事業所の自衛消防には手曳ガソリンポンプ21台ほかがあったというが、東京都の半分が焼けた大火災を消し止めるにはあまりに設備と人が少なく、また断水のために最新の装備は役に立たなかったようなのである。
大正15年(1926年)に内務省社会局が出版した『大正震災志』の「消防隊活動経路」を見ると、消防隊は夜を徹して消火活動をしていたことがわかる。同時多発的な大規模火災に対しては、消防隊だけで鎮火させることは困難なのである。
一方で、地域住民が力を合わせて火を食い止めた記録がある。先ほどの『東京大震火災図 』で、都心の中心部に焼けていない場所があるのだが、神田佐久間町、平河町、練塀町、和泉町などの人々は、ポンプで水をくみ上げて、一致協力して桶やバケツリレーで夜を徹して消火に務めて延焼を食い止め、町を火災から護り抜いたのである。『関東大震災のちょっといい話』にその記録が出ているので是非目を通して頂きたい。重要なポイントは地域のリーダーが立ち上がったことである。
浅草方面から火の手が迫り、町の人たちも避難しはじめようとした時、神田川に架かる和泉橋と美倉橋に町内会長や貴族院議員など町のリーダーたちが立ち「この町のもんは逃げてはいけない、桶やバケツを持って集まってくれ」と呼び掛けた。
『関東大震災のちょっといい話』
この呼びかけで地域の人々は消火に動き出したのである。東京の各地には川や池が近くにあるところがあったはずだし、バケツならどこの家にもあるはずである。それぞれの地域で誰かがリーダーシップを執り、地域の人々が消火に協力していれば、こんなに多くの人々が焼死することにはならなかったと思われるのだ。
大地震のあと、火災が同時多発的に発生した場合の対策は取れているのか
関東大震災の頃は圧倒的に木造家屋が多く、今よりも燃えやすい建造物が多かったことは確かであるが、今も木造家屋が多いことには変わりなく、室内に燃えやすいものが多いことは、今も昔も大差はない。中央気象台は火災の中心部から13.6m以下の地点では、気温が300度を超えていたと推測しており、室内の多くの物や車などが発火する水準に達していたことになる。関東大震災ではレンガ造りの耐火建物も石造建築も、通気孔や戸の隙間などから外部の高温が伝わり、多くの建物内部が焼けたことを知るべきである。
以前のように竈や七輪で炊事をすることはなくなったが、炊事や冬の暖房にガスや石油の火を用いる家はかなり多く、大地震が発生して住宅が倒壊した場合にどこかで火事が発生する可能性は今も大きいと言わざるを得ない。
しかも、大地震が発生した場合に断水する可能性は今もかなり高い。東京都水道局のホームページではマグニチュード7.3クラスの都心南部直下地震が発生した場合の断水率は26.4%と想定しているが、もし水道が使えたとしても、あちこちで火災が起これば大量の水が消火のために用いられるために、水圧が低下することが避けられない。蛇口からちょろちょろと水が出るだけでは火を消すことは難しいだろう。
次に現状の消防車の台数はどうなのだろうか。東京消防署のデータでは、東京都二十三区のポンプ車は357台、はしご車は63台、化学車は37台、ヘリコプターは7機だが、東京都の防災ページにおける平成24年4月18日公表の「首都直下地震等による東京の被害想定 Ⅱ-4.地震別に想定される被害1-49」をみると、冬の18時に東京湾北部地震が発生した場合は、風速8m/sの試算で811件の出火発生で195千棟の焼失を想定している。この数字では出火地点の4割以上は、通報があっても現場に向かわせる消防車がないことになる。つまるところは、近隣で起きた火災は、消防署に頼らずに火災が拡がらない努力を地域の人々が力を合わせることが重要になるのだが、そのことがどの程度認識されているのだろうか。
また火災が大規模になった場合に、火の延焼を食い止めるには広い空地が「火除け地」として不可欠なのだが、関東大震災の時は多くの人々が家財道具を抱えて避難したために家財に火がついて、空地が「火除け」の役割を果たさなかった。
さすがに今日では大量の家財道具を運んで逃げる人はいないと思われるが、東京に限らず都心部には「火除け地」となるような土地はどんどん狭くなり、避難場所となりうる適当な広い場所もわずかしか残されていないのが現実だ。さらに、『関東大震災調査報告』では樹木の防火力はコンクリートなどの防火壁よりも有効であると述べているのだが、わが国の都心部では緑がずいぶん少なくなっている ことも問題である 。
昔は地域共同体がそれなりに機能していて、防災意識の高い地域が少なくなかったし、地域の消火用具もあって地域での防火訓練も実施されていた。それらがいざという時には、火災の延焼を食い止めることを期待できたのだが、今では共同体的な機能が生きている地域は数少ないのではないだろうか。また、昔は貯水槽がある家もあったし、井戸のある家も多かったのだが、今は水をほとんど水道水に依存してしまっていることも不安要因の一つである。
このように振り返ってみると、関東大震災の教訓はほとんどが今日に活かされていないことが分かるのだが、このことは東京だけの話ではなく、どこの大都市も同様である。
地域住民自らが地域を火災から守る意識の重要性
http://www.tfd.metro.tokyo.jp/lfe/bou_topic/7_toi/pamphlet.pdf
東京消防庁が「地震 その時の10のポイント」を公表しているが、火災に関しては「地域に大規模な火災の危険がせまり、身の危険を感じたら、一時集合場所や避難場所に避難する」と書いている。しかし、関東大震災の時もこの考え方で人々が動いたために、多数の死傷者が出たのではなかったか。
先程の東京消防庁のレポートでは建物被害による死者5.2千人に対し火災被害の死者は4.0千人と試算しているが、火災旋風の発生は想定していない数字だと思われる。火災旋風が発生すれば桁違いに犠牲者が増加するのではないだろうか。
東京都は、大震災の後で起こりうる同時多発的な火災に対して具体的にどのように対処する考えなのであろうか。4割近くが断水し、消防署だけではとても鎮火できないことが分かっていながら、住民に対して「身の危険を感じたら」安全に避難せよと簡単に書いていることに違和感を覚えざるを得ない。
燃え盛る火を放置していては、いずれは戸締りした部屋や車の内部にある多くのものが発火点温度に達して燃え始めることになる。そうならないように、水をかけて火勢を弱め温度を下げることが重要であることをなぜしっかり書かないのだろうかと思う。地域の人々が、あるいは避難場所に辿り着いた人が、バケツリレーで近隣の消火に協力することできれば、火の勢いは弱まっていくはずである。
大地震のあとの火災被害を最小限に止めるためには、関東大震災で神田佐久間町、平河町等の人々が町を火災から守った史実を教科書などで国民に広めた上で、それぞれの地域で防災用のポンプやバケツ、消火器などを常備し、定期的に訓練を実施することを推進すべきではないのだろうか。
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ブログ活動10年目の節目に当たり、前ブログ(『しばやんの日々』)で書き溜めてきたテーマをもとに、今年の4月に初めての著書である『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を出版しています。通説ではほとんど無視されていますが、キリスト教伝来以降ポルトガルやスペインがわが国を植民地にする意志を持っていたことは当時の記録を読めば明らかです。キリスト教が広められるとともに多くの寺や神社が破壊され、多くの日本人が海外に奴隷に売られ、長崎などの日本の領土がイエズス会などに奪われていったのですが、当時の為政者たちはいかにして西洋の侵略からわが国を守ろうとしたのかという視点で、鉄砲伝来から鎖国に至るまでの約100年の歴史をまとめた内容になっています。読んで頂ければ通説が何を隠そうとしているのかがお分かりになると思います。興味のある方は是非ご一読ください。
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