チャールズ・ウィロビー少将はダグラス・マッカーサー大将の情報参謀で、戦後はGHQ参謀第2部 (G2) 部長として対日謀略や検閲を担当したが、わが国で共産主義勢力を増長させようと動いていた民生局(GS)のチャールズ・ケーディス大佐と対立した人物として知られている。
解明されたゾルゲ諜報団とアメリカとの関係

GHQの参謀第二部(G2)は日本の司法省刑事局の『ゾルゲ事件資料』を押収していて、その内容に興味を抱いたウィロビーが、ゾルゲ諜報団とアメリカとの関係を調査してまとめた報告書を一九四七年にワシントンに送付している。この点については後述する。
そのレポートによってアメリカでもソ連のスパイ工作が知られるようになり、ゾルゲのグループが極東におけるソ連の支配をその究極の目的にしていたことがようやく認識されるようになるのだが、一方のソ連は、ゾルゲらがソ連のスパイであったことをなかなか認めようとせず、ようやくその存在を公式に認めたのは終戦後十九年が経過した頃のことであった。
ウィロビーの『知られざる日本占領 ウィロビー回顧録』に一九六四年九月五日付の『ニューヨークタイムズ』紙の記事が紹介されている。
モスクワ発九月四日―――ソ連は第二次世界大戦中、東京にあるドイツ大使館情報宣伝課に勤めていたリヒアルト・ゾルゲが、ソ連スパイ団を巧妙に指揮していたことを認めた。共産党機関紙『プラウダ』が、ゾルゲが提供した情報の結果、ソ連軍は一九四一年秋におけるドイツ軍のモスクワ進軍に効果的に対処し得たとの記事を載せたのである。ゾルゲは、日本の秘密警察(注:特別高等警察=特高)に逮捕され、秘密裁判の結果、一九四四年に処刑されている。ゾルゲ・スパイ団の諜報活動を公にしたのは、極東におけるダグラス・マッカーサー司令部の情報部長(一九四一~一九五一年)だった陸軍少将チャールズ・A・ウィロビーの作成せる米陸軍報告書が最初である。…中略…
一九四一年、リヒアルト・ゾルゲはソ連のレニングラードに対するヒトラーの攻撃準備に関して有用な情報をもたらし……攻撃日付を正確にも六月二十二日としていると続けながら、『プラウダ』は日本軍が太平洋戦争を準備しており、ソ連を極東の地において攻撃することはないだろうとの情報を、真珠湾攻撃の二ヵ月前にソ連情報部にゾルゲが提供したことを明らかにしている。この情報のおかげでソ連は極東から必要な増援部隊を迅速に移動させ、かくしてドイツの進軍をモスクワの一歩手前で阻止できた…
C.A.ウィロビー『知られざる日本占領 ウィロビー回顧録』番町書房 昭和48年刊 p.100~101
少し補足しておくと、一九四一年六月二十二日にドイツ国防軍がソ連に侵入し戦争状態に突入し、わが国は、昭和十六年(1941年)九月六日の御前会議で、日独伊軍事同盟に基づいてドイツを支援するために北進しソ連を挟撃するのではなく、日ソ不可侵条約の方を優先してソ連とは戦わないことが決定されたのだが、この御前会議の情報がただちにゾルゲからソ連に通報されていたのである。そしてソ連はゾルゲの情報に基づき、ソ連と満州の国境にいたソ連軍を独ソ戦線に向かわせたのである。
この『ニューヨーク・タイムズ』の記事はこの時のソ連軍の動きがゾルゲからの入手情報に基づいていたことを、二十三年もたってソ連が漸く公式に認めたことを書いているのだ。
わが国で一斉検挙されたゾルゲ諜報団
一九四一年当時、満州との国境にいたソ連軍が急に西に移動しはじめたことについて、ドイツがわが国に対してソ連への情報漏洩を疑ったことは当然のことである。
倉前盛通氏の『悪の論理』にはこう書かれている。
日独伊軍事同盟を無視し、日ソ不可侵条約の方を優先して、ソ連との戦争には参加しないという決定が下されたのは、昭和十六年九月六日の御前会議であったと伝えられる。これは近衛内閣の時である。近衛の側近であった尾崎は、直ちにゾルゲにこれを知らせ、ソ連へ通報させた。
そのあくる日から、ソ満国境のソ連軍は一斉にヨーロッパに移動しはじめ、独ソ戦線に向かった。驚いたドイツは日本政府へ質問をよせてきた。『ソ満国境のソ連赤軍が一斉にヨーロッパ戦線へ移動しはじめたのはいかなる理由であるか。日本はソ連に対し何らかの保障を与えたのではないか』
だが、日本政府がソ連にわざわざ保障を与えるはずもないのであって、これは明らかに御前会議の極秘内容が、その日のうちにソ連に筒抜けになったことを暗示している。
ゾルゲと尾崎が、それから一ヶ月後に逮捕された理由も、この御前会議の重大決定が、どのようなルートでソ連に漏れたかを追及した結果、かねてマークされていた二人が浮かんできたというわけであろう。
倉前盛通『悪の論理』角川文庫 p.87
文中の「尾崎」は、コミンテルン(国際共産主義運動の指導組織)のスパイであった尾崎秀実を指している。
Wikipediaによると、昭和三年(1928年)に尾崎がコミンテルン本部機関に加わり、昭和七年にゾルゲの諜報組織に参加しているという。そして昭和十三年七月に近衛内閣の嘱託となり、ゾルゲ事件の首謀者として逮捕されたのは昭和十六年(1941年)十月十五日だから、三年三ヶ月もの間、尾崎がわが国の政権の中枢にいて重要情報を収集し、ゾルゲに機密情報を渡していたことになる。
わが国の特別高等警察(特高)はアメリカ共産党員であった宮城与徳や北林トモの周辺にかねてより内偵をかけており、昭和十六年九月二十七日に北林が逮捕されたのを皮切りに関係者が順次拘束・逮捕され、十月十日に宮城が逮捕された際には数多くの証拠品が発見されている。
宮城の陳述によって、このスパイ組織が世界規模の大掛かりなものであることが判明し、十月十四日の尾崎の検挙のあと、十月十八日にはゾルゲ、マックス・クラウゼン、ブランコ・ド・ヴーケリッチの三外国人が検挙されている。そして三年後のロシア革命記念日の日である昭和十九年(1944年)十一月七日にゾルゲと尾崎の死刑が執行された。
ソ連からゾルゲ、尾崎、宮城に勲章が贈られた意味
ウィロビーの回顧録にわが国の内務省警保局が一九四三年にゾルゲ事件をまとめた文書が紹介されている。重要な部分を引用しておく。
スターリンは自国防衛の為に『一戦争、一戦後に勝利を得んが為には相当の兵力を必要とするが、戦争を失敗せしむるには数人にて足る。即ち数人の密偵が我等の作戦計画を盗んで与えれば良い』との防諜教訓を与え、中国共産党の“鋤奸読本”もまた此の言葉を引用して、除奸運動を強化しつつあり。
しかもソ連邦は我国に対し斯くの如き有力なる諜報網を布き、以てあるいは支那事変を指導し、あるいは各般の対日方策を講じつつありたるものにして、かかる機関を長年月にわたり我国に蟠踞せしめたる根本的原因については検討の要大なるものあり…
『知られざる日本占領 ウィロビー回顧録』p.108
このようにわが国の公式文書に、ソ連が諜報網を布いて日中戦争を指導し、様々な工作を仕掛けていたと記録されていることは注目して良い。
またソ連は終戦後十九年間もゾルゲ諜報団の存在を否定していたのだが、スターリンを批判したフルシチョフが失脚した直後に、ゾルゲの遺族に対し「ソ連邦英雄勲章」を授与し、尾崎に対しても親族からの申し出があれば勲章と賞状の授与する旨の発表をしたという。また宮城与徳の遺族は、勲章と表彰状を受領済なのだそうだ。
ソ連がゾルゲらスパイ行為に携わった人物を国家の英雄として表彰した事実は、わが国が太平洋戦争に巻き込まれたのはソ連の工作抜きでは語れないということを雄弁に物語っていると思うのだが、こういう重要な史実が日本人の常識となる日はいつになるのであろうか。
アメリカでゾルゲ事件の公開に抵抗した人々
話をウィロビーの回顧録に戻そう。
太平洋戦争終戦後わが国は連合国軍に占領され、占領開始後数カ月の間に治安維持法などを破棄させられ、投獄されていた囚人たちを解放したのだが、その中には日本共産党の幹部や、マックス・クラウゼンなどゾルゲ諜報団の生き残りたちも含まれていたという。
一方日本から押収した『ゾルゲ事件資料』に興味を抱いたウィロビーは、その調査を開始していた。ウィロビーは回顧録で次のように記している。
国内の治安という点から見て、(G2は)ゾルゲ諜報団とアメリカの、とりわけカリフォルニアの共産主義活動家とが直接関係していたことを発見するまでには、かなりの時間と慎重な調査が要求された。とはいえ、その調査過程は比較的スムーズに運ばれたが、それは釈放された連中が、遅かれ早かれ本国との関係の糸をたぐっていくだろうと思われたからである。
さらに重要で、ドラマチックな巻き糸の糸口は上海に伸びていき、間もなくゾルゲ・グループが極東におけるソ連の支配をその究極の目的にしていたことが分かった。すなわち、ゾルゲ諜報団は共産主義の第三インター*の『諜報班』の歯車の一つであることが明瞭になったのだ。今日では常識化しているこれらの事柄も、一九四五年ころには十分に理解されてはいなかったのである。
*第三インター:第三インターナショナルの略でコミンテルンの別名
同上書 p.112
ウィロビーの指示によりゾルゲ諜報団に関するレポートがまとめ上げられ、ワシントンに送られたのだが、この諜報団の詳細の公表はしばらく控えられてきた。
そして一九四八年に、モスクワの米大使館員が突然ソ連にスパイ容疑で告発される事件があり、アメリカ陸軍省はそれを機に、ゾルゲ事件の公表を決断したという。

ウィロビーは六月と八月の二回にわたり、主要な証人と被告の証言を翻訳してワシントンに送ったのだが、ワシントンは数カ月の間沈黙したそうだ。その後ようやく十二月にゾルゲ事件を公表したのだが、すぐに腰砕けになってしまう。この経緯をウィロビーはこう記している。
ゾルゲ事件のニュース・バリューがきわめて高いことは、誰の目にも明らかだった。ソ連のスパイ活動ひとつのパターンを示すものとして、非常に重要な価値を持っていることは言をまたない。記者たちは最初の発表に引きつづき、さらに詳細、とりわけ証拠書類の発表と主な被告、関係者、目撃者たちの陳述の発表をいまや遅しと待機していた。東京のG2は、この種の資料提供の準備を整え、発表の命令を待つばかりとなっていたが、ワシントンからその命令はついに来なかった。そのかわり数日後、あれほど熱心に丸一年間も協議してゾルゲ事件の公表に踏み切ったはずのワシントン当局によって、今後の詳細の発表を拒否されてしまった。私にはとても信じられなかった。
予測されたように、報告書のなかで登場するスメドレー女史*が猛烈な抗議運動を展開し、スタイン**もまた不満の意を表明していたとはいえ、こんなバカなことが実際に起ころうとは!…
*スメドレー:アメリカ人ジャーナリスト。中国共産党軍に従軍して取材活動をした社会主義者
**スタイン:中国共産党に好意的であったアメリカの新聞記者
同上書 p.118~119

スメドレー女史が抗議したばかりではなく、アメリカの多くの作家や雑誌・新聞などがスメドレー女史の擁護に立ちあがったという。
ゾルゲとスメドレー女史との関係についてはゾルゲの手記など多くの資料で確認でき、スメドレーが諜報活動をしていたことは確実なのだが、それら資料の一切を開示することを封じられたのはなぜなのか。
当時はわが国だけではなくアメリカにおいても、主要なメディアにソ連および共産主義の工作が浸透していて、共産主義勢力にとって都合の悪い真実の公表を阻止する勢力が強かったと理解するしかない。
スメドレーがコミンテルンのスパイであったことは、一九九一年のソ連崩壊後に「アメリカ共産党とコミンテルンの関係機密文書」が公開され、スメドレーがコミンテルンから資金援助を受けて欧米向けの対外宣伝活動に従事していたことが判明したという。
また、一九九五年にはアメリカに多数存在したソ連スパイの通信文のうち暗号解読に成功した文書(ヴェノナ文書)の一部が公開されている。この文書の解読により、わが国を米国と開戦することを決断させた「ハル・ノート」を書いたハリー・ホワイトもソ連情報部の協力者であったことが判明している。
わが国だけでなくアメリカに於いてもコミンテルンのスパイが暗躍し、日米双方が戦争に突入するように誘導されたということになるのだが、戦後の日本人にはこのような事実はほとんど何も知らされておらず、日本だけが悪かったとする歴史観に洗脳されてしまっている日本人が多いのは残念なことである。
今のわが国に対しても外国による様々な工作が仕掛けられているように思うのだが、いつまでも戦勝国に都合の良い歴史に洗脳されマスコミの報道を鵜呑みにしているようでは、わが国が現在直面している国難を理解することは難しいと思う。
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